九 落ちた花

「……中の君」


 御簾の外から、雅嗣が呼びかける。幾度も、幾度も。その声を聞きながら、結子は涙を拭った。ともすれば雅嗣へと伸びそうになる己が手を、互いの爪がくい込むほどに固く握りしめる。

 雅嗣も、噛み合わぬ会話に苛立ちを隠せなくなってきていた。戸惑いが少しずつ怒りへと姿を変えてくる、その御し難い感情を必死で抑えている。


「もう一度、言います。……中に入れてくれ、お願いだから」


 聞いたこともないほど低く震える雅嗣の声に、心が締めつけられる。息が苦しい。結子は喘ぐようにくちびるを開き、落ち着きなく視線を泳がせ……ふと、雅嗣の蝙蝠かわほりを隠した文箱が目に留まった。しばらくそれを見つめたあと、そっとにじり寄り、震える指で文箱を開ける。

 初めておとないがあった日、扇と交換した蝙蝠。手に取ると仄かに雅嗣の纏う香が薫り、それだけでまた涙が零れた。しばらくそれを胸に抱きしめ、それから、お慕いしております、これからもずっと、と溢れ出る想いを込めて蝙蝠にくちづけた。そして、涙を呑み込み御簾の前に戻る。


「これを……この蝙蝠も、手許に置いておくわけには参りませぬゆえ」


 涙を隠し、固い声でそう言いながら、静かに御簾の下に差し出した。

 その、愛しい人を想うよすがを失う時に、一瞬躊躇ためらい、手を離せなかった結子を誰が愚かとわらえるだろう。雅嗣は咄嗟に、蝙蝠に添えられていた結子の手を御簾の下から掴んだ。


「……!」


 すぐに手を引こうとしたけれど、握りしめる力は強く、結子には振りほどくことができなかった。御簾の向こうから、絞り出すような雅嗣の声が聞こえる。


「乱暴なことはしたくない。どうか、わたしを中へ」

「……お手を、お離しくださいませ」


 雅嗣の手は火のように熱く、結子の手は氷のように冷たい。それはそのまま、二人の心のうちを表しているかのようだ。


「いや、離さぬ。貴女の目を見て、話さねばならぬ」

「後生ですから、どうか……」


 こんなにも近く、互いの息遣いも伝わるほどなのに、御簾ひとつ隔てるだけで、それはなんと遠いことだろう。手を触れ合わせてなお頑なに拒絶し、向き合おうともせぬ結子に、雅嗣の中で何かが弾けた。

 結子の手を掴んだまま御簾を捲り上げ、中にその身を滑らせる。はっと息を呑み、身動きできなくなった結子の姿が雅嗣の目に飛び込んできた。杜若かきつばたかさね*のうちき姿はいつもと変わらず可憐で……だけど、いつもなら微笑みを絶やさぬ黒目がちな瞳は見開かれ、くちびるは蒼ざめてわなないている。薄紅色に染まっていた頬は、血の気を失って真っ白だ。

 雨の降りしきる音に包まれ、怖いほどの静寂に満ちた御簾のうちで、まるで時が止まったかのように雅嗣は結子と対峙した。それは、愛おしさと優しさとに溢れた昨日までとは、まったく違う。

 そうやって向かい合っていたのは、だけどほんの一瞬だったのかもしれない。結子は袖でさっと顔を隠した。雅嗣は素早くもう一方の手でその袖を掴み、結子を自分に向き合わせて尋ねる。


「一体どうなされた? 貴女らしくもない」


 出逢って以来、初めて声を荒げた雅嗣の前で両の手首を掴まれた結子は、ただ、怯えたような瞳で見返してきた。雅嗣は言葉に詰まり、何度か荒い息を吐く。


「……どうか、お離しください。わたくしはもう、心を決めましたゆえ」

「何を決めたと?」

「もう二度と……大丞さまとはお目にかかりませぬ。これきりに……」


 埒が明かぬ──焦燥感を露わに目の前の結子を見つめた雅嗣の手が、一瞬緩んだ。結子はその隙に雅嗣の手を振りほどき、背を向けて御帳台みちょうだいの前に置かれた几帳の陰に身を隠す。

