二 思わぬ行き先
結子はあまり乗り気ではなかったけれど、断るわけにもいかず、渋々
家族同然の扱いを受けている逸子も邸に着き、
父に請われるまま少し離れたところで箏を爪弾いていた結子は、それまで続いていた歓談の中であげられた、あまり聞いたことのない逸子の苛々とした声に思わず視線を上げた。
「──それでは、中の君があまりにも……」
結子は眉をひそめ、微かに糸を震わせ続けながら皆のいる方を見る。わたくしが、なに?
「あら……だって、ぜひにと三の姫も言っているんですもの。ねえ、お父さま?」
「まあ、あれも、姉がいた方が落ち着くだろう」
晴子のいる几帳の陰から、せわしなく
「ですから葛野には、代わりに
晴子がそう言い放って、ほほ、と笑うのが聞こえ、さすがの結子も手を止める。
「大姫、そのような言い草……」
逸子は言いながらちらりと結子に視線を向けた。それに気づいた結子が困ったように微笑み返すのを見て、逸子はひらひらと手招きした。
「中の君、こちらに」
仕方なく、箏を置いて皆の方へ向かう。楽器の音が消え、皆が黙り込んだ薄明かりの母屋に、結子が立てる衣擦れの音だけがざわりざわりと鳴る。嫌な空気だと結子は思った。
「そなた、葛野ではなく三の姫の許へ行ってやれ」
「また、体調が優れぬと言っておるのだ。そなたを寄越して欲しいと言ってきた」
「──三の君のところ……
そうだ、と言われ、結子は黙り込んだ。
もうすっかり、葛野へ移るものと思って準備も済ませていた。心も決めた。なのに今さら……。
「なぜ、亮の姫君を葛野へご一緒になど。それならば、三の姫の許には女房をやるなりして、中の君を葛野へお連れになるべきでは?」
逸子は、同じ娘でありながら中の君を軽んじる物言いに、明らかに腹立ちを滲ませ、義照と晴子の方へ責めるような視線を交互に送った。
晴子には先日、結子を交えて話をしたというのに。亮の姫君をあまり近づけるなと……何を考えて頻繁に出入りしておられるか分からぬ、もし万が一、貴女のお父さまと何かあればどうなさるおつもりか、とあれほど忠告したではないか。でも確かにあの時、晴子はあっけらかんとこう言ったのだった。
「あら、だってあの方……ここだけのお話ですけれど、あまり美しい方ではありませんもの。お父さまは、美しくない方はお好きじゃなくってよ」
父に似た晴子の美しい顔にも、さすがに二十七歳という年齢は残酷に表れつつあった。その顔を傲慢に歪め、人を美しくないと言い放つ姉に、結子は心のうちでため息をついた。
「でもねぇ、あの方楽しいの。わたくしは好きよ」
そうも言い、妙な勘ぐりはやめて、と一方的に話を打ち切ってしまった晴子は、きっともう、あの時から亮の姫君を葛野へ連れて行こうと考えていたに違いない。
「でも、二人のお子がいらっしゃると聞きましたよ? どうなさるのかしら?」
逸子の声に棘がある。だけど晴子は気づいておらぬのか、酒を一口含んでから言った。
「それは、東宮亮どの……お父君の許に
「まあ」
逸子は呆れ、それっきり黙り込んでしまった。
ややこしいことにならなければいいけれど、と思いつつ、結子は諦めたように微笑んだ。どのみち、結子に選択肢はない。
「分かりました、では、わたくしは紀伊守さまのお邸に参ります」
「中の君、よろしいの? それで……」
「だって、その方が宮の方さまのお側にもいられますし」
そう言われれば、逸子も何も言えなかった。まだ釈然としないような顔をしながらも、結子の手を取ってぎゅっと握り締め、そう言えばそうね、と小さく笑った。
結子にしても、別に来なくてもいいと思われている葛野に父や姉と行くよりも、来て欲しいと請われて妹の許へ行く方がまだましに思えた。いずれにせよ、もうこの二条堀川の邸を離れねばならぬのだから、どこへ行こうとあまり変わりはない。
「では、お父さま……わたくしはここらで失礼いたしたく存じます」
結子は逸子に小さく目配せすると、義照に頭を下げ、その場をあとにする。篝火の煙が花影を揺らすのを目の端に捉えながら、結子は静かに寝殿から出て行った。
なんと美しい──抑えようもない切なさでその光景を見遣った。
違うのは、宴だったあの日と違って人の気配がほとんどないこと、あの時よりも樹影がひとまわり大きくなったこと、そして……東の対の様子を窺う柳の
いつまで囚われ続けるのだろう。
早く、と思っていた葛野に逃げることも叶わず、いつかあの方の噂に触れることに怯えながら、これからも都で過ごすこととなってしまった。紀伊守の邸は
渡殿の柱に手を添えて、下を流れる堀川から引いた
