三 予期せぬ再会

「内大臣さまの北の方といえば、右大臣家の姫君ですわ。その弟君ということは……」


 ろくに相手にされず、むっつりと黙り込んでいた任子とうこが、若菜の君の言ったことを聞いてようやく声をあげた。近々、身分高い来客があると知り、興味が湧いた様子だ。


「そうなのよ、お義姉ねえさま。頭中将さまもお越しになるらしいの!」


 若菜の君が上ずった声で言うと、任子も俄かに気分がよくなってきたようだった。この邸に、内大臣さまがおいでになるだけでも名誉なことなのに、それだけではなく、頭中将さまがいらっしゃるなんて! さっきまであれほど辛いと言っていた任子の頬が紅潮し、瞳が輝いている。

 その隣で、結子が黙り込んでいた。くちびるを引き結び、あらぬ一点を見つめたまま、耳を押さえて防ぐことも叶わず、そのはしゃいだ会話を聞いていた。


「まあまあ、少し落ち着きなさいな、貴女たち」


 北の方が母親らしく鷹揚に言うと、これが落ち着いていられるものですか、と姉妹は余計に騒いだ。


「だって、帝の御覚えもめでたい頭中将さまが、我が家にいらっしゃるのよ?」

「そうよ、お母さま。こんなことでもなければ、一生お目にかかれるわけないもの!」


 その言葉の一つひとつが、結子の心に突き刺さる。

 ああ……あの方はご自分でそうなるとお考えだったとおりに、ご立派になられたのだ。

 雅嗣のその後をほとんど知らなかった結子の中で、心の奥底に隠してきた宝物でも見つけたような懐かしい気持ちと一緒に、なんとも御し難い、後悔や悲しさなど負の感情が渦巻く。とにかく、今すぐにでもその場から逃げ出したい気持ちに必死で耐えた。

 その後も、その場にいた結子以外の女性たちは、頭中将の噂でもちきりだった。もう、結子は何を聞いたかすら覚えていない。分かったのはただ、雅嗣が今は頭中将となっていること、もうじきこの邸にやって来るだろうこと、そして、己が心は、八年前の想いをこれっぽっちも手放せていない、ということだけ。

 なんとかその場をやり過ごし、這々の体で別邸の東の対に戻った結子は、そのまま崩折れるようにしとねに座り込んだ。

 心配げに様子を窺う茅野を退かせ、結子は脇息に凭れかかる。

 もう、終わったことなのだ。護貞は、結子に普通に接してくれているではないか。きっと雅嗣だって……たとえ結子のことを恨んでいたとしても、それを表に出すことはないだろう。

 大丈夫。気を確かに持ってさえいれば、万が一再会の機会があったとしても、それはきっと一瞬で終わり、過ぎ去るはず。結子はそう心に念じ、大きく息をついて脇息きょうそくに伏せた。

 ──少し、疲れてしまった。微笑み続けることにも、大丈夫と言い続けることにも。

 いろいろなことがあり過ぎて、それは結子ひとりで抱えるには重過ぎた。すべてが心許なく、不安ばかりが溢れてくる。

 住み慣れた邸の、母の時代から使い込まれたものたちでなく、真新しい几帳に茵、脇息まで、どれもが素晴らしく美しいのに落ち着かない。新しい邸の木の匂いは心地よいもののはずなのに、結子には二条堀川邸にしかない、母の好んだ薫物たきものの染み込んだ、あの懐かしい匂いが恋しかった。たおやかな桜の樹をもう一度見たい。お母さまに……あの方に繋がる、あの樹を見たいのだ!

