二 初めての文

『たそかれに かくれをりたるくちなしの きみが色にぞわが身そまりつ

 お約束どおりに 雅嗣』



 結子の許にふみが届いたのは、宴の二日後の午後だった。乳母めのとの右京が側にいない時を見計らってこっそり手渡された、文。

 あの方だ……!

 小さく結ばれた山吹の薄様うすようの文を読んだ結子の心は震える。

 まさつぐ、という名に心当たりはなく、それでも、間違いなくあの時の、柳の衣を着たかの人だということが判るだけで充分だった。


 ──黄昏時*に隠れておられた「口なし」の貴女。わたしは貴女への想いで染められてしまいました。


 かの人の口ぶりと同じくらい、実直でまっすぐな歌。

 あの夕刻の黄昏時を、名を問うた自分の言葉に重ね、梔子くちなしに例えて名を明かさなかった結子の言葉から、梔子が染める色の「黄み」と「君」をかけた上で、貴女の色にこの身が染まっています、というのだ。

 結子は、何度も何度も読み返した。恥ずかしさに目を背けたいような、でも、抑えることのできぬ嬉しさが結子の心に溢れる。

 今までにも幾度となく文を貰ったけれど、それはいかにも遊び慣れた風の、美辞麗句に彩られた技巧的な歌ばかりで、心に響くものなどひとつもなかった。でも、この歌は違う。結子が生まれて初めて、心動かされたひとからの恋文。ただ二人にしか分からぬ情景を詠み込んだ、真心込められた恋の歌。


「……二の姫さま」


 几帳の向こうで、取り次いだ女房の茅野かやのがおずおずと声をかけてきた。

 茅野は、女童めのわらわの頃からずっと結子の許に仕えてきた者で、受領ずりょうに嫁いで都を離れた結子の乳姉妹ちしまい、弥生の代わりとなり、身の回りのことをしてくれているのだった。


「お返事は、いかがいたしましょう?」


 男の恋文の取り次ぎをせねばならなくなった、まだ幼いと言ってもいいほどに年若い、茅野の戸惑いが伝わるその声を聞きながら、結子はもう一度文を見つめた。

 やんごとなき姫君は、初めて文を送ってきた男に返事などせぬものだ。けれど──

 咄嗟に、開け放たれた蔀戸しとみどから渡殿の方を窺った。右京の姿はまだ見えない。

 結子は急いで文机に桜の薄様を広げると、小首を傾げて少し考えた。それから、ひとつの歌だけを流すように書きつけ、それを同じように小さく畳んで結ぶと、待っていた茅野にそっと手渡した。

 驚いて目をまんまるにした茅野は思わず声を上げる。


「ま……あ、姫さま、よろしいのでございますか?」

「しっ! 右京には内緒よ。もちろん、お父さまたちにも」


 茅野は不安げに、でも心得たと頷いた。


「それから……どちらのお邸からなのか、文遣いの者に確かめてちょうだい」

「承知いたしましてございます」


 茅野は頭を下げると、結子からの文を袖の内に隠し、そっと出て行った。その後ろ姿を、蔀戸の陰から見送る。一抹の風が吹き、あの美事な桜から散り初めの花びらが雪のように舞った。

 この樹を見ておられた、あの方──雅嗣さま。

 結子は目を細めて桜を見上げながら、勢いでしたためてしまった返事のかの人に届くことに、今更ながら大変なことをしてしまったと感じていた。頭に血が上り、息苦しいような心地がして、思わず胸を押さえて大きく息をつく。

 あの文をお読みになられたら、なんと思われるだろう。さっそく返事を寄越すなど、慎みもゆかしさもない娘だと思われてしまったら?