 雅嗣は立ち尽くしたまま、呆然と結子の隠れた先を見遣った。

 いったい、何が起きたのか。

 たった一日でこうまで態度が変わるのは、何かあったと察しはつく。それでも。


「姫……こちらに……」


 雅嗣の懇願にも、几帳から溢れ出る薄紫のきぬは微動だにしない。


「貴女は、わたしを信じてはくださらぬのですか? お父君に何を言われようとも、わたしについてきてくださるとばかり……」


 そこで雅嗣は、震えるため息をついた。


「貴女のお気持ちは──」

「そうです」


 几帳の陰から結子の張りつめた声が響いた。


「わたくしは少しばかり、のぼせてしまっただけ……本当は、貴方さまを……お慕いしてなどおらぬと」


 浴びせられた残酷な言葉に、雅嗣の口が何かを言おうとして開き、だけど一言も出てはこなかった。ただ、はっ、という吐息にも似た音だけが零れる。


「そういうことなのです。お分かりいただけますか? ……そういうことだったのです」

「……分からぬ。分かりたいとも思わない」


 雅嗣は押し殺した声で絞り出すようにそう言うや、ざわりと几帳に近づいた。


「いらしてはなりませぬ、大丞さま」


 結子の声も聞こえぬかのように、雅嗣は几帳に手をかける。


「なりませぬ……雅嗣さま……」


 雅嗣は努めて静かに、結子、と呼びかけた。


「今、わたしのを呼んだね? 貴女は何も変わっていない。そうでしょう? お願いだから、そこから出てきて。わたしの前に」

「……いいえ。もう、貴方さまにはまみえぬと決めたのです」


 誰がこうなることを望んだだろう。ほんの数日前までは、二人の行く先にはともに歩む幸せな日々しかなかったはずなのに。今だって、二人の心にある願いは同じはずなのに。


「結子……!」


 雅嗣は、もう我慢ならぬととばりを払った。はずみで手が当たり、ぱん、と乾いた大きな音を立てて几帳が倒れ、振り返った結子が引きつった表情で雅嗣を見つめる。

 雅嗣の顔が何か言いたげに少し歪み、だけどそれが言葉になる前に結子をその腕に引き寄せ、抱きしめた。息もできないほど強く、物狂おしく抱きすくめた。


「……貴女の言うことなど、信じない。ならばなぜ、昨日、諱を教えてくださった? たった一日で、こうもあっけなく心変わりなさるなど……信じない」


 結子の髪に指を絡め、そのかぶりを自分の胸に押しつける。だけど、どれほど強く抱いても、不安と恐れはいや増すばかりだ。

 結子は口を噤み、雅嗣の腕の中で為されるがままになっていた。このような状況にもかかわらず、雅嗣の腕の中は心地よく愛おしく、結子は、ほ、と一度息をつくと、これが最後と全身でそのぬくもりを受け止めた。


「姫……?」

「──お父さまは、決して、わたくしたちをお許しあそばされませぬ」


 今初めて、素直な気持ちを垣間見せた結子の艶やかな髪にその顔をうずめ、雅嗣は呻くように言った。


「お父君に許されずとも……貴女さえいてくださればそれでいい、と言っているではないか」

「ほかの誰も、お認めくださらない。誰にも許されぬままでは、きっと幸せにはなれませぬ」

「それは……もしや、宮の方もわたしの位ゆえにそうおっしゃられた──」

「わたくしでは」


 言いかけた雅嗣の言葉を遮り、結子は顔を上げた。


「お幸せにして差し上げられぬのです。だから……もう決めたのです」


 己をまっすぐに見上げるその瞳にもう迷いの色はなく、どんなに言葉を尽くそうとも、もはや結子の心を変えることはできぬと気づいていた。それでも、その受け入れ難い事実を覆そうと雅嗣は必死にもがき、その瞳の色から逃げるように再び結子の頭を自分の胸に押しつける。


「このようなことになるのならば……わたしは耐えるのではなかった。貴女を攫い、忘れ得ぬしるしをつけておけばよかった。貴女の心にも身体にも」


 言いながら、抱きしめる腕にますます力をこめる。万が一にも、結子の心が戻らぬかと一縷の望みをかけながら。


「お父君や宮の方が何を仰せられたかは知らぬが、説得に応じてしまわれるとは……貴女もわたしをその程度の男と思うておられたか」

「大丞さま、もう……終わりにいたしましょう。これ以上は、苦しくなるばかりにございますゆえ」


 結子は静かな声でそう言うと、雅嗣の胸を掌でそっと押さえ、その腕から抜け出した。完全な拒絶に、もはや何を言っても無駄と雅嗣は悟った。

 ふらりと立ち上がった雅嗣の目は、哀しみに歪んで結子を見下ろしている。そのまなじりに、涙が浮かんでいるのを結子は見た。心が引き裂かれたように痛い。今、この場で違うと叫ぶことができたなら!


