(9)

 驚いて振り向くと、走ってきたのか、息を弾ませ、紅潮した頬が目に入った。思ったよりも顔が近くて二度驚く。

 「……せ、先生。どうしたんですか……?」

真也が振り向くと、サッカー部顧問の清水がいた。真也の驚嘆ぶりを見て我に返ったのか、清水はばつが悪そうに頭をかきながら

 「どうしたんですかって……、おまえ。見かけたから声かけたのに全く反応しないし、……何というか、自分の世界にどっぷり嵌って心非ずというか、魂がすっかり抜けちまったような顔でぼんやり歩いているから、心配になって追いかけてきたんだ」

今度は真也の方がばつが悪くなり、清水のように右手で後ろ頭をかいた。

 「すいません、ちょっと考え事していたもので……」

 「……悩み事か?」

すっかり息を整えた清水は、まっすぐに真也の目を見て言った。

 「ええ、まあ、……そんなところです」

 「……もしかして、模擬試験のことか? 思ったよりも結果が良くなかったとか……」

 「分かりますか!?」と、真也が目を向くと

 「この時期、中3が落ち込んでいれば何となく想像がつく。……それにしても、広崎、さっきの様子は、いつものおまえらしくないほど思いつめていたように見えたが……、そんなに悪かったのか?」

サッカー部や体育の授業では見せたことのない、清水の柔らかな物腰にほだされ、この心のもやもやを誰かにぶつけたいという気持ちも働いて、真也の口は自然と開いた。

 「悪いというか……、俺、第一志望を相模高校にしているんですが、今回の模試の結果だと合格が危ういんです。……木村先生からも、このまま成績が伸びなければ、志望校をもう一度考え直せって言われちゃって……」

 「……すぐに帰らなくても大丈夫か?」

 「え?」と、話の腰を折られた真也がきょとんとしていると

 「時間あるか? ……立ち話で済むような話でもなさそうだから、きちんと腰を据えて聞こうと思って」

思わぬ提案に、真也は「あ……はい」と曖昧な返事をすると、清水は「来なさい」と手招きして踵を返すと、そのままずんずんと正門の方へ戻っていった。真也も慌てて清水の後を追い、一緒に正門をくぐると、そのまま校舎へと入った。

 数分後、真也は再び同じ相談室の椅子に腰掛けていた。先ほどと違うのは、相手が木村ではなく清水ということだ。

 「進路について思うことがあるんだな。とにかく話してみなさい」

言われるままついてきてしまったが、いざ「話せ」と言われても、何を話せばいいのか、そもそも、いくら部活の顧問だったからといって、模試の結果のことを伝えるのは少々抵抗感がある。

 「……全部話しなさいとは言わない、話せることだけでいいんだ。先生だって、話してもらったところで、広崎が求めているアドバイスができるわけじゃないし……。それに、悩み事があったら内に籠らず、人に話した方がいい。解決策は見つからなくても、口にするだけでずいぶん気持ちはすっきりするものだぞ」

 「……はい」

 ポツリポツリと、真也は話し出した。今年に入って、卒業後の進路を考え、相模高校に決めたこと。4月の面談で、木村から忠告されたが、それを跳ねのけて希望を貫いたこと。一方で、夏まではサッカー部の活動に重点を置いて、受験には秋以降臨もうと考えていたこと。実際は、なかなか勉強が捗らず、模擬試験で思ったような結果が出せなかったこと。そして、木村から相模はかなり厳しい、年末までに勉強の成果が上がらなければ志望校を考え直せと言われたこと、思いつくことは洗いざらい話した。だが、清水にも、相模を志望した理由は、大学進学を念頭に置いて決めたと、建前の方を伝えた。

 清水は、時折真也の話に「うん」と頷きを返すだけで、一切口を挟まなかった。真也の話が終わるとみるや否や「それで……」と口火を切り

 「広崎は、今の時点でどうしたいと考えているんだ? やっぱり何が何でも相模に行きたいと思っているのか?」

単刀直入な清水の問いかけに、真也の頭の中には、再び木村からの「気持ちだけが先走って、行動が伴っていない」という言葉が蘇り、思わず顔をしかめた。

 「……さっき木村先生と話して、正直、今とっても迷ってます」

 「迷っているってのは?」

 「行きたいって気持ちは強いんですが、それを実現させるだけの……実力が今はないし、……これから年末まで受験勉強して、どのくらい実力が上がるのか……自信がなくて……」