 ああ……でももう、あの文は今頃、あの方の文遣いに手渡されて、あの方の邸に向かっているに違いない。

 もう、後戻りできない一歩を踏み出してしまった気がして、結子の心は震え慄く。でもそれは、なんと甘やかな戦慄だったろう。


 ***


 その同じ頃。

 大納言家の三男、藤原雅嗣もまた、参内さんだいから戻ってすぐに送った文遣いが未だ戻らぬことに悶々としながら、時を遣り過ごしていた。

 歌を詠んだり文を書いたりすることは、決して嫌いではないが得意でもない。ましてや、まことの心をこめた恋文など書いたこともなかった。

 それでも、送りたい相手ができればするものだ、と我ながら感心した。昨夜一晩、頭を悩ませて書き上げた文は、恐らくもう、あの姫に届いているだろう。素晴らしい出来でないことは承知している。それ以上のことは……考えるまい。

 浅葱あさぎ*のうえのきぬから狩衣に着替えると、そのまましとねにごろんと横になった。

 二日前のあの宵、嫌々ながら父大納言に連れて行かれた、右大弁家の宴。

 噂に聞く二条堀川邸の優美さには興味があったが、同じくよく聞く三人の姫については、正直言ってまったく興味がなかった。

 なんせ、あの右大弁の娘である。内裏ですれ違っても身分が下の者には視線も向けない、話すことはやれ、誰が良いきぬを着ているだの誰が太って醜くなっただのという、女々しくくだらぬことこの上ない人物である右大弁の婿になるなど、まっぴらごめんだ。

 そんなことを考えていると、同乗する父がぽつりと言った。


「この秋の除目じもくで、恐らくはそなたも殿上てんじょうを許されるであろう。しっかりと人脈を作っておきなさい」


 雅嗣がこのような宴を好まぬことを知った上で、敢えて連れてきたのだと知る。右大弁家の姫と昵懇になれと期待されているわけではない、と思うと少し気が楽になった。

 邸が噂に違わぬ美しさを持っていることは、門をくぐって車宿くるまやどりに降りた時すでに分かった。大き過ぎず、しかし小さくもないその邸は、隅々にまで手入れが行き届き、磨き上げられたいざはし簀子縁すのこえんの板からさりげなく置かれた調度まで、昨年身罷ったという北の方の息吹が今なお、そこここに感じられるような気がした。女々しい右大弁の美意識も、ここでは一役買っているのかもしれない。

 宴の始まるまでに、まだ時間もあった。雅嗣は、通された寝殿の裏手の階からこっそり庭に降り立ち、建物に沿って庭を歩いてみた。桜がちょうどいい具合に配置され、その間を埋めるように梅、躑躅つつじ、山吹、藤、萩などが植えられており、季節を追って咲いていくのだろう様子が目に浮かぶ。

 植えられた花々の意趣が面白くて歩いているうちに、気づけば東の対のあたりまで来ていた。遣水やりみずを越えたところに、それは見事な桜が咲いているのが見えて、思わず足を止める。

 その時だった、どこからともなく箏のが聴こえてきたのは。

 しばし立ち止まったまま聴いていた。なぜか、心に染みた。雅嗣は笛をするが、その師はいつも言う。楽の音には奏者の心映えがすべて映し出されるのだ、と。そして、その時聴こえた箏の音は、優しさと趣味のよさに満ちていると雅嗣は感じた。

 もっとよく聴いてみたくなった。あたりを窺って誰もいないことを確認し、そっと渡殿手前の階を昇って、その対屋に近づいた。蔀戸が開け放たれ、御簾の下がったところから、その音は漏れ聴こえているのだった。

 これもまた、客をもてなす趣向だろうか、と雅嗣は建物の角に身を潜めて、耳を傾けながら思った。陽が落ちてきていた。先ほど見た桜が夕風の中、微かに枝を揺らしている。

 なんと美しい、と桜を見上げた時、ふ、と曲の途中で箏の音が止み、それっきり、ふっつりと聴こえなくなった。

 なんだか、とても残念な気持ちになった。宴の趣向ではなく、誰かが手すさびにつま弾いていたのだろう。とすれば……これは右大弁の姫のうちの誰か、ということかもしれぬ。宴の日に箏を弾くほど暇な女房はいないだろうから。

 雅嗣は迷った。まっぴらごめん、と思っていた右大弁の姫かもしれぬのなら、下手に声などかけぬ方がいい。でも、そう考える前に口が動いていた。箏を奏でるひとがその場を離れる前に……と咄嗟に思ったのだ。


