七 それぞれの心
「若君……若君──」
外で呼ぶ声がする。
更衣*も過ぎて日差しの煌めきが増し、御簾のうちにまで光のかけらが飛び散る中、夏の
「なんだ、康清」
「若君、またお文が参っておりますよ。紀伊守どのの妹姫より」
そう言いながら
「若君もようやく──」
「若君、若君と言うな」
不機嫌そうにそう言うと、康清は眉をひそめる。
「お疲れですか?」
「……」
「やはり中将さま、と呼べと?」
いつもの調子で絡んでくる康清に、雅嗣はこめかみに手を遣りながら答えた。
「ああ、疲れている。宮中でも邸にいても、考えねばならぬことが多くてね」
「はあ。で、若君──」
「その、若君というのはやめよと言っている。もう、そのような歳でも……」
すると、康清は大きな声をあげて笑った。
「申し訳ありませぬが、若君は三十になられようが四十になられようが、おれにとっては若君です」
「……」
「なんですか? 若いと言われるのがお嫌で? ……あ」
思いついたように、康清はぽんと手を打った。
「若君が北の方でもお迎えになられれば、
「……うるさい」
呑気な康清の声に、雅嗣は手で押さえていた御簾をぱさりと閉じ、はあ、とため息をついた。康清は懲りずに御簾のこちら側へ話しかけてくる。
「若君もようやくまた、文の遣り取りなどなさるようになられて、この康清、嬉しゅうございます」
「他愛もないことが書かれてあるだけだ」
「紀伊の姫君はずいぶんと熱心なご様子ですが」
「……さあな」
康清は光溢れる
「それでも若君、今までのどこの誰からやも分からぬあまたの恋文より、お一人の姫君からの熱烈な──」
その瞬間、雅嗣は脇息に凭れていた身をがばと起こし、再びばさりと御簾を開く。
「ちょっと待て。何ゆえそのようなことを……」
「あれ? 若君のお住まいを片付けているのはおれですよ? あんな風に仕舞いもせず放ったらかしてあれば、そりゃ、目にもつきます」
「……」
「お返事もなさっておられない文の山……あ、お気づきか存じませんが、一応すべてあちらの文箱の中に収めてありますから」
「……」
「さすが宮中の女房たちは、いい紙を使うておられると感心しております」
「……」
康清は言いながら、ちらりちらりとこちらを窺っている。一向に返事もないのにひとり喋っているところを見ると、康清に何か魂胆があることぐらい分かる。
分かっている。きっと本当は、権大納言家の中の君について聞きたいのだ。あの時、まるで我がことのように心を痛め、落ち込んでいた康清にも、いろいろと思うところがあるのだろう。
「康清」
「はい?」
「もう、退がっていいぞ」
「……はい」
のろのろと腰を上げ
「康清」
「はい」
「……そなたの知りたいことは何だ?」
はっとこちらを振り返った康清は、またふいと視線を逸らした。
「いえ、特に……」
「中の君のことなら、心配せずともよい。今さら、どうこういうことはないよ」
雅嗣は、ふと口を噤み、明るい外の光から視線を外した。
「……お変わりなくいらっしゃいましたか?」
おずおずと問いかけてくる康清の言葉に、雅嗣は先日の夜のことを思い出す。意地の悪いやり方だとは思ったが、酔いに任せたふりをして中の君の演奏を所望した。相変わらず一言も発することなく、ただ鳴らされたその音はかつてと違い戸惑いに満ちていて、嫌がる人を引っ張り出す己の底意地の悪さを見せつけられたような、なんとも嫌な気分になった。
すべてがあの頃とは違うのだ、一度断ち切られてしまった
「さあ……どうだろう。ずいぶん変わってしまわれたような気がするな」
小さく、そうですか、と呟いた康清は、ふと思い出したようにおもむろに振り向いた。
「して若君、お返事は?」
相変わらず若君と呼ぶのをやめない康清をしばらくじっと見た雅嗣は、手許の小さく結ばれた山吹色の