 「じゃ、できれば相模に行きたいってことだな」

 「えっ……、まあ、そういうことです」と真也が答えると、清水は、机を睨むような硬い表情になり、しばらくの間黙り込んだ。数秒後、さっと顔を上げ、真也の前に右手を付き出すと

 「広崎の模試の回答、ちょっと貸しなさい」

と言った。有無を言わさぬような清水の勢いに、真也はほぼ何も考えずに鞄から回答用紙が入った茶封筒を取り出し、清水に渡した。清水は、「先生の立場でここまでやるのは、ちょっと出すぎているんだけどな……」と呟きながら、回答用紙に目を走らせた。つい渡してしまったが、いくら先生とはいえ、他人に回答用紙を見られるのはあまり気持ちのいいものではない、しかもさほどいい点数ではない答案を。うろたえる真也にはおかまいなく、清水は丁寧に読み進め、時には脇に置いたメモ帳に何やら書き取っている。おもむろに清水はペンを置き、回答用紙から顔を上げると、「回答用紙を見せてもらったのは、おまえの傾向を掴むためだ」と言った。

 「傾向?」と、真也が首をひねり、清水の方を見返すと

 「まず、全体的なことだ。あくまでも、今回の模試の結果からの推測だが、広崎の勉強方法には斑があるんじゃないか?」

 「斑って……、それは、偏った勉強をしているってことですか?」

 「そうだ」と清水が頷くと、真也は否定を表すため片手を振って

 「そんなことはありません。ちゃんと5教科全て均等に勉強を進めているつもりです」

と言うと「それが偏っていると言うんだ」と、すげなく言い返された。

 「いいか、まず各教科の点数を比べてみろ」

と、5教科の回答用紙が机の上に並べられた。

 「広崎の場合、最も点数がいいのは社会科、一番悪いのは数学だ」

 「はい」

 「これらの点数から、理系よりも文系の方が得意のように思えるのだが、どうだ、そういう自覚はあるか?」

目の前の回答用紙を見ると、確かに数学や理科よりも、国語や社会の方が点数が高く、実際それらの教科の方が、苦手意識が少ないという自覚もあった。真也が無言でコクリと頷くと

 「改めて言われると分かるだろう。たまに全教科オールマイティにこなす子もいるが、大半の生徒は、科目によって得意・不得意にバラつきがあるものだ。科目によってバラつきがあるのに、勉強は5教科とも均一にやっても、特異な科目と苦手な科目の差は縮まらない。……普段の勉強ならいいが、今は志望する高校に入ることを念頭においた勉強をしなければならん。突っ込んだ言い方をすれば、確実に点数を稼げる勉強をな」

 「どうすればいいんですか」と、真也が勢い込むと、清水は、真也の勢いを制止するように手のひらを前に出し

 「それを考えるのは次のステップだ」と言いながら、数学の回答用紙を取り上げ、パラパラとめくった。

 「広崎も知っていると思うが、高校受験の点数は、中学校からの内申書と、入試当日の5教科の点数の合計だ。例え話だが、試験でとある科目が0店でも、志望する学校の偏差値によっては、他の教科でそこそこの点数が取れていれば合格できる」

とても大切な話をしていると気付いた真也は、急いで傍らの鞄からメモ帳とシャーペンを取り出した。真也の書き取る準備ができるのを待って、清水は話し続けた。

 「大きく分けて、勉強の仕方は2つある。ひとつは、苦手な科目に重点を置いて、全体のボトムアップを図ること。もうひとつは、いっそのこと苦手科目は置いといて、得意科目の点数を上げることに注力することだが、……広崎の場合は全社だろうな。例えば……」

と、数学の回答用紙の計算問題の個所を指さし

 「試験には、必ず『得点稼ぎ』と呼ばれる問題が出る。ここを確実に取れるか否かで、合否が大きく左右されると言ってもいい。数学の場合は計算問題がそれに当たるのだが、見てのとおり、ここでかなりの点数を落としている。おまえ、数学についてはどんな勉強してた?」

 「教科書に沿って、参考書と合わせながら問題を解いていました」

 「そのやり方だと、単元ごとの基礎から応用まで浚うことになるが、ひとつの単元に時間を取られて万遍なく勉強するのが難しくなる。特に今の時期からだと、全く手つかずの単元があるまま、受験を迎えることにもなりかねん。まずは、応用はひとまず置いといて、各単元の基礎、計算問題を繰り返しやりなさい。計算問題に特化した問題集も出ているから、そういうものを利用するとなおいいぞ。応用に入るのはそれからだ。仮に時間切れで取り掛かれなかった部分があっても、基礎を抑えていれば、試験当日によけいな不安を感じることもないだろう。……部活の時にも似たようなことを言ったが、まずは『計算問題を確実にこなす』という短期目標を立てることが大切なんだ、分かるな」

