四 八年の時

 八年ぶりに足を踏み入れた二条堀川邸は、昔と寸分たがわず美しかった。

 たとえ、雅嗣の心にどれほどわだかまりがあろうとも、あの忘れ得ぬ桜の樹は、まことのあるじを失ってなお、この世のものとも思えぬ幽玄さを湛えている──


 ***


 よもや、このようなことになろうとは思いもしなかった。己がかつて足繁く通い、そしてひどく傷つけられたその邸にとどまることになろうとは。

 内大臣 有恒と、その北の方である姉 佳子の二条堀川への転居もつつがなく終わり、これでお役御免と思っていたのに、しばらく滞在するようにと西の対を充てがわれた。東の対は、あの桜を気に入った佳子たちが使うそうだ。

 なぜ、よりにもよってこの邸なのか。宮中から退出する途中で、父である右大臣から初めてこの転居話を聞いた時には、危うくきざはしから転げ落ちるところだった。

 雅嗣のほんの束の間の恋のことなど、従者の康清以外誰も知らない。……佳子は何か感づいていたようだが、まさか権大納言家の姫とは思っていないだろう。

 もう八年も前のこと。雅嗣にとっては過ぎた話だったのだ、ほとんど思い出すこともないほどに。なのに、なぜに今さら、権大納言家──あの、かつての右大弁家と関わりを持たねばならぬのか。

 八年前のあの時、中の君は雅嗣を裏切ったのだ。懇願する雅嗣を突き放し、見捨てた。

 それがたとえ、まわりからの説得によるものだったとしても、想いを貫くだけの意志の強さを持たなかった彼女の弱さが、そうすることを選んだのだ。それは、雅嗣にとって許し難いことだった。

 余計なことを考えたくなくて、いつにも増して勤めに精を出した。その勢いのまま姉の転居を手伝い、そして今、二条堀川ここにいる。

 夕刻の静かな風の中、雅嗣は一人で庭に降り立ち、初めて訪れたあの日のように庭を見て歩いた。

 今は誰の目も気にすることなくいられるこの庭で、あの桜の許に寄って見上げてみる。雅嗣に覆いかぶさるように伸びる枝いっぱいについた花は、微かな風に揺れると一片ひとひらまた一片と舞い落ちてきて、ざわめき立つ雅嗣の心をも鎮めてくれるかのようだ。

 立ち去り難く、そのまま桜の下に腰を下ろした。目の前にある、すでに半蔀はじとみが数ヶ所開けられただけの東の対を眺める。記憶にある邸と、何も変わっていない。変わったのはただ、そこに住まう人だけ。

 雅嗣は、そのどっしりとした幹に頭を預けた。夕闇はなおも深くなり、あの日と違って篝火のない庭に、対屋たいのやからこぼれる灯りがあたたかく浮かび上がる。初めて見た明るい光の下の姿も味わい深いものだったが、やはりすみれ色の夕闇に包まれた邸は格別だった。

 美しいものは美しい。たとえどれほど醜い思い出があろうとも、ここは雅嗣の知る中で最も美しい邸だ。

 ぼんやりと静かな邸の空気を感じながら、気づけばこの八年もの間、敢えて意識せぬようにしていたことを考えていた。中の君は今、どうしているのだろう、と。

 葛野かずらのに移ったのか、それとも、姉の言う紀伊守の北の方とやらがそうなのか。

 そう考えて、思いのほか心が波立たぬことに気づいた。もう過ぎたことなのだ、ともう一度心に呟く。

 そろそろ、前に進んでもいいのかもしれない。そんなことを考えながら、雅嗣はあたりがすっかり闇に覆われ、冷ややかな空気が満ちるまで、そこに座り込んでいた。




 その後も、雅嗣の二条堀川邸での暮らしは続いた。佳子に帰してもらえぬせいだ。


 ──紀伊守どののお邸にご招待されておりますのよ。貴方もご一緒に。


 確かに、いつだったか佳子はそんなことを言っていた。

 さらりと聞き流した姉の一言。まさか本当に連れて行かれるとは考えもしていなかった。その点、雅嗣の姉に対する理解はまだまだ低いといえる。

 ことの発端は、さきの播磨守が息子である紀伊守を連れて内大臣を訪ね、ぜひにと邸にいざなったことにあるらしい。その魂胆など今後の官職にあると分かっていようものを、酒に酔った有恒が軽々に承諾してしまったものだから、今さら断ることもできなくなってしまったようだ。しかも、紀伊守には二人の妙齢の妹姫がいると聞き及んだ佳子が、ならば雅嗣を連れて、などと言い出し、いかに場を持たせようと頭を悩ませていた有恒が飛びついたものだから、雅嗣まで巻き込まれる羽目になったのだ。

