ユグと旅立ち


 途端、時の流れがふと加速するのをユグは感じた。


 空がない。いや、空は下にあった。

 そこは空を遥かに超えた場所にあった。


 遥か世界を一望するここは天辺、眼下には大地があり、風が雲を運んで渦巻く。遥か向こうに虹がかかり、冠雪の空に紗幕が光る。

 それらを照らすようにして、無数の星が瞬いていた。

 天空を巡航する運命の占盤――かつてガルガンチュアが生み出した「天体」という被造物。

 神と竜の風の息吹が太陽や月を運び、ユグの足元を過ぎ去って抜けていく。


 世界は回っている。かつて始原の竜が回し、今や父祖の遺骸より生まれ出た四つの子らに委ねられた通り、世界は美しく循環していた。


 天の更に上、風すら吹かぬ高天の空。

 星樹の木漏れ日を足場にして、ユグは二本足ですくと立った。


 見下ろす世界はユグが知らないユグの世界が、始原の泥と父祖の遺骸が眠る大地があった。


 では見上げる世界は。


 そこは――そこには無数の世界があった。


 邪悪な神が支配する悪徳の世が遠くに見えた。

 暖かな光をもたらす神の輝きの世界が回っていた。

 万物の混濁した風の吹き荒ぶ過酷な世界があった。

 形ある神のなき鉄と青色の世界があった。

 無数の世界があった。


 そして神がいた。


 新たな世界を求める欲深い神がいた。

 美しい物を汚すために生まれた残酷な神がいた。

 生物全てを恨み妬む恐るべき神がいた。

 それらを嫌い小さな命を守ろうとする神もいた。

 およそ命とかけ離れた鋼鉄の理念の元に稼働する神がいた。


 泥の秘儀を求めて大地を目指す神たちがいた。


 かつて始原の大地に降り立ち、女神アルシェルによって追放されし神々が。

 ふたたび泥の力を求めて、四神と人と全ての生物によって追放されし神々が。


 ――みたびこの始原の泥へと手を伸ばす、追放されしはずの神々がいた。


 世界を支える三つの殻、「守りの殻」星樹ユグドラ・シェル。

 その光に遮られて尚、追放されし邪なる神々は、その手を泥の大地へ伸ばそうとしていた。


 最早それは遠い時のことではなく、明日にでも始まってしまいそうな――。

 それほどに、神々は世界に近いところまで来ていた。


「三度災いが現れる時が来る。我らが始祖はそう遺した」


 振り返る。ユグははっと気付いた。

 星樹の頂上、その幹の頂点には、巨大な剣があった。

 木剣であった。半ば癒着するようにして埋まった剣は、ユグの背負うそれと寸分違わず同じ形をしていた。


「ばるばる、パパ……みんな」


 その向こうに、竜がいた。

 六枚翼の白く輝く聖王竜ガーンヴァルが。

 一本角の鋭く光る竜英雄ガルグレイヴが。


 そしてユグの周囲を取り囲む無数の竜がいた。


「だが恐れるな。我らもまた舞い戻る――かの始祖はそう遺した」


 始原竜の最も過酷な使命を継いだ英雄は、その責務と同様重々しく言葉を重ねた。


「そうして、世界の全てに望まれて、汝は生まれた」


 始原竜の最も偉大な権能を継いだ竜王は、その役目に対して淡々と言葉を重ねた。


「汝は今や子ではない」


「ここは高天、我らが祖竜が割った天と地の、その始原」


「星樹の導きに従い、汝は始原の一つを垣間見た」


「我ら夜の子ガルガンの理の通り、汝は今や一つの竜である」


 ユグはもう一度振り返った。


 それは始原の泥を宿す場所。

 放浪する灯火の神、父祖シエルが愛した静謐の秘儀、雨母神アルシェルが夫を埋めたねばつちの大地――。

 今にも神の手で汚されようとしている場所。


「竜よ。人にして竜なるものよ」


 竜の数名がユグの側へと寄り添い、その剣をそっと外した。

 ユグは外されたことも気付かぬまま、じっと育ての親の姿を見つめていた。


「始原竜ガルガンチュアの名の下に、その大いなる権能を代行し、竜王ガーンヴァルが言祝ごう」


 かつて世界がまだ平らだった頃、ガルガンチュアは無数の奇跡で世界を彩った。

 天地を分かち、星を散りばめ、夜を引き連れ、世界を回した。

 だがしかし、かの竜の最も大いなる権能は、名付けである。


 ガルガンチュアは言葉の竜。

