七 最後の逢瀬

 雅嗣の住まう大納言邸は東洞院ひがしのとういん大路に面し、一条大路にもほど近い場所にある。

 そのやしき南庭なんていにある池の傍で、雅嗣の従者である康清は初夏の陽の下、菖蒲の葉を刈り取っていた。そのようなことは下人げにんにさせればよい、と女房たちにはからかうように言われたが、いや、これは若君の御為、他人任せにはできぬと康清自ら汗を拭いながら頑張っている。

 未の刻*半ば、まだ高い陽の光の強さと、もうじきやってくるだろう雨の時季の予感を孕む湿気た空気が、康清の作業の進捗を阻む。大きく息をついて刈り取った菖蒲の葉を抱えると、康清は日陰を求めて歩き出した。


「まったく、若君も真面目ゆえ……」


 そう独りごちながら、腰の曲がった見事な松の陰に腰を下ろす。

 雅嗣の勤める中務省なかつかさしょう端午たんご節会せちえで、紫宸殿ししんでん前に立てる菖蒲あやめ輿こし*を献上する。ならばそこから少々いただいて来られてはいかがでしょう、と康清は不届きにもそそのかしてみたのだが、その案は当然ながらあっさり一蹴された。

 もちろん、端午の日に大切な人の息災を願って手渡す薬玉くすだまを、初めて己が手で用意する気になった若君のためならば、泥に汚れることを厭うわけはない。刈り取った菖蒲の葉の芳香を感じながら、康清ははあ、と息をつき、きらりと光を映す池の向こうの寝殿に視線を馳せた。

 雅嗣の乳母子めのとごである康清は、物心ついた頃からこの邸で暮らしてきた。雅嗣の父大納言は、その誠実な人柄と明晰な頭脳を若い頃から見込まれ、将来を有望視されてきた人物で、それはまつりごとの中心に立つようになった今も変わっていない。そのような父の許に生まれた大納言家の北の方腹の子女たちは、幼い頃から揃いも揃って利発であった。が、その性格がまた、見事にまったく違うのだ。

 都一の色男と名を馳せる嫡男に、快活で表裏のない一の姫君、どこまでも冷静沈着だが浮世で生きるには繊細すぎた次男、そして、歳の離れた三男の雅嗣。実は、雅嗣こそが父大納言のたちを最も受け継いでいるといわれている。その期待ゆえに、大納言は雅嗣を敢えて大学寮に入れて学ばせ、試練を与え鍛えているのだ、と邸の者たちはみな言っている。だが、世間はそうは見ないだろう。そこが、雅嗣の乳兄弟ちきょうだいとして何よりも歯がゆく思う点だ。

 もう一度ため息をつくと、腰を下ろしたあたりに都合よくよもぎなど生えてはおらぬかと見回し、ふと数日前の出来事を思い出す。

 日もとっぷりと暮れた頃、いつものように雅嗣に付き従って二条堀川に向かっていた。康清は、かちで訪れねばならぬ主人の姿が人目につかぬよう、松明で雅嗣の足許だけを照らしていた。もう間もなく邸の門という時、後ろからやって来た網代車あじろぐるまがゆるりと追い抜かして行った。従者からちらりと投げられた視線は人を小馬鹿にしたような色がありありと見え、康清は思わず足を止め、憤然と見遣ったのを覚えている。あれは……どこの従者であったか。


「確か、左衛門佐さえもんのすけさまのところの……」


 呟いて、康清はしばらく何ごとかを考え込んだ。そして、その考えを追い払うように何度か頭を振ると、大きく吐息して立ち上がる。蓬は、池の反対側に回らねば見つからぬだろう。康清は気を取り直して歩き出した。