「──素晴らしい音色なのに、もう聴かせてはいただけぬのですか?」


 しばらく、なんの音も返事も聞こえなかった。驚かせてしまったか、それとももう、そこにいないのか。御簾の中の気配を感じようと耳を澄ましたその時。


「……ここは東の対屋でございます。場所をお間違いではございませぬか?」


 可憐な声が聞こえてきた。

 困ったような、少し湿り気のある声。もしや、泣いていたのか。

 警戒させたくなくて、雅嗣は慌てて言葉を返した。


「いえ、少しばかり早く着いてしまったので、邸を拝見させていただいていたのです。そうしたら、箏の音が聴こえたものですから」


 本当にその通りだったのだが、言ってからそれがとても白々しい言葉だったような気がして、雅嗣は焦った。案の定、しばらくして御簾の中から、さっきよりも冷静な声が返ってきた。


「お恥ずかしゅうございます、ほんの指ならしでございましたのに。陽も落ちて参りました、宴も始まりますゆえ、どうか──」


 早く立ち去れ、とその姫は言っているのだ。このままでは、自分はただのあだな男だと思われてしまう。いや……見も知らぬ、しかも、まっぴらごめんの右大弁の姫にどう思われようと構わぬ、はずなのだが。


「そんなことはない、まこと素晴らしい音色でした。心に沁み入るような……弾いておられる貴女の心が伝わってくる気がしました」


 戯れに声をかけたわけではない、素直に心に思ったことを言っただけだと伝えたかった。


「……ここは本当に美しいですね。亡き北の方さまが愛された邸と聞いています。このような邸には、賑やかな音曲より一面の箏の音の方が、よほどふさわしいのに」


 雅嗣は、前に広がる庭に目を遣った。もうじき宴も始まるだろう。寝殿の南庭には立派な舞台も設えてあった。華美を好む右大弁なら、静かな楽の音とともに、というような宴を開くことは思い至らぬに違いない。しかし、華美な宴は雅嗣の性格には合わず、好みでもなかった。

 御簾の奥で、微かな身じろぎの気配がした。


「貴女は、そうは思われませんか? 私は、このような宴は苦手なのです……本当は」


 きっと、この姫も自分と同じに違いない──なんの根拠もなかったが、なぜかそんな気がしていた。あのような箏を奏でるひとならば、きっと。

 いったい、この姫は三人いるうちの誰だ?

 今まで、噂に一切耳を貸そうともせず、この姉妹にまったく興味を抱かなかったことに、雅嗣は今、初めて後悔した。

 知りたい、誰なのか。


「不躾なことをお伺いしてもよろしいですか? 貴女は……?」


 雅嗣は未だ、女の許にきちんと通ったことはない。

 幼い頃からともに遊んだ姫に淡い恋心を抱いたようなこともあったが、その想いは、その姫が早々と違う男を通わせてあっけなく潰えた。出仕するようになってすぐ、内裏の女房に声をかけられ始まったかりそめの恋は、他の男と鉢合わせしそうになって懲りた。

 十八になってなお、書にばかり向かい、女の影のない雅嗣だったが、そもそも父の意向によって勧学院かんがくいん*でなく大学寮だいがくりょうに入ったという、その出自にしては珍しい経歴を持つ彼は、その後の出世も若干滞りがちで未だ六位*の身分、中務大丞なかつかさのたいじょうという役職にやりがいを感じてはいたものの、やはり、早く昇殿できる五位以上に、そしていつかは父を超えて……という目標もあり、今は勤めに精を出すばかりだった。