 湧き起こる感情に翻弄されながら、結子は顔を上げた。

 ほんの僅かな、結子が持ち込んだ家財の中にはあの文箱ふばこがあり、それはすでに茅野の手できちんと二階棚に置かれていた。それを見つけて、ほ、と息をつく。

 涙が、ぽとりと零れ落ちた。




 内大臣を迎えるというその日、邸は朝から絶え間ないざわめきに揺れていた。

 落ち着かぬ時を持て余し、そのような自分をわらい……結子もまた、どうにかなってしまいそうだった。雅嗣が邸を訪ねると知った時からの五日間、どれほど心安らかに落ち着いた日々をと念じても、結子の心はまったく言うことを聞いてはくれぬままだった。

 もし、あの方がわたくしに気づかれたら、どうなさるだろう──気がつけば、そんなことばかり考えている。

 きっと、驚かれるに違いない。いや……もはや関心すら示されぬだろう。会いたくはなかった、とお顔を歪められるやもしれぬ。考えても詮のないそのようなことを、もう幾度考えたろう。ついにその日がやってきて、結子はようやく観念し、茅野に成されるがまま身仕度をしていた。

 髪をくしけずり、桜重さくらがさね*のきぬをつけ、最後に茅野が蘇芳すおう*の唐衣からぎぬ*を結子に着せかけようとした時、つんざくような悲鳴と、そのあとに続くただごとではないざわめきが聞こえてきて、二人の動きが止まった。


「……何ごと?」

「さあ……少し見て参ります」


 茅野がそう言う間もなく、結子のいる東の対に向かって、幾人かの慌ただしい足音が近づいてきた。寝殿とを繋ぐ廻廊からだ。

 茅野が素早く簀子すのこに出て、すぐに状況を掴んだ。大きな楠で遊んでいた任子の四つになる上の息子 一郎君が、樹から落ちて怪我をしたらしい。

 結子はすぐに一郎君を抱えた女房を東の対に引き入れ、泣き叫ぶ子を褥に寝かせると、その女房に任子への遣いを頼んだ。

 一郎君の薄縹うすはなだ*の水干すいかん*は袖が引きちぎれ、血が滲んでいた。このような我が子の姿を任子が見ようものなら、どれほど取り乱すか分かったものではない。結子は一郎君のそばに座り、衣を脱がせながら指示した。


「茅野、たらいを」

「畏まりました」

「それから誰ぞ、薬師くすしを呼ぶよう手配を」


 おろおろと覗き込んでいた女房たちが、慌てて対屋を出て行った。


「大丈夫、すぐによくなるわ。泣かないで」


 結子は一郎君に優しく声をかけながら、その頬の涙を拭った。ひっくひっくと泣きじゃくる一郎君の声が、少し小さくなる。


「強い子ね。ほら……もうお母さまがいらしたわ」


 結子が一郎君に微笑みかけると、任子と一緒に護貞も東の対に転がり込んできた。一郎君の様子を見た任子は案の定、もう少しで卒倒するところだった。


「殿……殿、血が……一郎君の……」

「落ち着きなさい」

「だって、血が……」


 そこまで言って、きい、とも、ひい、とも聞こえる声を出し、任子はへなへなと座り込んでしまった。結子は、一郎君の寝かされている褥の横に置かれた几帳の陰から、すでに薬師を呼んだことを護貞に伝え、優しく一郎君を撫でた。


「義姉上……まことに、かたじけない」

「怪我はそれほどまで酷くはないと思います。どうぞ落ち着かれて」


 結子の言葉に、ほっと息をついた護貞は、任子の隣に座り込むとしばらく思案げに一郎君を見たあと、呟くように言った。


「これでは、宴どころの騒ぎではないな。わたしはもう行かねばならぬゆえ、貴女はここに残りなさい、しっかりと一郎君を看てくれ。いいね?」


 この言葉に、今まで魂が抜けたように座り込んでいた任子の視線が護貞に動いた。


「嫌だわ、ひとりにされたらわたくし、ちゃんと看られるか分からない」

「だからと言って、貴女は一郎君を放っておけるのか? ……わたしは宴に出ぬわけにはいかぬのだぞ?」


 それを聞いた任子は、はっ、と癇が立ったような笑い声を上げ、掴みかからんばかりの勢いで護貞ににじり寄る。若い北の方らしい藤重ふじがさね*の唐衣が、ざわと大仰な音を立てた。


「可哀想な一郎君のために、わたくしに可哀想な母親になれと仰るのね? もう、すっかり宴に出る用意も済ませたっていうのに! 殿はいつもそう、何か起こるとすぐ、わたくしに押しつけて、ご自分は行ってしまわれる」