 なんせ、若君が生まれて初めてまことの恋をなさったのだ。なんとしても成就させていただきたい。お相手があまり芳しい噂のない右大弁家の姫君と聞いて、最初はさて困ったことになった、と思ったものだが、どうやら杞憂であったらしく、今や若君は姫君にすっかり心奪われ、通い詰めておられる。今宵もまた、日暮れとともに出発であろう。急がねば、と康清は空を見上げる。

 ──よもや、数日前の些細な出来事が、主人の運命を大きく変えてしまうことなど、思いもよらぬままに。


 ***


 陽が落ち、蔀戸しとみどを下ろした東の対に闇が満ちる。人払いされた静けさの中に、かたん、と妻戸の開く乾いた音が響いた。

 それはもう聞き慣れた、なのに今も心震える音。あの方がいらした知らせ。

 燈した大殿油おおとなぶらがゆらりと揺れて、しゅっしゅっと衣擦れの音が近づいて来るのも、いつも同じ。きぬに焚き染められた薫りとともに、几帳から透けて見えるあの方の影──なぜなのだろう、まるで初めてのおとないを受けるかのように、心が騒ぐ。

 やがて姿を現した雅嗣を、しとねについたままの結子は眩しく見上げた。杜若かきつばた*の狩衣を着こなし、蝙蝠かわほりを手にすらりと立っている様は、まるで絵巻の中の公達のようだ、と思う。ふわりと微笑んだ結子を見た雅嗣はしかし、その口許にのせた笑みを消した。


「中の君、いかがなされた?」


 慌てた様子で結子のすぐ隣に膝をつき、その血色の少ない顔を心配げに覗き込んで問いかける。


「お元気がないようですが……どこか具合でも?」

「……いいえ」


 結子は取り繕うように微笑むと、雅嗣を見つめながらもう一度、いいえ、と首を振った。

 雅嗣は思わず結子の手を取り、握りしめた。結子はその手を雅嗣に預ける。二人が互いのぬくもりを感じられるのはまだ、互いの手だけだ。


「お顔色が優れぬようだ。熱でもおありなのではありませんか?」


 そう言いながら、雅嗣は初めて結子の頬にそっと触れた。突然のこととて結子は驚きに息を呑み……それから、頬に触れられたままの雅嗣の手の上に自分の手を重ね、目を閉じた。


「……あたたこうございます」


 そして目を開くと手を離し、ほら、熱などございませんわ、と首を傾げて微笑んだ。


「今日は、来客があったり姉君が来られたりして落ち着かなかったものですから、少しばかり疲れてしまって……」


 結子に、それ以上のことなど言えるわけがなかった。二人の関係を否定されたと……雅嗣の位が原因で反対されたなどと。そのことを誰よりも気にしているのは、雅嗣自身だと知っている。

 小さく吐息した雅嗣の手が結子の頬から離れた。ぬくもりの消えた頬に、たまらなく不安な気持ちが湧き起こる。もし、このぬくもりを永遠に失わねばならぬとしたら?


「来客とは?」


 ようやく落ち着いて茵に腰を下ろし、雅嗣はまた、結子の手にぬくもりを重ねた。自然と絡められた二人の指と指が、不安の闇に引きずり込まれそうな結子を辛うじて引き留める。


