(6)

 「何、一人でたそがれてんの!?」

 「……香織か」

 からかうような口調で昇降口から小走りでこっちに近づいてくる。誰もいないと思っていたところに、別に変なことをしているわけではないが、見られていたのは少々気恥ずかしい。しかもそれが知り合いとなるとなおさらだ。そんな真也の気持ちなどおかまいなく、香織は満面の笑みをたたえ、片手で肩から下げている画板を抑え、もう一方の手に絵の具やパレットなどを入れた手提げ鞄を持っている。

 「美術室にいたのか?」

 「うん」

彼女は軽く息を弾ませながらコクリと頷いた。

 「まだやっていたのか、美術部」

 「年末に県のコンクールがあるの。そこに出展するものを描いているんだけど、どうしてもまだまだ筆を入れたいところがあって、それで今日も。提出期限は来週中だから、これが描き終われば引退。中学最後の作品って思うと、なんか満足できなくってさ、こんなギリギリまでかかっちゃって」

と言いながらニコリと微笑んだ。

 「で、広崎くんはどうして学校に?」

 「んっ……?」と、真也は一瞬返答に困り

 「散歩だよ。天気がいいからぶらぶら外を歩いていたら学校の傍まで来たから寄ってみただけだよ……」

「なぜ」と問われても、これといった理由などない。しかし、何となく自分の心境、胸の中のノスタルジーな思いを悟られるのが嫌で、香織から目をそらし、照れ隠しでつい口を尖らせ、突っぱねるような口調になってしまった。香織ははっとしたように

 「……ごめんね」

と、笑顔がスッと消え、視線を落として呟いた。

 「あっ……、いいんだ別に、大丈夫」

つまらない見栄を張って、彼女によけいな心配をかけてしまったのではないかと、内心密かに同様した。そもそも香織が謝ることはないのだ。

 二人の間に気まずい空気が流れる。いつもそうだ、異性の友達は何人もいるが、どうも香織の前では時々いじけてみせたり、突き放すような態度をしてみたり、脾肉めいた言葉を投げつけてみたりと、子どもじみた言動が出てしまうことがある。多分、この3年間最も身近で付き合いが長く、由香利先輩を介して気のおけない間柄になったことから、彼女に甘えてしまっているのかもしれない。

 香織と出会ったのは中学1年の時、たまたま同じクラスに振り分けられたことが最初だった。しかし、当時は座席も離れていたし、他に接点もなかったので、大部分のクラスメイトと同じように、ただ同じ教室で同じ授業を受けているだけの関係に過ぎなかった。実際、入学してからの数週間は会話どころか挨拶すら交わしたこともなく、お互い相手のことは全く眼中になかった。

 夏休みが明けて間もない頃、とある行事の実行委員をクラス代表で真也と香織が担当することになった。2人で委員会に出席し、2人で雑用仕事をこなし、2人で資料作成などの相談をしていくうちに徐々に気兼ねなく会話を交わせるような間になっていった。ある時、深夜と香織はプリントの封筒づめの作業をしていた。手だけを動かす単純作業なので、折りたたんだ数枚のプリントを封筒に詰めながら、最近見たテレビの話や好きな音楽の話など、他愛のないことを駄弁っていた。

 「そう言えばさ」と、香織はまじまじと深夜の顔を見ながら「広崎くん、サッカー部だよね」と問い掛けてきた。

 「……そうだけど、それが……」

クラスメイトとはいえ、サッカー部にいることなんて話たっけと少々困惑していると

 「お姉ちゃんが広崎くんのこと言ってたよ。経験は浅いみたいだけど、いつも一生懸命取り組んでるって。もしかしたら、今年の侵入部員の中で一番熱心かもねってことも言っていたよ」

 「あん……?」

真也は何を言われているのか分からず、どう返答したものかと更に困惑した。真也の反応を見て「ああ」と察した香織は

 「サッカー部のマネージャーって、あたしのお姉ちゃんなの」

とサラリと言ってのけた。「サッカー部のマネージャー……? お姉ちゃん……!?」と、香織の言葉の意味がじわじわと伝わってくると、深夜は言葉を失い、あまりのことに思わず

