序章  ユグ・ガングレイス

ユグと竜郷



「たっだいまー!」


 少女は扉を勢い良く開け放ち、家主へと叫んだ。


「おう、おかえり」


 この日喫茶店を営む彼ことガルグレイヴは、いつも通りに朝から店を開けていた。相変わらず客は来ない。


 少女の名前はユグと言った。

 渓谷にひっそりと佇む自然の都ガルガンヴァリアに生まれ、数えて十二年になる。


 ユグについて郷の者に聞けば皆、いつでも笑っている子だよ、と答えるだろう。


 豊かな金色の髪を長く伸ばし、付け根で縛っていた。その体の動きに合わせて瑞々しく跳ねて揺れる姿は尾のようにも見える。

 丈の短いワンピースにズボンといった質素な出で立ちだ。

 琥珀の瞳をきらきら輝かせて、彼女はカウンターへと駆け寄った。


「早いな。ヴァルと勉強じゃなかったか?」

「抜け出してきた! ばるばるに後でごめんする!」


 元気いっぱいな彼女の答えにグレイヴは苦笑した。頭を垂れて溜息をつく教導者の姿が思い浮かんだ。

 ユグはかばんを脇の椅子に乗せた。


「相変わらずすっからかんだね」

「うるせいやい」


 夜には賑わう、と言っても、そもこの郷では飲むものといえば酒ばかりである。落ち着いて茶などを飲むのは一部の老体ばかりで、専ら酒場として使われていた。

 ここは少女の家でもあり、そういう意味ではあまり教育によろしいことではなかったから、この十二年、騒ぐのはユグが寝入ってからと決まっていた。これは最早郷の常識だが、ユグは一度寝入ると朝まで起きない。


「かんこ……観光鳥? が鳴いてるね!」

「閑古鳥だ。ガルガン由来のことわざだぞ」

「それよりそれより~」


 ユグはひょいと椅子に飛び乗って、小さな手でドンドンと机を叩いた。


「お腹すいた! ごはん!」

「はいはい……」


 ガルグレイヴは気ままな少女に急かされるまま調理器具を手に取った。まだ昼にもなっていなかった。


 広く大きく、普段使いには困らない調理場だが、郷の中でもかなり大柄なグレイヴが入るとやや手狭に見える。

 そして人と比べても小さいユグが座ると、椅子一つとっても机のように巨大だった。ユグ専用に設えられた足の長い椅子の上で、ユグは落ち着きなく両足をばたつかせたり頑丈なカウンターをばんばんと叩いたりしている。


