(7)
香織の言葉にはっとなる。今まで引きずっていた地区予選の敗退からくる悔しさや虚無感がすっと消え、それと入れ替わるように新たな重荷が深夜の心の中に居座った。どんなに悔やんだところで、もう地区予選など過去のことに過ぎない。数か月後には中学校卒業を迎え、新たな環境へ足を踏み入れることになる。その新たな環境に足を踏み入れるために進路を定めなければならないという、真也には、中学3年生としての切実な問題が目の前に迫っているのだ。
真也も香織も、卒業後の進路は地元の公立高校への進学を志望しており、共に県立相模高等学校を第一志望に据えている。ずば抜けて偏差値の高い学校ではないが、正直、今の真也の学力では、そう容易く乗り越えられる壁ではない。3学年に進級して間もない頃、担任教師と母親を交えて行われた3者面談の場で、「相模高校を志望します」と真也が宣言した時、担任の木村は渋い顔をして「うーむ」とうなったものだ。
「厳しいことを言うが、今のおまえの成績では相模はちとハードルが高いかもしれんな」と真也の目をまっすぐに見つめ、諭すような口調で言い放った。
「広崎の学力からすれば、松ヶ丘あたりが無難だと思うぞ。校風もいいし、今の実力をキープしておけば、比較的楽に受験を乗り越えられる」
松ヶ丘は、学区内にある中級の進学校で、相模北中学では、平均程度の成績の生徒が進学するお決まりの学校となっている。松ヶ丘そのものは、校風もいいし、レベルもさほど低いわけでもないし、地域の評判もいい。実際サッカー部の連中はじめ、松ヶ丘を志望している友人も少なくない。先生の言うように、確かに2年生終了時までの真也の成績だけを考えれば、松ヶ丘を志望するのが無難な選択であり、合格する可能性も高い。
「いや……、でも、相模意外の学校には興味がないので……。今後、大学への進学も考えると、やっぱり……」
「そうか……」
木村は再び唸り、銀縁めがねのつるに手を当て、めがねの意智を整えながら何やら熟考するようなしぐさで、しばらくの間沈黙した。木村は、2年生から続けて真也のクラスの学級担任を受け持っている男だが、真也の出会った教師の中でも、わりと生徒の意思や気持ちを尊重し、生徒主体の教育を主軸にして取り組んでいる教師だと認識している。しかしながら、今回の真也の発言のように、生徒の意思だけを尊重して「そうか」と二つ返事で了解してしまうような無責任なことはしない。彼にいわせれば、それは単なる放任であって、今受け持っている30数名の子どもたちが直面している「受験」というステップに対して、個々に適した道を示すことが自分の役割であると自覚している。もちろん、木村自身の意見を生徒にごり押しするようなことはしないが、どうやってこの相対する状況に、お互いが納得できる結論を導き出そうか、その落としどころを模索しているのだろう。
「お母さんはどうですか?」と、話の矛先を真也の母である芳江に向けた。
「真也くんの希望としては、相模高校の線で頑張りたいとのことですが、そのあたりのことについては、ご家庭で真也くんと話し合われましたか?」
「ええ」と、芳江は落ち着き払って木村に向かい
「先日、私も真也に進路について聞いたところ、やはり相模高校と……」
と静かな口調で答えた。真也の母、芳江は、普段から真也の勉強や成績についてとやかく口出しすることはなく、時折、定期試験の結果や通知表を見て小言を言うことはあるが、口うるさく勉強を強制するようなことはしなかった。その代り、常々、自分の行動や結果には責任を持つようにと言っている。芳江自身、学校生活においては勉強だけではなく、部活動や友人との交流も大切なものであると認識しているので、始終勉強勉強とばかり言うのは、返って子どもの健やかな成長の妨げになるのではと考えている。なので、部活や遊びについて制限を課すようなことはしないが、そのせいで勉強が疎かになるような無責任なことはするなと躾をし続けている。実際、数学や理科などの理数強化については苦手意識があるようだが、その他の教科についてはそれなりの成績を収めているので、芳江は真也なりに自覚をして勉学にも取り組んでいるものと考えている。
今回の3者面談を前に、芳江から真也の意向を尋ね、「相模高校へ行きたい」と聞いた時、相模は少々レベルが高いのではと、胸中に不安が過ぎったことは否めない。
「相模高校ね。後者は古いけど、うちから近いし、雰囲気もよさそうだと思う。……でも、どうしてなの?」
