(3)

 不思議な気持ちだった。いつものように親しい友達と一緒に歩いているのに、何も話す気になれず、彼らの会話は耳に入らず、適当な生返事を繰り返すばかり。頭の中では先ほどの一部始終……、転がってきたボール、近づいてくる彼女、澄んだソプラノの声、小さくなる後姿……。そのシーンばかりが、録画されたビデオ映像のごとく、再生されては巻き戻され、次の瞬間にはまた再生される、その繰り返しばかりだった。そして決まって、ボールを手渡す瞬間に見せた彼女の真也に向けたあの微笑が脳裏を過るたびに、おなかの底からこみ上げてくるものが、胸を通り抜けて、首を這い上がって、両頬にジンと伝わってくる。

 それからというもの、授業中でも、食事中でも、テレビを見ているとき、まんがや雑誌を読んでいるとき、眠りに着く前など、ほんの一瞬でも気を抜くと、例の映像が心に浮かび、腹から胸にかけてあの不思議な感覚に襲われる。

 決して不快な感情ではない。でも、どことなく爽快感に欠ける煮え切らない感情だ。心の中では欲しているのに、その一方では満たされない思いに切なさや虚無感を感じることを充分分かっていて、心の片隅でその気持ちが生まれてこないように押さえつけようともしている。複数の相反する気持ちがぶつかり合い、自分は一体何がしたいのか、何を望んでいるのか、自分のことながら全く理解できない。

 この胸騒ぎのような感覚……、春の日差しのように暖かくて、それでいて分厚い黒雲に覆われた曇り空のようにどんよりとした重たい気持ちが、いわゆる恋をしているんだなと薄々気がつき始めたのは、あの日から数日が経った連休最終日のことだった。真也も12歳の少年らしく、この頃になると、クラスメイトをはじめとした同年代の女子の容姿や振る舞いなどに関心を寄せるようになってきたものの、生まれてから今まで、特定の異性を意識したり、憧れを抱く機会には恵まれなかった。真也自身、どことなく恋愛に対して覚めているところがあり、恋愛を題材にしたドラマやまんがを眺めていても、物語そのものには面白さや興味は感じるものの、恋愛の描写については、「ふ~ん、そーなんだ」とか「そんなにころころ人のことが好きになるのかい」とか「こんなうまい話があるわけないだろ」などと蔑んだ視線でしか捕らえることができず、決して自分の価値観とリンクするものはないと一線を引いていた。それだからこそ、この感覚が彼女一個人に対して好意を寄せ、胸をときめかせていることに気付いた時、正直ちょっとしたショックを受けたものだった。

 それまでの真也は、自分自身のことについて、どちらかと言えば物事に対する感受性が貧弱で、感性が鈍いところがある一方、常に冷静で簡単に自分の感情を掻き乱されることもないだろうと捉えていた。しかし、今の自分の気持ちと素直に向き合うと、真也の自己分析は、自らを「鈍感な人間」と自虐的に評することで、他人や物事に対して熱くなったり感情を剥き出しにすることはカッコ悪く、クールでニヒリスティックな方が周りとの調和が図れるとの照れ隠しの気持ちも含まれていたことに気付かされた。今まで、まんがやドラマの中でしかないものだと思っていた感覚は、決して特別なものではなく、誰しもがある瞬間、ある人に出会ったとたんに前触れもなく産声を上げるものなのだろう。そんな風に意味付けをして、自分の気持ちに名前を付けることで、初めてこの気持ちと向き合う覚悟を固めることができた。

 新緑の木々からもれ出る木漏れ日がまぶしい連休明けの学校、真也の心の内はすでに決まっていた。サッカー部に入部しよう。それが彼女との接点を作る最もいい方法だ。心のどこかではこんな安易な同期で入部することにいくらかの罪悪感は感じるものの、この高揚した気持ちを発散するためには、この方法しか考えられなかった。それでもいざサッカー部の主将に申し出る時、勧誘ムードもすっかり収まり、本格的な活動に入りつつある連休明けに突然入部したいというのは、いささか不自然ではなかろうかとちょっと躊躇する気持ちがあったことは否めない。

 そんな時期ハズレの進入部員を、当時のサッカー部主将神谷は手放しで歓迎し、特に疑うこともなく、真也を新サッカー部員として迎え入れてくれた。よくよく考えれば、部活動なんて一年通して入部も退部も自由なのだから、よけいな心配をして気をもむ必要なんてないのだが、やはり動機が動機だけに、つまらないことで妙な不安に陥りがちになる。基本的に真也はそのあたりについてはすこぶるまじめなのだ。