以前、サッカー部で、全くの初心者だった深夜に「まずは、足腰を鍛えるために走り込みをしろ」や「足裏でのボールタッチの反復練習をしろ」など、その時その時で課題を言い渡され、なかなか実戦練習をさせてもらえないことに不満を抱いていた時期があった。そんな深夜の心境を見抜いたのか、清水から

 「サッカーは45分間ずっと走り続けなければならない。広崎は、それだけの時間走れるだけの体力が不十分だ、それに、おまえは足でボールを操ることに慣れてない。そんな状況じゃ、いくらドリブルやパスやシュートの練習をしても身にならないぞ。おまえの場合、まずは基礎を固めるという目標を達成することが先決だ。そのあとで、実戦での課題をひとつずつこなしていけばいい」

と諭されたことを思い出した。真也だけではない、清水はいつも部員一人一人に対して、目の前の課題に取り組む「短期目標」、そしてそれらの積み重ねで達成する「長期目標」を課していた。

 「それとだ」と、清水の言葉にはっと我に返ると、目の前に今度は社会科の回答用紙が差し出されていた。

 「次は、具体的な弱点の見つけ方だ。広崎の場合、社会科が顕著に表れている。……政党と不正等を比べて何か気がつくところはないか?」

受け取った社会科の回答用紙を1問ずつ見返しながら

 「……地理がほぼ全滅ですね」と言った。その答えに、清水は満足そうに頷くと

 「そうだな。社会科は、1年生で地理、2年生で歴史、3年生で公民を学習する。単純な話、ちょうど今習っている公民が一番記憶に残っていて、逆に、一番前に習った地理が記憶から抜け落ちているのは当然だな。どうだ、何か心当たりはないか」

 「そうですね……、一応1年生の時の復讐もしていたのですが、2年生や3年生の時の勉強と並行していたので、こうして結果を見ると、昔ならったことの復習が不十分だったなと思います」

 「さっきも言ったが、受験はどれだけ多くの点数を稼げる勉強をするかが大切なんだ。好きな科目、やりやすい科目からやるという発想はダメだ。せっかく模試を受けてその結果があるんだ、これを利用しない手はない」

 「と言いますと?」

 「例えばな」と言って、清水は社会科の回答用紙に「地理 機構」、「地理 産業」、「歴史 縄文」、「公民 憲法」など書き出していった。

 「今は回答用紙に直接書き込んだが、実際やるときは別の紙を使って表にして、その問題の分野と正解・不正解を書くんだ。こうすれば、自分がどの分野に強いか、弱いか、ひとつの傾向が見えてくる。それが分かれば、どの分野に重点を置いて時間を割いて勉強すべきかが分かってくるはずだ。これは他の教科でも言える。今日、返ったら、まず模試の回答と教科書を照らし合わせて表を作ってみなさい」

 真也は清水の指導を書き取りながら、感動にも似た震えを感じていた。そして、同時に、これまで先の見通しが全く立たずに、ただ困惑していたところに、一筋の光明を見つけたような手ごたえを感じていた。

 「最後に、広崎は、教科書の他にどんな参考書や問題集を使っている?」

と問われ、今使っている参考書や問題集の題名を2・3挙げた。

 「今、挙げた中で、その問題集はダメだ」

 「えっ? 相模の過去問が網羅されているものですよ」

 「過去問は非常に重要な資料だが、やみくもに選べばいいってもんじゃない。おまえが使っているのは、相模の過去10数年分の問題と解答が乗っているやつだろ」

 「そうです。たくさん掲載されているから、これがいいかなと」

 「あの過去問は、掲載量は多いが、回答だけで解説が載っていない。問題集で重要なのは、どれだけ解説が充実しているかなんだ。ここ数年は学習指導要領の改訂もないから、はっきり言って、過去の傾向を掴むだけなら2・3年あれば十分だ」

と言って、いくつかの過去問題集の題名を上げた。

 「それと、過去問を使うなら、開始時間、試験時間、試験の時間割も、当日と全く同じ条件で解いてみることだ。こうすれば、本番の予行演習も兼ねられるし、当日のリズムも掴めるぞ。そして、答え合わせをして間違った問題があれば、必ずやり直すことだ」

