ユグと星樹




 竜郷ガルガンヴァリアは、南北に伸びる谷を切り拓いて作られた郷である。

 守り人の郷であるため、星樹をぐるりと取り囲むように作られている。そのため、切り拓くというより崩して押し広げるという方が近いかもしれない。

 もっともその土地のほとんどは農地や森林となっていて、実際に環のように家が立ち並んでいるわけではない。


 ユグの踝ほどの深さもない渓流が細く樹の枝のように分岐しながら外へと向けて流れており、その間の陸地に竜の体格に合わせた巨大な家屋が建てられている。

 川は谷へと向かうにつれて寄り集まり、勢いを増す。

 その水のこんこんと湧き出る場所が、星樹だ。


 星樹の幹からは滝のように水が溢れ出ている。雨の女神アルシェルの加護だ。

 だが星樹の滝がどのような仕組みになっているのかを竜の中で知るものはおらず、恐らく最も詳しいであろうユグは説明が苦手だ。

 それらは流れ落ちた果てに星樹の周囲に泉を作っており、巨大な根が泉を割って陸地へと伸びている。その根と陸地の付け根の僅かな窪みが渓流の始点だった。


 天を衝くという高さは比喩ではなく、実際に頂上は雲の上にある。そんな巨樹の根本にある郷であるから当然として、郷の内側半分の空は梢と葉に覆われている。

 星樹の近くには雲すら寄せ付けないので、ガルガンヴァリアは常に木漏れ日が差し、万年暖かな晴れの陽気に包まれている。夜でも星樹の光が降り注ぐため夕暮れほどに明るく、眠るにはやや眩しい事さえある。


 黄金にきらめく大気、生い茂る木々、澄み渡る渓流、活き活きと野を駆ける小動物たち……それらが渾然となったここは、かの伝説的探検者メリアをして「楽園である」と言わしめた土地だ。


 さて、生まれつき好奇心旺盛なユグは、物心ついた時から星樹へ木登りを始めた。

 最初はそれこそ小さな根の上(それでも彼女の背の優に八倍はある)に登るのが精一杯だったが、成長に連れてどんどん距離を伸ばし、グレイヴとヴァルや他多くの竜の指導のもとで竜気を操る術を身につけてからは爆発的に伸びた。


 頂上に行くだけであれば、ユグはいつでも行けただろう。今こうしてガーンヴァルの背に乗って飛んでいるように、竜の手を借りて頂上まで行けばいいのだ。

 しかしユグはそうすることなく、一人で星樹へと挑み続けた。


 ヴァルは竜郷を見下ろしながら、その六枚翼を羽ばたかせて星樹の根本へ向かっていた。

 郷では皆が見上げて、あるいは暫し揃って飛んで、ユグへと手や翼や角を振っている。ユグはそれらに丁寧に手を振り返していた。人では足が竦むだろう高度も、竜にとっては低空と変わらない。それに慣れ親しんだユグも同様だった。


「みんな見送ってくれてる!」

「記念すべき日だからな」


 やがてそれら竜の住処も遠ざかり、星樹の幹の影へと入る。

 もう見上げても青空はない。

 空は幹を走る淡い光の脈動と、溢れ出る水、深緑の木の葉で覆われていた。

 円を描くガルガンヴァリアも相当な広さだが、星樹の懐はそれよりもなお広い。幹一つの中に都市を入れてもなお余るだろう。


 星樹の頂上へと到達するのはガルガンの間では成竜の証明とされる。

 竜が大気を越えて、危険な生物をはねのけ、天空高くへ到達出来るようになるまで二十年ほど。幹を登るのはもっと厳しい。

 ユグはそれを容易くこなそうとしている。


 星樹の付近まで近づいた頃――もう郷の姿も小さく細くなった頃に、小さな広場の上に差し掛かる。

 成竜の儀の開始地点、星樹の天辺へと挑む仔竜が最後に翼を休める場所である。


 ユグは無造作に飛び降りた。


 ばっと両手を広げ、竜の背から地上へと一直線に降りていく。ヴァルの背からでは小さく見えた広場も、近くで見れば随分と広い。


 ユグは地上すれすれでくるんと回転して二本足で地面へと降り立つ。

 人間の足では耐え切れないだろう衝撃――ユグはすっくと立ち上がると、右手を開いて上へ伸ばした。


 そこへ鉄塊が降ってきた。


 どうやら剣のようだった。大剣と呼ぶには、あまりに大きすぎた。

 竜の背丈に匹敵する長さの、無骨な巨剣。同じ年頃の人間リーアと比しても小さいユグの背丈では、三つ重ねても届かない。

 柄は短槍のそれに類する長さ。分厚い刀身は上質な鉄と炎が生み出す美しい黒で、そこらの岩よりもずっと重く頑丈だろう。その重厚な威圧感と真っ直ぐな腹に反し、刃先はすらりと弧を描いている。

