六 説得

 この姉はいったい何を言い出すの?

 くらりと揺れた結子の後ろで、右京が小さく、姫さま、と囁いた。

 晴子せいこは、結子の様子などお構いなしに喋り続ける。


「この三輪に通う殿方というのが、左衛門佐さえもんのすけさまの従者だそうなのです。その者が、我が家のあたりで、大納言家で見知った家人けにんを見かけたと言っているらしいのよ」


 そこまで言うと、晴子は結子の方をちらりと見た。


「三の君に訊いても知らないと言うし、じゃあ、中の君のところしかございませんわ、そうじゃありませんこと? 茅野かしら? でも、茅野はまだ若すぎるわよねぇ……?」


 思わせぶりな晴子の言葉を、結子は黙って聞いていた。とても冷静ではいられぬ心地だったが、努めて冷静なふりをし続ける。無意識に、袿の袖を掌で握り締めていた。

 一方の逸子は、今得たばかりの情報をうまく処理できぬ様子で、結子と晴子を見比べ、何を言うべきか思案しているようだ。


「──つまり」


 逸子は眉間にしわを寄せながらあらぬ方を見つめ、両の手を胸の前できつく握り、確認するように繰り返した。


「この邸に、大納言家の誰かが頻繁に来ている。そういうことかしら?」


 結子は思わず目を瞑った。暗澹たる気持ちで、二人の会話を聞く。


「そういうことですわ、宮の方さま。でね、わたくしは、中の君の許にどなたかが通って来ているのではないかと、そう思っているのですわ」


 晴子はそう言うと、さも楽しげにくすくすと笑った。


「中の君も十七ですもの、そういうことがあってもおかしくはございませんわ。ねえ中の君、正直に仰いな。貴女のところに、大納言家のが通ってきているのではなくって?」


 家人、というところに力の込められた姉の言葉に、結子は答えず、ただ、深い息を零した。

 姉の考えていることは想像がつく。

 大納言家の嫡男である左近衞中将さこのえのちゅうじょうは、都で知らぬ者はいないといわれている華やかな公達だ。これまで数多くの浮名を流したものの、数年前にさる宮家の姫君を北の方に迎え、どれほどの女が涙したかと、これまた、まことしやかに囁かれた。まさか、そのようなお方が中の君のお相手だなんて、考えられないわ──結子には、笑いとともにそう言い放つ姉の声が聞こえてくるようだ。

 中将のすぐ下の弟は、思うところがあったらしく、ずいぶん若い頃に出家したという。ならばやはり、中の君のお相手は……あら嫌だ、その家人こそが中の君の恋人なのではなくて? ──おおかた、晴子は三輪と散々そんな話でもした挙句、ここに押しかけてきたのだろう。晴子は、何としても聞き出そうというような好奇心をぎらぎらと伝えつつ、しっかと結子を見据えた。

 ゆっくりと目を開いた結子は、怒るでもなく泣くでもなく、ただじっと姉の視線を受け止めた。なんという屈辱だろう。こんな風に踏みにじられるだなんて。言葉も出なかった。耐えかねて晴子から移した視線の先に、雅嗣の蝙蝠かわほりを隠した文箱ふばこが見えた。


「──大姫、あまりご趣味がよろしくないわね」


 結子の様子に気づいたらしい逸子が、やんわりと晴子をたしなめる。


「貴女はまだ、恋をしたことがないのかしら? それとも──」

「まあっ、宮の方さま……!」


 まさか、そのように返されるなどとは思ってもいなかったらしい。図星を指された晴子は、あからさまにむっとした様子だ。晴子の背後では、三輪が震えるようにひれ伏していた。己の迂闊な一言が、よもやこのようなことになるとは思ってもみなかったのだろう。主人を知らなすぎた、としか言いようがない。

 結子は逆に、ほんの少しだけ心の強ばりを解いた。やはり宮の方さまはお分かりくださるのだ、と僅かに光が差したような気がした。

 晴子は、閉じた扇を握りしめた指先をわなわなと震わせながら続ける。


「お母さまがお亡くなりになられてから、わたくしが中の君や三の君の母ともなろうと思って、頑張っておりますのに」

「それならば、もう少し中の君のお気持ちも思いやって差し上げねば。考えても御覧なさい」


 なおも逸子に言われて、晴子はもう一度、まあ! と声を上げるや、顔を真っ赤にしてそのまま黙り込んでしまった。

 その様子をちらりと一瞥してから、逸子は静かに結子に向き直る。


「中の君、大姫に何か仰りたいことは? さっき、何か言おうとなさってたわね?」


 なぜ、よりにもよって父とそっくりな虚栄心を持つ姉の前で話さねばならぬのだろう。けれど、もはや何も言わずに妙な話を撒き散らされるより、真実を話した方がまだましだ、と思うしかなかった。