 むしろ、身近なクラスメイトの方が、この突然の決断に何かと茶々を入れてきた。

 「真ちゃん部活には全然興味ないと思っていたのに」

 「広崎ってサッカー好きなの?」

と真也のサッカー部入部を聞きつけた友人たちが、寄って集って質問を浴びせ掛ける。それもそのはず、真也は入学当初「部活なんてかったるくってやってらんないよ」と零していただけに、周りの人間にとっては不自然極まりない行動に写ったであろう。真也は適当に「スポーツは嫌いじゃないから」とか「友達作るきっかけが欲しかったから」など、真実とは程遠い曖昧な説明でその場を切り抜けた。いくら親しい同志だからって「サッカー部に気になる女の子がいて」なんて口走ろうものなら、色恋に興味津々な12歳の少年少女たちは、完全なる面白半分でクラス中に広め、噂は徐々に枝葉をつけて四方八方に飛び火し、たいていの場合意中の彼女の耳にも入るという結末に至ることは容易に想像できる。このことだけは絶対に口に出すわけにはいかない。幸いなことに、一言二言答えるだけで彼らの納得を得られたようで、その後特に厳しい追及を受けずに済んだ。

 練習日初日、真也は取り急ぎ用意されたユニフォーム姿でグラウンドに現れた。手ごろなサイズのユニフォームは、すでに他の進入部員に行き渡っており、なかなか真也に合うものがなかったので、若干大きめのユニフォームが貸し与えられた。他の人よりも一足遅れての入部なのだから仕方ないとは思いつつも、だぶだぶに垂れ下がる袖口や大き目の襟首から薄い胸元を覗かせている姿は決して見た目の良いものではない。何となくスタートラインに並び損ねたような出遅れ観を感じていると、「ピピーッ」と甲高い笛の音が聞こえ、グラウンド中に散らばっていた部員たちは、揃って小走りに笛の根に向かって行った。

 笛を加えていたのは、小柄だが肩幅の広いがっちりとした短髪の男性教諭だった。多分この人が顧問なのだろう。加えていた笛を右手に持ち、召集された面々の顔をぐるりと見渡し、隅の方で遠慮がちに立ちすくんでいる真也の姿を認めると「こっちへ」というしぐさで招きよせた。少々ドギマギしながら、真也はその男性教諭の隣に立ち、皆の姿を一望できる位置に立った時、心の中で「あっ」と呟いた。一群の中に、他の男子に紛れて真也に注目する彼女の姿がそこにあった。グラウンドに出た時には見当たらなかったが、いつの間に来たのだろう。心臓の鼓動が大きくなり、一瞬彼女の顔に目がとまったが、視線が合うのを恐れてすぐに顔をそむけた。

「今日から我がサッカー部に入部した広崎真也くんだ」

と顧問自ら真也を皆に紹介した。「後は自分で自己紹介しなさい」と促され「1年3組の広崎真也です、どうぞよろしくお願いします」とペコリと頭を下げた。緊張のせいか、あまり大きな声で言えなかったが、周りからパチパチとまばらな拍手が上がり、「よろしくお願いします」と、甲高い声や野太い声など、様々な声音のユニゾンが返ってきた。

 真也の紹介が終わると、他の部員から学年と名前、ポジションといった簡単な自己紹介が続いた。部員はマネージャーを含めて19人、きちんと数えたわけではないが、そのうち1年生が4・5人程度で、2年生が多いように思えた。

 「マネージャーをしています、2年の山本由香利です」

意中の彼女はそう名乗った。これまで思いは寄せていたものの、真也が知っているのは偶然見かけた彼女の容姿のみで、心に浮かぶのは蜃気楼のような掴みどころのない不鮮明なものだったが、名前が分かったことで初めて真也の意識の中で実像が結び、何となく彼女との距離がほんの数ミリ近づいたように思えた。

 「まずはグラウンドを30分間ランニングだ。各自準備帯層をして位置に着くように」

サッカー部顧問の清水の指示が飛び、主将の神谷を中心に念入りな準備体操が始まった。「これから30分間走るのか」と、憂鬱な気分になっていると、ふいに背後に気配を感じ、何気なく振り向くと、そこに山本先輩が立っていた。突然、しかも目の前に現れた彼女の姿に、思わず真也は一歩引き下がった。そんな真也の同様にはお構いなく、ニコリとほほ笑み

 「広崎くんって言ったっけ。もしかしたらこの間ボール拾ってくれた子?」

あの時のことを覚えていたのだ。「あっ、……まあ……、はい……」と奥歯にものの挟まったような歯切れの悪い返事を返すと

 「やっぱりね、どこかで見たことあるなぁって思っていたんだ」

 「そうですか」

 「入部したてだから分からないことだらけだと思うけど、困ったことがあったら遠慮なく私とか先輩に聞いてね」

「はいっ、ありがとうございます」真也は軽く頭を下げた

 「がんばろうね、よろしく」

ポンと真也の肩を叩きながら、満面の笑みを浮かべる彼女。再び、あのおなかの底からこみ上げるような感情が湧き上がり、頬の赤らみを隠すように顔を俯けた。そして、真也は山本先輩の触れた右肩に残る温もりを味わっていた。(続く)

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