第二章

一 巡る春

紅のはつ花ぞめの 色ふかく思ひし心 われ忘れめや  よみ人しらず

 ─古今和歌集 巻十四 恋歌四─ 


──────────



 また、春が巡ってきた。

 内裏の桜の蕾もちらほらとほころび出し、鶯が歌声を響かせている。

 清涼殿せいりょうでんから辞してふと花を見上げたその時、後ろから呼び止められた。


頭中将とうのちゅうじょうさま、しばしお待ちを」


 振り返ると、蔵人所くろうどどころの部下が頭を下げていた。


「何か」

「次の宴における楽人について、雅楽頭うたのかみどのよりご相談したき議あり、とのこと」

「相分かった。話を伺い、場合によっては主上おかみに奏上いたそう。今日は内大臣家を訪ねねばならぬゆえ、明日でもよいだろうか?」

「もちろんでございます。伝えて参ります」


 一礼し、立ち去る砂利音を聞きながら、頭中将 藤原雅嗣は四位の黒袍くろのほう姿で再び桜を見上げ、眩しげに目を細める。

 うららかな春の光を孕んだ風が吹き抜けていく。




「……二条堀川邸、ですか? あの、権大納言ごんだいなごんどのの住まう?」


 内大臣 有恒ありつねの北の方である姉 佳子の前で、ゆったりと腰を下ろしたばかりの雅嗣は訝しげな声をあげた。御簾越しの春の日差しが、置かれた几帳をやわらかく照らしている。


「そうですよ。なんでも、それは美しい邸であるとか。貴方は伺うたことがあるとお父さまから聞きましたけれど?」

「は……」


 雅嗣は姉の目から逃げるように、生けられた咲き初めの桜に視線を移した。


「姉上、なぜまた、あの邸を借りようなどと?」

「ここはこたび、殿とのの御妹君であらせられる麗景殿女御れいけいでんのにょうごさまがお宿下やどさがりなされ、里邸となるのです。お健やかな御子みこさまがお生まれ遊ばすまで、できるだけ静かな環境を……と思いましてね。わたくしたちはいない方がよいだろう、と殿がお決めになられたのです」

「それは分かっておりますが……なぜまた二条堀川邸──」

東宮亮とうぐうのすけどののご紹介なのですよ。どうやら、権大納言どのとご昵懇じっこんのようで。権大納言家といえば、ほら……」


 そう言いながら、佳子は扇で口許を隠した。


「北の方を亡くされてからこの方、家計を守るお方もおられなかったようで、今は少々お困りだとか……それで、ちょうど邸の借り手を捜しておられたようなの」


 佳子は鷹揚に微笑んだ。


「どうなの? 二条堀川のお邸は、噂に違わぬ美事さかしら? 貴方はどう思って?」


 姉の問いかけに、雅嗣は大して興味もなさそうな様子で答える。


「わたしがあの邸に行ったのは、かれこれ七、八年前に一度きりですから、あまり憶えてはおりませぬが……確かに趣味のいい、姉君好みの邸だったかと」


 それを聞いて、佳子は掌にぽん、と閉じた扇を打ちつけ嬉しそうな顔をした。


「楽しみだわ。貴方の対屋たいのやも用意しておかなくてはね」

「必要ありませんよ」

「いいえ、そうもいかないわ。ここには貴方も来ることはできなくなるのですから」


 弾んだ姉の言葉を聞くとはなしに聞きながら、雅嗣は庭に視線を移した。

 広すぎて風情がないとよく姉がこぼすこの邸の庭にも、春はやってきている。あまり樹形がいいとはいえぬ桜に、花が咲き始めていた。到底あの桜には及ばぬが……と雅嗣はふと考える。

 そう、嘘をついた。

 二条堀川邸──今もまだ鮮やかに思い出す。あの美しい、そして、苦い思い出のある場所。

 なんの因果で、今またあの邸に行くことになるのだろうか。思い出せばなんとも不快な、叫び出したいような気持ちがふつふつと湧き起こる。あの、趣ある建物や幻想的な花の美しさをも打ち消してしまうほど、苦々しい感情に襲われるのだ。