 全てを名付け、形なきものに意味を与えた。

 心の形を縁取って、会話という奇跡を生みだした。


 ガーンヴァルが竜の王たる所以は、彼女が名付けと言葉の権能を継いだからだ。


「剣を手にせよ、我が新たな同胞よ。そは神紀より星樹が生んだ神の剣。邪悪を断ち切る光の力」


 かつて世界が神々の手で歪んだ頃、ガルガンチュアは世界の巡航とその防衛を担っていた。

 ある時竜が敗北し、地に尾をつけたその時に、竜と人とは嘆願した。

 世界の巡りを、己らが担う許しを求めた。


 ガルガンチュアは守護の竜。

 この世の命の全てを守り、悪しき行いに怒りを覚えた。

 人々の歪められた心をすら慈しみ、それを正す指標となった。


 ガルグレイヴが竜の英雄たる所以は、彼が正義の規範の役目を継いだからだ。


 竜の王と、竜の雄が、言葉を紡ぎ、正しきを説き、力を教え、知恵を与えた。

 そうして彼女はここにいる。


 今ここにいるのはただの竜ではない。

 神と竜の加護厚き、英雄と王の愛しき娘。真に偉大なる血脈の一つ。


 これは初めから定められていた物語の始まりなのだ。

 竜と母神の遺した通りに、三度邪神の現れる時、星樹の子が降り立った。

 大いなる戦乱が始まろうと言うこの時に、ユグは成竜の儀をくぐり抜けた。


 ユグは争いに生きるだろう。

 ここから先、心休まる時が来るかも分からない。


 だがガルガンは彼女をこそ待っていた。彼女は望まれて生まれてきたのだ。

 送り出す先は深い闇。

 彼女はその足跡を輝かせ、暗闇を照らすため、一人進まねばならない――。


 それはまだ幼い少女には、あまりに過酷な運命で。

 竜たちは、その門出を黙して見守るしか出来なかった。


「抜き放て。それは汝にだけ許された事だ」

「……うん」


 虚空を一歩歩いた先で、ユグはそれを手に取った。


 剣は木で出来ていた。それがただの樹木ではないことなど、誰もが知っていた。

 今まで振った巨剣と寸分違わぬ重さと長さ、そのはずなのに、それは他のどんなものよりも少女の手によく馴染む。


 刃先はなく、中途から樹と一つだったはずのそれが、するりと音の一つもなく、抜けた。


 木剣だった。そのはずだった。

 それはこの世のあらゆる剣より鋭く思えた。だが刃はなかった。


 だがユグは、その真の姿を、どこかで知っていた。

 その剣に刃はいらない。それを知っていた。


「人にして竜なるものの、名は二つ」


 二人の教導者おやが、揃ってその名を読み上げた。



「汝が名は、勝利の声ユグ


 ガルグレイヴは人の名を呼んだ。


「汝が名は、煌めく者ガングレイス


 ガーンヴァルは竜の名を授けた。


「誉れ高き始原竜の加護の中、いと高き空にて」

「汝、その名をもって竜となる」



 ユグ・ガングレイスは、その剣を天高くへと掲げ、そして力強く祈りの言葉を口にした。



星樹の木漏れ日差す所Usftia、悪の蔓延る影はなし,snbraue



 煌々と竜気が灯る。

 生まれながらにして英雄たることを定められた少女は、その過酷で壮大な運命を象徴するかのように、黄金の光を身に纏った。

 並ぶものなき太陽の竜気が、その体はおろか剣すら覆い、刃を成す。


 神が鍛えし星樹の剣、最も新しきの神紀の力は、神の子のみが振るい得る。

 星樹の剣に刃はなく――その真なる姿とは、その気によって生み出されるからだ。

 それは人の灯火では足りず、神の光を用いねばならないからだ。



「一刀竜、ガングレイス!」


 ユグは己の名を叫ぶ。

 名を得ることで、竜術は完成する。

 強化の力。より高くあれと願うユグの魂。


 運命の少女は、己の内のありったけでそれを解き放った。



「――剣の息吹ソードブレス!」



 だが。


 剣がそうしたのか、ユグがそうしたのか、いやその両方か――。

 ユグが編み出した強化の術とその剣に、竜の全てが畏れ瞠目した。

 それは、進化したとすら言えるだろう。


 天を衝く巨大な刃がそこにはあった。


 それは全ての竜も、とうの星樹も、星剣も、ひょっとすると始祖も女神も、予想だにしないことだった。


 その高さ、果たして星樹とどれほど違うだろう?