「式部卿宮さまの妹宮さまが、わたくしの母のよき友人でしたの。その方が、今はわたくしたち姉妹の母代わりと──」


 そこまで言って、結子はふと口を噤んだ。母代わり……そう、信じていたのに。

 ──大切なのは家柄でも位でもないの。ただ、貴女たちを心から想うてくださる殿方の許で穏やかに過ごしてくれることだけが、この母の願い。

 お母さまはそう、仰っておられたのに。


「中の君?」


 雅嗣に顔を覗き込まれ、結子ははっと我に返る。


「……母代わりとなって、何くれとなく面倒を見てくださっているんです……」


 小さな声でなんとかそう言うと、雅嗣は頷いた。


「それで、今日も貴女を訪ねて来られたんだね。では、わたしもいつか、お目にかかることがあるかもしれないな」


 何のてらいもない雅嗣の言葉に、結子の心はきりりと痛む。結子は視線を落とし、雅嗣の優しい手の中にある己の弱々しい、何の力も持たぬ手を見た。

 時折、ただ一箇所開けられた半蔀はじとみから入る生ぬるい風が御簾を揺らす。明日は雨かもしれない。雅嗣が、ふと何かに気づいたように御簾の方を見遣った。


「ほら、かすかに梔子くちなしの香りがする。咲き始めたのだね」


 結子はそう言われて初めて、雨の予感を含ませた風に乗り二人のところにまで届いたその香りに気づいた。


「本当に……」

「何も答えてくれなかったくちなしの君に、こうして間近で逢うことができるようになるとは……山吹色がよく似合うておられる」


 雅嗣は結子を見つめながら感慨深げにそう呟き、もう一度、結子の頬に手を遣った。


「忘れないで。貴女に出逢えて、わたしは本当に幸せなのですよ」


 穏やかな微笑みを湛えた雅嗣の言葉に、結子は頬を染めて思わずうつむいた。この上なく嬉しいはずの言葉を聞いて、涙がじわりと浮かんだ。


「中の君……?」


 雅嗣はまた、心配そうに結子の顔を覗き込む。結子は涙を見られたくなくて、顔を背けた。


「やはり、今日の貴女はどこか変だ。いつもはあんなに笑ってくださるのに」

「……違うのです。嬉しくて、涙が……」


 下手な嘘だと思った。思わずくちびるを噛む。昨日までのように他愛もない話をして、屈託なく幸せだと笑い続けていたかった。もし……もしも、この方を失うことになったら、もはや二度とは笑えぬだろう──失う? ともにいられなくなる? ……その孤独な日々と夜に思い至った時、結子の涙はみるみるに膨らんだ。

 嫌だ……嫌、いや!


「中の君?」


 もう一度呼びかけられたその声に弾かれるように、結子は雅嗣の胸にその身を投げ出した。

 雅嗣の焚き染めた香の薫りに沈み込む。涼しげな淡い萌黄の狩衣の奥で雅嗣の鼓動が大きく弾んだのを感じて、結子は己のしたことの大胆さに初めて気づき、羞恥に染まった頬をなお深くその胸にうずめた。


「……姫?」


 喉に貼りついたような声で、喘ぐように雅嗣が呟く。自分の胸に凭れかかる結子の身体を受け止めて、うちきの裾まで流れ落ちる艶やかな黒髪を見た。これまで何度、このひとを胸に抱きしめたいと思ったことか──眩暈めまいを起こしてしまいそうだ。

