恋は野の家
しのびかに黒髪の子の泣く音きこゆる
恋は野の鳥、誰にも懐かない
1.〇某マンション四階401号室前 / 午前十時ぐらい
ファミリー向けマンションの四階で、俺はなるべく優しく依頼人に話しかけた。
「それじゃー、これからダンジョンの攻略を開始します。危ないので私たちの後ろにいるようにしてくださいね」
彼は青ざめてガチガチの形相でゆっくりと頷く。短く刈り込んだ髪の隙間に汗がにじんでいる。相当緊張している。
冒険者というのは客商売でもあるから、こういう緊張をほぐせる、親しみやすい態度が肝心だと思う。
「……おい」
もっとも、外廊下の柵にもたれてそっくり返る相棒はただ怠惰なだけだ。
奴はパーカーのポッケに手を突っ込み、白い喉をさらして午前の薄い青空を眺めている。俺に客への対応を任せていい気なものだ。
「おい」
「うん」
もう一声かけると、奴は身を起こして俺の横に立った。
これで準備完了。
俺はダンジョンの入り口、『401』と印された金属製のドアに向き直る。
「じゃ、開けまーす」
また気安く宣言してから、ドアノブを捻った。
ギイィ……
ドアの向こうでは夜の窓が開け放たれていた。
そこは女の子の部屋だった。白いカーテンが風に吹かれてはためく。
「ミリー?」
依頼人のブランチ氏の口からかすれた声が零れ落ちる。それは目の前の女の子の名らしく、彼と同じく髪は栗色だった。
「何を……」
今、彼女は窓の桟に足をかけ、外に身を投げ出さんとしている。ブランチ氏は前に立つ俺と相棒を掻き分けて部屋の中に入っていく。
さわりと衣擦れの音。
薄着の上にカーディガンを羽織ったミリーが振り向き、その悲しげな顔が露わになる。白磁の頬にはたくさんのひっかき傷と青黒い痣がひっついていた。噛み締めた唇から血が一玉したたり落ちる。
「何をしようとしているんだ?」
ブランチ氏が相手の反応を窺うようにして部屋の奥に踏み込む。
部屋の中はメチャクチャでとっ散らかっていた。ベッドには投げ出されたカバンから教科書やら文房具やらが広がり、床には学校のブレザーとか下着みたいなのが落ちている。
ミリーの衣服が乱れた様子とあいまって、まるで嵐が通り過ぎた後みたいだ。もちろん、実際に嵐が通り過ぎたわけではない。窓の向こうのお月さまはピカピカしているし、電柱にはカラスが静かに羽を休めている。
今、ミリーの噛み締めた唇から血が一玉したたり落ちた。
唇が震えて言葉を紡ぐ。
『ごめんね、お兄ちゃん』
彼女はそのまま顔を戻し、息もつかずに窓から飛び降りた。
「ダメだ!」
と、ブランチ氏が叫ぶが先か、ミリーが視界の外に消えるが先か。とにかく、ブランチ氏が駆けだすころには何もかも手遅れだった。
そして、オープニングの〈BGM〉が流れ出す。
怒涛のギターから激しくも哀切なエモコアが奏でられ、部屋が姿を変えていく。
「ミリー!!」
諦め切れないブランチ氏は窓へと手を伸ばすも、それすら叶わず、窓自体が霞のように消えて行った。全ては幻だったのだ。
OPの躍動感に同調して空間は伸長していく。どこまでも床と天井が広がっていき、壁が生える。俺たちに見えるようにキャスト、この家の人々の暮らしの幻影が浮かんでは消えていった。構成は、夫婦に男児と女児が一名ずつ。
サビが終わり、OPがアウトした後に残ったのは第一階層の威容。
フィールドのデザインはオーソドックスなもので、無限ループが如く同じ漆喰の壁とフローリングの床材が続く広大な空間。天井に点々と据えられた蛍光灯が仄暗く俺たちを照らす。遠く不気味な叫び声はモンスターか、イベント用の〈NPC〉か。
「い、今のは……一体」
呆気にとられる依頼人を尻目に、俺は横の相棒に話しかける。
「アバンタイトルはこれで終了か。短くってよかったな」
「クライマックスを最初に持って来るヤツ、最近多いなーこういうの。ボク飽きた」