「……書いたらまた、声をかける」
「はい」
「そうだ、車をきちんと直しておいてくれ。今度の祭で紀伊の姫を乗せることになりそうだ。最近がたがたと揺れることがあるゆえ、何かあってはまずい」
「畏まりました」
肩をそびやかすようにして階を降りていく康清の背を見送ると、雅嗣は手許に残された小さな結び文を開く。伸びやかで素直な文字の散らされた若菜の君からの文に目を通すと、雅嗣はそのまま横にある文机の上にはらりと載せ、また脇息に凭れかかる。
山吹の薄様──忘れもせぬ、雅嗣が結子に初めて送った文が山吹の薄様だった。
このところ頻繁に送られてくる若菜の君からの文には、本当に他愛もないことがつらつらと書かれてある。そこには多少の幼さも感じられたが、二、三通に一度くらい返事を書くと、また届くといった具合で遣り取りが続いていた。
恋ともいえぬこの関係がこれからどうなっていくのか、雅嗣自身にもよく分からぬが、あの姉妹が持つ明るさと無邪気さに、気の張らぬ居心地よさを覚えたのは間違いない。
かつて中の君に感じた、いても立ってもいられぬような想いと違うのは確かだけど、それも己が歳を重ねたゆえかもしれぬし……などと考えたりする。若い頃のような勢いも情熱も、そして不安に揺れる心すら、二十六という歳になった今はもう、過去のものになってしまったような気がしていた。姉に勧められるまでもなく、ここ数年来のうわべだけの関係ではない縁を結ぶことも、そろそろ考えねばならぬと分かってはいる。
紀伊守も前の播磨守も財力は申し分なく、おそらく
そこまで考えて、雅嗣はまた額に手を遣り、大きくため息をつく。
──変わってしまったのは、己とて同じだ。
開いていた書を投げやりに閉じると、雅嗣はそのままごろんと横になり、邪念を振り払うように目を瞑る。
中の君は変わってしまった、などという安易な己の言葉がまわりまわって本人の耳にも入ろうとは、この時の雅嗣は思ってもいなかった。
***
「ねえ二の姫さま。こちらの色はどうでしょう?」
その頃、
結子は、明るい光の満ちる庭から視線を戻し、ふとまわりを見回して思わず苦笑を浮かべた。なんとたくさんの
姉妹が、もうじき行われる
それを聞いた時には結子も驚いたのだが、その後、もちろん二の姫さまもお兄さまのお車でご一緒よ、と言われて、ますます面食らってしまった。いつの間にそのような話になってしまったのか……祭に行くのは幼い頃以来で嬉しい気もするが、また雅嗣と関わらねばならぬのは少し気が重かった。
とにかくそれで、その日に着ていく衣や
若菜の君は、ああでもないこうでもないと袿を取っ替え引っ替え、悩んでいる。その瞳の輝きに、結子は微笑みを零した。
「若菜の君、その襲ならこちらの色目の方が合うのではなくって?」
結子の差し出した、
「まあ二の姫さま、素敵! ……でも」
ふと若菜の君の声が翳る。
「少し子どもじみておりませんこと? 中将さまは大人でいらっしゃるもの、あまり恥ずかしいことはできません」
つんと澄ました若菜の君の言葉に、結子はまたふっと笑った。
「そんなことないわ。貴女の若々しさに映えると思いますよ。
背伸びをしたい年頃でもあろう。十七歳──あの時のわたくしと同じ。そう思うと、ちくりと心に痛みが走る。その痛みを微笑みで隠し、また別の袿を手に取っている若菜の君に結子は言った。
「茅野に、わたくしの衣を見繕って持ってきてくれるよう頼んであるの。お気に召さぬなら、そこから選んでみてはいかが?」
「まあ本当に? 嬉しゅうございます、二の姫さま!」
胸元に袿を抱え、嬉しそうにはしゃぐ若菜の君は、その時ふと真顔に戻って結子に尋ねた。
「ところで二の姫さま、二の姫さまはいったい、どちらで中将さまとお知り合いになられたのですか?」
