第4話 004 狩布

 左右に揺れる青い髪を眺めながら、ファズの数歩後ろを歩く。

 さっきは動転していて気付かなかったが、古びた黒い鞄にはナイフやら水筒やらが括り付けてあり、ファズが短くない旅を経てここにいるのを窺わせた。

 ところで、今はどこに向かってるんだろうか。


『シカ』

「ん? シカってあの、オスとメスがいて――」

『それはもういい。仕留めたシカ、取りに行きたい』

「ああ、そういえば、そんなん言ってたっけ」

『こっち』


 杖で上方を指したファズは道を外れ、急にも程がある斜面を何気ない足取りで登り始める。

 草木が疎らでロクな足場も見当たらない坂――というか崖。

 なのに、平地を歩くのと大差ないスピードだ。

 高さは四ジョウ(十二メートル)くらいあるだろうか。


 正直言って迂回したいのだが、出会ったばかりのレゾナに情けない姿を見せるのもアレだ。

 重めの溜息を一つ吐いて覚悟を決め、俺もファズの後に続く。

 半分位まではどうにかスムーズに登れたが、途中で角度が急になって軽々と詰んだ。

 ある程度のピンチは想像していたが、この手足の置き場の少なさはキビシ――


「ぃぶはぁああっああ!」


 右足を乗せて体重を掛けていた石の埋まり方が浅かったらしく、右半身が石ごと下に滑った。

 頭が白くなり、体が軽くなり、景色が目まぐるしく変わる。

 こいつは良くて重傷コースかな、と諦めかけたタイミングで落下が止まった。

 見上げると、逆様になったファズが俺の左手首を掴んでいた。


 どうなっているのか、一瞬何も分からなくなって戸惑う。

 すると、先を進んでいたファズが駆け下りてきて、杖を斜面に深々と突き立てると、それを両足の土踏まず辺りで挟んでブラ下がり、滑落しかけた自分の腕を掴んだのだ、という説明が頭の中に伝わってきた。

 器用だな、と思いつつ無理して笑顔を作ってみるが、返って来たのはシラケ顔だ。


『何してんの』

「いや、何してって、何でもないのだぜ? ちょっと、ホンのちょっとだけ足が滑っただけだばしょ?」


 本日二度目となる心臓の過活動で全身は汗だくだったが、俺は強がりを口にしてみた。

 少々噛んでいる気もするが、心意気だけは伝わったんじゃなかろうか。

 ファズは何気ない挙動で杖の上へと立つと、そこから俺の体を引き上げる。

 そして、杖に掴まっている俺に、傍らに垂れ下がっている捩れた木の根を指差した。


『そこで待って』


 頷いた俺が木の根に跳び移ると、ファズはさっきと変わらぬペースで登って行く。

 違っているのは、杖を使って斜面に穴を空けたり窪みを作ったりと、手掛かり足掛かりを作る工程が加わっている点だ。


『これで、どう』

「おお、かなり助かる」


 ファズのサポートで、俺は上に行くほど絶壁に近くなる斜面を登り切った。

 身長は低いが身軽さには自信あるんで、クライミング自体はそんなに苦じゃない。

 登った先には、密度がやや低い森が広がっていた。


『こっちの、少し先』


 ファズは杖でもって森の奥を指し示す。

 人の手が入った気配は余りないが、獣道よりは道らしいものが下生えの中に見える。

 近隣住民の狩場だったりするのだろうか――などと考えながら、やや早足なファズの後ろを黙々と歩く。

 一本道を二十分近く進んだ辺りで、ファズが不意に立ち止まる。

 樹齢数百年になるだろう大木が道を遮り、行き先が二手に分かれていた。


「どうした? どっちだか忘れたのか」

『いや、ない』

「ん? 道がないのか」

『違う。シカがない。なくなった』


 振り向いたファズの声が頭に響いた。

 声の調子は、さっきまでと特に変わってない。

 だが表情に出ている不機嫌っぷりは、反射的にこの場から全速力で逃げたくなる勢いで凶悪だ。


「狼か……でなきゃ【海松狗みるいぬ】の仕業じゃないか」


 この辺りの森に棲息していて、シカを持ち去りそうな生物はその二種。

 海松狗は、海草のような扁平で長い毛に体中を覆われた、犬に似た雑食性の新生物レゾナだ。

 基本は大人しい生物だが、成獣の平均体長は七シャク弱(二メートル前後)になる。


『たぶん違う』

「じゃあ、さっき見た誑拐鵄さらいとびとか?」


 頭を振ったファズが杖で指し示した先には、太い枝から垂れ下がったロープが見えた。

 それは途中でちぎれていて――いや、切り口が鋭い。

 この状態なら、刃物を使ったと判断するのが自然だ。


「誰かが盗んだ、か……」

狩布かりぎれを巻いた獲物、奪われたのは初めて』

「かりぎれ?」

『持ち主がいる、と知らせる青い布』


 そういえば以前に、誰かから聞かされた覚えがある。

 死んでる獣を見つけても、それに青い布が巻かれてたら絶対に触れるな。

 それは鬼の食い物だ。

 近くに鬼人がいるぞ、すぐに逃げなきゃお前も喰われるぞ。


 ――と、そんな警告で終わる物語。

 子供向けの不出来な怪談だと思っていたが、どうやら現実に即した教訓話だったらしい。


「鬼人の獲物って印か。それを無視するとは、中々いい度胸だな」

『犯人を捜す。早く殺さないと』


 たかがシカ一匹でそこまでするか、との思いが反射的に浮かんだ直後、ファズの視線に射抜かれた。

 ただならぬ怒気をまとった声が、頭の中に叩き込まれる。


『獲物を奪うのは、食を奪うということ。食を奪うのは、命を奪うということ』

「命って……分からんでもないけど、やっぱり大袈裟なんじゃないか?」

『狩布を巻いた獲物を奪うのは、戦を仕掛けるのと同じ』


 知らずに持ち去ったのかも、と更にフォローを入れようするが、思い直して口を噤む。

 山の暮らしとは縁遠い俺でさえ、何となく知っている青い布の謂れだ。

 こんな山奥に出入りする奴が、それを知らないハズがない。


『足跡は八から十、こっちから来て向こうに』


 屈んで道を調べていたファズが立ち上がり、右から左へ杖をゆらりと動かす。

 俺も確認してみるが、確かに複数の足跡がそういうルートで進んでいた。


「とりあえず、追ってみるか」


 俺が言い終わらない内に、ファズは左方向へと大股で足を踏み出した。

 途中に何度か分岐があったが、迷う様子も見せずにファズは急ぎ気味に進む。

 春の日差しの中、静かな森をかわいい女の子と歩いている。

 状況だけを切り出せば心躍るモノがあるが、相手が鬼人なのでコメントに困る。

 しかも早足を通り越して、ジョギングみたいなペースで一時間近く移動していた。


 息切れが本格的になってきたんで、そろそろ苦情を入れようかと思っていると、不意にファズがピタッと停まった。

 俺の体力の減り具合がマズい、と察知してくれたのか。

 礼を言おうとするが、軽く杖を振って制される。

 それから、予想外の言葉が飛んできた。


『くさい』

「……えっ?」

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