 竜の鍛えた竜の武器である。人が操るものではない。


 ユグはそれを片手で軽々と受け止めると、肩で担いだ。

 剣があまりに大きすぎて旗を担いでいるような姿だったが、どこか堂に入った仕草だった。


 ユグは調子を確かめる。

 振りかぶられた刃の先が地を舐めて、刃先が霞むほどの一閃が大地に傷を刻む、その手前でピタリと止まる。剣風が土埃を立てた時にはもう、刃先は翻って逆袈裟に弧を描いていた。少女が腕を巻き取るように身を捻って踏み込めば、続く一振りが大気を割った。


 あるいはそれを人の剣で行うならば、少女は天才というだけで済んだだろう。

 恐るるべきはその膂力。人のためならざる竜剣を片手で自在に操る力。


 ユグという少女の、生まれつきの二つの違い。

 人にして宿した竜胆と、竜すら及ばぬ筋力。


 人に比しても軽い彼女の体はその実、竜より強く出来ていた。


「ういっ、おっけー」


 次いで、ユグは荷物を検める。

 背負ったリュックサックにはおやつが一杯と水筒が一つ、薬と包帯が少々。

 身にまとった竜鱗と竜革の部分鎧がしっかり止められているのを確認して、少し緩んでいた靴のベルトを片手でぎゅっと締め直し、立ち上がる。


 とんとんとつま先で地面を叩き、背中の固定具に巨剣を水平に差して顔を上げると、ちょうど後ろにヴァルが降りてきた。


「準備できたよ! 忘れ物なーし!」

「うん、よろしい。いつも言っている通り、自分の状態の確認は怠らないように」

「はーい!」


 元気よく手を挙げるユグに、ヴァルは小さく頷いた。

 その細長い胴体を覆う白い鱗に、彼女の跳ねる金色がぼやけて僅かに映り込む。

 琥珀色の瞳はまっすぐにヴァルの顔を見つめていた。


「ユグ」


 ヴァルは王である。

 彼女を慕う人々に望まれて、己の名を冠した国を治めている。

 だから人を鼓舞する言葉を幾つも知っているし、それで人が力を増すことも知っている。


 だが果たして、自分がユグを鼓舞する必要はあるだろうかと、ヴァルは思う。


 彼女は立派にやっていくだろう。ヴァルは確信している。

 美しく、聡明で、無垢で清廉に育った。

 力強く、慈愛に溢れ、伸びやかに育ってくれた。


 己の持つ人ならざる力に溺れることもなく――きっと彼女は、それを正しく使うだろうと信じられる。

 だから、叱咤も激励も、ユグに与えるには相応しくない。


 言葉をなくした竜王は、代わりに、そっとユグの体を抱きしめた。

 爪を立てないように慎重に、苦しめないよう優しく。

 ユグは目を見開いて、それから、背に回された細い腕を撫でて、体を預けた。


「……あったかい」


 ほのかに光るささくれ一つもない滑らかな白鱗に、ユグはそっと頬をすり寄せた。

 ヴァルはそっと体を縮めた。


 白い髪に白い肌――人の姿を取って、ユグの体を胸に掻き抱く。

 そうするのも久しぶりだった。まだユグが幼い頃、ぐずる彼女をそうしたように。


「だいじょうぶだよ、ばるばる。ユグ、ちゃんとできるよ」

「ああ。分かっているさ……分かっているとも」

「てっぺんに何があるか……わかんないけど、でも、ユグはね、だいじょーぶだよ」


 ふんすと鼻を鳴らす仕草に、ああ、ああ、と何度も肯定しながら、ヴァルはその整った顔をユグに触れさせた。

 上等な金糸も叶わぬような肌触り。懐かしい香りと気配。


 始祖の竜気と太母の面影――それを上書きする、太陽のような笑顔。


「心配しなくていいんだよ、ばるばる」


 自分はよき母となってやれただろうか。

 それが竜として正しいとしても、母として正しいのだろうか?