「だからと言って、貴女まで行くことはできないだろう? まだ薬師も来ていない」

乳母めのとに任せておいてはいけないの?」

「何かあってからでは、遅いのだぞ!」


 二人の口喧嘩を、結子はしばらく静観していた。任子が一郎君を心配していないわけではない。でもきっと、それ以上に宴に出たかった──いや、内大臣と頭中将に会いたかったのだろう。昔、宴で文を何通も受け取って喜んでいた任子の姿を思い出した。

 護貞が宴に出たい気持ちも分かる、これからの任地やその他諸々のためにわざわざ内大臣を接待するのだから。

 結子はひとつ、ため息をついた。

 ──これが、雅嗣さまとわたくしの『えにし』なのだ。もはや、二度と交わることはないと定められているのだ、きっと。


「……一郎君は、わたくしが看ています。ですからどうぞ、お二人で行ってきてくださいな」


 そう言って、結子は静かに微笑んだ。


 ***


 夜風が、廻廊の端に佇む結子の許に花片はなびらを運んでくる。微睡まどろんだような夜の空気に冷たい風が吹き込み、結子は思わず袿の前をかき合わせた。

 容体の落ち着いた一郎君を茅野に任せ、ほんの少しだけと寝殿を臨める廻廊まで来てしまった。

 風に乗って微かに聴こえてくるそうは、若菜の君が奏でているのだろう。きりりと空気を震わす琵琶の音は、初音の君。内大臣一行を前にして、二人の姉妹が懸命に奏でているのが目に浮かぶ。

 寝殿にあの方がいらっしゃる。八年の時を経て、今、こんなにも間近に。

 なのに、なんて遠いのだろう。会わずに済んで安堵した気持ちと、お会いしたかったと欲する気持ちとが、結子の中でせめぎ合う。これが定めと分かっているのに、手の届かぬ距離がもどかしかった。

 我知らず、見えもせぬ雅嗣の姿を求めて視線を彷徨わせていた。そのことに気づき、愚かなこと、と別邸に戻るため袿の裾を翻した結子の耳に、澄んだ笛の音が届いた。思わず歩みを止める。

 あの頃──二人が幸せだったあの束の間の時、人目を忍んだおとないであったがゆえに、合奏することはおろか、雅嗣の笛を聴くことも叶わなかった。幾度も結子の箏を聴くたび、いつかともに、と言ってくれた雅嗣の言葉が脳裏に蘇る。

 ああ……美しい音だ。確かめずとも分かる、これはあの方の音。己とではなく、他の女君と合奏しているところを聴くことになるなど、思いもしなかった。

 息を詰めて食い入るようにその音を聴いていた結子はふと我に返り、もう一度、愚かしいこと、と口に出して呟く。そして、逃げるように一郎君のいる東の対へと戻っていった。




 翌日の午後、一郎君の見舞いと称して別邸西の対を訪れた初音の君と若菜の君のお喋りは、騒々しいこと、この上なかった。そこに任子まで加わったものだから、もう結子には言葉を挟む余地もない。


「二の姫さま、頭中将さまはそれはもう、素晴らしい公達でいらしたの」

「見目麗しく、お声も素敵だし、笛の名手で……わたしたち、ご一緒させていただくのが恥ずかしかったくらい」


 頬を染めて口々に言うその様子では、姉妹はもう、すっかり頭中将に心奪われてしまったようだ。それはなぜか、任子とて例外でなかった様子。


「お姉さま、本当よ。浮ついたり気取ったりしたところもなく、お話も上手で、皆にお心配りなさっておられて」


 それから、 ふたりの義妹たちの方に視線を向け、少し自慢げにこう続けた。


「わたくし、お父さまの宴でそれはたくさんの方とお目にかかってきたけれど、どの方よりも素晴らしい方だったと思うわ」


 やっぱり! と頷き合う姉妹はまた、頭中将を褒めそやすのだ。

 何も知らない任子や姉妹から、このような話を延々聞かされねばならなかった結子は、さも楽しそうに微笑みながらも心が引き絞られるように痛んでいた。いずれの話も、己が手放したものの大きさを結子の目の前に突きつけるばかり。

