四 夜の訪い

 結子の呼吸が早くなる。どうしよう──咄嗟に、御帳台みちょうだいの横のとばりから逃げようかと腰を浮かせた。


「どうか、恐がらないで。わたしは、ここから動きませんから。わたしはただ、貴女のお気持ちを確かめたかっただけなのです」


 雅嗣らしき人はそう言うと、衣の擦れる音がしてその場に座った気配があった。結子は御帳台の中で息を殺して様子を窺っていたが、こちらに乱入してくるつもりはないようだと知り、気が抜けたように腰を下ろした。


「……許してください。こんな風にするつもりはなかった。ただもう、気が変になってしまいそうで……。わたしの従者と貴女の女房が、取り計らってくれたのです」

「……」


 そのまま、気まずい沈黙がどのくらい続いたであろうか。ふと、雅嗣が言った。


「──茅野という女房を、叱らずにいてあげてください。ひどく怯えていた」


 ようやく口を開いたと思ったら、ご自分のことでなく茅野の心配だなんて……結子は、強ばった心があたたかくほぐれていくのを感じる。


「もちろん……茅野を責めたりなど」


 結子がか細い声でようやくそう言うと、雅嗣はもう、それだけで大きな吐息を零した。


「ああ、やっとお声を聞かせてくださった。……貴女のお声をこれほど間近に聞くだけで、わたしはもう何も考えられなくなってしまう」

「……」

「信じていただけますか、わたしの気持ちを……」


 雅嗣は切々と訴える。その言葉はあまりにも飾り気がない。

 初めて出逢った宴の日も、届いた文も、このひとはいつも変わらずこの調子だった、と結子は思う。今まで目にしてきた公達たちとは全然違う。まっすぐで、実直で、そして少しばかり不器用だ。まさか、今日いきなり忍んで来られるとは思いもしなかった。


「文の返事をいただけてどれほど嬉しかったか、貴女はお分かりになりますまい」


 そう言われて、結子は思わず声をあげた。


「それは……」


 言いかけて、自分の声の大きさ、はしたなさに口を噤む。


「──姫?」


 雅嗣に尋ね返され、結子は恐る恐る口を開いた。


「……わたくしとて、同じにございます……」


 消え入るような声で言ってしまってから、頬に血が上ってくるのを感じた。


「それは……本当に?」


 雅嗣もまた、震える声で訊き返す。──恋が始まったばかりの二人の会話は、まどろっこしいことこの上ない。

 またもや沈黙が続き、結子は思わず声をかけた。


「──大丞たいじょうさま?」


 すると、少し身じろぎする気配がした。わずかに動いた空気に灯した火が揺れ、じじ、と音を鳴らす。


「わたしは──」


 そしてまた、沈黙。

 大丞さま? と結子がもう一度呼びかけると、やがて、意を決したような声が聞こえてきた。


「わたしには、話しておかねばならぬことがあります。……わたしはまだ六位でしかない。このことがもし……」


 雅嗣はそこで言い淀んだ。

 結子は、まるで先ほど気づいた己の浅ましさを指摘されたかのような気がして、思わずうつむいた。そうなのだ、帝の御覚えもめでたい大納言家の者にあって六位であるという状況を、誰よりも理解しているのは本人であるはず。


「……もし、貴女にとって不都合であるなら、わたしは今すぐここから出て行きます」


 え……?

 結子は顔を上げた。今すぐ出て行く? このようにいきなり忍び込んでおいて、出て行くというの?

 もしも結子が恋の手練てだれであったならばきっと、そうなのですね、それほどの想いでしかないならばそうなさいませ、とでも言うことができたかもしれない。

 だけど、今の結子には駆け引きなどできるはずもなく、雅嗣の言葉が、文字どおり胸に飛び込んできたのだった。どうして不都合だなどと言えよう? 位にこだわることが、人のえにしよりも大切なことであるわけがない、お父さまがよい例だ。