 そのような男が、うまく高貴な女人の名を聞き出すすべなど、持ち合わせているはずがない。でも、かなりまずい尋ね方であることくらいは、さすがの雅嗣でも分かった。


「……山吹の花色衣、とも申します」


 御簾の中の姫は、そんな謎かけのような言葉を返してきて、雅嗣は一瞬、わけが分からずたじろいだ。

 やまぶきのはないろごろも……

 待てよ、何かで読んだ記憶がある──漢書ばかり読むのではないと、姉君に無理やり和歌の指南を受けさせられていた時だ。

 ──山吹の花色衣ぬしやたれ 問へどこたへず くちなしにして

 くちなし、梔子……口なし! そうだ、古今集だ。


「くちなし、ですか」


 雅嗣は思わず、笑ってしまった。この謎が解けたのは奇跡だ。姉君に感謝せねば。

 口がないと言うのだ。とにかく、答えたくないということだろう……当然だ。雅嗣は納得した。しかしどうしても、このまま立ち去る気にもなれなかった。


「分かりました。これ以上の無理強いはいたしません。その代わり」


 雅嗣は、御簾の中の気配を探りながら言ってみた。


「もう一曲だけお聴かせいただけませんか?」

「あの……」


 戸惑うような呟きが聞こえてくる。透き通った、可愛らしい声だ。


「もう一曲お聴かせいただければ、気乗りせぬこのような宴に来た甲斐もあるというものです」


 少し意地が悪いかとも思ったが、これは賭けだった。

 自邸での宴に気乗りせぬと聞いて不愉快に思うならば、自分と同じように感じているのではという直感は外れたことになる。さあ、この姫はなんと答えるだろう──


「まあ」


 驚きとも呆れともつかぬ声の零れるのが聞こえた。

 雅嗣は、御簾の中の気配に耳を凝らす。

 やがて、中から微かな衣擦れがして、指が触れたのか、箏の糸の震える音が伝わってきた。

 心の臓が鷲掴みにされるようだ───雅嗣は身じろぎすらできぬまま、息をつめてううを見上げた。桜の枝がまるで、動揺する雅嗣を笑うかのように揺れている。


「貴女のところからも見えるでしょう、ほら、その桜は殊のほか美しく咲いている。貴女の箏をいつも聴いているからでしょうか」


 話している言葉も声も、自分のものとは思えなかった。わたしは何を言っているのだ──落ち着け、と心に命じた。しかし、もはや制することのできぬ暴れ馬のようだ。雅嗣は大きく息をつく。

 御簾の中からはもう返事はなく、その代わり、箏の音が再び鳴り出した。

 ──応えてくれた。

 自分でも信じられぬほど、喜びを覚えた。そして、気づく。

 恋してしまったことに……まっぴらごめんの姫に。


「必ず、貴女が誰なのか、捜します。そうしたら、文を……貴女に文をお送りすることを、お許しいただけますか」


 やはり、返事はなかった。ただ、箏の音だけが鳴り続いていた。


 ──問へどこたへず くちなしにして


 言葉の返事はなくとも、その音色は何より雄弁な答えのはず。雅嗣はそう信じた。

 陽はますます傾いてきていて、仄かな桜の色は黄昏の光に沈みつつあった。そして、渡殿の向こうからは人の気配も伝わってきた。

 箏の音は続いている。

 雅嗣は抑えきれない、熱くて甘い感覚を身体の中に閉じ込め、静かに身を滑らせてその場を離れたのだった。




 その後、宴の場でどのように過ごしたのか、雅嗣はほとんど覚えていない。

 始めは簀子すのこに座って舞台の舞を眺めていたが、御簾のうちから何やら話しかけられ、煩わしくなって庭に降りた。……今思えばあれは誰だったのだろう、色目遣いの女房か、右大弁の姫の一人だったか。

 庭に降りれば降りたで、誰からかは分からぬまま次から次に酒を勧められた。雅嗣は決して弱くはないが、このような席で飲む酒をうまいと思ったことはない。次々に注がれる杯を空けながら、心ここにあらずだった。

 あの姫はきっと、母屋もやの御簾の中にいて、こちらを見ていただろう。

 さっき話した男がこのわたしだと、気づいてくれただろうか。それとも、わたしの姿など、捜してもおられなかったか。

 姫の気配を感じることができれば、と思ったが、賑やかな舞台以外から楽の音が聴こえてくることはなかった。父に引き止められ、なんとか亥の刻近くまでは我慢したものの、酒に酔って痴態を晒す者が増えてくるにつれ耐えられなくなり、その場を離れた。まったく父の意向にそぐわぬ行動ではあったが、致し方あるまい。