 巨大なはずの剣が、刃の留め具にしか見えぬほどの巨大な剣だ。

 星樹の木漏れ日を一つに束ねればそうなるだろうという姿だった。


 言い伝えと違う。誰かが呟いた。

 ああまさしく、「覆う」などという言葉とはかけ離れたそれは――「生み出した」というべきだろう。


 世界の果てたる高天にあって、その刃はただただ大きく、世界の全てを照らし出していた。

 夜が明けていく。光が満ちていく。

 邪な神々はその光に怯んだ。そして、新たな英雄の姿を目視した。


 あり得るかな。命の一つが、星樹にも勝る輝きを振りかざすなど。


 振りかざす? それもまた否。それは振り下ろされた。

 ユグの挙動にはまったくの躊躇も驚愕もなかった。

 まるで当たり前のことをやっただけという、そんな態度。


 初めから少女だけが知っていた。運命など、少女の前では意味を成さない。


「それっ!」


 あまりに軽い掛け声。

 力の弱い神々の一つが跡形もなく消し飛んだのを竜たちは見た。

 一つではなかった。四つか五つ、まとめて一気に消滅した。


 その一閃で、地表を目指した全ての神が逃げ出した。その多くが傷ついていた。

 かつて始祖を苦しめた強大な神々ですら手負いとなっていた。

 その傷跡は深く、すぐに治るような傷ではなかった。


「えいっ!」


 追い打ちのもう一閃。少女に容赦はなかった。それで三体ほどが消滅した。

 悪神の本拠地らしき世界の一つも、真っ二つに切り裂かれた。

 今度こそ一目散に逃げ出していく神々を、竜は呆気にとられて見ていた。


「無茶苦茶だ」


 グレイヴは半笑いで呟いた。

 奇しくもそれは神紀の終わり、始祖の息吹を見た時と同じような反応だった。


 不意打ちとはいえ、星樹の力が完全に発揮される場所だとはいえ、死んだ神々がさほど強くはなかったとはいえ。

 あまりにもあっさりと、ユグは神殺しを成し遂げた。


「無茶苦茶やりやがるぜ、うちの娘は」


 夫に背を叩かれて、ヴァルはようやく意識を取り戻した。


「ゆ、ユグ……」

「すげえなあ、うちの娘は! なあお前ら! そう思うだろう! 我らが同胞たちよぉ!」


 彼の言葉に、ようやく皆の理解が追いついていく。

 ふとした時にはその黄金の刃は失われていて、後には巨大な木剣と、にいっと笑う幼い担い手が残された。


 今に始まるはずだった戦端を、ユグは一太刀で切り捨てたのだ。

 暗澹たる未来を、蹴飛ばしてしまったのだ。


「よくわかんないけど、わかった! やる!」


 ユグはいつでも笑っている。いつだって笑顔だ。

 ヴァルも、グレイヴも、だから釣られて笑みを浮かべた。


「ばるばる、パパ、行ってくるよ! どこかわかんないけど! まだなんか、こう、ごちゃごちゃしてる! 隠れてるのもいる! よくない! わかるよ!」


 父竜は頷いた。母竜は、そっと目を伏せて弧を描く口元を撫でた。


「わかんないけど! ユグにできること、いっぱい……いっぱいあるんだ! なんとかしてくる! だいじょーぶ!」


 ユグはその小さな手を頭上に掲げて、ぐっと握りしめた。


「『木漏れ日は此処に在りSih,ftia』、だからね!」


 ――全竜が唱和する。


 木漏れ日は此処に在りSih,ftia

 木漏れ日は此処に在りSih,ftia

 木漏れ日は此処に在りSih,ftia


 聖句を叫んだ。

 新たな英雄の初めの偉業を祝いだ。

 その雄叫びは怒涛のように広がった。


大いなる時代の至宝Yugtoe我らが新たな英雄Onc!」


汝が天に星樹の輝Msftiaきがあらんことをsoy!」


 この娘ならば大丈夫だと。