「……なぜ、そのようなお話を? どのような位であっても、貴方さまは貴方さまでございませぬか? わたくしには、それ以上に大切なことなどございませぬ」


 正直な気持ちだった。闇の向こうで、呻くような声が聞こえた。


「姫……!」


 ざわ、と大きな音がして、雅嗣が大きく身じろぎする気配があった。結子の胸も、とくんと跳ねる。二人の心のうちはきっと同じだ。もっと、近づきたい……本当は。

 結子にはもう、確信があった。このお方なのだ。まだ何も知らないけれど、それでも、このお方なのだ。わたくしが、心をお捧げするべきお方は。


「大丞さま──」

「どうか、で呼んでください。雅嗣、と」

「……雅嗣さま。これを」


 結子は、雅嗣から見えているだろう御帳台の帳の裾から、衵扇あこめおうぎを差し出した。

「しかし……」


 ここから動かぬとお約束いたしましたから。雅嗣の呟きに、結子はもう一度言った。


「雅嗣さまに、お持ちいただきたいのです」


 そうまで言われて、どうして断れようか。

 雅嗣はそっと御帳台に近づき、結子の扇に触れた。

 扇が動き、結子の手を離れて帳の向こうに滑り出ていく。ああ、今、こんなに近くに……すぐにでも手が届くところにいらっしゃる。


「では……」


 帳一枚を隔てただけの、すぐ目の前に雅嗣の気配を感じる。


「わたしからも、これを」


 帳の下から、蝙蝠かわほりが差し出された。暗がりの中、それを手に取ろうとして指先が雅嗣のぬくもりに触れ、結子は思わず飛びのくように手を離した。雅嗣が慌てて言う。


「失礼を……!」


 指先に感じた、かすかなぬくもりが得難いものに思える。結子はそっと蝙蝠を手に取った。今宵は、残り香を恐れて衣(きぬ)にはめていないのであろう雅嗣の香の薫りが、ふわりと蝙蝠から漂った。

 その時、渡殿側の妻戸が開いて、外に控えていたらしい茅野が慌てた様子で囁いた。


「──二の姫さま、右京どのが……!」

「ま……あ」


 どうして、今日に限って右京がこんな夜更けにくるのだろう?


「雅嗣さま、申し訳ございませぬ、乳母めのとが参ったようです。どうか御帳台の後ろに──」

「──いや」


 雅嗣は、きっぱりとした声で言った。


「わたしは、逃げも隠れもしません。やましいことは何もない」

「でも……」

「わたしに任せてください」


 そう言うや雅嗣は立ち上がり、しっかりとした足取りで茅野のいる妻戸の方へ向かった。




 右京が東の対屋たいのやに入った時、雅嗣は妻戸の内側すぐのところに控えていた。

 すぐに闇に紛れる黒い影に気づいたが、特に声をかけるでもなく、その場では気づくそぶりも見せず、その傍らを通り抜けた。


「二の姫さま、右京にございます。何やら、お客人でございますか? ずいぶん遅い、おとないでございますね」


 言いながら大殿油おおとなぶらの傍を通り過ぎ、御帳台の中に入った。結子は驚き動揺していたものの、きぬしとねには乱れがないことに密かに安堵した。

 右京はすぐにまた御帳台から出て、几帳を中に運び込み、結子の姿を隠すように置いた。そして、結子の袿を整えてやり、その側近くに座ると、視線を雅嗣のいる方に向けて落ち着いた声で問うた。


「して二の姫さま、お客人はどなたさまでございましょうか?」


 結子は思わず、右京を振り返る。おまえはもう、分かっているでしょう? という結子の視線を受けながら、右京は鷹揚に微笑んで頷いた。

 やがて、妻戸の闇から声がした。


「姫君の御乳母おんめのと、右京どのとお見受けいたします。わたしは大納言家が三男、中務大丞なかつかさのたいじょう 藤原雅嗣」


 密やかに、しかし毅然とした口調で続けた。


「かような無礼、どうかお許しを。わたしは中の君に想いを寄せております。決して手荒な真似をするつもりはございません」


 想いを寄せております──なんと、清々しく申されることか。右京は思わず結子を見た。頬を染めて袖で口を押さえる二の姫もまた、この若者に想いを寄せていることは明らかだった。


「そうでしょうか? かように夜分の訪れ、礼儀知らずのお振る舞いに、二の姫さまもたいそう驚いておられるご様子」

「姫君のお心を痛めてしまったなら、それはわたしの不徳の致すところ。姫君にその責はございません。そしてどうか、これからは右京どののおられる宵の時間にお訪ねすることを、お許し願いたいのです」