 遥かに遠く紀を遡り、戦乱と激動を定められた、約束の子。

 いつかと望まれて生まれてきた子。時代の至宝。

 襲い来る暗黒と大いなる戦乱に立ち向かう宿命――。


 そんなものへ、娘を送り出そうというのに。


「だいすきだよ。郷のみんなも、パパも、ばるばるも」

「……ああ。私も、ユグのことが大好きだよ」


 だが、ユグが行くと言うのだから。


 そっと離れていく温もりを掻き抱こうとする自分をぐっと堪えて、ヴァルは慣れない笑顔を少しだけ浮かべた。

 言わねばならない。竜として、母として、祝福を担う者として。


「いってらっしゃい、ユグ」


 ユグの笑顔が、曇ることのないように。


「うん!」



 そう笑って、ユグは竜気を解き放った。



 ――竜胆より発する始原の力を、ガルガンは竜気と呼ぶ。

 始原竜より授かった神の御業、世界を導くための力。


 だがそれは。ユグの放つその力は。

 ヴァルを超え、グレイヴを超え、始祖に迫るほどの力だった。


 光となって現れる、莫大な力のうねり。太陽すら霞む黄金の光……。


 かつて女神と祖竜がその身を捧げて生み出した、外界の神を遠ざける「守りの殻」たる星樹。

 その内より生まれ出た、人の身にして竜気を操る少女。


 始原竜ガルガンチュアと雨母神アルシェルの血脈を継ぐ神の子――。

 星樹ユグドラ・シェルの娘。

 それがユグの正体だ。


 竜が魂に刻みこんだ竜気の使い方を、竜術と呼ぶ。

 ユグのそれは強化だ。

 いと高く、より強く、それがユグの魂の指向性だ。


 つまりこうだ。

 元より常識を逸した域にある筋力を、神に等しい竜気をもって強化すること。



 ぐっと姿勢を縮めれば、溢れた竜気がユグの体に浸透していくのが目に見える。

 地を蹴る勢いは殆ど爆発するよう。

 膨れ上がる土煙がヴァルの白い表皮を撫でた。


 ヴァルの眼前からユグの姿が消え去った。

 ふと見上げれば、飛翔する竜に迫る速度で星樹の幹を駆け上っていくユグの姿が遠くにあった。


 風すら追い抜き、音を置き去りに、少女は走った。


 金色の軌跡が生い茂る葉の間に消えて。

 生まれた突風が木々を揺らして。

 そのまばゆい輝きすら、ついに届かなくなった頃――。


 振り返ったヴァルは、その六枚翼を大きく広げた。


「――さあ、竜よ。ガルガンよ。始祖より世界の巡航を任された、我が同胞たちよ」


 白竜は長い首を高く伸ばし、しかし囁くように口ずさんだ。この世で最美の音と謳われるその声は、管楽器の荘厳な和音に似ていた。

 葉擦れに紛れてしまいそうなその音色は、しかし決して失せる事無く、彼女の暖かな白の輝きを連れて伝播していく。


 そして郷のあらゆる場所から、姿形の様々なガルガンたちが飛び立った。

 竜はすぐに列を成し、それらは繋がって環となる。


 中心、星樹の正面に浮かぶ彼女の隣に、一角竜が降り立った。

 鋭く長い一本角を天へと立てて不敵に笑うと、雷鳴にも似た、雄々しく勇ましい咆哮を上げた。


「新たな同胞を迎えに行くぞ、お前ら!」


 成竜の儀が始まった。

 小鳥のさえずりより清らかに、獣の遠吠えより力強く、全ての竜が福音をもって新たな同胞の先を願った。


 ――「汝が天に星樹ありMsftiasoy」、と。






 竜気で高められた運動能力に任せて幹をどんどん駆け上がり、幾つも枝を追い越して、勢いの衰えた頃に右へと飛ぶ。

 大きな枝の一つにぴたりと着地して、ユグは一息ついた。


 星樹の内側は明るいが、外とはほとんど隔離されている。

 葉も枝も幹も柔らかく輝く一方で、分厚いそれらが外の光景を遮っているのだ。

 見上げれば、迷路のような枝の数々。そこを伝って落ちる水流。


 ユグは付け根へと歩いて行く。垂れ落ちた水がくぼみに溜まって小さな池ができていた。それを水筒に掬って口に含む。

 野山や海川の水と違い、星樹の水は清らかだ。生水を飲んでも体調を崩すことはない。時折混じる木屑や木の葉そのものが浄化作用を持っている。

 心地良く冷えた水を飲み干して、ユグはもう一度気合を入れ直す。


「よいしょっ」


 十分な助走のつかないここからしばらくは、幹をよじ登っていかねばならない。

 星樹は余程のことがなければ折れないが、その分よくしなる。ユグの脚力で蹴り飛ばすと足場が揺れるのだ。そのため、太い枝を選ばないと跳ねて危険だった。


 四足動物が地を駆けるように、ユグはするすると幹を登っていく。

 その握力で瘤を握りしめ、軽い体をひょいと持ち上げる。指先の力で体を押し上げ、その隙に足をかけて蹴りだす。その頃にはもう片腕が掴めそうなところを見つけていて、もう片足もぐっと縮めて幹を蹴ろうとしていた。

