第5話 005 悪臭

 臭い?

 俺が?

 確かに昨日は野営したから、風呂には入ってない。

 だけど濡らした布で全身は拭いているし、今の季節そんなに汗はかかないだろうし。

 いや待てよ、さっきのドタバタで噴出した冷汗が原因なのか――


『リムじゃない。厭なニオイがそこらでしてる』

「そっ、そうか」


 顔を顰めながらのファズの言葉に、辺りを嗅いでみたがよく分からない。

 特に悪臭も感じないし、それ以外の気になる臭気も特にないと思うんだが。


『まだ薄いけど、悪いニオイ』


 こちらの思考に、要領を得ない答えが返ってくる。

 軽く首を捻っていると、ファズが再び歩き出した。

 さりげなく移動速度が緩やかになっているのは、俺の疲労に配慮してくれたのだろうか。


 集団が移動した痕跡の残る狭い道を歩いていると、徐々に日が傾いてきた。

 まだ夏は遠いな、などと考えていると森の奥には不似合いなニオイが鼻先をかすめた。

 しかしこれは、ファズが言っているような良からぬものとは違うような気が。

 むしろ香ばしくて――いや、これは間違いなくアレだ。


「どっかで肉を焼いてるな」


 俺の言葉に、ファズが小さく頷く。

 これが盗まれたシカだと、厄介な話になるだろうな。

 そんな的中率がかなり高いであろう予想が、この先で勃発する揉め事の予感を連れてくる。

 肉の焼ける匂いに、生木の燃える煙たさが混ざっている。

 ゆっくり先に進むと匂いは更に強くなり、やがて立ち上る煙も見えてきた。


 匂いに混ざって、賑々しい音声も流れてきた。

 喧しい男の声と野太い笑い声が、いくつも重なって聴こえる。

 話の内容はよく聞き取れないが、雰囲気が下品なのだけは確実だ。


『くさいな』

「それは、さっきと同じ意味か」

『ああ。濃くなってきた』


 ファズの物言いに、心の底から不快感を噛み締めている響きが滲む。

 俺には分からないが、ファズはどんな悪臭を感じているのだろう。

 もっと近付くと、男達が酒盛りをしているのが見えた。

 盗賊か山賊か――何にせよ、風体からして堅気ではない集団だろう。


 男達がいるのは結構な広さのある窪地で、輪になった連中の真ん中で盛大に火が焚かれている。

 焚き火では串刺しになった肉が焼かれ、傍らにはシカの首が転がり、その角には赤色が散った青い布が巻きついている。

 予想は見事的中、最悪のパターンだ。

 向こうに気付かれる恐れもあるので、俺は黙ったままでファズと打ち合わせる。


 数が多すぎるし、ここは見逃して――

『ダメだ』

 盗んだのが許せないのか?

『それもあるが、こんなくさいのはダメ』

 火加減がなってないからクサみが残ってる、とかそういうのじゃなくて?

『肉の焼き方はどうでもいい。こんなに厭なニオイをさせてる連中は、放っとけない』


 吐き捨て気味な断言と共に、ファズは七シャク(二メートル強)ほどの段差を飛び降りた。

 そして、躊躇のない歩調でもって輪の方へと向かっていく。

 その姿は本当に無造作で、まるで仲間達が待っている宴会に合流するかのようだった。

 程無くして近寄ってきた闖入者に男達が気付き、ざわめきが瞬時に静まる。


 焚き木の爆ぜる音が響いた。

 シカ肉の脂が火勢を強めた。

 近くの木立から鳥の鳴き声。

 それで我に返ったように、男達は声を取り戻す。


「あんだぁ? このガキ」

「腹でも減ってんのか」

「おい、何か言ったら――っ! この髪、まさかコイツはっ!」


 どうやら、何が現れたのかに気付いたらしい。

 咄嗟に引き止めることも追うことも出来なかった俺は、ファズの行動を見届ける形になった。


 火の周りで輪になっていた連中は、今は半円を作ってファズを遠巻きにしている。

 二度、三度と銀色の杖を振り、風を切る物騒な音を散らしながら、ファズは自分を囲む男達を順繰りに眺めていた。

 俺も一緒になって数えてみると、その数はピッタリ十人のようだ。

 五十近いのから俺より年下に見えるのまで、年齢層は無駄に幅広い。


 鬼人を目の前にして、どうするべきか態度を決めかねているのか、まだ武器を構えている奴はいない。

 日暮れと炎の揺らぎに陰影を付けられたファズの横顔は、今までに見たどの瞬間よりも苦々しさに満ちている。


「やべぇよ! やべぇんじゃねえかよ、ナールさん!」

「これが鬼人……マジなのか」

「だっ、だからあん時、オレはやめとけって――」

「うるせぇ!」


 ナールと呼ばれている首領格らしいヒゲ面の男が、気弱な発言を口にする男達の一人を裏拳で殴り飛ばした。

 見た感じ、三十半ばくらいだろうか。

 縦にも横にもデカいナールは、いかにも賊の首領に相応しい雰囲気を漂わせている。

 しかし普段振り撒いているであろう威厳は、顔面を冷や汗だくにしているせいで大幅に下落しているのが否めない。


「大体あんなもん、猟師のまじないだろ、普通は!」


 大声で自分と手下を落ち着かせようとしているようだが、声に混入したヒステリックな成分が隠し切れていない。

 ナールの言い分から察するに、人間の猟師が何かの事情で獲物を置きっ放しにする際、青布を巻いて鬼人の所有物に偽装する慣例があるのだろう。

 暴力と怒声で多少冷静になれたのか、ナールはファズに向き直って語りかけてきた。


「なぁ鬼人さんよ……アンタの獲物を焼いて食っちまったのは謝る。この通りだ。それでだな、代わりと言っちゃ何だが……こいつでどうだ?」


 ぞんざいに頭を下げた後、ナールは腰の皮袋を外し、その中から首飾りを取り出した。

 遠いので細かい部分は確認できないが、かなり豪奢な雰囲気を感じさせる一品だ。

 だが、それを見せられてもファズの表情に変化はなく、ナールの表情だけが強張りを増す。

 一触即発の気配を察知したのか、周囲の手下は徐々に浮き足立っていく。


「どうする?」

「やるか、逃げるか……どっちだ」

「いや、でもよ……鬼人なんだぜ?」


 あからさまに動揺した声が、呟きと呼ぶにはデカ過ぎる音量でアチコチから上がる。

 状況が把握できていない可能性も考え、連中の心理状態について伝えようと、ファズの横顔に向けて意識を集中させる。

 小さく頷くのが見えた――どうやら分かっているみたいだ。

 ファズは無造作に提げていた杖を水平に持ち上げ、ナールへと向ける。


『何てくさいんだ、お前ら』


 機嫌悪そうに固まっていた表情が動いた――確実に不吉な方向へと、大幅に。


『どれだけ盗んだ。どれだけ壊した。どれだけ殺した。厭なニオイが混ざり過ぎだ』


 笑いを噛み殺しているような、叫び出すのを堪えているような、どうにも形容に迷わされる類の声が、俺の頭の中で重たいトグロを巻いてゆく。

 盗賊達には、そんなファズの言葉は届いていない。

 それでも、隠す気の微塵もない剥き出しの敵意と殺意は伝わっているはずだ。


「ぬわぁあああああああああっ!」


 数十秒間の無音の膠着は、誰かの絶叫で破られた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る