 話すべき言葉も見つからず、仕方なく、前に眠る一郎君のふすまをそっと直す。一郎君の怪我は、肩が外れ、背中にかけてずいぶんと擦りむいていたが、すぐに処置され大事ないとの診たてだった。寝汗をかいている幼子の額をそっと懐紙で押さえた時、簀子すのこの方から女房の声がした。


「恐れ入ります。ただ今、ご来客が……」


 ぴたりと賑やかなお喋りが止んだ。


「来客? どなた?」


 任子が背筋を伸ばして尋ねる。


「内大臣家の北の方さまのご名代とか」


 まあ! と任子は驚いたように声を上げ、慌てて後ろに控える女房たちに座を設えるよう指図した。簀子と廂の間の御簾が下ろされ、几帳が置かれる。途端に薄暗く沈んだ廂の間に、いったい何ごと、と姉妹たちも好奇心に満ちた瞳をきょろきょろさせている。結子もまた、ここにいていいものかと考えている間に席を立つきっかけを失い、そっと几帳の陰に身を置いた。


「……なぜ、北の方さまのご名代など。昨日のことならば、お文で済むはずよ。何か失礼なことでもしたのかしら?」


 考え込む任子に、初音の君がひそひそと返す。


「でもお義姉さま、昨日の皆さまのご様子では、我が家が何か失礼なことをしたというわけでは──」

「内大臣北の方さまご名代、頭中将さまでございます」


 御簾のうちの話に割り込むように、上ずった女房の声がした。

 不意を打たれた結子はただ目を見開き、言葉もなくその人の方を振り向いた。几帳のとばりの隙間から覗き見る結子の瞳が、桜の直衣姿の公達を捉えた──雅嗣の姿を。


「まあ! 中将さま、いらしてくださったのですね」


 嬉しげな任子の甲高い声が、対屋たいのや中に響く。

 結子は目の前が真っ白になったような感覚に陥った。身体がぐらりと揺れたように感じ、一瞬己が今どこにどう座っているかすら、分からなくなった。まさか、今この場でお会いするだなんて。

 結子には、御簾を通しているのにはっきりとその横顔が見える。少しお痩せになられたか、または年齢のせいか、頬のあたりなど肉が落ち、すっきりとなされた。二藍ふたあいの透ける白い直衣が、よう似合うておられる。絵巻に出てくる貴公子のようと、あれほどまでに任子や姉妹たちが騒いでいたのももっともな、堂々とした公達ぶりだ。

 茵に腰を下ろし袖を払うそのふとした仕草も、記憶にある雅嗣そのまま……結子はもう、何を考えていいのやら分からず、思わず視線を逸らした。


「その後、一郎君の具合はいかがですか?」


 心配そうに尋ねる雅嗣に、気安く声を交わせるほどに打ち解けたと自負している任子が、直に答えた。


「ご心配ありがとう存じます。どうなることかと心配いたしましたが、お陰さまで落ち着いたようで、今はよく眠っております」

「それはよかった。大臣おとども姉も大変心配しておりましたゆえ。……姉から、昨日は楽しい宴をありがとう、との伝言です」

「そのためにわざわざ? なんと有難いことでございましょう。もったいのうございますわ」


 北の方然とした任子の言葉に、雅嗣はふっと笑った。


「いえ、姉はもともと楽しいことを好むたちですし、世辞を言うような人柄でもありませんから、きっと本当に楽しかったのだと思いますよ。それに……」


 雅嗣は言いながら、初音の君と若菜の君がいる方を向いて、御簾越しに言った。


「わたしも楽しかったのです。気の張る宮中ではなく、気のおけない場所で自由に合奏させていただいたのは久しぶりでしたから」


 その言葉に二人の姉妹は顔を見合わせ、扇の陰で嬉しそうに互いを小突きながら笑っている。

 それらのやりとりを聞きながら、結子は悟った。

 雅嗣はすでに、結子の数歩先を歩んでいるのだ。同じところにとどまり、記憶からも想いからも抜け出せぬまま輝きを失ってしまったわたくしとは、もう、違うところにおられる。この方は、八年前と変わらぬ……いや、それ以上に自信という輝きをも身につけられた。