相棒はあくびを噛み殺しながら感想を述べた。伸びまでして、細い腕をすとんと落とす。少したるみ過ぎのようにも思えるが、俺も大して変わらないほどに気が抜けていた。高難易度のダンジョンならアバンタイトルから即戦闘なんてこともあるのだが、この程度なら恐れるほどではない。
「最近とかじゃなくて基本的な手法だろ? それより……」
言い掛けて俺は自分のジャケットの中に手を入れ、武器を取り出す。相棒も俺にならいポッケと、腰のベルトにねじ込んでいた得物を握る。
「それより、あの妹キャラいいな。幸薄そうなのって、そそる」
「あっそ」
俺たちはそれぞれの武器を用意し終え、ダンジョンへと踏み出す。立ちすくむばかりのブランチ氏に肩を叩いて声を掛けた。
「ブランチさん、危ないので私たちの後ろにいるようにしてくださいね」
◆
会社員のラッド・ブランチは、この日の朝、実家前の通りに立っていた。まもなくやってくる冒険者を待っているのだ。爽やか系と同期から称される彼の顔色は優れない。四本目の煙草をイライラと携帯灰皿でもみ消した。
彼は待ち合わせの一時間前からここに来てしまっていた。ビジネスホテルの一室で、平日の習慣のまま会社に間に合う時刻に目覚め、用意をすませここに歩いて来るまで三十分と掛からなかった。
背後の電柱に立てかけたザックには三日分の水と食糧、寝袋、あとは少しの着替えが入っていた。彼の服装は山登りのもので、動きやすそうだが閑静な住宅街では浮いた印象を周囲の住民に与えさせる。そのせいか誰も彼がかつてこの土地の者であったことに気付けなかった。
彼が冒険者を雇ったのも、会社が忙しい時期に有給を取ったのも十年前にダンジョンと化した実家に帰るためだ。
『攻略に同伴したい、ですか? その場合ですとまた料金が変わりますが』
大手冒険者事務所では目玉が飛び出るような額を提示され、やんわりと追い出された。
『結構いるんですよぉ、あなたみたいな方。でもねぇ、ダンジョンというものは――』
中小の事務所では中年の所長にとくとくと説教されてしまった。手に余るからと依頼は受けてくれなかった。
『式も近いのに、こんなことに何の意味があるの!? 死んじゃえよバカ!!』
婚約者とは大ゲンカした。当たり前だ。攻略の費用だけでも高額な上、自分も同行するなどとは自殺とあまり変わらないと彼も思う。
それでも結婚を控えたこの時期だからこそ、ラッドはダンジョンに自ら立ち入らねばならないと考えていた。
彼はダンジョンにより両親・妹、幼い日々の環境の全てを奪われた。さらに実家がダンジョンになることは社会的にも恐ろしいマイナスで、公的には『天災』と言うことになるが実際は違う。学校・企業・様々な資格試験などの選考基準に加えられているのは公然の秘密になっている。個人の人間性に対する重大なレッテルとして存在し、恋愛・就職・昇進、様々な場面で顔を出す。
ダンジョンは彼の人生の深い枷となっていた。それから解き放たれる為には――
「おはようございます」
鬱々としていたラッドに若い男の声が投げかけられた。
「ブランチさんですね? 冒険者の『ランスレーの迷子達』です」
ようやくか、と顔をあげたラッドはすぐに困惑する。この街の名を冠したパーティーの冒険者たちは、その通り子どもだったからだ。
『ランスレーの迷子達』は両方とも黒髪黒目を持つ二人の少年だった。話しかけてきた年長の方は高校生ぐらいの黄色人種で、スコップやら傘やらを生やした巨大なリュックサックを背負っている。
「相知蛙と申します。オウチが名字です。どうぞよろしく」
オウチ・カエルとは聞かない響きの名前だが、姓名の順は大陸の黄色人種の国と同じだ。おそらく彼のルーツもそういったところだろうと、ラッドは当りをつけた。
「ボクはマリウス・レポリッド。どうぞよろしく」
もう一人の少年は、ラッドと同じこの国の多数派である白人で、随分と怜悧な美形だ。だが、どうみても中学生ぐらいで中背なラッドの胸ほどの丈もなかった。
二人のなりもラッドを不安にさせる。カエルと名乗った方は擦り切れたミリタリージャケットとジーンズ、マリウスの方は黒いパーカーにカーゴパンツと、とても戦う人間には見えなかった。