 紀伊守の北の方は権大納言家の姫君だ、と佳子は言った。それを聞いた瞬間の、何かを胃の腑に呑み込んだかのような感覚。それはきっと、当時大納言の息子であっても六位であるがゆえに許されなかった己と、受領であっても財産ゆえに許された紀伊守、そこに、どこかやるせない理不尽さと苛立ちを感じたせいだ、と雅嗣は結論づけた。そうして、あれほどまでに雅嗣の心と誇りを踏みにじり、傷つけた人々を許せるわけがない、という頑なな思いに辿り着いてしまった。

 だから、紀伊守の邸に呼ばれるなどまったくもって乗り気ではなかったし、もし、その北の方が中の君であったなら、それはやはり、とても気分が悪いことだろう。

 だが、姉に逆らえるはずもなく、無理矢理連れて行かれ……結果的には何とも拍子抜けなことに、紀伊守の北の方は甲高い声で笑うひとで、その声を聞いた瞬間にすべては杞憂だったと気づいた。中の君ではなかったのだ。自身でも気づかぬうちに張りつめていた雅嗣の心は、その瞬間ほろりとほどけた。

 しかも、紀伊守も素朴だが誠実そうな男だ。その親である前の播磨守と北の方もまた、話すと楽しい人たちで、気取らぬその場の雰囲気は、意外にも雅嗣には心地よかった。

 それからは、ほっとした反動からか、珍しく酒も進んで気分がよくなり、笛を取り出して若い二人の姫と合奏までした。そんな様子を、姉はきっと扇の陰からほくそ笑んで見ていたことだろう。

 紀伊守の妹である二人の姫は、鄙育ちゆえか、飾り気がなく率直に物言いをする。親の気質もあるだろう。宮中の女たちを見慣れた目には若干田舎めいた気もしたけれど、そのお陰で、雅嗣も気構えることなく過ごせたのは確かだった。

 まだ、どちらがどちらかよく区別がついていないが、琵琶を奏でた姉姫の方が、少し落ち着いた雰囲気があったか。妹姫は快活でよく笑い、物怖じせず何でも尋ねてくる好奇心旺盛な姫だ。箏の腕前だけは、中の君のそれには遥かに及ばなかったが。

  酒の力もあったとはいえ、自分でも思わぬほどその時を楽しんだ。夜も更けて別れを告げたあと、ほうっと息をついて座り込んだ帰りの牛車うるまの中で、酔いが回って目を閉じた雅嗣に、佳子が楽しげに言った。