 そう……分かっている。本当は自分でも気づいているのだ。

 あの時、二人の間で障害になったのは雅嗣の位だった。ならば、その年の秋に五位になった時、結子を迎えに来ることもできたはず。少なくとも、結子が雅嗣ならばそうしただろう。だが、雅嗣は来なかった。ということは──


「……そうですわ。今日は、昨日お話いたしました、わたくしの下の姉もおりますのよ」


 任子の声に、結子は我に返る。雅嗣の視線が、二人の姉妹のいる方から、ゆっくりとこちらを向いた。御簾の中、ましてや几帳の陰にいて雅嗣に見えるはずもないのに、結子は我知らず身をすくませる。射るような視線を向けられているような気がして、言葉を発することもできない。


「中将さまは、姉とは初めてでございますわね?」

「──いえ」


 任子のはしゃいだ問いかけに、それまで楽しげだった雅嗣が、静かな声で答えた。


「存じ上げております」

「あら? そう……なのですか? 存じませんでしたわ」

「……」


 雅嗣はそれ以上、返事をしなかった。

 こちらを振り返る任子の探るような視線の前に、ああ、と結子は声にならない呻きを洩らす。

 冷たいお声だ──雅嗣さまは未だ、わたくしをお許しになってはおられぬ。

 はっ、と吐息ともわらいともつかぬ声が、結子の口から零れて落ちた。結局、何を言うこともできなかった。


「中将さま、気候もよいことですし、また一度お池に船を出そうと兄と申しておりましたの。ご一緒にいかがでしょう?」


 若菜の君の屈託のない声が響いてまたそちらの方を向いた雅嗣は、結子について話したとはまったく違う声音で言った。


「それはいいですね。ですが、その前にぜひ、皆さまを二条堀川にご招待したいと……そのために、今日わたしは遣いを任されたのですよ」

「二条堀川邸に?」


 任子が訊き返すと、雅嗣は楽しげな様子を収めて真面目に言った。


「ええ。尤も、失礼でなければとのことですが……こちらの北の方の元のお邸でもあったわけですから」

「そのようなお気遣いは無用です。わたくしももうずいぶん長い間、二条堀川には戻っておりませんの。もし、もう一度あの邸に行くことができるのなら、これ以上の喜びはありません」


 話は、結子などいないことのように進められた。そこで交わされた話は、結子の耳をすり抜けていく。気づけば、雅嗣はさわと衣擦れをさせて立ち上がっており、ぜひまた合奏いたしましょう、という約束を二人の姫君たちに残して、振り返ることもなく御簾の向こうから姿を消した。

 頭中将さまがお誘いくださるなんて、と大はしゃぎの皆の横で、結子は張り詰めた息を大きく吐き出す。

 とにかく終わったのだ。恐れていた一瞬が。

 ──否、恐れていると思っていたその瞬間が、実は己にとって待ちかねた瞬間であったのだと、結子は今初めて気づいた。お会いできて、あの方の気配を御簾越しにも感じることができて、お声を聞くことができて……心が震えるほどに嬉しかったのだ。

 結子はくちびるを噛んで目を瞑った。

 どのような形であれ、あの方にお会いできたのだ、もう充分だ。あの方のお声は、これ以上ないほど冷ややかだった。そこに、何よりもあの方のお気持ちが表れているではないか。

 なのに、なぜ。わたくしの心は、なおもあの方を追いかけて行こうとするのだろう。


「……愚かなこと」


 結子はまた、呟いた。



──────────


桜重

紅の単に白の五つ衣、紅梅の上着の上に、蘇芳の唐衣を重ねた襲。


蘇芳

黒味を帯びた赤色。


唐衣

女房装束(正装)で、一番上に身につける丈の短い衣。

身分の高い姫君に仕える人が着用するものであり、普段、身分ある姫君が着ることはありません。この場合は、内大臣という高位の人に会うため、身につけています。


薄縹

薄い藍色。


水干

主に、元服前の男子が着用する衣。


藤重

紅の単に薄紫の五つ衣、黄の上着の上に、蘇芳の唐衣を重ねた襲。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る