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 心なしか、ペダルに掛けた足に力が入る。おさがりでもらった赤い腕時計の針は、もうすぐ9時を指そうとしている。図書館の開館時間までには十分余裕はあるが、この時期は早めに行くに越したことはない。勢いよくペダルを踏み込むと、お気に入りの真っ青なサイクリング者は、更にスピードを上げ、住宅街を軽やかに駆け抜けた。

 このサイクリング者は、12歳の誕生日に両親から買ってもらったものだ。もしかしたら、生まれて初めて「自分が欲しいと思うものを自分で選んだ」ものかもしれない。妹の宿命で、ジャケットにしろ、ブラウスにしろ、スカートにしろ、幼いころはいつも一つ年上の姉のおさがりを着せられていた。古着とはいえ、愛らしさを醸し出す赤やピンクなどの色合い、ふわふわしたレースやフリル、色鮮やかなドット柄や花柄など、見ているだけで心が弾むようなかわいらしい服ばかりで、あまり抵抗感はなかったし、自分はこういうのが好きなんだとも思っていた。

 小学校5年生の夏休みのことだった。その年は、両親と姉の4人で、2泊3日で沖縄へ家族旅行に出かけた。それまでの夏休みは、避暑を兼ねて、北海道や長野県に行くことが多かったが、この年放映された沖縄を舞台にしたテレビドラマを見てすっかり魅了された姉妹は、「今年の夏休みは沖縄に行きたい」と2人そろって両親に働きかけ、それならということで異例の沖縄旅行が実現したのだ。

 那覇空港に着いて真っ先に感じたことは、空港内に飾られている目にも鮮やかな亜熱帯の花々でも、皮膚を突き刺すような強い日差しでもない

 「……空が違う」

これまでは空を見上げても「いい天気だな」と思うことはあっても、空そのものが「きれい」と感じたことはなかった。目の前に広がる沖縄の空は、いつも見ていたような空よりも青みが濃く、たなびく雲の白と相まった美しいコントラストを描き出していた。

 「どうしたの、早くきなさい」

母の呼ぶ声に、はっと我に返ると、どうやら立ち止まって見とれていたらしく、両親と姉は、数メートル先からこちらを振替り、揃って気遣わしそうな顔つきで見つめている。急いで3人の元に駆け寄り、皆に倣って歩き出す。すぐ隣にいる姉に

 「空、きれいだね」

と話しかけると、姉はちらりと空を見て、「そうだね、いい天気で良かったね」とほほ笑んでくれたが、再び空を仰ぎ見ることはなかった。きっと、姉も同じように、沖縄の空の美しさに見とれるものだとばかり思っていただけに、あまりにも薄い反応に肩透かしを食わされた心地だった。

 家族は、空港からレンタカーで沖縄本島を北上し、西海岸沿いのリゾートを目指していった。朝が早かったことと、車の心地よい揺れについ眠くなり、うつらうつらとしていると、急に肩を揺さぶられた。

 「海だよ!」

姉の言葉に、ぼんやりと窓の方に目を向けた瞬間、それまで寝ぼけ眼だった目がぱっと見開き、窓に顔を近づけると、車窓からの景色を食い入るように見つめた。プライベートビーチなのだろうか、眼下には、人の姿の全くない白い砂浜が広がり、波打ち際では、薄いエメラルドグリーンの波が飛沫を上げ、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。沖の方に目を進めると、だんだんと水色に変わり、急に深くなっているのだろうか、あるところから深い青色が広がっている。

 「……海って、こんなにきれいなんだ」

以前、海水浴で近郊の海に訪れたことがあった。そこで目にしたのは、まるで墨汁のような真っ黒い水が押しては返していく光景で、お世辞にも決してきれいと呼べるようなものではなかった。以来、海というものは黒々としたもので、テレビなどで映し出される青い海は、自分たちが住む世界とは全く異なる、絵空事なのだと受け止めていただけに、青い海が実際に存在することに驚きを禁じ得なかった。そして、その時に、「私はこの色が好きだ」とはっきりと感じた。

 旅行から戻った後も、身近な空や水の青、木々の緑にも関心を持つようになった。これまでは、両親が買い与えてくれた服や小物が赤系統の物ばかりだったので、何となくそれらの色が好きなような気になっていたが、沖縄での体験を機に、青系統の色が好きなことに気付いたのである。そして、迎えた誕生日のこと。身長が伸びたことで、姉からもらい受けた赤い自転車が小さくなったので、プレゼントとして新しい自転車を買ってもらえることになっていた。売り場に並ぶ、いくつもの真新しい自転車の中から「これ」と選んだものが、あの日見た沖縄の空の色とそっくりな濃い青色の自転車だった。両親は、意外そうな反応を示したものの、特に意義を唱えることもなく、その青色の自転車はすんなりと与えられた。

 同時に、趣味や嗜好の点で、姉との差異が顕著に表れ始めたのもこのころからだった。姉は、幼いころから一貫して赤やピンクなどの暖色系を好み、よく友人たちとバスケットボールやソフトボールをして楽しんでいる一方、色でいえば青や緑などの寒色系を好むようになり、暇さえあれば自室にこもって本を読んだりイラストを描いたり、友人たちとの交流も、お茶やお菓子をつまみながらたわいのないおしゃべりに興じることの方が多かった。成長と共に、お互いの好みや生活スタイルは変わっていったが、優しく頼りがいのある姉は妹を、無邪気でかわいらしい妹は姉を、互いに互いを愛おしむ気持ちを持ち続け、今でも仲の良い姉妹であることに変わりはなかった。

 住宅街を抜け、バス通りに出た。急ぎたいのはやまやまだが、ここは車も通るし、歩道にも幾人もの人が行きかっている。焦る気持ちを抑え、スピードを緩める。そこから更に数分自転車を走らせたところで、急にブレーキを踏み、目の前の光景に唖然とした。開館時間前だというのに、図書館の前にはすでに人が群がり行列をなしていた。友人から、この時期、特に土日は混雑するから、図書館の学習室を使うなら朝一番に行くよう言われていたので、その通りに出かけてきたのに、まさかもう既にこれだけの人がいるとは予想していなかった。

 「学習室?」

 突然、声をかけられ、驚いて振り向くと、首から名札をぶら下げ、スラックスにポロシャツ姿の男性が経っていた。どうやら、この図書館の司書らしい。

 「……あ、はい……。使えますか?」

自転車にまたがったまま尋ねると、男性はチラリと行列を見やり

 「学習室は先着順だからね。今から並んでも、すぐには入れなさそうだから順番待ちになるだろうね」

 「順番待ちって……、どのくらい待ったら学習室を使えますか?」

 「それは……」と、男性は額にしわを寄せると

 「順番待ちの人には整理券を渡しますので、前の利用者が学習室を出たら、券の番号順で入ってもらいます。……ただ、利用時間を定めているわけじゃないから、どのくらい待つかは……、分からないな……」

 「そうですか……」と、気のない返事をすると、その男性は会釈してその場を離れていった。自室では誘惑物が多いし、参考書なども充実しているから、これから毎週末は図書館で受験勉強に勤しもうと決めたのに、しょっぱなから出ばなをくじかれてしまった。ここでぐずぐず考えていても仕方ないし、かと言って、今から順番待ちの列に並んだとしても、いつ学習室に入れるか分からない。そんなことで、この貴重な休日を潰すわけにはいかない。

 今日は、おとなしく返って家で勉強しようと、再びペダルに足をかけた。バス通りに出た瞬間、心の中で「あ」と呟いた。ちょうど、今から戻ろうとしている道の方から、見知った顔が近づいてくるのが見えた。(続く)

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