(8)
「……なるほどな」
放課後の相談室で、真也と木村は机ひとつ挟んで向かい合っていた。机の上には、先日行われた採点済みの模擬試験の解答が広げられている。
相模北中学では、毎年秋に、3年生全員を対象に、国・英・数・理・社の5教科の模擬試験が行われる。高校受験を目前に、現時点までの達成度を図ることが狙いだ。中学1年から中学3年の上半期までの2年半が出題範囲とあって、夏休み明けから準備をしていたが、気持ちがふさぎ込んでいたことで思ったように集中力が上がらず、自分が思い描いたような結果が出せなかった。
「なあ」と、木村は回答用紙から真也の方へと向き直り、「春の面談の時、先生が言ったこと覚えているか?」
真也は記憶の糸を手繰り寄せ
「……これまで以上に努力する必要がある……ってことですか」
「そうだな」と、ひとつ頷くと
「この半年間、広崎が怠けていたとは言わない。1学期の中間試験も期末試験も、それなりの点数が取れているし、2年次の学年末試験と比較しても、今回の模擬試験の結果が極端に落ち込んでいるとも思えない。……ただな」
と、木村はやや語調を強め
「相模を志望するなら、この成績じゃ不十分だ。今の学力をキープするだけじゃダメだって、これは面談の時にも行ったぞ。そういう意味じゃ、受験に対して努力不足だと言わざるを得ないな」
木村からの痛烈な評価に、思わず真也は肩を落とし、顔を伏せた。目の前には、木村の方を向いて置きっぱなしになっている数学の模擬試験の回答用紙に着けられた点数が逆さまを向いている。
「もう一度聞くが、志望校を買えるつもりはないんだな」
「……はい」
「それなら、今までの勉強方法じゃダメだ。今以上に受験勉強に当てる時間を増やすとか、親御さんと相談して短期の補習塾を利用するとか……、もっと積極的に受験対策に乗り出さないと、希望を叶えることはできないぞ」
「分かりました。頑張って、きっと巻き返してみせます……」
言葉は決意に満ちているが、試験結果が想像以上に答えたらしく、自分でも情けないことに声が尻すぼみに小さくなってしまう。「頼むぞ」と、木村は椅子から立ち上がった、これで面談は終わりということらしい。真也も、退室するため机上の回答用紙を茶封筒に詰めていると「……広崎」と呼びかけられた。首を上げると、こちらをじっと見下ろしている木村と目が合う。
「しつこいようだが、年末にもう一度おまえの意思確認をさせてもらう。もし、それまでに手ごたえを感じていれば、このまま相模で行こう……」
木村は意味ありげに言葉を切ると、真也に言い聞かせるようにゆっくりと重々しい口調になって
「逆に、迷いや不安があるなら、12月ならまだ間に合う、志望校を考え直せ。おまえにとっては不本意な忠告だろうが、最初から限りなく可能性の低いところに挑戦したところで結果は見えている。もし、取りあえず滑り止めで受験したところに入れたとしても、多分悔いを残したまま高校生活を送ることになる。それなら、今のうちから熟考して、例え不本意であっても、目標を変える決断をした方が受け入れられるはずだ」
「……」
「今のおまえを見ていると、相模に行きたいって決心は固いものの、行きたいという気持ちばかりが先走って、実現するための努力や行動が伴っていないように思えて仕方ないんだ」
何も言葉を返せない真也は、再び視線を机の上に落とした。気落ちしている真也の様子に、場の空気をとりなそうと、木村は目元を和らげて口調を緩めると
「今後の大学進学を見据えて、一段上の高校を目指そうというおまえの考えや姿勢はとても素晴らしいことだし、先生もその気持ちは認めているし応援もしたい。しかしだ、どんなに理想が高くとも、叶えるために費やす労力や時間が足りなければ結果はついてこない。今からでもいいから、その当たりの覚悟ができているか、もう一度自分自身に問いかけてみなさい。……つきなみな言葉だが、諦めも勇気だぞ。分かってくれるな」
真也の肩をポンポンと叩くと、「気をつけて帰りなさい」と言い残して、木村は先に相談室を出て行った。だが、真也は、頬のほてりと胸の辺りからジンとこみ上げてくるものを感じ、すぐに立ち上がる気にはなれなかった。木村の叱咤に傷ついたわけではない、ましてや怒りを覚えたわけでもない。真也は、ただひたすら恥ずかしかったのだ。
「……じゃ、山本先輩は相模なんですね」
「うん、いろいろ考えたけど、相模高校に決めたわ」
「無事、合格するといいですね。頑張ってください!」
「そうだね、ホント頑張らないと受からないよね。私、引退するまでは受験勉強そっちのけでサッカー部にどっぷりだろうから、人一倍努力しないと落ちちゃうよね」