紀伊守の邸には、今までも何度か滞在したことがあった。三の姫の出産時にも、結子は世話をしに行っている。家族は陽気で、気取らぬ人たちばかりだ。若い二人の妹姫たちも、結子を慕ってくれている。きっと、葛野に行くより楽しい時を過ごせるだろう、任子の体調次第ではあるけれど。
急ぎ、日取りを決め直さねばならない。荷も、まとめ直さねば。そうそう……一緒に葛野に移ると言ってくれた茅野は、都に残れると知れば喜ぶことだろう。
現実に引き戻され、結子は吐息をついて渡殿を越える。すでに誰もおらぬ対屋は、がらんとどこまでも寂しかった。
***
「中の君……本当に、これでよろしかったの?」
「これでよかったのです、宮の方さま。寂しいことですけれども」
──昨日、二条堀川邸を後にした。
葛野への転居とともに
邸に残ることを選んだ女房たちと、これを限りと去って行く者たちそれぞれに別れを告げ、結子はもう一度、邸を見回った。人のほとんどいない二条堀川邸はどこか寒々しい姿を晒し、結子には耐え難く思えたけれど、今頃は内大臣家の人々が出入りして、再び輝き出していることだろう。
逸子の言う、これでよかったのかということが、葛野に移らなかったことを指しているのか、それとも二条堀川邸を手放したことを指しているのか、結子には分からなかったが、逸子の気持ちを納得させるため、何度でも同じ答えを口にした──これでよかったのです、と。
逸子にとっても、今は亡き友人の
小さな御簾のかけられた
「……そうね。貴女とこれからも一緒に過ごせるのですもの、これでよかったのだわ。それに葛野などに行ってしまったら、美しい貴女をどちらの公達が見つけてくれるというの?」
結子はそれには答えず、ごろごろと響く
逸子は、結子に雅嗣との恋を手放すよう諭したのち、その件については一切口にしなかった。その後の結子を見れば別れたことは一目瞭然で心が痛んだが、二人の仲を裂いたことは間違っていない、と今でも考えている。
ただ、その別れを経て一気に若い娘らしい輝きを失ってしまった結子のことは、逸子の心配の種となっていた。権大納言家の娘たちの中でも一番優しく愛情に溢れた結子が、まさか二十五になるまで独り身で居続けるなど、逸子は予想すらしていなかったのだ。
結子には、なんとかよい公達に通ってもらわねばならぬ。そのためにも、都に残ることができてよかったのだ、というところに逸子の考えは落ち着いたようだった。
車の外から、牛飼童の牛を追う声が聞こえて来る。もうじき紀伊守の邸に到着するはずだ。結子はそっと御簾を動かして外を覗き見たが、目を開けていられないほどの眩しさに、慌てて御簾を戻した。
三の姫が北の方となっている紀伊守
実は、護貞は長く結子に
そういう経緯はあったものの、紀伊国から都に戻ってきてからは、妹を訪ねればいつも明るく迎えてくれた。その邸に、これからしばらく暮らすことになる。すでに子にも恵まれている二人に、護貞の過去の想いを気にする方が失礼というもの、と結子は深く考えぬようにした。
車がゆるゆると紀伊守の邸の
まだ新しい邸は、気持ちのよい木の香りがする。任子が二人の子どもたちと住まう西の対に案内されると、結子はひんやりとした空気の中、妹を呼んだ。
「三の君?」
「……あ、お姉さま……」
任子は結子を認めると、半身を起こした。まわりには、女房一人いない。
「やっと来てくださったのね。もういらしてくださらないかと思ったわ。今朝からわたくし、本当に具合が悪いの」
「そうなの? この間のお文ではお元気そうだったのに」
そう答えながら、息も絶え絶えな風に
「ご機嫌よう、三の君。今日からしばらくお世話になるわ」
そうして任子のそばに座ると、その肩に袿を掛けてやった。任子は具合がとても悪いというそぶりで、袖で口を覆ってごほんごほんと咳をしてから姉を見た。
「それで、お父さまたちは? 二条堀川のお邸はどうなって?」
「お父さまとお姉さまは、昨日葛野に移られたわ。恐らく、今日には内大臣さまがお入りになられるはずよ」
そう……と寂しげにうつむいた任子は、だけどすぐに顔を上げて、夫一家の薄情さを切々と訴え出した。
「殿は朝から出かけたきり、まったく戻ってこられないわ。わたくしがこんなに体調が悪いっていうのに、誰も……女房たちすらどこかへ行ってしまってそれっきり」
「貴女が休んでいたから、邪魔にならぬよう気を遣ってくれたのよ」
「妹たちも一度も顔を見せやしない。……まあ、あの人たちのお喋りと笑い声を聞いてたら、よくなるものもよくならないけど」