 真也がメモを書き終えるのを確認すると、「先生から伝えられることは以上だ」と言って、背もたれに寄りかかり肩の力を抜いた。

 「ありがとうございます」

と真也は深々と頭を下げた。

 「本来なら、先生の立場で言うのはちょっと出すぎたことなんだ。あんまりでしゃばるようなことをすると、クラス担任の木村先生の顔を潰すことにもなりかねないからな」

 「でも、先生のおかげでなんだか目の前が晴れたような気がします。模試の結果が出た時は、どうすればいいのか、全く手立てが思いつかなかったので」

 「そっか」と清水は微笑んだ。

 「……まさか、清水先生が進路指導できるとは思いませんでした」

 「なんだ、広崎。体育教師は、頭の中まで筋肉だと思っているのか?」

と、意地の悪い笑みを浮かべると、真也は手を口に当て「……いや、そんなつもりじゃ……」と口ごもった。清水は「あはは」と盛大に笑うと

 「これでも先生は教育学部だったんだ。中学や高校の保健体育科だけじゃなくて、小学校の教員免許も持っている。今年度は、教務主任になったから担任はしてないが、去年までは、クラスの子たちに同じような指導をしていたんだよ」

真也はふと興味に駆られて「じゃ、去年も僕と同じように、模試の結果がよくなくて、先生の指導を受けた人もいるんですか?」と尋ねると、「そりゃ、いたさ」と即答した。

 「単に勉強の足りない子や、見当違いの勉強の仕方をしている子もいたし、いろいろな事情で私立は無理だから、是が非でも公立にって子もいたし、どうしても第一志望の高校じゃなきゃ嫌だって、拘りを持っている子もいたよ。思うような結果が出せないって原因や、志望する高校に行きたいって動機は様々だけど、目指すところは同じだからな。その子その子に見合った方向性を示したつもりだよ」

 「先生の指導を受けた子は、全員希望のところに行けたんですか?」

清水はゆるゆるとかぶりを振ると

 「残念ながら、全員ってわけにはいかないよ。どんなに頑張っても、実力が身に着くまでに時間が掛かる子、当日思ったような実力が発揮できなかった子、定員の関係で縁にめぐり会えなかった子だっているさ。……あくまでも、先生が伝えたのは、生徒たちの傾向を見て分析したことと、今後の対策を立てるための方向性を示しただけだ。広崎の場合だってそうだ、今聞いたことを生かせるかどうかは、おまえのこれからの頑張りしだいだ。もし、それでも不安の方が強いようなら、木村先生の指導に従いなさい」

 「はい」と答えると、「じゃ、返ろうか。すっかり長話になってしまった、親御さんが心配しているかもしれないから、速やかに帰りなさい」

と真也を促した。再び、真也は清水に礼をすると、足取りも軽やかに相談室を出ていった。しっかりと背筋を伸ばして立ち去る真也の後姿を見て、「いい顔になったな」と清水はそっとほくそ笑んだ。

 職員室に戻ると、清水の元へ木村が歩み寄り、「清水先生」と呼び止めた。

 「どうでしたか? 広崎との話し合い、うまくいきましたか?」

 「ええ」と、清水は礼を返すと

 「私の突然の要望に、快く承諾してくださいましてありがとうございます。おかげで、私が言いたかったことは、全て彼に伝えることができました」

 1時間ほど前、木村が職員室に戻り、ほんの雑談として広崎と面談したことを清水に話すと、「その件、私からも広崎に伝えたいことがあるのですが、少し彼と話してもいいですか?」との申し出があったので、木村は「いいですよ」と了承した。

 「でも、どうしたんですか、急に? もしかして、広崎の成績が思わしくなかったのは、夏まで部活に熱中していたからとでも? そう思っているんなら筋違いというものですよ……」

と木村が怪訝そうな調子で問いかけると、清水は右手を左右に振りながら

 「いやいや、さすがにそうは思っていませんよ。部活動は、生徒の自主的な活動だし、部活をしながらでも、きちんと受験対策ができている生徒もいますからね」

 「だったらなぜ?」

と再度問いかけると、清水は木村の顔から眼を放し、ちらりと窓の外の校庭の様子を伺うような素振りをして、独り言のように言った。

 「……まあ、広崎については、サッカー部に入部した時から、ちょっと感じるものがあったんですよ。……今回の受験でも、彼は彼なりに考えた末に決めたことだと思うんですが、理想と現実のギャップに苦悩しているようだったので、少し助言してやりたくなったんですよ」

 清水は、そっと苦笑いを浮かべながら呟いた。

 「あの年頃の子どもたちは、いろんな感情や思いがぶつかり合って、時々、進むべき道の歩き方が分からなくなってしまうことがありますからね」(続く)

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