「ラッド・ブランチだ。よろしく」
ラッドに軽く会釈すると、カエルは手に持っていたクリアファイルから紙を抜き出しながら喋り出した。
「それでは今回ブランチさんは攻略に同伴するということで、事前にいくつか注意を」
「ちょっと待ってくれ。も、もしかしてこれからすぐに行くのかい?」
「ええ、注意事項の確認をしたら。あ、契約内容の確認とかもしたほうがいいですか?」
「そうじゃなくて、あの、ネットで見たんだけど、こういう場合は最低限の立ち回りを教える講習や、臨床心理士か精神科医による指導の後から参加するものだとあったんだけど」
ラッドは努めて平静に喋りながらも、目の前の少年たちへの不信を隠しきれていないことに気付いていた。ところがカエルは全く気にした様子もなく呑気に答える。
「ああー、大手だとそういうことしたりするらしいですね。でも、うちは見ての通り零細なものでして。それに二泊三日の行程ですし」
そう軽い調子で言われても、不安は一層強まるだけだ。
どこからも断られるような報酬額で快諾したのは彼らだけで、悩むことなく飛びついてしまったが、最初のコンタクトから契約までメールと電話だけで会うのは今日が初めてになる。あまりに簡便で、今思えばもっと疑うべきだった。
そう思うと、ラッドの口からせきを切ったように言葉が飛び出す。
「その、格安の料金で受けて貰っておいて、こ、こんなこと言うのは憚られるんだが、君たち二人だけなのか? 服はどう見ても防具じゃないし、剣や、銃とか杖とか、武器は持っていないのか? というか、君らは子どもじゃないか、学校はどうしたんだ!?」
早口にまくし立てる依頼人を前に冒険者たちはお互いの顔を見合せ、それからこちらに向き直った。ラッドは今気づいたが、この少年たちは出会ってからこの一、二分の間、少しも表情を動かしていない。長く見ていると冷えてくるような無表情だ。
「ブランチさん、何しろ私たちはこんなですから、ご不安になってしまうのはわかります。
ですが契約の際にも確認しましたとおり、私たちは二人とも『冒険者ギルド』に認定されたA級冒険者です。これは国内で活動する約十万人のプレイヤーの内、上位十パーセントに当たる実力ということです」
「それにボクらは冒険者として三年の活動実績もあるし国に登録された正式な魔術師だ」
「バカ、依頼人には敬語を使え」
などと言いつつ、二人が見せる冒険者や魔術師の資格を表すカードと文書は、ラッドの知る限り偽造ではない。
思い返せばネット掲示板でも、彼ら『ランスレーの迷子達』はおおむね高い評価がなされている一方で、頻繁に『人でなし』『クズ』という文言が飛び出していた。何かしら難があることは元から予想ができていたのだ。ラッドは一時の感情に流されたことを反省した。
「す、すまない。どうもこんなこと初めてで落ち着かなくて」
「気にしないでください。冒険者じゃなきゃ、初めてじゃない人は中々いませんよ」
「ありがとう。無理な依頼も受けてもらったというのに、君たちには感謝のしようもないよ」
「そんなことありません、大した苦労でもないですし」
「いや、取り繕わないでもいい。安い金で足手まといを守りながら行くんだ、本当は面倒くさいだろう? 他の事務所じゃ『非常識だ』とこっぴどく説教されたからわかってる。
でも、私はどうしてもダンジョンに入らなければいけない。だから、君たちには本当に感謝しているんだ」
「えっ、そうなんスカ」
ラッドの本心からの言葉に『ランスレーの迷子達』は再び顔を見合せて、今度はカエルだけが視線を元に戻した。
「まあとにかく、恐縮しないでください。本当に大したことないんです」
それから相変わらずの真顔で、こう続ける。
「なにせ攻略中にあなたが死亡しても半金はいただける契約ですからね」
◆
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