 その言葉を聞いて、右京は胸を撫で下ろす。

 このお方ならば、二の姫さまをお任せできる。お若いであろうに、しっかりしておいでだ。

 心によぎる不安をもその瞬間ときは忘れるほどに、右京もまた、雅嗣の気質に惹かれたのだった。


「──なぜ、わたくしの如き者に許しを請われるのでしょう?」


 右京は、ゆっくりと言葉を紡いだ。若い二人に染み透るように。


「二の姫さまがお許しなさるなら、わたくしが口を挟むことではございませぬ。わたくしにできることはただ、お力添えさせていただくことのみにて」

「では……」


 雅嗣の声が明るくなる。

 結子に視線を移すと、そこにはくしゃりと顔を歪ませた二の姫がいて、その瞳からはまた涙が零れていた。右京は結子の手を取り、優しく撫でる。

 きっと大丈夫でございますよ、このお方なら──右京は己にも言い聞かせるように心に念じると、結子に微笑みながら頷いて見せた。


「……右京どの、ありがたい」


 雅嗣は、心のたかぶりをなんとか抑えたような声でそう言うと、静かに立ち上がった。


「それでは中の君……また明晩、必ず参ります」


 その言葉を残し、静かに妻戸から出て行ったのだった。


「──姫さま」


 妻戸の方を見遣っていた右京は、同じく妻戸の方をじっと見つめる結子を振り返ると、その手を強く握った。


「さあさ、もうお休み遊ばさぬと……夜も更けました」

「右京」

「はい、なんでございましょう?」

「右京……」


 右京は鼻の赤くなった結子の顔を覗き込んで、ほほほ、と笑った。


「なんでしょう、おかしな姫さまでございますこと」

「なぜ?」

「なぜ、とは……さて?」

「なぜ、咎めないの?」

「大丞さまが忍び入られたことでございますか? それはまあ、褒められたことではございませぬが」


 言いながら、右京は結子の袿と袴を脱がせた。


「誰かを想えば、このような手段を取るのは致し方ありますまい。わたくしは、きっと、参られると思うておりましたよ」


 結子を褥に寝かせてふすまを掛けると、その黒々とした髪をまとめる。


「あのお方は、二の姫さまに一切お手を触れられなんだのでしょう?」


 結子は黙って頷いた。


「なんと、大したお方ではございませぬか。わたくしが参った時にも、お逃げにならず堂々と……右京は、それだけで満足ですよ。大切な姫さまをお任せするに値するお方と思います」

「右京……」


 髪をまとめ終え、御髪筥みくしげばこに収めた右京は、ふと横に視線を動かした。男持ちの蝙蝠──交わされたのか。なんと微笑ましい。


「これはいかがいたしましょうかね?」


 指し示すと、結子は半身を起こし、あ、と少し慌てた声をあげた。


「ほかの女房に見咎められてもいけませぬゆえ、あちらに隠しておきましょうね」


 右京はいたずらっぽくそう言うと蝙蝠を文箱ふばこの中に納め、頭を下げた。


「ごゆっくり、おしずまり遊ばしませ。姫さま」




 恋に落ちたと自覚した若い二人がその距離を近づけるのに、さほどの時間はかからなかった。

 翌日、宵闇が都を覆う頃、雅嗣は密やかに二条堀川邸に入った。右京を味方につけたことや、六位ゆえに車を使わず、かちでのおとないだったことも幸いし、やしきの誰にも──もちろん、結子の父や姉妹にも、気づかれることはなかった。

 人払いされた東の対で、身のうちから湧き起こるような震えを持て余しつつ待っていた結子と、はやる気持ちを抑えて物音を立てぬよう、その身をひさしの間に滑り込ませた雅嗣は、御簾越しに互いの姿を認めた時、同じように切ない吐息を零した。

 取り次ぎもなくじかに交わす言葉はぎこちなく、御簾越しに見える姿はおぼろげで、それでも二人の心は喜びに溢れたのだった。

 時は瞬く間に過ぎ、雅嗣は夜半には名残惜しげに家路につく。

 そのような日々を幾日か、二人は逢うたびにその距離を縮め、御簾越しだった対面が、やがて二人を隔てるものは几帳になった。どちらからともなく、几帳から差し出された手と手を触れ合わせると、互いのぬくもりは心地よく離れ難く、分かり切ったことだけれど、それだけでは満足できなくなった二人がついに几帳を取り払ったのは、宴のちょうど半月後のことだった。




 恋い焦がれてようやくまことの対面を果たした二人が、初めて互いのかんばせを見た時の思いはきっと忘れないだろう。

 結子の華奢な手を取り、顔を上げてくださいと幾度も懇願し、やっと自分を見てくれたその瞳の美しさ、たおやかな風情。そのまま、その手を引いて抱きしめたい気持ちを押しとどめるのに、雅嗣はどれほど苦労したことだろう。

 それは結子とて同じこと。いつも暗い夜の訪れであれば、御簾越し、几帳越しの対面ではほとんど影のような姿しか見えなかった。どのようなお姿であろうかと乙女心に膨らませた想像は良い意味で裏切られ、初めて視線を合わせた雅嗣の瞳の涼しさに、一瞬で魅せられてしまったのだった。

 二人は幸せだった。

 ただ、目の前にある人を想い、その人との将来を思い、自分たちのゆく先には幸福しかないと信じた。

 ごく身近な、まわりの人々──それは、右京と茅野、康清と、雅嗣が密かに打ち明けたらしい次兄の四人しかいなかったけれど──は、雅嗣と結子はとても似合っていると思っていたし、二人が幸せになるためには、多少の無理も厭わない覚悟だった。そして、そのような人たちの中にいる限り、幸せは続くはずだ。

 桜が散り、山吹や藤が庭を彩るようになる頃にはもう、二人は将来を誓い合っていた。


「頃合いを見計らって、父上に話をしようと思っています。兄も力添えをしてくれるそうです。そのあと、貴女のお父君にも許しを請うつもりです」


 雅嗣がそう言うと、結子の顔は曇った。


「お父さまに……」

「大丈夫。貴女のお父君は位にうるさい方かもしれないけれど、わたしは自分の職に誇りを持っている。いずれ近いうちに、殿上を許されるだけの位を授かる自信もある。きっと、右大弁どのもお分かりくださいます」


 雅嗣にそう力強く言われれば、結子も微笑んで頷くしかなかった。父の厄介な性格は、この点において一筋縄ではいかぬと分かっていたはずなのに。それでも結子は雅嗣を信じたかったし、雅嗣だけを信じようとした。

 美しい二条堀川邸に咲く花は、移ろいゆく。気づくと、二人を繋いだ梔子くちなしの蕾がふくらみ始めていた。

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