「お姉さまの仰っておられることは、間違いではありません。──大納言家の方が」


 ほら! としたり顔で、晴子が顎をあげた。その場の雰囲気に耐えかねた右京が、これ以上はおやめなさいませ、と結子の袖を引いている。


「大納言家の家人だと仰るの? そんな、貴女まさか……」


 逸子が静かに尋ね、晴子は結子の次の言葉を待ち構えていた。結子は視線だけ動かし、二人を交互に見る。ここで話を終えることなど、到底無理だろう。


「──いいえ」


 目の前の二人の視線の色が変わるのを見ながら、結子はゆっくりと告げた。


「大納言家のご子息です」


 結子はそれだけを言うと、瞳を伏せる。本当はもう、姉の前ではこれ以上言いたくはない。だけど。


「まあ!」


 晴子のわざとらしい、偽善的な声が響いた。妹の相手が思いのほか身分低い者でないと知り、何とか別の粗を見つけようとしているのは明らかだ。逃げられるはずはなかった。


「わたくし、貴女に身分の違う恋人ができたとばかり思って、それはそれは心配していたのよ」

「……」

「でも……じゃあ大納言家のどなた? まさか、中将さまではないわよね?」


 相手を追い詰める、ぞくぞくとした悦びに晴子の瞳が揺れる。結子はまるで、蛇に睨まれた蛙のようなものだ。


「ご三男の……」

「三男? 知らないわね」


 晴子はさっそく、父がよくするような勝ち誇った調子で言い募り、ふふん、と鼻で笑った。


「そのようなお方、いらしたかしら?」

「……中務大丞をお務めです。お父君、大納言さまのお考えもあり、まだ殿上されておられぬのです」


 んまあっ! と晴子はまた、わざとらしい声を上げた。


「道理で知らないはずね。殿上もなさっておられないような方なんて……中の君、大変よ。お父さまがお許しになるわけないわよ」

「……」


 結子はもう、返事する気も起きなかった。

 そう、これがわたくしの家族の、ものの考え方なのだ。そう考えると、ただただ情けない気持ちにしかならない。

 姉妹のやり取りを見ていた逸子は、ふう、とひとつ息をついた。


「───大姫。少し、貴女の妹君と二人だけでお話できるかしら? ちょっと、席を外していただける?」


 晴子は一瞬憮然としたが、そのあと取り繕うように微笑んで言った。


「もちろんですわ。我が妹、中の君が道を誤らぬよう、どうぞお諌めくださいましね」




 結子は、身体中の力ががっくりと抜けていくような心地で、姉の背を見送った。

 このことは遅かれ早かれ、父 義照に伝わるだろう。できることならば、父に知られるより前に大納言家からの申し出があれば……と願っていたが、それはもはや儚い夢となってしまった。


「──中の君」


 逸子が、硬い表情で結子を見る。


「あのようなかたちで大姫に知られることになってしまったのは、わたくしも責任を感じるわ」

「いいえ、宮の方さま。いずれ……分かることですもの」


 そう言いながらも、結子の心は闇に沈んでいく。まとわりつく対屋たいのやの空気が重苦しく、結子は思わず床に手をつき、胸元を押さえた。


「その……大納言家のご三男とは、どのようなお方なの? おいくつ?」


 逸子は優しく微笑みかけながら問うた。視線を上げて逸子を見た結子は、その微笑みに縋りつく。


「十八におなりかと。思いやり深い、お優しい方です。大切に、想うてくださいます」


 雅嗣の人となりに恥じるべき点は何もなく、余計な言葉で飾り立てたり、位が低いことを卑屈に思ったりする必要もない。雅嗣は結子にとって誰よりも大切な得難い相手であり、雅嗣にとっての結子もまたそうであるはず。そのことさえ伝われば、逸子はきっと理解し、助けてくれる。

 弱々しい笑みをのせて話す結子を見つめ、逸子はそう、とため息をついた。そのまま、しばらく沈黙が流れる。

 やがて、逸子が視線をそらして呟くように言った。


「貴女を大切にしてくださるのは結構なこと。大納言家というのも問題はないわ。けれど……」


 逸子は、含みのある言い方で一度言葉を切った。居心地の悪い間が空いて、結子の鼓動が嫌な風に弾んだ。


「……宮の方さま?」


 結子が恐る恐る問い返すと、逸子は言い辛そうに言葉を濁しながら続けた。


「六位というのは少し……ほら、何というのかしら、やはり少しばかり……」

「……」

「貴女のお父さまにお認めいただくのは、難しいかもしれないわ」

「……」

「そうなると……ご三男というのも。貴女のお父さまの助けもなければ、貴女を北の方に迎えようにも、邸すら持てぬ身……」


 ここまで聞いた結子は目を見開き、信じられぬものでも見るように逸子を見つめた。

 これは……どういうこと? この、優しい母代わりのひとも、わたくしの味方となってはくださらぬ、ということ?

