六 孤独と後悔と
佳子のものだという箏の琴を前にして、結子はちらりと若菜の君に視線を走らせた。同じ楽器を続いて弾くなど、まるで競い合うようで嫌だ。
けれど、肝心の若菜の君はまったく気にもせぬ様子で、ただ御簾の外にいる雅嗣のことだけに気を取られているようだ。その、熱病に浮かされたような視線の先にある、
なぜ、今ここでわたくしの箏の話などなさったのだろう。
ここにいる誰もが──後ろに控える女房の茅野を除いて──昔、二人の間にあったことなど知らぬはずなのだから、黙っていれば余計な詮索もされずに済むものを。
雅嗣の真意を図りかね、ただ混乱するばかりの結子は、なかなか弾き出すことができないでいた。
「……中の君? どうかなさったの?」
訝しげに囁く佳子の声にも指が動こうとしてくれなくて、ただ息を詰め楽器を見つめる結子にその時、御簾の外から声がかかった。
「いかがなさいましたか、姫君。あの素晴らしい音色を、是非ともお聴かせいただけませんか?」
その声の慇懃無礼なわざとらしさに打ちのめされ、瞳を上げることもできぬまま、結子は震えるくちびるを噛む。
声の主は雅嗣だった。
言葉こそ丁寧だけれど、どこまでも冷ややかなその態度に、この場から逃げ出したい衝動に駆られてその手を握り締める。ただ、この場を楽しませるために弾けと、そういうことなのだ。
結子は一度ぎゅっと目を瞑ると、なんとか箏に向かう。そして、深く息を吸い込み最初の一音を鳴らした。御簾のうちも外からも、その場にいるすべての人の目と耳が結子の紡ぐ音に向かうのを感じる。
母に教わった……そして、あの方のために幾度も奏でた、曲。
母が亡くなってのち、その音色を正しく判断できる人に聴いてもらう経験などほとんどなかった。いつだってただ自身の慰めのためか、または誰かの余興のために弾くのみだった。あの、結子の何もかもを愛おしむ
何を期待していたのだろう。あの方はわたくしを許していない、それはもう分かっていたことではないか。
それでも今、糸を掻き鳴らしながら、結子は心のどこかで切なく待っていた。雅嗣の笛の
次の瞬間、結子の鼓動が大きく跳ね上がった。
そこに、御簾越しにもかかわらず、結子だけをまっすぐに見つめる雅嗣の瞳を見たような気がしたのだ。
それは、でも、ただの思い過ごしだったのかもしれない。一瞬ののちには雅嗣に顔を背けられ、結子もまた、力なく視線を落とすほかなかった。指が震え、隣の糸に触れて要らぬ音が鳴る。情けなさでいっぱいになりながら独りでなんとか最後まで弾き終えると、それでもその場の人々は、口々に結子の腕前を褒め称えた。
屈託なく喜ぶ姉妹たちや、大げさに褒めそやす女房たちの声を聞きながら結子は、楽器を佳子の許に押し返す。
「……お恥ずかしゅうございます」
「中の君、貴女……」
佳子は何かを言おうとして思い直したように微笑み、ただ、感嘆の言葉を口にした。
「……いえ、素晴らしかったわ。本当に」
結子も困惑の笑みを浮かべながらうつむいた。佳子のように、楽を理解してくれる女(ひと)がいることは救いだった。でも、もうたくさんだ。
そこへちょうど、女房たちが水を張った
「頭中将さま、もう月は出ておりまして? 今宵は十三夜、春の月を映して眺めませんこと?」
皆がそちらに気を取られたその隙に、結子はそっと席を外す。背後に、若菜の君に応える雅嗣の優しい声を聞いた。
「ちょうどいい具合に高くなってきましたよ。こちらに出ていらっしゃいませんか」
ああ、と無意識に結子のくちびるから吐息が零れた。これ以上、このような雅嗣の言葉や態度を見聞きするのは耐え難かった。女君たちが
「──あ……」
そこにはまだ、ひとりぽつんと座る公達がいた。
明るい月の光を浴びながら、どこまでも沈んだ表情が気がかりで、結子は御簾越しにそっと近寄り、声をかけた。
「あの……月をご覧になられぬのですか?」
結子の声に、その
「──美しい演奏でした」
「いえ……あの」
「わたしはここでいいのです」
静かなその声は哀しみに沈んでいるようだったけれど、拒絶されているようにも感じなかった。結子はそこにそっと腰を下ろし、囁きかけるように言った。
「
返事はなく、その代わり、寂しげな呟きがぽつんと落ちた。
「よく、月を眺めたのです。あの