 あの当時、六位の若造よと雅嗣を見下した今の権大納言は、東宮亮と昵懇にしているという。東宮亮は五位、今の雅嗣より下だ。あの苦しい別れのあと、同じ年の秋の除目じもくで雅嗣は五位になり、昇殿しょうでんを許された。ようやく来たか、という帝から直に賜った御言葉とともに。その後、長兄のあとを追うように近衛中将このえのちゅうじょう、そして蔵人くろうどに任命された。今や四位にまで昇り、右大臣となった父とともに帝の側近くに仕える日々を送っている。

 今のわたしなら──そう考えることが、ないわけではない。ただ、あのようにあっけなく、まわりの人間の説得に流されてしまった中の君に対する情けない思いは、八年が経った今もまだ雅嗣の心を深く蝕み、もはや簡単には拭い去れそうにもなかった。

 もう終わったことだ。雅嗣は心の中で呟く。


「──十日後がよい日取りらしいの。貴方も時間が空いていれば手伝ってくださいね」

「あ……はい」


 姉の声に我に返った。


「いろいろと、忙しくなりますよ」


 そう言いながらも楽しそうな姉に、雅嗣はふと思いついたように尋ねた。


「しかし、そうなると権大納言家の方々は、どちらへ移られるのですか?」

「どうやら、葛野かずらのへ行かれるようですよ。なんでも、さきの太政大臣さまの山荘があるのだとか」

「葛野……」

「姫君たちにとって、葛野は遠いでしょうね。通う殿方も……まあ、これはわたくしたちが心配することではありませんけれど」


 佳子がほほ、と笑うのへ、雅嗣は無関心を装って静かに言った。


「そういえば、権大納言家の婿というお話は聞きませんね」


 やはりあの父親では、と続けようとした雅嗣に、佳子はあら、いいえ、と首を振った。


「お一方は紀伊守きいのかみの北の方におなりよ。受領ずりょうとはいえど、紀伊守ならばまあ、よい暮らしを望めるでしょうね。もう何人かのお子もお生まれとか。今は都に戻られ、二条堀川邸のすぐそばにお住まいだそうよ。他の姫君のことは分かりませぬが……皆さま、妙齢というには過ぎたお歳ですもの、きっとどなたかいらっしゃるでしょう」