 そのまま、向かうともなしに、また東の対に向かっていた。

 そうだ、今一度あの美事な桜を見てから帰ろう。言い訳めかしてそう心に呟いたが、本当に見たいのは桜ではない、「梔子くちなし」だ。

 先ほどは、蔀戸が開け放たれ御簾がかけられていたが、今はただ一箇所、半蔀はじとみが上げられているのみだった。きざはしを昇って渡殿を越え、身をひそめてそっと中を窺ってみると、ひとつだけ灯された燭に照らされ几帳がぼうっと光って見えたが、人の気配はなかった。

 雅嗣はひとつため息をつき、切ない想いを抱いて二条堀川邸を後にしたのだった。

 ──後ろで、その姫が見つめているとも知らぬまま……。




「……若君、若君」


 文遣いを終えて邸に戻ってきた康清やすきよが庭先で呼ぶと、よほど待ちあぐねていたのだろう、雅嗣が転がるように簀子縁に出てきた。烏帽子が歪んでいるのも、この際見て見ぬふりをしておこう。

 

「帰ってきたか。遅かったではないか」


 主人の非難めいた言葉に、康清は肩をそびやかして答える。


「右大弁さまのところで、結構待たされましたのでね」


 この康清は雅嗣の乳母めのとの子、つまり乳兄弟ちきょうだいである。世の中の例に洩れず、幼い頃には雅嗣──当時は三郎君と呼ばれていたが──の遊び友だちとして、そして今は雅嗣の従者として側近く仕えていた。


「それで? 首尾はどうだ?」


 康清は、高欄越しに主人の顔をまじまじと見上げた。そして、その思いつめたような表情に、思わずにやりと笑ってしまった。


「なんだ? その笑いは……」

「いえ、若君がこのように姫君に恋文を送られるなど、ついぞなかったことでしたので」

「……」

「嬉しゅうございますなあ」


 康清は、焦らして楽しんでいる。真面目な主人は、結構からかい甲斐があるのだ。


「しかも、お相手は右大弁家の姫君。先日、あれほど文句たらたら出かけて行かれましたのに。縁というものは、まこと、どこにあるか分からぬものです」

「……」


 そこまで言って、雅嗣のめつける視線に気づき、さすがに可哀想になって胸元から文を出した。


「……返事をいただけたのか?まこと、二の姫だったのか?」


 康清は頷く。


「よろしゅうございましたね」


 そう言いながら小さく結ばれた文を差し出すと、受け取った雅嗣は、すまぬ、と言い残し、再び御簾のうちに引っ込んだ。

 その姿を、康清は微笑ましく見つめる。

 よろしゅうございました。まるで、兄が弟を思うような気持ちで、もう一度心の中に呟いた。




 雅嗣は右大弁の宴から戻った夜、思い悩んだ末、康清にすべてを打ち明けていた。必ず姫を捜すと豪語したものの、恋に慣れぬ男は、情けないことに姫が誰なのかを調べるすべすら思いつかなかったのだ。その点、あちらこちらへ顔を出し、それなりにいい思いもしている康清は、翌日雅嗣が出仕しゅっしした折、さっそく同僚の従者たちにそれとなく探りを入れ、大方の見当をつけていた。


「……まあ多分、二の姫さまではないか、と」


 俄かに吹き荒れ出した、野分のわけのような春の風が蔀戸を叩く深夜、揺れる燭の灯りを片頬に受け菓子をほうばりながら、康清は呑気に言った。


「なぜ、そう思う?」


 康清とは対照的に一点を見つめてじっと動かぬ雅嗣は、その目に燭の灯りを映している。


「まず、一の姫さまではないでしょう。そこはよろしいですね?」

「まあ……そうなのだろうな。右大弁に似た姫だ、ということは聞いた」


 雅嗣の言葉に、康清は動かしていた口を止めて主人を見る。


「なんと……人は変われば変わるもので──」


 噂の類にはとんと無関心だった主人が、今日の参内で必死に聞き込んできたのだろうことを思い、康清の口許は自然と緩む。それを見た雅嗣は、その涼やかな目を細めて康清を睨んだ。