「貴女は……」


 聞いたこともない、呻くような、自虐的な雅嗣の声。


「まことご立派です。かような時にも涙ひとつ流されぬ……」


 それは本当に、孤独な瞳だった。結子を見つめ、ただ一筋涙を見せるや否や、雅嗣は踵を返して静かに背を向けた。凍りついたように雅嗣の背を見る結子の身体が、がたがたと抑えようもないほど震えていることなど、もはや気づきもしない。

 雅嗣はそのまま、廂の間とを仕切る御簾のところにまで来て、ふと立ち止まり、床に落ちた蝙蝠に目を止めた。それをかがんで拾い上げた雅嗣は、それから静かに御簾を上げた。


「───あ……」


 微かな声が結子の震えるくちびるから洩れた。雅嗣の背後に御簾が落ち、二人の間には再び、越えようのない隔てができる。

 結子は喘ぎながら這うように御簾までにじり寄り、半蔀の向こうの簀子すのこに立った雅嗣が、雨を降らしている天を仰いでいるのを見た。


「雅嗣さま……」


 愛おしいひとを呼ぶと、こらえ抜いた涙が、今こそとどまることを知らぬかのように溢れ出る。涙の向こうで、降りしきる暗い雨の中に駆け出して行く雅嗣の影がぼんやりと見えた。


「あ……」


 結子もまたふらりと立ち上がり、柱と御簾の隙から身をすべり出させる。そして、雅嗣が二度と振り返ることなく、雨の中に消えるのを見た。

 思わず両の手で口を覆った。どんなに抑えても、くちびるを噛みしめても、止めようのない嗚咽が洩れる。雨脚はますます強くなり、渡殿の曹司ぞうしからは、騒ぎに気づいた数人の女房がこちらを窺っている。

 もはや取り返しはつかぬ……この世の何よりも大切なものを失ってしまった。この手で、断ち切ってしまった。あの方のためと言いながら、わたくしはなんということをしてしまったのだろう。

 ふらりと揺れた足許で、かさり、と音がした。袿の裾にひっかかるように、美しい五色の糸と菖蒲の花で飾られた薬玉が落ちていた。横には、そこから抜け落ちたらしい梔子くちなしの花───今日、雅嗣が現れた時に梔子の香りが強くしたのは、このせいだったか。

 虚ろな瞳から涙が零れるに任せ、その場にかがみ込んで梔子に手を伸ばす。二輪の花のついた枝。持ち上げると、一つの花がぽとりと落ちた。

 あっけなく枝から落ちた花。あまりにもあっけなく終わった、恋。

 落ちてなお、馥郁たる香りを漂わせる梔子の花首を掌に載せると、結子は呻くような声を洩らした。

 互いの心にある想いも、終わったばかりの今はまだ匂いやかに香り続けているだろう。だけど、それもいつかは朽ちていくのだろうか。花がやがて醜く枯れ、その香りを失うように。

 そうなればいい。あの方の中で、醜く枯れてしまえばいい。一刻も早く、恋を失った痛みを忘れられるように。

 けれども……とまた、結子は思う。触れ合った指先のぬくもりを、抱きしめ合った身体の重みを……あの方の声、微笑み、優しさを、刻まれた記憶を、どうして忘れることができよう。

 ただ、泣いた。誰よりも愛おしい人を傷つけた、己を鞭打つかのように泣いた。

 翌日──結子のものだった衵扇あこめおうぎが、文もなく、ただそれだけの姿で返されてきた。そして、すべてが終わった。



──────────


杜若の襲

薄紫〜青(今の緑)〜紅の襲。

(薄色匂いて三。青き濃き薄き。紅のひとへ。───『満佐須計装束抄』より)



──第一章を最後までお読みくださり、ありがとうございました。

次より第二章、この別れより八年後が舞台となります。

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