とくんと結子の胸が弾み、思わず視線が彷徨った。結子が答えないのを見ると、若菜の君はなおも続ける。
「中将さまもはっきりとは仰らないのです。以前、宴でとか何とか」
「ええ……そう。二条堀川の宴にいらしてるのを、一度だけ拝見したことが──」
「でも、おかしいのですよ、二の姫さま。中将さまは二の姫さまのことを、以前とはずいぶんお変わりになったようだとか何とか仰って」
「え……」
思いがけぬ言葉を聞かされて、結子はまた動揺する。
「まるで、二の姫さまのことをよくご存じなような……」
首を傾げる若菜の君を前に、取り繕う言葉も出てこない。
「そのようなことは……ないわ」
結子はただ、そう言うのが精一杯だ。
──以前とはずいぶんお変わりになったようだ。
なんとも情けない気分を噛みしめる。そんなことは、自身でも嫌というほど分かっている。若い娘として一番の花盛りを、悔いと涙で散らしてしまったのだから。気持ちの上では整理できているつもりだけれど、それでも雅嗣があの宴の夜、そのように口軽く皆に告げていたと知るのはやはり辛い。もはや、雅嗣が結子のことをどう思っているかは疑いようもないだろう。
「二の姫さま?」
不思議そうな顔で見てくる若菜の君に、結子は困ったように微笑みを浮かべた。
「……きっとあの宴の時に、わたくしの声でも聞かれたのはないかしら? まだ十七だったの。ちょうど今の貴女と同じ。変わってしまって、当然でしょう?」
結子をじっと見ていた若菜の君は、ほっと息を零した。
「そうだったのですね。ほら、以前にも二の姫さまのことをご存じだとおっしゃっておられたから、てっきりお知り合いなのかと思っていました」
無邪気な若菜の君の笑顔は、眩しさと同時に後ろめたさも呼び起こした。今さら明かすこともできぬ秘密を抱え、純粋な若菜の君を騙している己が嫌になる。さあっと吹き込んだ風が小さな花々の香りを対屋まで運んできて、若菜の君の下がり
「中将さまが我が家においでになるとお聞きした時は、わたしたちのことなど相手にもしてくださらぬと思っていたんです。だって、あの頭中将さまですもの。
「さあ……どうかしら?」
結子は同意するでもなく、そう呟いた。あの方にほかの女君が寄り添われることを想像し、動揺して取り乱したのも遠い話、と、若菜の君の肩越しに、見るでもなく庭を見遣る。
「でも、親しくお話してくださって……思い切ってお礼のお文を差し上げたら、お返事をくださったんです。わたしもう、嬉しくて」
文──決して手放せなかった、雅嗣からの色褪せた文の束。そして今、あの方は若菜の君と文を交わし、新たな関係を築こうとなさっておられる。
「それでまた、お文を書いて……もうたくさん、本当にたくさん、遣り取りしましたわ。でも、中将さまのお気持ちはまったく分からなくって。二の姫さま……中将さまは、どう思われているのでしょう?」
だんだん弱々しくなっていった言葉がそれきり途絶えて、結子は思いに沈んだ瞳を若菜の君に戻す。しょぼんとした様子でうなだれた若菜の君がなんとも
「……若菜の君は、中将さまのことをお慕いしておられるのね」
「それはだって、あんなにお綺麗でご立派な、絵巻にでも出てこられるような公達にお会いしたのは初めてだったのですもの」
それだけはきっぱりと言い放った若菜の君の言葉を聞いた瞬間、結子は思わずまじまじと彼女を見つめた。
雅嗣の言葉の真意も、それを聞いた結子のたじろぎにも気づかず、そこに何の意味があるかと深読みすることもない若菜の君の、素直で無邪気な、憧れに満ちた瞳。
この若い姫の想いは恋なのだろうか?──否、今はまだ、恋に恋しているだけかもしれない。けれど、それがいつかまことの恋に変わらぬと誰が言えよう? 若菜の君のまっすぐな想いは、もしかすると本当に、あの方の心の中に入り込んでいくかもしれぬ。
