(4)

 あれから2年。真也は今地区予選決勝のグラウンドに立っている。そして由香利先輩はスタンドからフィールドを見守っている。グラウンドから見える由香利先輩の小さな姿。彼女はこの瞬間何を思い何を見つめているのだろう……。

 元々そんなに運動神経は悪くない方だが、サッカー部の練習は厳しく、幾度となくくじけそうになった。そんな時はいつでもマネージャーの由香利先輩に励まされ応援され、時には叱咤されてやり続け、とうとう中2の秋からディフェンスを固めるバックスのレギュラーの座を勝ち取ることができた。

 入部してからは、あくまでも一サッカー部陰都マネージャーとしての関係に過ぎないが、初めのうちはまともに由香利先輩の顔すら見ることができなかったが、いつも明るく朗らかな彼女の態度に緊張が解け、いつしか真也からも気軽に声掛けできるようになるなど、徐々にお互いの親密さは深まっていった。しかし、その親密さはごく有り触れた親しみから生まれているものであって、決して特別なものではないことも真也は真也なりに弁えており、時として2人の間に引かれた一千の存在を意識しては、空しく切ない思いに駆られることも少なくなかった。

 多分、勢いさえあればその一戦は難なく簡単に跨ぎ越せることができ、更に一歩由香利先輩のところに近づくことはできるだろう。だが、いくら近づいても、由香利先輩に真也を受け入れる心の準備ができていなければ意味がない。それどころか、下手に近づいたことで、これまで積み上げてきた信頼を壊して、取り返しのつかないことになるかもしれない。空しさや切なさを感じている一方、そんな不安がある限りは、どんなに気持ちが高ぶっても絶対に踏み越えてはならないと、自らを抑制してもいた。そんな葛藤を抱える自分を、やや自嘲気味に「これが恋の苦しみってやつか」と客観視し、少しでもこの苦しみが緩和できるよう、ひたすらサッカー部の練習に力を注いだ。

 真也の熱心で一途な努力と、サッカー部顧問清水の指導力が呼応し、深夜の力量は着実に伸びていった。同時に、チーム全体の実力も上がり、それまで弱小チームの部類だった相模北中学サッカー部は、他校との練習試合において勝ち星を挙げ続け、徐々に注目されるようになった。

 「これなら地区予選優勝も夢じゃないかもね」

と真っ先にそう宣言したのは、他の誰でもない由香利先輩だった。彼女自身、我がサッカー部が勝利を収めるたびに選手と共に喜びを分かち合い、日々の努力がいつかきっと形になって素晴らしい成果を収めることを誰よりも楽しみにしていた。その目標が、毎年夏に開催される全国大会への切符をかけた「地区予選優勝」だった。

 しかし、真也が中学2年生、由香利先輩にとっては中学生活最後の夏。ベスト8まで勝ち進んだ相模北中学は脆くも崩れ去り、グラウンドの塵となった。試合は、前半戦終了時点で、もはや勝ち目の薄いワンサイドゲームであることは誰の目にも疑いようのないことだった。だが、相模北イレブンは誰一人として審判のホイッスルが鳴る最後の瞬間までグラウンドを走り続け、全員が一丸となってボールに食らいつき、相手ゴールを目指した。

 ファイナルホイッスルが鳴り響いた瞬間、それまで目を血走らせていた相模北イレブンの表情は一気になくなり、時が止まったかのようにその場に立ちつくす者、膝から崩れ落ち、額をフィールドに押し付け微動だにしない者、前髪で目元を隠し、俯いたままゆっくりとセンターラインへ歩み寄る者、誰もが抜け殻のようになり相模北イレブンはフィールドの藻屑と消えた。

当時、補血の一人としてベンチから見守っていた真也も、張り詰めた緊張の糸が無残にも引きちぎられたようにガクリと肩を落とした。隣では、清水が硬く目を瞑り、微かに苦しそうなうめき声をあげている。

 挨拶を終え、うなだれたイレブンがベンチに戻ってくる。そんな打ちのめされた姿を目の当たりにして、誰一人出迎えることができず、歩み寄る彼らをただ黙って見つめることしかできなかった。いつもなら、誰よりも先に由香利先輩が飛び出し、選手一人一人に労いの言葉をかけていくのだが、由香利先輩ですら立ち上がろうとしない。真也は思い出したようにふと由香利先輩の方に顔を向けると、彼女もまた他の者と同様、視線を落とし、灰色にくすんだコンクリートの床面を見つめ、小刻みに肩を震わせていた。その姿に、真也は胃のあたりがきゅうっと縮まり、胸苦しいものを感じた。試合にすら出場していないのだから見当違いも甚だしいのだが、なぜか由香利先輩を落胆させたのは自分自身がふがいないからだと、自らを責めるような気分になってしまい、身を固くして由香利先輩から目を離すことができずにいた。