「……康清、いいから早う続きを申せ」

「ああ、失礼いたしました。三の姫さまはこう……言葉は悪いですが見栄っ張りな姫とか。そういう姫なら、宴の前に箏なんか弾いてる暇はないでしょう」

「なぜだ?」

「そりゃあ、着飾るのに必死でしょうから」

「……そんなものか?」


 そうなのか、と雅嗣が呟くと、康清は大きなため息をついて、これだから若君は……という風にかぶりを振った。


「残念ながら、二の姫さまの話はどこからも聞くことができなかったのですが。若君のお好みからいっても、我の強そうな一の姫や三の姫ではないと思いますよ。ほら……祝姫ときひめさまもなんというか、ご自分のお気持ちよりも誰かの言うことを優先して、流されておしまいになるような方で。だから、あの摂津守せっつのかみ──」

「何を言う。あれはまだ子どもの頃の話ではないか」


 雅嗣は眉間にしわを寄せてまた康清を睨んだ。嫌なことを思い出させる。

 祝姫というのは、例の幼なじみの姫である。雅嗣の乳母である和泉──康清の母である──の姉が乳母として仕えていたのが祝姫だった。三歳年上だった姫は雅嗣と幼い約束をしていた。にも関わらず、雅嗣が未だ元服げんぷくも済ませておらぬ十一歳の時、姫より十二も上の摂津守を通わせ妻になってしまったのだった。それも多分、相手と心通わせることなく夜這い同然で。


「それに、あの姫は祝姫ではない」


 憮然として言うと、康清は慌てて手を振った。


「これは失礼いたしました。ただ、若君のお好みの話をしたかったまでで……とにかく、話を聞いた限りでのおれの直感です。絶対に二の姫、中の君さまです」


 全幅の信頼を寄せる康清にそのように断言されれば、ほかに頼るよすがもない雅嗣も信じるしかなく、二の姫に文を遣ったのだった。

 そして今──雅嗣の手には桜の薄様の結び文がある。突き返されるかと思っていた。受け取って貰えたとしても、返事までは期待していなかった。

 雅嗣は、まるで壊れものでも扱うかのように届いた文を脇息に載せ、半ば呆然と茵に座り込んだ。御簾で遮ってなお明るい春の陽差しが、端近はしぢかに座る雅嗣のまわりを照らす。昨夜の風が嘘のようだ。

 雅嗣は姿勢を正し、それからはたと気づいて烏帽子を直した。

 そして、ほどく時に破ってしまわぬかと思うほどに動揺している指をついに文へと伸ばした時、背後で、若君、と古参女房の近江おうみの声がした。


「寝殿の方に、兄君の中将ちゅうじょうさまがお見えでございま──」


 近江が言い終わらぬうちに雅嗣は、ふぅ、と大きく息を吐き、背を向けたまま手を挙げて制した。


「分かった。あとで参るゆえ、今はひとりに」


 はあ、と間抜けな声を出した近江が下がるのを確かめてから、雅嗣は覚悟を決めてそっと文を開く。


『花かげに たれそかれとぞ問はれしが かずならぬ身をも あはれやと見ん』


 ほかに言葉はなく、ただ一首その歌のみが、柔らかく優美な手蹟で書かれていた。


 ──美しく咲き誇る桜のもとで、貴女は誰と問うてくださいましたが、梔子の花のようにつまらぬわたくしのことをも、美しいと思っていただけるのでしょうか。


 間違いない、あの時の姫だ──雅嗣はまばたきすることも忘れ、文を見つめた。



──────────


*黄昏時

「たそがれどき」という言葉は、「たれかれ」からきており、「あなたは誰?」と問うほどに薄暗い夕暮れの時を指します。

対になる言葉「かはたれどき」は、同じく「たれ」からきており、薄暗い夜明けの時を指します。


*浅葱

緑がかった薄い藍色のこと。

官位が六位の者が身につける袍の色として決められていたことから、六位の者の別称ともなっています。


*勧学院

藤原氏の子弟が学ぶ大学別曹。


*六位

この時代、人の身分は律令制に基づく『位階』という序列で表しました。

上は正一位しょういちいから下は少初位下しょうそいのげまで30段階に分かれており、五位以上が昇殿を許された『殿上人てんじょうびと』と呼ばれる貴族、六位以下は『地下人じげにん』とはっきり区別され、その差は非常に大きなものでした。

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