 予想外の答えに、なぜか雅嗣の心は騒ぐ。


「ほう……」


 紀伊守の北の方とは何番めの姫か、とは訊けなかった。それに、自分とはもう関係ないのだから。


「ほう、ではありませんよ。貴方にも、早うどこかの婿君になっていただきたいものだわ」


 雅嗣より十歳年上の佳子は、まるで母親の愚痴のようにこぼした。


「三男坊ゆえ、ご自分でもまだまだ子どもだと思うておられるのではありませぬか? 貴方ももう二十六……通う女君くらい、いらっしゃるのでしょう?」

「いや、子どもだなどとはさすがに……」

「あれはいつだったか。ほんの一時期、熱心に通うておられた姫君が──」

「姉上、そのお話はもう……」


 雅嗣は動揺して言いかけ、墓穴を掘ったと気づく。佳子には結局、何も話してなかったのに。くるんと姉の目が動いた。


「あら、やっぱり」

「……もう、過ぎたことですから」


 弟の様子に姉はちらと視線を投げかけたあと、まだ引き下がることなく続ける。


「では、お父さまの勧められたお話にも、否と仰られたわね。あれはどうしてなの?」

 佳子の探るような視線に、雅嗣は憮然として答えた。


「日々の務めも忙しく──」

「貴方は、大学寮にいた時には勉学に忙しいとばかり仰って、今は今で仕事に忙しいと……お母さまもお嘆きよ」


 このような話が始まると、母も姉も止まらない。雅嗣はこっそりとため息をひとつ、ついた。


「姉上。この話はいずれまた──」

「そうそう! 先ほど言った紀伊守どのの邸にご招待されておりますのよ。お二人、妹姫がおられるとか……落ち着いたら、貴方もご一緒に」

「……は」


 雅嗣は軽く頭を下げると立ち上がった。


「それでは姉上、また伺います」

「あら、もう行かれるの?」


 佳子は残念そうにこぼした。


「また、子どもたちの相手もしてやってくださいな。それから、お父さま、お母さまにくれぐれも……」


 姉の言葉に静かに微笑み会釈すると、雅嗣は、付き合いきれぬという顔を隠しその場を離れた。




「──康清」


 邸への帰途、牛車くるまの物見を開けて、従者を務める乳兄弟ちきょうだいの康清に声をかける。陽の匂いのする春の風と眩しい光が、車の中に入り込んできた。


「はい、なんでしょう?」

「ひとつ訊くが……そなた、姉上にその……」


 言いにくい。口ごもった主人に康清が怪訝な表情を向ける。


「は?」

「……二条堀川のことなど、話したことがあるか?」


 康清の目がちらと揺れた。


「邸のことでございましょうか?」

「いや、そうではなく……」


 言葉を濁す雅嗣に、康清はなんでもないことのように答えた。


「ああ、八年前のことで? さあ、どうでしたか……もう昔話ですから、忘れてしまいました」


 そうか、と呟き、雅嗣は再び物見を閉める。わだちの音とともに、鳥の囀り歌う声が聞こえた。


 ***


 華やかに笑いさざめく声が、長閑のどかな春の風に乗って寝殿の方から響いてくる。

 結子は、東の対にある調度のうち、残していくものと葛野かずらのへ運ぶものに分け、女房たちに印をつけさせていた。もうすでに、かつて三の姫 任子とうこが暮らしていた西の対の整理は終えている。寝殿では我関せず、という様子の姉の晴子せいこが、最近とみに親しくしている、右大将の北の方だった東宮亮の一の姫と何が可笑しいのか笑い転げていて、その声に結子は思わず苦笑してしまった。

 そんなこと女房たちに任せておけばいいじゃない、というのが姉の言い分だった。だけど、結子にはとてもそんな風に思えない。亡き母が愛したこの邸のすべてを、きちんと整理しておきたかった。


「二の姫さま、この屏風はいかがいたしましょう?」

「これは……いいわ、ここに置いていくことに」

「畏まりました」


 慌ただしく立ち働く女房たちを見ながら、結子はふう、と息をつき、対屋を見渡す。

 お母さまの残されたこの大切な邸を、このような形で手放さねばならぬなど……なんと無念なこと。

 言ってみても詮のないことだけれど、やはり父や姉の軽薄さ、不甲斐なさを恨みたくもなる。幼い頃から過ごしてきた、母の息吹が感じられる邸のそこここを、結子はひとつひとつ慈しむように手で触れ、労わりながら行き先を決めていった。

 すでに、内大臣と義照の話はついているらしい。邸を離れる話が出た時にあれだけ憤慨し、話し合いすら断固拒否と叫んだ父が、東宮亮になにを吹き込まれたか機嫌よく邸に戻ってきて、内大臣は若いがなかなかよく出来た男だ、などと言い出したものだから、結子は驚いた。あとで分かったことだけれど、なにやらすけの姫君がうまく懐柔したのだとか。宮の方 逸子が彼女を警戒していたのは、ここに理由があった。亮の姫君をあまり近づけるべきではない、と逸子は考えている。

 それでも逸子が言うように、この邸を任せるのに麗景殿女御の兄君でもある内大臣以上の御仁は望めぬだろう。北の方はとてもお喜びになられ、楽しみにしておられると聞く。きっと、大切にしてくださるに違いない。女御の宿下がりのためと聞いてはいるが、一度移した住まいをすぐに戻すはずもなく……そもそも、この邸を取り戻せるような目処などついてはおらぬのだから、貸すとはいっても実際、手放すに近い。ならばきっと、これが最善の道なのだ。

 ぱさ、と羽音がして、桜の樹から鳥が飛び立つ気配があった。御簾越しに外を眺める。

 母がいた頃より枝ぶりも立派になったその樹は、今年もまたたくさんの蕾をつけた。あと幾日かすればきっと美しく花開く。

 あの方も美しいと……そう考えかけて、浮かんでしまった思いを打ち消そうと結子は大きく息をした。

 今、新たな物思いが結子の心を揺さぶっている。

 内大臣の北の方は、雅嗣と同じ今の右大臣家の出身、年の離れた姉君に当たる。まさか、よりにもよってそのような人に貸すことになるなど……初めて聞いた時、結子はどれほど心乱れたことか。