 「……終わったのね」

そう呟くと、由香利先輩は右手の甲を目元に当てた。


 桜の蕾の先も割れ始めた初春の候。盛大な拍手が響き渡る体育館から、卒業証書を手にした卒業生たちが列をなしてグラウンドへと向かっていた。そのあとに続いた在校生は、グラウンドに散らばる卒業生の中から、在学中交流のあった先輩の姿を見つけては、別れの握手や言葉を交わし、互いの活躍を祈願した。真也も、サッカー部や委員会で世話になった先輩を見つけては感謝の言葉を述べて回り、今は、在校生や同級生に囲まれて涙を浮かべている由香利先輩の姿を、隅のゴールポストから遠巻きに見つめていた。もう、このグラウンドで由香利先輩の姿を見ることはできない。特に個人的に親しい間柄でもない真也にとっては、彼女がこの学校から去ることは、言葉を交わすことはおろか、その姿を見かけることすらできなくなる。だからと言って、今さら何ができるわけではない。これまでずっと、胸に秘めていた憧れを表に出すことをためらい、こんな宙ぶらりんな気持でも安易に手を加えて壊してしまうよりはマシだとも考えていた。ある意味、その付が由香利先輩との分かれという形でやって来たのだろう。

 もたれかかっていたゴールポストからひょいと背を離すと、真也は1歩2歩と由香利先輩の傍に近づいていった。ふいに由香利先輩はこちらを振り向き、真也の姿を認めると、涙で潤んだ瞳に笑みをたたえ、輪の中から真也に向かって手を振った。もう片方の手には、証書を入れた筒と、卒業生一人一人に手向けられた一厘のカーネーションが揺れている。そのカーネーションの色合いが今の由香利先輩の姿とあいまって、可憐な装いに文字通り花を添えている。

 「いよいよ卒業、ですね」

 由香利先輩の元へ近づいたものの、どんな言葉をかけるべきか、気の利いた台詞が全く浮かばず、とっさにそんな当り障りのない挨拶が口からこぼれ出た。

 「とうとうきちゃったよ、卒業式」

と、空いている手で深夜の手を取った。握手とはいえ、初めて握った由香利先輩の手。とたんに頬の辺りがカッと熱くなり、照れ隠しに思わず彼女の手を握り返していた。

 「4月がきたら、また地区予選に向けて練習がはじまるね。今年こそがんばってよね」

握り返す由香利先輩の右手から更に力がこもる。

 「今年こそ、きっと地区予選を勝ち抜けることができるよ、私そう信じているから。……でも、私も行きたかったな、全国大会に」

ふいに、あの日由香利先輩がもらした「終わっちゃったのね」という声が耳の奥に蘇った。同時に、あの時感じた胃のぎゅっと硬直した感覚も蘇ってきたようだった。やっぱり、由香利先輩もサッカー部員の一人として、全国のグラウンドに立つことを夢見ていたんだ、……3年間ずっと。そう思うと、あの時に味わった感覚、ふがいない自分自身に対する罪悪感にも似た不安定な気持ちも蘇ってきた。同時に、今年こそきっと俺の力で相模北を優勝させる。それが叶えば、今まで意識していた一線を越える最大の原動力にも繋がるはずだと、新たな思いが湧きあがってくるのも感じていた。

 「私、絶対応援にいくからね」

 その言葉から数ヶ月……。約束どおり、今日の決勝戦に由香利先輩は来てくれた。すでに相模北中学から離れているものの、きっと彼女自身、この試合を自分のこととして見守っているに違いない。真也は、由香利先輩の姿を振り返りつつ、足早にポジションに着いた。踏みしめる芝の感触が心地よい。コイントスの結果、ボールは相模北が取った。

 相模北のキャプテン大橋は、センタースポットに片膝をついて自分の足元にボールを据えると、ゆっくり立ち上がった。彼も真也や由香利先輩と同様、昨年の苦い経験を一緒にかみ締めた仲だ。しばしの間白いボールを一心に見つめ、さっと顔を上げた。

 主審の長い笛がフィールドにこだました。キックオフ! ボールは城北エリアに蹴りこまれた。(続く)

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