 「山本のお姉さんって……、山本先輩なのか!?」

香織は口元に手を当て、くすくすと笑いながら

 「同じ名字だもん、気付かなかった? 私とお姉ちゃん、年子なの」

そう言われても、「山本」なんてよくある名字だし、クラスに「山本香織」という女子がいることを認識したのはつい最近のことだ。由香利先輩とは、お互いの家庭の話などしたことがないから、妹がいることすら知らなかったし、ましてや好きな女の子の妹が自分と同じクラスにいるなどとは夢にも思わなかった。「山本先輩の妹なのか……」と思いながら、つい香織の顔をじっと見つめていると、香織はわざとのように眉をきゅっと上げ、ちょっと怒ったような顔をして

 「何、人の顔じろじろ見ちゃって、失礼だなぁ。どうせ、お姉ちゃんの方が美人だななんて思っているんでしょ」

 「いや……」と口ごもると、真也の狼狽ぶりがおかしかったのか、とたんに口元を緩めて「あはは」と笑い出した。自分で「お姉ちゃんの方が美人」とは言っているが、香織もかわいい女の子だと思うし、言われてみればふっくらとした肉感のある口元は由香利先輩そっくりだ。しかし、一方では由香利先輩は切れ長な目なのに対し、香織はぱっちりとした大きな目と、目元の印象がまるで違う。言うなれば、山本先輩は少女から大人になろうとしている過渡期の「きれい」、香織は幼さが残るあどけない「かわいい」だ。とはいえ、香織が特別子どもっぽいというわけではない。真也も、ほんの数か月前までランドセルをしょって登校していた小学生だったのだから、香織をはじめ多くの中学生が幼さを感じさせるのはごく自然なことだろう。

 「山本先輩も、俺と山本が同じクラスって知っているのか?」

 「この間、7月の林間学校の現像写真もらったでしょ。それをお姉ちゃんと一緒に見てたの。そしたら、クラス全員の集合写真の広崎くんを指さして『この子知ってる』って言ったのよ。多分、その時知ったんじゃないかな」

 「そうなんだ」と真也は素っ気ない返事をしたが、写真であれ、由香利先輩に意識してもらえたのが嬉しい。

 「山本も何か部活入ってる?」

 「うん、美術部だよ。油彩メインでやってんの」

 「……ユサイ?」と、聞きなれない言葉にきょとんとする。

 「油絵のことよ。そっか、授業で使っているのは水彩絵の具だもんね」

水彩と聞けば、さすがに油彩が油絵のことだと冊子がつくが、何となく自分の無知ぶりをさらしてしまったようで少々恥ずかしくなる。

 「山本先輩も山本のように油絵描いたりしてるの?」

 「ぜーんぜん。どっちかと言えば体動かしている方が好きなタイプ。……じゃなかったらサッカー部のマネージャーなんかやらないよ」

 「あのね……」と、香織は束ねた封筒を机でトントンと揃えながら「山本山本って、なんだか紛らわしいんだよね、どっちのこと言われているんだか。広崎くんも言いにくくない?」

 「そんなこと言ったって……、同じ山本なんだから仕方ないじゃないか」と真也はむくれてみせた。

 「うちのクラスって、『山本』が4人いるじゃない」

と香織が言った。どういう偶然か、真也のクラスには香織を含めて『山本』が4人いる、しかも山本姓は全員女子だ。

 「うちの班ってさ、私と山本茜ちゃんが一緒だから、班行動なんかじゃ『山本』って呼ばれると、ホントに紛らわしいんだ。だから、男子も含めてみんな私のことは『香織』って呼んでるの。広崎くんもそう呼んでよ」

