五 皐月

 賀茂祭かものまつり*も終わり、皐月さつきに入って日差しも少しずつ強くなってきた。どこからか、藤の甘い香りが漂ってくる。

 雅嗣に後ろから傘を差しかけて付き従う康清は、西洞院にしのとういん大路に差しかかったあたりで声をかけた。


「若君」


 呼ばれて立ち止まり、ゆっくりと振り返った雅嗣は、葵*の狩衣をさっぱりと着こなし、康清が見ても惚れぼれする色男ぶりだ。いつの間に、このような雰囲気を纏われたのか……いや、言うまでもない、二条堀川の姫君にお通いになり出してからだ。人を想い、想われる経験は、これほどまでに若者に自信を与え輝かせるものか、と康清は眩しく主人を見る。


「若君、もうじき端午たんごですよ。ご準備なさっておられますか?」


 すると雅嗣は目を細め、頭上の青い空を見上げた。


「もう、そんな季節なのだな」

「またそんな呑気な……。これまでは北の方さまや姉君さまにお任せされてましたが、今年こそはご自分でなされるんでしょうね?」

「薬玉*のことか? 分かっているよ。だから今、姉上のところに向かっているのではないか」

「は……」


 そうであったのか、と康清は口を噤む。雅嗣はそんな康清の様子をちらりと見やってから、また歩き出した。

 何ごとも人任せ、人頼りだったお方が……若君は大人になられた、と康清は思う。守るべきものができると、人は変わるものだ──そんなことを考え、ふと、雅嗣と同い年の自分自身を顧みて、なんとはなしに寂しくなった。

 やがて三条大路を曲がると、長い築地塀ついじべいに立派な門構えが見えてくる。雅嗣の姉 佳子よしこが北の方として収まっている参議さんぎ 有恒ありつねの邸だ。

 勝手知ったる様子で門をくぐった雅嗣は、康清に待っているよう言うと、すでに文でその訪れを知らされていた女房に先導されて、北の方の住まう母屋もやに向かって行った。




「よく参られたわ。早う、中へ」


 朗らかな声で弟を迎えた佳子は今、三人目の子を身籠っていた。几帳の陰で、ふくらんだお腹を緋袴ひばかまに隠し、涼しげな卯の花の色目*の袿を柔らかく羽織って脇息にゆったりと凭れかかっている。御簾のうちまで案内された雅嗣は、日差しの遮られた静けさの中で、しとねに腰を下ろしながら姉の身体を気遣った。