 身の丈を超える巨剣を担いでいるとは思えない身のこなしだ。


 地につかないようにと水平に吊るした剣を、枝にぶつけないようにと斜めに傾ける。細い枝(といっても大木の幹くらいはあるが)の隣を登ると、その枝に飛び移った。

 そしてぐっと膝を弛めて、今度は大きく飛び上がる。家屋ひとつ分は高くにある枝に両手で掴まると、懸垂して枝の上へ這い上がった。


 ユグは登るべき道筋をはっきり覚えている。

 ずっと挑み続けた大樹だ。最初は一つ登るのにも苦労していた記憶が、今彼女の足を軽やかに運ばせる。

 巨大な幹をよじ登り、隣の枝へと飛び移り、助走がつけられるくらいの枝に登れば駆け上がり……。

 熱心にそれを繰り返して、どんどん上へと登っていく。

 だが星樹はあまりに巨大で、どれほど登っても終わりは見えない。


 いつ終わるとも知れない重労働。人ならば、竜ですら、どこかしらで心身どちらかが疲れを覚える状況でも、ユグは全くへこたれない。

 飛び、掴まり、駆け上がる。時折の小休止で水を飲み、おやつと称して持ってきた干し肉を齧りながら、ペースを乱さず登り続ける。


 丸一日それを続け、ユグは樹洞に身を横たえて眠った。



 二日目。

 星樹の葉の薄い部分から、邪な神々の下僕、歪んだ生命が邪魔をするようになる。

 追放されし神々が生み出した命……だがそれは実際に星樹の内にいるのではない。

 星樹自身が記憶している神々の罪の形を使った、登攀者への試練である。


 耐え難い飢餓、理由なき憎悪、捻くれた愛情、そういった歪んだ心に突き動かされて肉体すらも変化した、邪な命だ。

 それらは星樹の外へ出ればただの幻でしかないけれど、ユグを傷つけ、その足を阻むには、十分すぎるほど強大だった。


 竜の死骸で作られた角無き竜、生物を無差別に取り込んで変態していく動物の塊、鉄の理で動く兵士。

 かつてはそれらに逃げ帰ることしか出来なかったユグも、今やそれらを切り払って進めるまでになった。


 足場を選びながら敵を慎重に打ち倒し、あるいは遠ざかりながら、ユグは進む。

 休む暇もないままに夜が明けた。

 ――その夜すら、星樹の内では感知し得なかったけれど。



 そして三日目。


 ひとりごとの多いユグも、眠る余裕もないまま不休で動き続ければ閉口するもの。

 最早ユグの知る道はどこにもない。枝を一つ登るのに試行錯誤を繰り返しながら、ひっきりなしに襲い来る歪んだ命を退けて、ユグは進む。


 あれほど広かった星樹の内側は随分と狭まり、頂上が近いことを感じさせる。

 若葉の守りはその下と比べてもやはり脆く、歪んだ命の妨害も増えてきた。

 それでもユグは、危なげなく確実に、一定の調子で頂上を目指す。


 都市よりも広かった空間は村ほどになり、登るたびに狭まっていく。

 それがやがて小さな集落ほどになった頃――樹の向こう側が見えた。


「あ……!」


 ユグは小さく声を上げて、勢い良く飛び出した。

 枝の端を勢い良く踏みつけて、ばね代わりにして跳ね飛んだ。

 剣を抜き、天地逆さまに姿勢を入れ替えての一閃。粘泥で出来た原始の命を両断すると、ぶよぶよとしたそれを蹴りつける。足場にはあまりに不適なそれも、ユグの脚力の前には型なしだ。


 遠く枝に飛びつくやいなや、投石具の紐を振り回す要領で勢いを殺さず縦に旋回。時機を見て手を離せば、ユグの体は勢いそのままに斜めへ向きを変えてかっ飛んでいく。

 そうして砲弾のように枝と枝を飛び移るユグ。すれ違いざまに過去の幻影を切り払い、それらを足場に蹴りだして――。


 ついに、星樹の外へと飛び出した。



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