 「そうだな」と返したものの、内心真也は少しばかり照れ臭く思っていた。家族であれ友達であれ、相手をどのように呼ぶかで、その人との距離感が如実に表れるものだ。真也の場合も、「広崎くん」などの敬称が着いているとまだまだ打ち解けきれていない余所余所しい関係、「広崎」と呼び捨てになると目上または同等の立場、そして「真也」と名前で呼ばれるのは親しい間柄など、呼び方と親密度合いは密接に繋がっていると思う。真也は幼いころからそれなりに友人には恵まれてきたが、例外なく全てほぼ同世代の男子ばかりで、「友達」と呼べる女子は一人もいない。なおかつ、一人っ子で姉妹がなく、年上の女子と交わる機会も少なかったため、真也はたいていの場合女子を呼び捨ての名字で呼んでいた。だから、急に「香織って呼んで」と言われても、異性に対する免疫がほぼ皆無な真也には心の準備ができていないし、かえって何か意図があるのではと深読みしたくもなる。だが、香織はいつもと同じく至って普通な様子で涼しげな表情を浮かべている。女子の中には、女子同士では明るく快活に愛想を振りまいていても、男子になるとやたらと毛嫌いして攻撃的な態度を取る子がいるが、知り合って間もないものの、香織は男子に対しても、いつもにこやかで気さくに振る舞ってくれる。気恥ずかしく思うのは真也だけで、香織にとっては、名前で呼ばれることは特に意図も深い意味もないのだろう。

 後日、休み時間の教室で、それとなく香織の方に注意を向けていると、確かに女子だけではなく、同じ班や親しい男友達からも「香織」や「香織ちゃん」と呼ばれていることに気付く。最初は躊躇っていたが、クラスメイトが名前で呼びかけ、対する香織もごく自然に受け答えしている様子を目の当たりにするうち、徐々に気恥ずかしく思う気持ちがなくなり、いつの間にか真也も「香織」と呼ぶようになっていた。そして、このころから、直接相対する時は「山本先輩」だが、心の中では「由香利先輩」と呼びかけるようになっていた。

 委員会を切っ掛けに知り合ってから、偶然にも3年間同じクラスになり、以後も細々ながら香織との交流は続いた。おかげで、サッカー部では、「妹のクラスメイト」という新たな接点ができ、真也や香織のクラスの出来事など、由香利先輩と話す切っ掛けが増えた。ある意味、真也にとっては香織も気になる存在ではあったが、それは「山本香織」という一人の女子というよりも、「由香利先輩の妹」として、憧れの女子に最も近い存在、接点のひとつとして捉えていた側面が強いため、正直な話、香織と接している時も由香利先輩の影がちらついていることは否めなかった。

 「……ごめんね。まだ地区予選のことで落ち込んでいたんだね」

中学3年生になった今でも、出会った頃と変わらない、幼さが残るあどけない香織の表情が曇る。

 「……あ、ああ……」

真也は、肯定とも否定とも取れないような曖昧な返事を返した。香織は、普段から人の言動や表情をよく見ているところがあり、時折こういう鋭い指摘をする。確かに、地区予選敗退のことはいまだに真也の心に暗い影を落としている。しかし、暗い影を落としている原因は「中学最後の試合で負けて、全国大会への出場を逃した」ではなく、「由香利先輩の期待に応えられなかった、あの悲しそうな顔を見てしまった」からだ。さすがの香織でも、そこまでは気付いていないだろうが、落ち込んでいる原因が色恋に絡むことなんて絶対に悟られたくない、ましてや由香利先輩の妹である香織にだけは。そんな心を悟られたくないために、つい素っ気ない返答になってしまった。

 」広崎くんにとっては、あれが中学生活最後の試合だったんだもんね」

声はか細いものの、真也よりも10センチ以上小柄な彼女は、顔を上げてしっかりと真也の目を捉えている。

 「まあね……。でも終わったものは仕方ない。あれはあれで俺たち精一杯やったんだからさ。……悔いはないよ」

その場の雰囲気を取り持つように、真也はニコリと笑みを浮かべて明るい声音を作った。真也の笑顔につられたのか、香織も笑顔を返し、「そうだよね!」と、香織の声にも力が入った。ずり落ちかけていた画板をしっかりと肩にかけ

 「私もこれ仕上げちゃえばおしまい、広崎くんたちみたく精一杯やんなきゃね。そしたら、後は私も受験に向かってまっしぐら」

何気ない一言だったが、真也は心の中ではっと呟いた。

 「受験か……」(続く)

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