結子は御簾越しに彼の伏せた横顔を見ながら、何と声をかけようか思案した。きっと、何を言っても慰めにはならぬだろうし、逆に苛立たせてしまうかもしれない。
「それでも、何かと気を遣ってくれる中将どのには感謝していますよ。いつまでもこのようなことではいけないのは、右衛門佐どのもわたしも、よく分かっているつもりです」
「中将さま……とは、どのような?」
「大学寮で一時期、一緒に学びました。──大和国にいたわたしの許に、馬を飛ばし、あの女の訃報を伝えに来てくれたのも中将どのです」
「……そのお方のことを、お聞きしても?」
結子がそう言うと、その公達──式部大丞を務める
「貴女こそ、月を見られぬのですか? このようなところでつまらぬ話など、お聞きにならずとも……」
わあ、とあちらで歓声があがった。何があったかと見遣りながら、結子は首を振る。
「いいえ、わたくしも……騒ぐような気にはなれませぬゆえ」
そうですか、と呟いた亨は、ぽつり、ぽつりと言葉をこぼしていった。
「花を愛でることが好きな、優しい女でした。右衛門佐どのと仲のいい兄妹で。ずっと、待っていてくれたのです。わたしが、納得いく官位を得られるまでの二年……」
「二年?」
思わず訊き返した結子に、亨は少し声を低くして言った。
「たった二年とお思いですか? 」
「いえ、二年もお待ちになられたのだと……」
結子は慌てて言った。亨の瞳がちらりと揺れる。結子は少し首を傾げ、泣きそうになりながら微笑みを浮かべた。
「昨年の秋の
残酷な運命に曝された、抜け殻のような顔で亨はそれだけ言うと、また、定まらぬ視線を闇に彷徨わせた。
「丞さま、このようなこと、わたくしが申してもなんのお役にも立てぬとは存じますが……」
結子は考え考え、言葉を選びながら静かに続けた。
「二年以上の時、お二人が同じ想いを抱き続けられたのは、それだけで素晴らしいこと。得難い時をともに持たれた……羨ましゅうございます」
結子は、本心からそう思った。そして、二人の間にある想いは、これからも
月を眺めていた皆の方でざわめきが静まり、初音の君の琵琶が鳴り出した。
「丞さま。わたくしにはもう、ずいぶん前に手放し、失ってしまったものがあります。ただ、わたくしの間違いゆえに。ですから、二年もの間待っておられたそのお方が、どれほど強い想いで貴方さまを想うておられたのか、よく分かります」
言いながら結子は思った。
あの不幸な出来事は誰のせいでもなかった。雅嗣を守らんと別れを選んだ結子のせいでも、そうするように仕向けた宮の方 逸子や、そして多分、二人のことを認めようとしなかった父や姉のせいでもない。あの時はきっと、ああするより他なかった。
それでも──あの時、別れることを選んだのは間違いだった。雅嗣をあれほどまで傷つけて、得たものは何もなかったではないか。
わたくしは、待つべきだったのだ。右衛門佐どのの妹姫のように。今となってはもう、手遅れだけれど。
「中の君……?」
気遣うような声をかけられ、はっと我に返る。亨は今初めて、結子の存在に少しだけ心を開いてくれたようだった。
「貴女も、いろいろおありだったのですね」
「……二十五年も生きていれば、いろいろありますわ」
結子は初めて、ふふ、と声を出して笑い、それにつられて亨も笑った。
「時が経てば、悲しみは必ず癒されていきます。そのお方は、貴方さまがいつまでも悲しんでおられるのを、お喜びにはなられぬはず」
結子は言いながら、なぜか零れてきた涙をそっと拭う。
「これからもぜひ、外に目をお向けなさいませ。貴方さまはまだ、お若いのですもの」
「……中の君、貴女も」
少しだけ前を向くことを思い出したかのような亨にそう言われて、結子も涙の中で、ふっ、と笑った。己の言葉は、そのまま自分に向けての言葉だと気づいたから。
「ええ……そうですね」
より高くなった月が、煌々と光を降らせる。母の愛した藤の甘い香りを孕んだやわらかな夜風が、御簾を揺らして結子の側を通り抜けていく。
もう、失った想いにだけ囚われるのはよそう。
結子はどこか光が差したような思いで、その香りに身を委ねた。
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