 きっとまた、雅嗣がここを訪ねることもあろう。この東の対に足を踏み入れることだって……そう思うと、結子の心はぎゅっと締めつけられる。恐ろしいような、逸るような、なんとも落ち着かぬ心地。それに、雅嗣自身の心境を考えると──それはもちろん、結子の想像でしかなかったが──申し訳なく、居たたまれない気持ちにもなった。

 あの別れから八年。

 別れを選んだすぐあとに、かのひとは昇殿を許されたと伝え聞いた。どれほど後悔の涙を流したかは、ここでは語るまい。

 結局、結子は雅嗣への想いを手放すことができなかった。でも、八年も一方的に想い続けるだなんて愚かなことだと分かっていたし、なにより、雅嗣が同じ気持ちを持ち続けているはずもなかった。あれだけひどいことをしたのだ、さぞかし恨んでおられることだろう。たとえ、彼にとってすでに過去のことになっていたとしても、結子やそれに繋がることに今さら関わるのは、きっと不愉快に違いない。




 許されなかった恋、という秘密は不思議と守られた。

 雅嗣の位に不名誉なことと口を噤んだ、父 義照と姉 晴子ゆえに。

 大切な結子の行く末に傷がついてはならぬとその胸に収めた、逸子ゆえに。

 妹の任子など、紀伊守の北の方に収まった今も、結子の儚い恋を一切知らぬままだ。

 あの別れを遠巻きに見ていた女房たち──あの日初めて、二の姫に男君が通っていたと知った彼女たちにしても、いずれの公達だったのか分からずじまい。ゆえに、万が一にもうっかりその公達の話をお耳に入れては大変と、結子の前では噂話もしなくなった。

 そうして、都に住まいながら、まるで鄙にいるかのように雅嗣のその後を知らされることもなく、結子の上を淡々と時が過ぎていった。いつの間にか笑えるようになっていたし、思い出さぬ日の方が多くなった。このままひっそりと、家族の中で暮らしていくことになるのだろう、と思っている。




 結子は、ほ、と息をついて、御簾の隙間からこっそり桜の樹を見た。


 ──姫さま、またそのように端近はしぢかに立たれて!


 そんな風にいつも結子の側にいてくれた乳母めのとの右京も、二年ほど前に身体を壊して退いた。時折、見舞いがてら会いに行っているけれど、葛野に行ってしまえばそうそう会うことも叶わなくなる。

 寂しいこと、と結子は瞳を閉じた。どこかで、鶯の鳴く声がする。


「姫さま、これはいかがいたしましょう?」


 不意に声をかけられて、結子は我に返った。そして、今や立派な女房になった茅野かやのが手に捧げ持っている唐櫃からびつを見て、密かに息を呑む。


「──それは……」


 思わず口ごもる結子を、茅野は怪訝な顔で見ている。


「……葛野に」

「はい。……あ、姫さま、きぬの方を一度ご確認くださいませね」


 そう言ってにっこり笑い、唐櫃を運んでいく茅野の後ろ姿を、結子は目で追った。その唐櫃の中に、雅嗣からの文を入れた文箱が納められていることなど、茅野は気づいていないだろう。

 雅嗣との思い出を断ち切らねば、次に進めぬのは分かっている。けれども、どうしても燃やすことはできなかった。いや……心の奥底では、次に進みたいとも思っていないのかもしれない。どれほど他の公達から文が届いても、父を通して正式に求婚されても、結子はただの一度も返事をしなかったし、承諾もしなかったのだから。

 結子は御簾から離れ、ため息をついてうつむいた。

 ここ数日の騒動の中で思いがけぬ人の面影を垣間見て、少し動揺してしまっただけだ。この八年間、ずっと心の奥底に閉じ込め、見ないようにしてきた想いを、今さら取り出してなんになろう。

 結子は顔を上げると、衣を整理している女房たちの様子を見に、塗籠ぬりごめへと向かった。

 早く葛野に行ってしまおう。それがいい。そう、心に呟きながら。



 ──────────


 ──第二章、始まります。


『序』と、つながっています。

 第一章との対比、たとえば陰と陽、影と光、内と外……

 そのようなものを感じていただければ、嬉しいです。

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