「若菜の君、わたくしはね──」
「姫さま」
背後で茅野の声がして、はっと言葉を呑み込む。わたくしは何を言おうとしていたのだろう。
きちんと畳まれ
「ちょうどよかった。ほら若菜の君、こちらなどいかが? 先ほどのものより少し落ち着いた紅の色で、大人びて見えると思うのだけれど」
茅野の助け舟に乗った結子の言葉に、若菜の君は目を輝かせている。感嘆の声とともに一枚一枚袿をめくっていく若菜の君の手許を見ていると、不意に山吹色の袿が現れた。その、思い入れの強い衣を目にして結子があ、と声を零したと同時に、若菜の君もまた声をあげた。
「ねえ二の姫さま! こちらの衣も、お借りしてよろしいかしら? とっても綺麗……」
若菜の君は山吹の袿を手にほうっと吐息を零し、結子は咄嗟に袿を取ろうとした手を引っ込める。それはあの、雅嗣との最後の逢瀬で身につけていた袿だった。
「あの……それは……」
思わず口ごもった結子に、若菜の君は手元にある萌黄の袿と重ね合わせ、うっとりと呟いた。
「ほら、こんなに美しいお色目になるんですもの」
結子は、それ以上言うのはやめた。雅嗣だって覚えてはいまい。もう、八年も前のことだ。
「……ええ、どうぞ。お役に立てたなら嬉しいわ」
「きっと、中将さまもお気に召されるわ。ねえ、お姉さま?」
そこで結子は気がついた。そういえば、あれほど賑やかな姉妹のはずが初音の君は先ほどから一言も喋ることなく、どこかうわの空な様子で、選ぶともなしに衣をめくったりしている。
「初音の君、どうなさったの? お元気がないように見えるけれど……」
結子に問われて、初音の君ははっと顔をあげた。その横で若菜の君も手を止めて、姉の横顔を覗き込んだあと、大仰にため息をつきながら言う。
「お姉さまは落ち込んでおられるのです」
「……やめて」
初音の君は慌てて妹を止めると、袖で口許を押さえながら瞳を伏せた。
「ごめんなさい、二の姫さま。今日はわたし、ここで失礼いたします」
そう言うや、結子の方も見ずに袿の山を蹴散らし出て行ってしまった。その背に向かって、若菜の君がまたため息をつく。
「お姉さま、昨夜からあの調子なんです」
そうして、つと結子の方ににじり寄り、耳許に囁いた。
「実は……お姉さまには元よりお文を遣り取りしている従兄がおりますの。その従兄が、近頃我が家に中将さまがいらしていると知って、それはもうひどく落ち込み、嫉妬なさってしまわれたみたいで、つれないお文が届いたようなんです」
「……まあ」
結子は驚いた。あれほど、若菜の君と競い合うように雅嗣を褒めそやしていたというのに、実はそのような
「お姉さまはおかしいわ。頭中将さまほどのお方がせっかく親しくしてくださるというのに、あの従兄の方を選ぶなんて。わたしには分からない。わたしだったら絶対に中将さまを選ぶわ」
決然とそう言う若菜の君からふわりと視線を逸らした結子は、庭に溢れるまばゆい光に目を細め、若葉で彩られた梅の樹に遊ぶ鶯の声を聞く。
ただ、受け入れるのみだ。八年という歳月がもたらした変化と忘却と、そして、もはやどうにもならぬだろう疎遠とを。
最後に一声歌った鶯が、ばさりと羽音を立てて飛び立っていった。
──────────
更衣
四月一日、夏の装束に着替え、室内の調度などを季節のものに改めること。今でいう「衣替え」の前身で、装束や几帳の
出車
前後にかけられた御簾の下から、女性の衣の袖や裾を零れ出させ(
躑躅の襲
紅から青(今の緑)、白または紅を重ねた襲。
(紅匂いて三。青き濃き薄き二。単白き紅。こゝろこゝろなり。──『満佐須計装束抄』より)
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