(2)

 2年前、真也は真新しい学生服に身を包み、まだ歩きなれない校内を散策していた。数日前に入学式を終え、新しいクラスも決まり、これから始まる中学校生活の準備を着々と進めていた頃だった。当時は人も建物も雰囲気も、何もかもが新鮮で、目にするもの、耳に入るもの、肌で感じるもの、全てが中学生になりたての真也には刺激的だった。

 休み時間や放課後になると、決まって先輩上級生が真也のクラスをはじめ、新一年生の教室を訪問しては、自分らの所属する部の勧誘活動に励んでいたものである。真也も幾人かの先輩から直接声をかけられ入部を勧められたが、これといって特別興味をそそられるものには巡り会えず、部活動そのものにも関心がなかったので、適当にお茶を濁しては断り続けていた。

 そんな新入生歓迎ムードもすっかり落ち着き、もうすぐ待望の大型連休になろうとしているある日の放課後。真也は同じ中学に入学した小学校以来の友達と、新たに知り合ったクラスの友達の計5人で群れ合い、校庭の南側に面している池の石囲いに腰を下ろして歓談していた。ここは日当たりがよく、広々とした開放感のある場所で、天気のよいお昼休みには、ここでお弁当を広げてつかの間の休息を楽しむ生徒で賑わう、なかなかの人気スポットとなっている。池には、藻やコケに混じって赤地に黒や銀や白の斑模様の入った鯉が数匹、水面に照り返す日光を浴びてキラキラと輝き、どこに向かうでもない狭い池の中を縦横無尽に、それでいて優雅に泳いでいるのが見えた。

 授業の終わった放課後。いつもなら時間や規則で縛り付けられた、面倒で居心地の悪い学校でも、この時間になるとみんな思い思いに学校という場所で、自分の時間を過ごしている。小学校の頃ならば、授業が終わればさっさと下校するものだと思い込んでいた真也にとって、中学校に上がってからの一種のカルチャーショックであると同時に、学校の新たな一面を発見した瞬間でもあった。教室内で歓談する者あり、慌しく廊下を急ぐ者あり、体育館から響き渡る竹刀をかち合わせる音、召集をかける放送の声……。どの顔も、授業中には見せたことのない晴れやかな表情を浮かべている。

 すると、昇降口からグラウンドの方に向かって、白のシャツに短パン姿の男子がぞろぞろと出てくるのが目に入った。「誰だろう?」と目を凝らしてみると、左胸のあたりに小さく「SSC」とプリントされているのが見えた。「サッカー部か」と考えていると、その一群は体育倉庫の中に吸い込まれ、出てきた時にはみな一様にサッカーボールを手に戻ってきた。

 「今日はサッカー部か」と一人がポツリと言った。練習の邪魔にならないうちに引き上げるかとばかりに5人は立ち上がった。校門は西側にあるので、ここからだと大回りしてグラウンドを4分の1周しなければならない。真也たちは、2週間後に迫った初めての中間試験について皆で口々に駄弁りながら歩みを進めていると、ふと真也の視界にさっきのサッカー部の連中が目に入った。数人の部員が体育倉庫からラインカーを持ち出し、せっせとサッカーコートの白線を引いている。

 「おや」と思わず足を止めた。ラインを引く部員に混じって一人だけ臙脂色のトレパンにダークブルーのウインドブレーカーを羽織った子が男子部員に混じってラインカーを押している。一目見て「女の子か」ということはすぐに分かったが、なぜ男子部員に混じってサッカー部にいるのかを理解するまで少々時間がかかった。そっか、あの人はサッカー部のマネージャーなんだな、きっと……。

「かわいい子だな」

とラインカーを両手にしゃんと背筋を伸ばしきびきびと動く彼女の姿に見とれていると

 「広崎ぃ、何ボーっとしてんだ」

と呼びつけられた。気がつくと、彼らはすでに数歩先を歩いており、いつの間にか輪から外れた真也の方を振り返っている。

 「ああっ……ごめんごめん」

真也は自分の視線の先を読まれるのではないかとちょっと焦り、慌てて一歩踏み出そうとした時、ポンぽんぽんとひとつのサッカーボールが水面をはねる小石のごとく真也の足元めがけてゆっくりと転がってきた。誰かが蹴り損ねたものだろう。腰をかがめてさっと右手を伸ばしボールをキャッチすると、両手で持ち直してじろじろと眺め回した。すると

 「ごめんなさーい……」

と澄んだソプラノの声が近づいてきた。ふと目を上げると、さっきの女の子が左手を上げながら小走りにこちらに近づいてくるのが見えた。

 「すみません、ボールが転がっちゃって……」

背は真也よりも若干高い。真也もそんなに低い方ではないので、女子にしてはわりと高身長な方だ。大きく見開かれた瞳に愛嬌のある口元、つやのあるセミロングの髪から風に乗って心地よい香りが漂ってくる。

 真也が無言でボールを差し出すと「ありがとう」とにこりと微笑んでボールを受け取り、そのまま踵を返すと、来た時と同じ小走りで離れて行った。しばらくの間、真也は何かに魅入られたようにどんどん小さくなる彼女の後姿を一心に見つめていた。

 一部始終を長めていた4人は、痺れを切らしたように「いくぞ」と投げつけると、彼ら4人も踵を返して校門に向かっていった。真也も小走りに彼らの後を追ったが、なぜか心は後ろ髪惹かれるような口惜しい気持ちでいっぱいだった。(続く)

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