「……あ、いや……、そういうつもりじゃ……」
「冗談、冗談。でも、引退までサッカー部に専念するってのは本当だよ」
「じゃ、2学期くらいからですか。受験勉強って、そのくらいから始めても大丈夫なんですか?」
「うーん、大丈夫かどうかは分からない。受験することは決まっているんだから、早いうちからやっておくことに越したことはないんだし。でもね、やっぱり春から夏の間は、地区予選のことで頭がいっぱいになるのよね。そんな気持ちで受験勉強しても実にならないだろうし、返ってどっちつかずにもなっちゃいそうだから、夏まではサッカー部、終わったら受験って気持ちを切り替えようって決心したんだ」
「……そういうことなら、先輩の思いに答えられるように、僕たちも頑張りますよ」
「そうだね、今年は全国大会に手が届きそうだから、去年よりも忙しくなりそうだしね」
真也は、1年半前のことを思い出していた。あれは、真也が2年生、由香利先輩が3年生を目前に控えた3月、新年度を迎える前にサッカー部全員で倉庫の掃除や備品の手入れをすることになった。真也は、由香利先輩と2人でサッカーボールの圧の点検と空気入れをしており、雑談をしながら作業していた時に、たまたま話題が由香利先輩の高校受験のことになったのだ。その後、由香利先輩は8月でサッカー部を引退するまでマネージャーを務め、秋以降は受験勉強に専念し、サッカー部にもぱったりと顔を出さなくなった。そして更に数か月後、香織から、由香利先輩が相模高校に受かったと教えてもらったのだ。
由香利先輩と高校受験の話をしてからちょうど1年後、今度は、真也が受験生として、卒業後の進路を見出さなければならない立場になっていた。真也には、特に学びたいことも、将来付きたい職業もないので、取りあえず漠然と進学校の普通科に入れればという程度にしか考えていなかった。何も、真也一人だけが、進路に対する見通しが甘いわけではない。事実、周りの友人に聞いても、中学卒業後のことなんて真也とほぼ変わりなく、自宅から通える範囲で、自分の学力に見合った高校へ取りあえず進学するという考えが大半を占めていた。言うなれば、特に拘る理由がなければ、些細な切っ掛けが決め手になる。真也にとっての決め手は、「由香利先輩が相模高校に進学した」ということだった。受験に挑むに当たって、自分の学力と相模高校との合格ラインとの間は若干開き気味であることは認識していた。しかし、離れているとはいっても、全国でも名高い名門進学校を志望するわけではない。努力次第で充分合格水準に達するだろうと思っていたし、由香利先輩の学力がどれくらいなものか知る由はないが、由香利先輩に習って、秋から始めれば充分間に合うだろうと高をくくっていたところがあった。
「気持ちだけが先走って、行動が伴っていない」
木村の発した一言が心に突き刺さる。まさにその通りだ、さすがは教師、真也の胸中までは悟られてはいないと思うが、今の状況を的確に見抜いている。木村に指摘されたこと、合格ラインにはほど遠い模擬試験の結果、そして「好きな女の子がいるから」という安直な理由で志望校を決めたこと、様々な要因が真也をみじめたらしくさせていた。
いつまでも俯いていても仕方ない。茶封筒を手に取ると、重い腰を上げてそのまま教室へと向かった。教室には、友人同市で語らうもの、教科書やノートを広げて宿題に勤しむ者など、数人のクラスメイトがおり、その中には親しい者もいたが、誰とも話す気になれなかった真也は、手にした茶封筒を鞄に詰め込むと、誰に呼びかけるでもなく「それじゃ」と一言残して出て行った。
去り際に木村が残した「諦めも勇気」という言葉。……これは、いい加減つまらない拘りは捨てて、志望校を変えろとの忠告なのだろう。もちろん、木村は知らないはずだが、真也には「由香利先輩のことは諦めろ」という意味合いとダブって聞こえてしまう。本来、進路と恋愛は全く別物だ。しかし、学校が交友関係の中心となっている中学生にとって、学校内で会える機会がなければ、お互いの関係は破たんしたと言っても決して過言ではない。
「そんな状況になるのが嫌で、接する機会があれば、何かの拍子に関係が進展するかもとの淡い期待もあって、そういう気持ちがあれば乗り越えられると思って選んだはずなのに、本当に良かったんだろうか……」
そんなことを考えながら、正門を抜け、通学路をあるいていると、ふいに背中に誰かの手が触れるのを感じた。(続く)
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