「ユグだよ!」



 金色の少女だった。


 豊かで艶やかな長髪を付け根で縛っており、それが体の動きに合わせてさらりさらりと揺れていた。

 涙の滲んだ瞳は、まさしく琥珀の輝きを秘めている。

 背は小さく、体も細い。フィズよりも一回りは確実に年下だろう。

 それこそ女神の子供と言われても疑わないほどに、その少女は美しかった。


 落下の衝撃で打ったらしく、土で汚れた小さなおしりを両手でさすっている。

 怪我はなかったようだ。ほっと胸を撫で下ろす。


 ……いやいや、そうじゃないだろう。

 フィズは混乱する頭をなんとか警戒の方向に傾けた。

 この状況、この未開拓地域に降ってくる少女など、真っ当な存在ではない。


 ましてこんな高さ――窪みが出来るほどの高さから落ちてきて、ただの少女が無傷で済むはずがない。


「君は……誰?」


 ぱんぱん、とズボンの土埃を落とした少女は、小首を傾げてフィズを見た。


「う?」


 自分のことを指差すので、フィズは小さく頷く。

 少女はにこっと笑って、口を開き……。



 不快な羽音に警戒が移る。互いに音の方へと目を向けた。

 一瞬のうちに遠ざかった怪物は、既にもう遠くへ去ってしまい、いや、その身を翻してこちらめがけて加速していた。


 狙いが少女と分かった時には、最早目で追える速度ではなく。


「危ない!」


 ――と口にした時には、蜂は少女に激突していた。


 そう、激突した。


 激突したが、そこで止まっていた。


「……ええ?」


 そう間抜けな声が出たのも致し方無いことだ。

 あるいは幻覚でも見ているのかもしれないとフィズは思った。




「むんっ!」


 少女は両手で、蜂の針を捕まえていたのだから。




 蜂はガタガタと震えて針を押し込もうとするが、動かない。加速のための炎の噴射も、全く意味を成していない。

 目にも留まらぬ突進を少女は両手で受け止め、あまつさえ暴れる蜂をその場に固定してしまっていた。


 だが蜂にはまだ邪眼がある。

 動けないと悟った怪物はすぐさま腹のそれを開こうとして。


「そぉ――れっ!」


 気合一発振り回されると、大地へと叩きつけられた。

 物凄い音と共に、蜂の上半身半分が大地に埋まる。

 身の毛もよだつ絶叫が上がり、少女が腹に力を込める。


「よいしょぉ――!」


 もう一発振り回されて逆の大地へと叩きつけられる。

 大地に埋まる前の一瞬見えた限りでは、既に蜂の上半身は歪にひしゃげていた。

 声は上がらない。発声器官が潰れたらしい。


「もういっかーい!」


 躊躇や慈悲はないようだ。

 少女の三度目の叩きつけで、ついに蜂の上半身がもげた。

 ごぽごぽと汚濁した体液をこぼすそれは、しかし歪んだ生命の超越的な生命力で、未だに生きてはいた。


 恐らくは怒りで真っ赤に充血した腹の瞳を開き、少女を見据える。

 まずい、と言おうと思って、フィズはすぐ押し黙った。


 邪眼で射竦められた少女は、「むんっ!」と鼻を鳴らして、それを跳ね除けたようだった。


 その身から、黄金の気魄が立ち上る。


 その輝きは優しくも力強いものだった。

 太陽よりも暖かく、身を委ねれば魂の底まで照らされ、清められるかのような。

 この体の起源を揺り動かすような光だった。


 恐れなど知らぬ歪んだ生命の上位種が、その光を目にした途端、震え上がって身を引いた。


「んーと」


 少女はキョロキョロと視線を左右に振って、それから空中を見上げた。

 遅れてフィズも気付いた。何かがまた落ちてきていた。


「ふぃー! こー!」


 少女は何事か見知らぬ言語を天空へと叫ぶ。


 フィズはまたしても度肝を抜かれた。


 落ちてきたのは、大人二人を並べてもまだ足りないような、巨大な木製の剣だったからで。


「よぉーっし!」


 少女がそれを片手で受け止めたからだ。


 衝撃でまたしても風が巻き起こり、土煙が上がる。

 それがすぐさま、少女の纏う気魄で吹き散らされる。


「きいーふぉーで! ずぃーあ、ふてぃーあ!」


 その巨剣を突き上げる掛け声は、フィズの知らない言語だった。


「きいーふぉーで! あーえあーい!」


 ずん、と大地が揺れた。

 少女が踏み込んだ音だった。


「ええっと、なんだっけ……そうだ!」


 ことここに至って少女の声は、陽気に遊ぶ時のそれだった。

 黄金の尾を引いて、少女の剣は宙を駆ける。



「――おやすみなさい、だよ!」



 剣が走るその姿を見ることは、ついぞフィズには叶わなかった。

 振り切られた剣が、すっぱりと、蜂の巨体を縦に一閃断ち切っていた。



 ずしゃっと、内容物のばら撒かれる音がする。

 割れた邪眼や、体液や、毒液袋らしきものが、ぼとぼと大地に落っこちた。


 少女は汚れひとつない木剣を振り払って、くるんと(などという可愛らしい効果音ではすまない超重量の旋回だったが)背中へ回して、腰裏の固定具に修めた。

 剣が大きすぎて、剣幅だけで背中一面を覆うほど。

 長い刃は、少女数人分も左右へ飛び出していた。


 歪んだ生命の上位種を、一人で断ち切った少女。

 人が振るうものとは思えない巨剣を操る、小さな女の子。

 現実味のない光景に、フィズの頭はくらくらと酩酊している。


「ユグだよ!」


「……え?」


 少女はそんなフィズに振り返ると、にこりと笑った。



「名前! ユグはね、ユグだよ! ――ユグ・ガングレイス!」



 それが初めての冒険の本当の合図だった。


 フィズにとっても、――ユグにとっても。

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