「お可愛らしい姫君たちではないの。貴方はどちらの姫君をお気に召したの?」


 雅嗣は目を開けて、蝙蝠かわほりで火照った顔を扇ぎながら答えた。


「お気に召したも何も……わたしにはどちらがどちらかすら、分かっておりませんよ」

「あまり大きな声では言えませんけどね」


 雅嗣の答えなどお構いなしに、佳子もまた扇で口許を覆って続ける。


「やはり、貴方の北の方になるには少々、ご身分が軽いとは思うのよ。でも、お通いになってみられるのはいいのではないかしら?」


 勝手なことを……と思いつつ、雅嗣は寛いでいた身を起こした。隣では、酒に弱い有恒がすでにぐっすりと眠っている。それを見ながら、雅嗣は少々投げやりな感じで言った。


「わたしもいい歳です、身分にこだわれる身でもありませんよ。姉上の仰るとおり、そろそろ真面目に考えてみましょう」

「あら!」


 暗い車の中でも、佳子の顔が輝いたのが分かった。


「下は十五から上は三十まで、そこそこに美しく、明るい姫。色好みでもないわたしにはそれで充分です。わたしはそこまで、好みにうるさくはないですし」

「……そうかしら?」


 佳子は目をすがめ、じっと弟の顔を見つめた。好みにうるさくなければこの歳まで独り身でいないだろう、とその目は言っている。


「そんな目で見ないでくださいよ、姉上。これでもわたしは、この点においては人より真剣に考えているつもりなんです」


 酔いのまわった雅嗣がいつもよりくだけた口調でそう言うのを、佳子はじっと見ていた。


「……まあ、いいわ。貴方がそんな風に思うだなんて、それだけでも」


 酔っていることを差し引いたとしても、そんな言葉が貴方から出てくるとはね、と楽しげに言う姉を横目で見ながら、雅嗣は再び目を閉じ、車の揺れに身を任せた。




 翌日、何か口から出まかせなことを言ったかのような落ち着かぬ気分に苛まれつつ参内し、昼過ぎに二条堀川邸に戻った雅嗣を、佳子は今か今かと待ちあぐねていた。


「貴方、今から、紀伊守どののお邸に行ってきて頂戴」

「……は?」


 咄嗟に出たその間抜けな声に、雅嗣自身が戸惑う。


「昨日の返礼に、こちらにもご招待しようかと思うのよ」

「何ゆえ……」

「あのお可愛らしいたち姫君たちにももう一度お目にかかりたいし、邸だってご覧に入れたいし。北の方だって、久々に育った邸に戻れるのはきっと、嬉しいことでしょうから」


 しまった、と思った時にはもう遅い。昨夜口走った、そろそろ自分もいい歳で云々は、すっかり佳子をその気にさせ、何としても妹姫のどちらかを、と思っている様子だ。

 拒否できるわけもなく、再び紀伊守の邸に向かった。昨夜は父親である前の播磨守の住む寝殿での宴だったが、どうやら紀伊守は別邸の方にいるらしい。

 真新しい板を踏み、西の対に通された。御簾の下ろされたうちから、紀伊守の北の方の甲高い声が響いた。権大納言家の三の姫と聞いたが、記憶にある中の君との違いに、雅嗣は多少辟易していた。

 昨夜怪我をしたという一郎君への見舞いと一通りの礼を伝え、二人の姫たちと軽い話をしていた雅嗣に、突然北の方から思わぬ声が飛んだ。


「……そうですわ。今日は、昨日お話いたしました、わたくしの下の姉もおりますのよ」


 それはまさしく、青天の霹靂だった。

 北の方が中の君でなかったことで、すでに葛野へ向かったのだとばかり思っていたのだ。昨日話した? まったく覚えがない。

 あまりに突然のことで雅嗣の思考は完全に停止し、恐らく中の君がいるのだろう御簾のうちの、かすかに几帳が透けて見えるあたりにのろのろと目を遣った。


「中将さまは、姉とは初めてでございますわね?」


 北の方にそう問われ、何を考える余裕もなく、強ばった声で答える。


「──いえ、存じ上げております」


 己の言葉に、その場の空気が変わったのが分かった。北の方の怪訝そうな声が返ってくる。


「あら? そう……なのですか? 存じませんでしたわ」

「……」


 何をどう、返事すればよかったのか。ただ、黙り込むことしかできなかった。

 情けないことに、その後、何を話したかほとんど覚えていない。姉からの伝言を伝え、何がしかの約束を姉妹の姫と交わし、席を立った。

 中の君は、ただの一度も声を発しなかった。ただ、僅かに届いた身じろぎの気配と衣擦れだけが、そこに彼女がいるらしいことを伝えるのみ。それは、中の君らしいといえば、とても中の君らしい態度だった。

 半ば呆然と牛車に乗り込み、ようやく息をつく。そして、もう過ぎたことだ、とたかを括っていた自分自身をわらった。

 ゆるゆると進み始めた薄暗い車の中、雅嗣は否応なく己が心の奥底に向き合わされ愕然とする。本当は、八年前のあの時からこれまでずっと、中の君以上に真実大切だと想うものなど何ひとつとしてなかったのだ、と。

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