「どうしてなのって?」と、真也は母の問いかけを訝しんだ。
「あまりにも率直で迷う素振りもなかったから、何か相模高校に拘る特別な理由でもあるのかなと思って……」
芳江の目から、真也はやや怯んだように一瞬目を泳がせたが、すぐに視線を戻して
「……特別な理由というか、高校を卒業したら大学へ進学することになるだろうから、その時にいい大学へ入れるよう、今のうちから少しでも偏差値の高い高校に入っておいたほうがいいんじゃないかって思っているんだ。……相模なら努力しだいで何とかなるところだし……、それで……」
「なら、受験に向けての決心は固まっているのね」
「……うん」
若干引っかかるものはあるが、真也の決意に水を差すようなことをするつもりはないし、高校受験への覚悟もできていると言うのだから、芳江も真也の意向に従うことにした。
「先生の目から見て、相模高校は、真也にとって不可能なのでしょうか」
「いえ、可能性がないということは決してありません。ただ、現時点での真也くんの成績を考えますと、受験を迎えるまでの間、これまで以上に努力する必要はあるでしょうね」
「では、頑張れば決して適わないというわけでもないんですね」
「ええ、そうですね」
木村は、芳江の勢いに押されるように、遠慮がちに頷いた。
「なら、私としても何も遺存はありません。本人が志願していることですし、頑張れば何とかなるんでしたら、それ相応の努力をするつもりでしょうし」
「ねっ」と、芳江は真也の顔に視線を向けて促すと、「あっ、……ああ」と、やや歯切れは悪い物の、真也も肯定の意を示した。
これで、真也の進路相談はほぼ片が付いたようなものだった。若干、後ろ髪を引かれるような心残りはあったものの、木村も真也が相模高校を受験する方向で話を進めることに同意した。そして、木村の提按で、万一のため滑り止めとして私立学校を閉眼するということで話し合いは終わった。
進路相談は放課後に行われたため、芳江はそのまま帰路に着いたが、真也はサッカー部に参加するため、グラウンドへと向かった。昇降口に行く途中、相談室から職員室に向かう木村と出くわし、彼はやや小声で
「この1年は、ちと厳しい年になりそうだぞ。でも、まあ自分で決めたことだから、目標達成に向けて頑張れよ、オレも微力ながら応援する」
と、肩をポンとたたき、そのまま職員室に向かった。
木村は、ほぼ同年代ということもあって、同僚の清水と親しい間柄にある。その清水から、今のサッカー部員たちの飛躍振りについて、耳にタコができるほど聞かされており、清水が今のサッカー部に架ける情熱のすさまじさは、木村なりに充分感じとっていた。そして、担任として、真也がサッカー部に熱心に取り組んでいることも知っている。正直、受験のことだけを考えると、たとえ4月と言えども、志望校の偏差値と彼の学力を天秤にかければ、さっさと家に帰って机に向かえと言いたいところだ。しかし、中学生活をトータルで考えた時、受験期だからといって、今夢中になっていることを取り上げてもやらせることが、果たして正しいのだろうかと疑問を抱く自分もいる。できることは、今の時分の立場と状況、その上で今何をすべきであるのか自覚した上で責任ある行動を示して欲しい、ただそれだけだ。木村はちらりと後ろを振り向いたが、すでに真也の姿はなく、人の気配すらしない廊下が延々と伸びていた。
「香織、おまえ受験勉強の方は捗っているのか?」
隣に並ぶ香織に話し掛けてみた。香織はあっさりと
「進んでいるわけないじゃない、休みだってこうして美術室に缶詰になっているんだからさぁ」
「そっか」ほんの少しだけ安心感を感じている自分がいる。
「でも、さすがに少しだけど1年生の復習は始めたよ。1年ときの社会とか理科なんて結構忘れているもんなんだよね、やってていやになっちゃう」
と、クスクスと笑ったが、真也は全く笑う気にはなれなかった。
「勉強は大変だけどさ……」と、香織は続けて
「お姉ちゃんの話聞いていると、相模ってすごく雰囲気いいみたいだよ。教え方のうまい先生が多いみたいだし、部活や行事も充実しているって言うし。そういう話聞くと励みになるよね。そうそう、それに女子の制服ってとってもかわいいんだよ。毎朝、お姉ちゃんの制服見るたび『いいな』って憧れるし」(続く)
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