 人のどんな想像も追い抜いて、新たな未来をもたらすだろうと。

 誰もが信じ、そして歌った。



 これは星樹の娘の英雄譚。

 後に誰もが語り継ぐ、神と人との争いの、その最も幼く強い英雄の物語――。




























 ユグはすぐさま冒険を始めた。



「――じゃあ、行ってくるねっ!」



 つまり、そう言い残して飛び降りた。




「……は?」


 ノリと勢いと呆気にとられてそれを見過ごしたガルガンたちは、直後にやべえと顔を青くした。

 星を蹴って加速していくユグを見ながら(良識ある)皆がにわかに慌て出す。


「おい待ってくれユグ! 待てってば! うおおやべえグレイヴ兄貴追いかけろ!」

「何言ってんだ、ユグの術は強化だぞ。あの速度見ろ、もう俺より早いんだ。どうだすげえだろ俺の娘は! もう俺じゃ勝てねえかもな!」

「親馬鹿! この状況で親馬鹿っすか兄貴!」

「大丈夫だろ何とかなるって、Sih, ftiaだ!」


 巨魁の竜ガルトレイジは目を覆って天を仰いだ。


「ユグ……大きくなったな……」

「ヴァル様現実見て! まだ貴方自分の国に布告も出してないでしょ! ユグちゃん放置したら社会とか色々まずいって分かってますよね!? ますよね!?」

「やはり私の想像なんか軽く超えていくんだな、お前は……ああ、そのまま好きに行きなさい、ユグ」

「駄目だこの王様完全に子煩悩だ! 仕事! 仕事してください!」


 凍土の支配者ガンリエールはヴァルの肩を掴んで揺さぶった。


「おいなんか風に流されてるぞ! 大丈夫かあれ!」

「あ、ファーフィラ様が借りてくって言ってますね。ちょっと様子見てきます」

「風神様も大概だよなあ昔から! ツァール任せた!」


 気まぐれな風の女神が彼女を浚っていったことで事態はいよいよ制御不能になり、そうして英雄にして一番の問題児が世に解き放たれた。

 着地についての心配を誰もしない辺り、皆ユグの扱いには随分と慣れていた。


 ガルガンたちは慌てて己の管轄へと戻っていく。

 ユグが手を出したら大変なことになる問題が山程あった。

 高天から地上へと戻るには距離以上の時間がかかる。星樹の光をくぐり抜けなければならないのだ。

 そんな事情を無視して地上へ辿り着こうとするユグがいるわけだから、のんびりなどしていられない。


 皆が慌ただしく星樹を辿って地上へと戻る中、げらげら笑うグレイヴと、疲れた笑みを浮かべるヴァルだけが残された。


「ああまったく、誰だあいつの行く末を心配なんかしてた奴ぁ!」

「ああ、まったく、誰だろうな。きっととんでもない馬鹿の集まりだろう」


 二人は顔を見合わせて笑った。


「ファーフィラ様は絶対気にいるぞ、ユグのこと」

「そうだろうな。風来坊を体現するような少女だから……」

「タウミエラ様はどうかね」

「草木を愛するものは皆彼女の友だ。ユグもだろう?」

「四神に愛された子が生まれたわけだ」

「父祖シエルも驚いていることだろうな」

「違いない。――ああ、まったく、すげえやつだ、ユグは」


 グレイヴは角をつるりと撫でた。

 ヴァルは深く息を吐いて、小さくなっていくユグの背中を見た。


「時代が動くな」

「ああ。時代が来るんじゃねえ――ユグが動かすんだ」


 良き時代になるだろうさ、と二人は笑い合った。







 そうして少女は旅立った。風神ファーフィラに導かれるまま。


 ユグ・ガングレイスの初めての冒険は、暗雲立ち込める北方の開拓都市ティリガンツより始まる――。

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