 思ってもみなかった逸子の言葉に、頭の中が真っ白になった。くちびるが、結子の意思に反して細かく震え出す。


「宮の方さま……わたくし、たとえお父さまが何と仰られようと、あの方を想う気持ちは、変わりません」


 言いながら、先ほど姉に貶められた時には出なかった涙が、じわりと浮かんだ。

 嫌な予感がする。早うここから逃げ出さねば、今すぐにでも雅嗣さまの許へ行かねば、と心が叫びをあげている。でも……でも、どうやって? 結子はそのすべを知らない。


「貴女のお気持ちは痛いほど分かります。けれど、少しお考えになって? えにしを結ぶということは、様々な釣り合い、兼ね合いを考えることも大切なの。お分かりかしら、中の君?」


 あくまでもおっとりと微笑みながら、逸子の意思は強固だった。到底太刀打ちできぬほどに、確たる信条をもって説得してくる逸子の態度に、結子は強い言葉で拒むこともできず、ただ嫌々と首を振るしかなかった。ぽろりと涙が一粒、すべり落ちる。


「あの方は、今上きんじょうの御覚えめでたい大納言家のご子息です。……今は六位でも、きっとすぐに殿上てんじょうも許されるわ。それでは……いけないのですか……?」


 逸子は結子の頬に手を遣り、零れかかった黒髪が涙で頬に貼りつくのをそっと払った。


「お可哀想に……。中の君、泣かないで。これも、貴女のことを思ってのことよ。よく考えてみて頂戴。同じお年頃の公達には、とうに殿上を許されて、主上おかみのお側近くにおられる方もたくさんいらっしゃるわ」

「そのようなこと……関係ない。……わたくしはただ、あの方と──」

「中の君。誰にも許されぬ、喜ばれぬ縁は、皆を不幸にするの。貴女がただけではない、貴女のお父さまも、お相手の家も。誰も幸せになれないわ」

「なぜ……どうして、そんな風に仰るの……? わたくしたちは、今でも十分幸せです。どうして、不幸だなんて……そんな不吉な……」


 結子には、逸子の言うことがまったく分からない。分かるのはただ、逸子もまた、父と同じように位で人を判断する女であった、ということ。そして、それが最善と信じて疑わぬ逸子の態度に、結子は深く傷ついた。


「──わたくしは、誰よりも貴女の幸せを望んでいるの。きっと、中の君もお分かりくださると信じているわ」


 いいえ……いいえ!

 結子は心のうちで叫んだ。分からない、何を仰っておられるのか。

 逸子は優しく、泣き伏した結子の髪を撫でる。まるで赤子をあやすかのように。そのかぶりを、結子はふるふると振った。


「あの方のこと、何にもご存じでないのに……」


 結子はもはやそれ以上何も言えず、あとはただ泣くしかない。

 逸子の言葉が予想外だっただけに、受けた衝撃は大きかった。裏切られたという気持ちが、結子の心を痛めつける。

 逸子は、結子の背を撫でさすりながら、あたりを見まわした。


「右京? 右京はいますか?」

「──はい。ここに……」


 几帳の裏手から、恐らく一部始終を聞いていたであろう右京の声がした。


「中の君を見て差し上げて頂戴。今は、わたくしよりも貴女の方がいいでしょうから」

「畏まりました」

「……中の君」


 逸子はもう一度呼びかけた。


「年を経て、初めて正しかったと分かることもあるの。貴女はまだお若くて、こんなに美しい。もっといい縁があるはず。いつかきっと、お分かりになるわ」


 また来ますから、と言い置いて、逸子は帰っていった。

 その衣擦れの音が遠ざかり、やがて消えていくのを、結子は突っ伏したまま聞いた。

 父に反対されることは覚悟していた。でもまさか、このようなことになるだなんて──

 右京が静かに結子に近づき、震える肩を抱きしめた。


「姫さま……お可哀想に」


 涙声の右京は、一言も発さぬ結子の背を何度も何度も撫でる。


「きっと、大丈夫でございますよ。若君は、今宵もきっと、おいでになられましょうから」


 右京の声が、対屋に虚しく響いた。

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