 幾度か逡巡したのち、そっと結子の背に腕を回した。花橘のかさね*の山吹色が、雅嗣の身につける萌黄の大きな袖に包まれた。


「雅嗣さま……わたくしも、ご一緒にいられて本当に幸せでございます。お忘れにならないでくださいね」

「中の君……」


 抱きしめる雅嗣の腕に力がこもる。


「どうか……結子、と」


 まことの名を明かすのは、心を、命を、預けた証。


「ゆうこ……?」

えにしを結ぶ──結子が、わたくしの*です」

「結子……」


 雅嗣は吐息の如くかすかな声で、愛しい女の諱を初めて呼んだ。たまらぬ愛しさがこみ上げてきて、雅嗣は結子の華奢な身体をきつくきつく、抱きしめた。

 このまま、ひとつになってしまいたいと願う。互いを想い合う二人の心のうちがしかし、少し違っていることを知るのは結子だけだ。

 雅嗣は、これからも続くだろうこの幸せを想って歓び震えた。結子は、すぐにでもこの幸せを喪ってしまうかもしれぬ恐怖を思い……怯え震えた。

 そのまま何も語らず、ただお互いのぬくもりをいだき合って、どれほどの時が経っただろうか。抱きしめる腕により一層の力をこめて、結子の髪に顔をうずめ、雅嗣は言った。


「──姫。わたしはそろそろ帰らねば」

「もう? いらしたばかりなのに」


 目を閉じたままそう呟くと、結子は雅嗣の衣をぎゅっと掴み、その胸に強く頬を押しつける。


「もう少しだけ、このままで……」


 雅嗣は、もう少し、と繰り返す結子の髪にそっとくちびるを寄せてから顔を上げた。


「許してください。これ以上ともにいると、わたしはわたしを止めることができそうにない」


 思わず顔を上げた結子に、雅嗣は困ったように笑いかけた。愛おしくて切なくて、思わずほ、と息をついた結子は、雅嗣の頬に手を添える。


「雅嗣さまをお慕いしております……ずっと」


 雅嗣は結子を見つめたまま、頬にある小さな手を優しく掴み、それから、そのてのひらにくちづけた。そしてもう一度、ぎゅっとその手を握りしめる。


「また明日、必ず参りますよ」


 そう言いながら、雅嗣はなんとか己の気持ちを押しとどめ、結子の身体から離れてゆっくりと立ち上がる。それを見た結子もまた、思いつめた表情で咄嗟に声をあげた。


「わたくしも……!」


 一緒に連れていって欲しい、いっそこのまま──思わずそんな言葉が喉から飛び出してきそうになるのを堪え、くちづけられた手を胸に立ち上がり、か細い声で言った。


「──そこまで、ご一緒に……」


 雅嗣は驚いたように結子を振り返り、それからやわらかに笑って、その手を差し出した。


「では、そこまで」


 袿の袖から僅かに覗いた指先を、雅嗣の手に重ねる。しっかり握り合うと、妻戸までをゆっくりと歩いた。だけどそれは、あまりにも短くて。あっという間に妻戸に着いて、雅嗣は、では、と振り返る。背の高い恋人を見上げる結子はその時、どんな顔をしていたのだろう。雅嗣は切ないため息をつくと、繋いだ手で結子を引き寄せ、もう一度強く抱きしめた。

 息も止まりそうな一瞬の儚い抱擁のあと、雅嗣は結子から離れて静かに妻戸から出て行った。夜闇に狩衣の袖が吸い込まれ、やって来た時と同じように、ことんと音を立てて妻戸が閉じる。

 そうして結子は闇の中にひとり、取り残された。いつまでも。



──────────


未の刻

現在の午後三時頃の前後二時間。

ここでは半ばなので、三時頃となります。


菖蒲の輿

宮中にておこなわれる端午の節会せちえに先立ち、菖蒲の葉を輿や机に載せたものが、紫宸殿のきざはしの左右に置かれます。翌日には帝の座所である清涼殿せいりょうでんに飾られ、節会前日の夜に、内裏の各殿舎の屋根に葺かれました。いずれも、邪気を祓う意味合いがあります。


杜若の色目

表が淡萌黄、裏が淡紅梅


花橘の襲

薄朽葉から白、青(今の緑)のグラデーションを使った襲。

(山吹濃き淡き二。白き一。青き濃き淡き。白きひとへ。───『満佐須計装束抄』より)


いみな

この時代、本当の名には霊的な力があると考えられていました。ゆえに、ごく親しい限られた人間(親兄弟、夫など)にしか知られてはならないものでした。万が一、呪詛じゅそなどに使われてしまうと命の危険すらあったからです。

そのためこの頃に、諱で名を呼び合うことがどれほどあったかは定かでありません。特に女君の場合、ほとんど呼ばれることはなかったのではと思われます。男君も同じくですが、まだ後世に知られているだけ、使うこともあったのかな、と想像しています。ですので、物語の中で諱を呼び合う場面は(特に女君は)極力避けましたが、無くしてしまうと今の私たちにはピンとこない部分もあると思い、あえて使っている箇所もあります。

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