「姉上、体調はいかがですか? この頃は暑くなってきましたゆえ、身重のお身体には堪えるのではありませんか?」

「ありがとう。産み月も間近ですもの、身体が辛いのは仕方がないわ。でも、三人目ですしね……もう慣れたものよ」


 そう言いながら、佳子は明るく笑った。この快活な姉は雅嗣より十歳上の二十八歳、年の離れた弟をとても可愛がっている。


「そういう貴方はどうなの? 仕事に精を出すのはよいけれど、あまり根を詰めすぎるのはお勧めしませんよ」

「大丈夫ですよ、姉上はご心配なさりすぎです」


 雅嗣も、このさっぱりした姉は好きだった。


「そうそう、貴方に頼まれていた糸、ちゃんと用意しておきましたから」


 佳子はそう言うと後ろに控える女房に声をかけ、台に載せられた美しい五色ごしきの糸を持って来させた。


「これでよろしいのかしら? 続命縷しょくめいる*のためと仰ってたわね?」

「はい、ありがとうございます、姉上。助かります、男のわたしにはなかなかよい物も見つけられず……」


 雅嗣が頭を下げると、佳子はほほほ、と声をたてて笑った。


「貴方がご自分でご用意されるだなんて、どのような風の吹き回しかしら? 今までは、まわりの者に任せっぱなしでしたのに」


 嫌味なく、佳子は楽しそうに首を傾げている。


「きちんと作って、お父さまお母さまにお届けしてね。……それにしても」


 佳子は不思議そうに扇で口許を覆った。


「量が多くありませんこと? お父さまたちにお届けするだけなら、ほんの少しでいいはず──」


 そう言いながら佳子は何かに思い当たったのか、きらりと瞳を輝かせ、雅嗣の方を覗き込んだ。


「貴方、もしや、恋人でも……?」


 言ってからその思いつきを大層気に入ったらしい佳子は、あらまあ、などと呟きながら嬉しそうに雅嗣に目配せを送ってくる。


「……」


 姉の一番困った点はこれだ。何かと世話を焼きたがり、何かと詮索してくるところ。

 雅嗣は黙ったまま、一度咳払いをした。


「──とにかく助かりました。ありがとうございます、姉上」


 雅嗣がもう一度礼を言うのもお構いなしに、佳子はうきうきと問うた。


「どちらの姫君ですの?」

「──姉上。わたしはそのようなこと、も申してはおりませぬが」


 低い声で雅嗣が答えても、佳子は聞いてなどない様子だ。


「いいわ。貴方が仰ってくださらないなら、今度康清にでも訊いてみますから」

「……」


 雅嗣は反論するのをやめた。どうせこの姉には敵わぬのだ。小さく嘆息して、雅嗣は呟いた。


「……まったく、困った姉上さまだ」


 くすくすと笑いを零す佳子を軽く睨むと、さて、と雅嗣は立ち上がった。


「あまり長居をしてお身体に障ってもいけませぬゆえ、今日はこれにて失礼いたします。端午には、姉上にもお届けいたしますよ。どうか、お気をつけて」


 あら……と呟いた姉に軽く会釈すると、雅嗣は佳子の前を辞した。

 御簾をくぐって簀子すのこに出た雅嗣は、外の明るさに射られ、眩しさに一瞬目を瞑った。そして、再び開けた瞳に飛び込んできたのは、たくさんの蕾をつけた梔子くちなしの茂み。

 ふいに、結子の姿が脳裏に浮かんだ。今、何をしておいでだろうか。毎日のように逢っていてなお、恋しくてならぬ。

 姉に言われた恋人という言葉もどこかくすぐったく、抑えようとしても口許に笑みが浮かぶ。それを隠そうともせずに雅嗣は、心く思いで康清の待つ控えへと向かったのだった。


 ***


 雅嗣が姉の佳子を訪ねていた頃、結子の許にもまた、訪問があった。


「姫さま、宮の御方おんかたさまがお見えでございます」


 式部卿宮しきぶきょうのみやの妹宮である逸子いつこが二条堀川邸にやって来たのは、あの宴の日以来だ。

 蓬の袿を優雅に捌く逸子は、ごく若い時分──恐らくは十四、五の頃──夫と死別しながらも髪を下ろしていない。それは、まわりがその若さを惜しんだからともいわれているけれど、では、亡き夫への想いゆえに今も独り身でいるのかどうか、ということは逸子自身決して口にすることはなかった。夫や子のために苦労することもなかった逸子は、実際の歳よりもうんと若く見え、いつも趣味のよい落ち着いた衣を身につけて、とても美しかった。

 結子の母に対する友情と、娘たち、特に結子への愛情から頻繁に二条堀川邸に出入りしていることで、右大弁 義照との関係を取り沙汰する者もあったが、そのようなことだけは決してないと結子は分かっていた。だって、父と宮の方との間には、互いに心通じ合うような共通点は何もないはずだから。そう……父と母がそうであったように。


「宮の方さま、お久しゅうございます」

「中の君、しばらく見ぬ間にますます美しゅうなられて。なんぞいいことでも?」


 そんなことを挨拶代わりに言い、逸子は微笑みながらゆったりとしとねについた。茅野が菓子を運んで置くと、逸子は小さく会釈してから結子に向き直る。


「先日の宴ではお目にかかれず、どうしておられるかと思うておりましたけれど、お元気そうで何より」


 そう言いながら、逸子が頬にそっと触れると、結子はいとけなわらわのようにはにかんだ。


「宮の方さまも、お変わりなく……」

「わたくしは、相変わらずの毎日ですよ。中の君は──」


 そうして、はたと結子の顔を見つめる。


「本当に……何かがお変わりになられたわ」


 じっと見つめる探るような視線に、結子は思わずうつむく。


「いいことでもあったのかしら?」


 まこと、女の勘というのは恐ろしい。結子の心の臓がとくんと弾み、騒ぎ出す。

 逸子が手土産に持ってきた芍薬を、茅野が生けて運んできた。僅かに捲られた御簾の間から風が吹き込み、かぐわしい花の香りがふわりと漂う。しかし、結子はただ、思い詰めたような瞳で考え込んでいた。