結子は、ああ、子どもの頃からまるきり変わってない、と心のうちで苦笑しながら任子の手を撫でる。
「きっとすぐによくなるわ。気分がよくなったら、遣いをやって母屋の方にご挨拶に伺いましょう。皆にもお会いしたいし」
「あちらの方から来るべきよ。我が家の方が家格は上なのよ」
その言葉に口を噤み、結子はこっそり吐息を零した。ああ、ここにも権大納言家の人間が一人、と。
結子の予想通り、ひとしきり話を聞いたあと、任子の体調はすぐによくなった。要は構って欲しい
女房に先触れを頼み、渋る任子を連れて母屋に向かう。紀伊守の邸は、財にものを言わせて手に入れた非常に広大な敷地だった。そこに、先の播磨守の住む寝殿と、紀伊守一家が住む別邸が隣り合わせに建っており、それぞれは廻廊でつながれていた。女房の先導で廻廊を行くと大きな
別邸も立派だが、寝殿はもっと立派だった。元からあった古い建物を改修したらしく、別邸の真新しさとは違う威厳のある建物だ。そこの母屋に着くと、播磨守の北の方と二人の姫が、結子を待ち構えていた。
「お
「まあ! 二の姫さま、お会いしたかったわ」
「わたしたち、ずっとお待ちしてたのよ!」
任子が挨拶しようとするのを押しのけて、二人の姫君が結子に駆け寄ってきた。紀伊守の妹たちで、初音の君と呼ばれる一の姫
「お二人ともお元気そうね。これからしばらくご一緒できると思うと、とても嬉しいわ」
そう言いながら、挨拶をすっぽかされてむっとしている任子の肩をそっと押し、紀伊守と姉妹の母である北の方の隣に座るよう、促した。母屋の中に、北の方が好む梅花の
「北の方さま、このたびはいろいろと、ご厄介になります」
「まあ二の姫さま、何を水くさいことを。貴女がいてくださると、我が家も明るくなって嬉しいわ」
この北の方もまた、おおらかで素朴な人柄だった。そして、ある程度の教養も身につけていたし、子どもたちをきちんと育て上げた自信も持っている。そんな彼女にとって、三の君のように気位ばかり高くて我の強い女性は苦手なのだ。だから、今でも息子の妻が結子でなく任子になったことを、口惜しく思っていた。なぜ、この穏やかで優しい姫君でなく、三の君のような妻が我が家に来てしまったのだろう。
北の方は扇で口許を隠し、結子にそっと耳打ちした。
「三の君のご病気はもう治って? いつか、二の姫さまから伝えてくださらないかしら? いい加減、ご自分が病気だと思い込むのはおやめなさい、って」
結子はさすがに何を返事すべきかしばらく考え、ちらりと任子を見たあと、黙って北の方に微笑んだ。この邸でも、三の君の『病』はすでに相手にされていないのだ。そう思うと、結子はなんだか複雑な気分だった。
その時、今度は向こうでかしましく喋っていた妹姫が、ねえ二の姫さま、と結子に話しかけてきた。
「二条堀川のお邸に内大臣さまがお移りなられたのですって?」
「ええ……今日ね」
寂しげに頷く結子などお構いなしに、姉妹は笑いながら、やっぱり、と目配せし合っている。訝しげに瞳を揺らした結子に、初音の君が説明してくれた。
「お父さまがちょうど先日、内大臣さまのお邸に伺っていたんです」
結子はその話を、小さく首を傾げながら黙って聞いた。受領が
「それで、ぜひとも我が家にもいらしていただけるよう、お願いしたんですって」
「そうしたら内大臣さまもご承諾くださって、花が散る前にはお越しくださるそうなの。なんてご縁かしら! ねえ、二の姫さま?」
姉の言葉を引き継ぎ、妹がはしゃいで続けた『縁』という言葉に、結子の顔から微笑みが消えた。
「……そう、ね。これもご縁、なのかしら……」
結子は小さく相づちを打ちながら、いつの間にか、賑やかな姉妹の会話を聞くでもなく視線を彷徨わせ、考えに落ちていった。
ここのようなあたたかみなど皆無の己の家族のこと、ついに手放してしまった邸のこと、内大臣家のこと……そして、そこに繋がる
少し、疲れてしまったのかもしれない。いろんな人に大丈夫だというふりを見せ、微笑むことに。
結子は、輝くような笑顔で話し続ける二人の姫をぼんやりと見た。突然、若菜の君の弾んだ声が耳に飛び込んでくる。
「──それでね、二の姫さま。内大臣さまは北の方さまだけでなく、北の方さまの弟君もお連れくださるそうなの!」
巡らせていた結子の思考がその瞬間、止まった。
──────────
細長
袿の上に着た、
空薫物
室内にそれとなく薫るように焚かれた香のこと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます