少女落着
「撤退! 全員散開!」
というマルティンの号令で、定石通り別れて逃げ出した。
一人でも生き延びて脅威を周囲へ伝達するための、検める者たちの知恵だ。
もし逃走先で新たな脅威と出会った場合、そこで更に組を分けて逃げる。
歪んだ生命の上位種とは、村一つを容易に壊滅させる強大な存在だ。
戦力の整った、強固な防壁の存在する街ですら、甚大な被害を受けるだろう。
出現場所によっては国家が軍を出すほどの脅威だ。
普段深層に追いやられている上位種がこれほど浅い位置に存在するというのは、異常なことだ。
冒険者・探検者をまとめる『同盟』で言えば、動員できる上位の人員全てに非常招集がかかる程の事態である。
「みっ、皆さん、待っ――」
「失礼します!」
フィズは腰の抜けていたトランを抱えて上に逃げた。
未開拓地域の空中には亜竜を代表とする強力な生物が存在していることが多い。
森の樹上でも同じことで、必ず猿や虫、鳥、小動物由来の怪物が住み着いている。
が、上位種の周辺であれば話は別だ。
体重の一番軽かったトランを抱えて樹上へ退避したフィズは、グイードとメディが逃走経路を確認しつつ、マルティンが火球で牽制する様子を見下ろしていた。
骨の檻を背負う虎は大ぶりに飛び退って避ける。その隙に三人が逃げ出した。
「落ち着きましたか?」
「はい……すみません」
そういうフィズも、声が戦慄くのを止められない。どうにか恐怖に震えるトランをなだめつつ、空の様子を伺う。
森の上にまた別の大きな影を認めて空中での帰還を断念。
去っていく虎の異形の背を見送り、追われる三人のことを無理矢理思考から追い出して、大きく息を吸って、吐く。
「最短距離は三人が向かいました。僕たちは迂回しましょう。……川の匂いは分かりますか?」
彼女らには特徴が多いが、最も有名なものの一つは「水覚」だろう。
他種族から「水の匂いを嗅ぐ」と形容される、水を感覚する特殊な知覚だ。水そのものの生みの親である雨母神アルシェルの血を引く彼らに特有の機能である。
「……はい。ええと……丁度逆側、です。それほど遠くは……ないと思います」
「向かいましょう。川上は開けてますから僕も飛びやすいですし、トランさんも」
アルシェルの恵みである海や川は海の子の独壇場だ。生得的に流体に紛れて自在に移動出来るのは彼女たちだけだ。
いざとなれば川と空、どちらか片方は逃げられるだろう。
戦い慣れている三人が固まって向こうに行ってくれたのが功を奏した。
フィズは危難の対処はそれなりに覚えがあるが、上位種に追われる状況で冷静に行動し続けられるとは思わない。
「失礼します」
「はっ、はい」
トランの体を後ろから抱き上げて、フィズは飛んだ。
彼女の魅力的な体や大きな胸も、今は抱えやすいとしか感じられない。
頭は冴えている。大丈夫だ。恐れに翼を閉じることはない。
心の中で言い聞かせるフィズはやはり、恐怖で震えていた。
あの虎の怪物は、フィズのいる程度の高さへ容易に飛びかかれるだろう。
二足歩行だ、木をよじ登ることも出来るに違いない。
檻のように全身を囲う骨を揺すって動いていた。あれでは弓を通すのも難しい。
相当に俊敏で、ただ走ったり飛んでいるだけでは追いつかれる。
どうすればいい、という思考が無意味なことは分かっている。
少女を抱きかかえる手に、要らぬ力がこもった。
どうすることも出来ない。逃げることしか。
それでも川に差し掛かれば、フィズは一息つくことが出来た。
流石に川中に木々が生えることはなく、空から陽光が差し込んでいる。
視界も十分に確保できて、空間はきちんと開けている。四方八方に死角があった森中と比べればずっと安心できた。
トランも慣れ親しんだ水の音にほっと息をついている。
川の源泉は中央山脈の川のどれかだ。つまり川の流れに逆らって進めば、最終的には南に……人類の領域へと続いている。
水も毒などで汚染されている様子はない。存外早く帰還の目処が立った。
「行きましょう」
「はい……あの、降りましょうか」
「いえ、抱えて飛んだ方が早いです。とにかく距離を稼ぎます」
片手で腰の灯具をそっと撫でる。
フィズはそこまで筋力に優れているわけではないが、それでも旅人の端くれだ。女性一人を抱えて飛べない程ひ弱ではない。勿論ずっとという訳にはいかないが。
「風よ、風よ、我が背に追い風の加護を、どうか、どうか」
自分の知る数少ない祝詞を口ずさみ、本格的な高速飛行を始める。
一度速度を出してしまえば空の子の飛行は止まらない。半日だって飛び続ける。
広げた翼で風を切りながら蛇行する川をなぞる。
この淀んだ森の中にも水は流れるし風は吹く。フィズはそのことに安心していた。
そこが安全な場所ではないことを、すぐに思い出させられた。
初めは風に混じる異音だった。
何かがいると感じた時には、それはすぐ近くまで来ていた。
「風よ、風よ!」
「フィズさんっ……ひっ!?」
咄嗟に向かい風を祈り、急停止。訝しむ少女の目の前を何かが横切った。
見れば、木々が一直線に薙ぎ倒されている。それは猛烈な速度をもってフィズのいるはずだった場所を通過していったようだった。
えぐれた木々たちから幅を察するに、先ほどの虎より遥かに大きい。
上位種だ。
フィズは理解すると同時に川面ぎりぎりまで降下した。
その翼の先を掠めていく「何か」。
「っつ――!」
「ふぃ、フィズさん」
「トランさん、流体化は」
「お、修めていま――フィズさん!?」
有無を言わせている余裕はなかった。
フィズはさっと手を離し、トランを川へと投げ落とした。
「フィズさん、待って、いかないで!」
「行ってください! 早く!」
存外まともに動けるものだなとフィズは思った。
それとも何か麻痺してしまったのだろうか。
恐怖で竦むと思っていた翼は、嫌に軽かった。
「お任せします。一刻も早く連絡を!」
「きゃあっ!?」
少女を水中へと突き飛ばし、音の方向へとがむしゃらに火を練る。灯具の炎が明らかに輝きを減じた。
かつて父祖シエルの遺骸から生まれた「四つの間の子」は、彼が帯びていた「灯」を受け継いでいる。
灯具から手のひらの上へと火が移り、強く燃え盛る。初めは炎、継いで火球と変じたそれを最後に槍のように細長く伸ばした。
即座に飛び上がって、突進を避けようとする。
フィズは音で直撃させたことを理解した。
爆風を突き破ってきたのはどうやら蜂のようだった。
上位種特有の異常な大きさは言わずもがな、それは馬上槍のように尾の針を伸ばし、炎を噴いて加速しているらしい。
足元を過ぎ去っていくそれが自分のことを見ていたことをしっかり認識して、フィズは森へと飛び込む。
流体化が出来るならば、余程のことがなければトランは逃げ切るだろう。
余程のことというのはつまり、遠くへ逃げるだけの時間がなくなること。
ならば自分の役目は、ここであの蜂の上位種を引き付けることだ。
より長く生き延びて、彼女が逃げる時間を稼ぐ。
とにかく引き付けるように飛び続け、フィズは森の暗闇へと消えていく。
数時間後。
もう日も落ちようという頃、フィズは月明かりと腰の灯具を頼りに森の中を飛んでいた。
どうやらこの辺り一帯はあの蜂の領域だったらしい。
蜂だからと巣を警戒したが、どうもそんな能力はないようで、縦横無尽に森を飛び回った跡が残っているのみだ。
フィズは出来る限りで逃げ隠れ、散発的に発見されては応戦してまた逃げるということを繰り返していた。
腰に提げた灯具で道を照らしながら、フィズは飛ぶ。
猛る炎の槍を投げ打ち、木の影へと斜め上に飛び込む。灯具の明かりがまた消費された。
直撃音と共に影にした樹木がへし折れる。
どうにか針の直撃を避けたフィズは、叩き折られて宙へ吹き飛ぶ樹木の上半分を蹴って飛んだ。
続くもう一撃、灯具の明かりを更に減らして、炎の槍を投げ放つ。
そのまま地上へと飛び込んで、体を擦りながらも地に伏せる。
頭上を過ぎ去る蜂の針――が、途中で止まった。
「えっ……?」
咄嗟に炎を練る。灯具がついに炎を切らした。
ぎち、と音を立てて怪物の腹が上下に開いていく。
まずいと直感すると同時に、槍へ練る暇もなくその腹へと
だがそれより早く、それは腹を開いた。
いや、腹ではない。それは目蓋だ。
腹部には巨大な眼球があった。
その冷たいまなざしが、フィズの体を射抜いた。
瞬間、フィズの体は自身の意思を離れて硬直した。
呼吸すら止まる。声すら出なくなる。
邪眼――邪視。
知識はあった。視線で人を刺し貫く、知られざる邪神の眷属の特徴、加護。
低位のものでも人の体を縫い止め、高位のものになれば視線一つで人の体に穴を開けるという。
対処は知っている。邪なるものを焼きつくす父祖の灯火をより強く炊くことで、この硬直を祓う事は出来る。
ただし全てが手遅れ。
甲高い耳障りな羽音と硬質な牙の打ち合わせる音で拍子を取る蜂の怪物が、せめて目の前にいなければ。
「――っ」
その尾針がゆっくりと引き絞られ――だがその時、上空に何かを聞いた。
「ゃ――ぁ――ぁ――」
さっと怪物がその場を離れた。
「ぁ――ぁ――あ――あ――!」
視線が切れたことで、フィズの体が自由になる。
止まっていた呼吸を再開する。荒い息を吐きながら空を見上げれば。
「あ――ぶな――い!」
金色の何かが、物凄い勢いで降ってきた。
「うわっ!?」
しびれた体で咄嗟に飛び退けたのは運が良かった。
着地……いや落下の衝撃で土煙が爆発したかのように巻き上がり、風圧でフィズの体は仰向けに転がった。
「いっだ……!」
木の根に脇腹や腕を、幹に胴体を強く打ち付けて、痛みに思わず呻く。
一体何が起きたのか。何か声がしたような気がしたが……。
呼吸の不足と痛みとで噎せながら、フィズは爆心地へ目を向けた。
びゅおっと風が吹き込み、土煙をさらっていく。
陥没した大地の中央で、小さな何かがもぞもぞと動いていた。
「うう……いたい」
少女だ。
琥珀色の髪の美しい、少女だった。
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