 逸子は、母亡き今、結子の母代わりのひとだ。もちろん、我が子以上に慈しんでくれる右京はいたけれど、高貴な家に生まれた女性としての意見は逸子に求めるべきだろう。

 父も姉妹も、誰も結子のことを理解しようともせぬ家族の中にあって、目をかけてくれている逸子には知っておいて欲しい、分かって欲しいという甘えのような気持ちがあった。宮の方さまならきっとお分かりくださる、結子はそう信じ、露ほども疑っていなかった。

 今が、伝える時かもしれない。茅野が静かに出て行く後ろ姿を見送る逸子に、結子は意を決して口を開く。


「宮の方さま。わたくし……お話があるの」

「あら、何かしら? 畏まって。いいお話だといいのだけれど」


 楽しそうに言いながら居住まいを正す逸子の瞳を、結子はまっすぐに見つめて言った。


「実は、想う方が」


 それを聞いた瞬間の逸子の顔──目をまんまるに見開いて、菓子を口に運ぶ手も止まってしまった。


「わたくし……お父さまにお許しをいただきたいの。宮の方さまにも──」


 頬を染めて言葉を続ける結子に、逸子は菓子を置き、両の手を開いて押しとどめた。


「……待って、待ってちょうだい、中の君」


 逸子は胸に手を当て、一度大きく息をした。


「驚いたわ、中の君。まさかとは思ったけれど。いったい、お相手は──」


 逸子がそこまで言いかけた時、まったく突然、無遠慮なざわめきが聞こえたかと思うと、先触さきぶれもなく一の姫 晴子せいこが、数人の女房を従えて東の対に姿を現した。


「中の君。あっという間に藤の花も終わりね……あら、宮の方さま、おいで遊ばされてましたの? なら、母屋もやにお声をかけてくださればよろしゅうございましたのに」


 せわしなく扇をばたつかせながらそう言うと、晴子は茅野が慌てて用意した茵に斜めに腰を下ろし、自分で優雅だと思っている少し顎を上げた姿勢で逸子に向かい合った。


「ごきげんよう、大姫。貴女、いつもそうやって先触れもなく──」

「宮の方さま、それどころではありませんわ。あ……もしや、もう中の君からお聞きになって?」


 話を折られた逸子が、何を? と問い返すのと、結子が眉をひそめて、お姉さま? と姉を振り返るのとは、ほぼ同時だった。晴子は、さも面白そうに話し始めた。


「わたくしの乳姉妹ちしまいに三輪、と申す者がおりますの。ええ、ここに控える者ですわ。最近、殿方が通うようになって……あら三輪、そのように恥じらうことでもないでしょう? ま、これはどうでもいいことなんですわ。この者が申すに、最近この邸に、大納言家の者が出入りしているようだと言うのです」


 思わぬ人からの思わぬ話に、結子は全身から血の気が引くのを感じた。



──────────


賀茂祭

賀茂神社の祭礼、現在でいう葵祭のこと。

『源氏物語』の車争いの場などで描かれているのもこの祭です。


葵の色目

表が薄青(今の薄緑)、裏が薄紫


卯の花の色目

表が白、裏が薄青(今の薄緑)


薬玉、続命縷

そろそろ梅雨に入ろうかという5月最初のうまの日(端午)あたりは、じめじめと蒸し暑く、疫病も流行りやすい時季であったことから、香りの強い菖蒲や蓬を丸く編んで、そこに五色の糸を通し、菖蒲の花を飾った薬玉(続命縷)を贈り合う習慣がありました。邪気を払う縁起物として、その日は肘にかけて過ごしたり、秋の重陽ちょうようまで、御帳台や母屋の柱に吊るしたりしていたようです。


蓬の色目

表が薄萌葱うすもえぎ、裏が濃萌葱こきもえぎ


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