 ガルガンヴァリアは人里離れた場所にあり、言ってしまえばドがつく程の田舎だ。その上この郷の住人は郷の発展やら何やらに興味がない。

 当のグレイヴも喫茶店などは趣味でしかなく、郷の発展を、などと大層なことを考えているわけではない。


 ここは平穏だ。言い換えれば何もない。

 そういう風に皆が望んで営む郷だ。


 憩いの郷は変わらず穏やかにそこにある。

 それだけが、多くを望まぬガルガンにとっての数少ない願いなのだ。


 谷間の一角を広げて作った空間。中央をきらめく川が流れる中、岩場には苔がむして、崖からは木々が生えだしていた。

 星樹の木漏れ日がそれらを暖かく照らしている。

 沢と風の音。鈴虫と鳥の鳴き声。


 そして見上げれば星樹の偉容――。


 天を衝かんばかりにそびえ立ち、空を覆わんばかりに梢を広げる大樹。

 星樹ユグドラ・シェル。

 ガルガンヴァリアにはただそれだけがあればいいのだ。

 それらを守るために、郷があり、自分たちがいるのだから。


 などと思いを馳せながらざくざく野菜を切り終える。少女は空腹に我慢ならないと言った様子だった。


「はやくっ、はやくっ」

「まぁ待て、美味いもん食わしてやるから。焼き飯でいいな?」

「うんっ!」


 ばんばんと机を叩く少女をなだめながら、件の少女では抱えもできなさそうな大皿を引っ張りだす。


 グレイヴは(妻の好みで)繊細な料理も一応覚えてはいるが、ガルガンは大体豪快で食べやすい物を好む。そんな環境で育ったユグも同様だ。


 平鍋に植物油を引いて、塩ダレに漬けておいた肉をぶつ切りにして大雑把に切った野菜と合わせて焼く。塩ダレも適度にぶち撒け、香辛料をちょっと振る。

 後は米だ。米をやや水分少なめに炊いたものをぶちまけて、塩ダレをもう一度流し入れて、香辛料を振って、かき混ぜる。

 塩ダレにふやけた肉の脂身がほろほろ崩れ、タレと混ざりながら米を覆う。

 あとは適当に焦げ目をつけて完成だ。


 大皿にこんもりと乗せた焼き飯は香辛料と米と肉の焼けた香りが交じり合って、胃を刺激する匂いを発していた。

 少なくともユグの空腹度は極限に達したようで、叩きすぎで机が折れるのではと言ったほどだった。


「ユグ」

「ういっ」


 一声。

 ぴたりと机を叩くのを辞めたユグをしばらく見つめて、グレイヴは相貌を崩した。


「よろしい」

「はいはいはい! はやくはやく!」

「よーし、腹一杯食いな」

「いやっほーぅ! パパのごはん! いただきまーす!」


 ユグはガルガン流の礼を取ると、すぐさま木匙を焼き飯に突き立てた。巨大な皿に山を作るそれに臆することは全くない。

 ガルガンヴァリアの特産品と言っていい米だが、ガルガンはあまり好まない。


 米に限らず、人が穀物と呼ぶものは大体ガルガンヴァリアから流出したものだ。

 パンという食べ物は人間が第六紀に生み出し、竜の始祖ガルガンチュアが名づけたとされる。

 始原竜ガルガンチュアは名付けの竜とも呼ばれるほどに、様々な物に名を与えた存在だ。三女神の名も、死した主神の名すらも、かの竜が与えた。


 ガルガンチュアは穀物を妙に好んでおり、中でも炊いた米を大層愛していた。

 そして星樹の子であるユグも、相当な米好きである。


 グレイヴは肉の欠片を口に運んだ。塩気が効いていて旨い。

 香辛料の類はガルガンヴァリアでは貴重品だが、例外的に塩だけは岩塩が大量に手に入るので多く使われている。

 当の発見者はそのせいで中々滑稽な呼び名をつけられて複雑な顔だったが……。


 岩を掘り進めるその彼も、予定では今夜帰って来る。

 世界の裏側にいた遠出組が揃えば、いよいよ郷の全ての血族が揃うことになる。

 第九紀初どころか近代で初だろう。それほどの大事だ。


 手を動かしながらぼんやり考え終えた頃には、ユグは既に一抱えもある大皿を綺麗に空にしていた。


「おかわり! 焼き飯!」


 まったく元気に育ったものだ、とグレイヴは微笑む。ふんす、と鼻を鳴らすのはヴァルの癖を真似ているに違いない。

 僅か十二年と言えど、彼に愛着を持たせるには十分な時間だった。


「あいよ。好きなだけ食ってけ」

「ぃやったー! 次ステーキ!」


 底なしの食欲に、倉庫の食料も軒並み放出してやるくらいの気持ちで、グレイヴは第二弾を皿に盛る。

 同年代の人間と比べてもなお細い胴体に、果たして消化した食料はどこへ行っているのかと生物の神秘を思う。


 勿論そんなものは明白で――竜胆に入り、竜気に変わっているのだ。


「今日こそ天辺……なんだな?」

「うん! 食べたらすぐ行くの!」


 ユグは幸せそうに手を動かして、ものすごい勢いで腹に物を詰めていく。

 味わってゆっくり食べるという考えはユグにはなく、すぐなくなるならもう一回頼めばいいと、単純に考えているに違いない。


 ユグは星樹の子だ。

 望まれて生まれてきた子だというのに、ガルガンの殆どはすっかり失念していたのだ。子育てについて。

 比較的人と交流のあって人間を育てる最低限の知識があり、人並みに料理も作れるグレイヴが適任であり、彼自身もそうして自ら名乗りを上げた。


 出来るならばこんな日々が長く続けば良かったと、そう感じる事を誇るべきか、恥じるべきか。


 ユグの教導者おやは、「ばるばる」と、ガルグレイヴ。

 それはともすれば――いや間違いなく彼らの人生で一番に険しい道のりだった。

 それもまたよし、と彼は思う。


 ユグは笑顔だ。毎日を精一杯、楽しく生きてきた。


 だから、それでいいのだ。


「ごちそうさまっ!」


 ステーキ、サラダ、ウドンという麺の一種、山盛りの炊いた白米と平らげ、ユグは両手を打ち合わせた。

 そしてぴょんと椅子から飛び降りる。


「そんなに急いでどうしたよ、ユグ」

「ばれる前に早く行かなきゃだもん!」

「あぁ……」


 彼女の教育係が授業中の脱走を許すような性格でないことは、この十二年で散々学んだらしい。

 それでも懲りずに抜け出してくる辺り、その奔放な行動は彼女の性分なのだろう。あるいはそうなった理由の一端が自分にあるかもしれない。

 急ごうという理由は分かったが、どうしようもあるまい、とグレイヴは思った。


 そして彼の予想通りに、店先にぱっと影が降りた。


「うげっ」

「うげ、とは奇妙な挨拶だな、ユグ?」


 ドアをくぐってやってきた長身痩躯の美女こそが、件の「ばるばる」である。つまりユグの教育係を務める片割れ、ガーンヴァルだ。

 ガルガンに婚姻という文化はないが、事実上グレイヴの妻でもあった。


「どうしてここが!」

「君の行動を読めないとでも思ったのか。その短慮さは命取りだぞ」


 昼前であれば間違いなく自宅で食事を摂るだろうというのは、郷の連中なら誰でも予想する事だ。

 ただまあ、今まで散々ユグの奔放さに振り回されてきた女の台詞ではないな、とグレイヴは思った。口に出す前にキツい視線を貰って、彼は大人しく口を閉じる。


「さて。私の目を盗んでまで外へと出ているのだから、当然第三紀についての課題は終わったのだろうな?」

「うう……えとね、ばるばる。えっと、あのね……?」


 ユグはしどろもどろに弁解を試みて失敗する。ヴァルとグレイヴ、二人がかりで散々苦労して、ついぞ彼女の勉強嫌いだけはなんともならなかった。


「星樹の頂上へ、行くのか」

「……うん」


 ユグは神妙に頷いた。

 きっとユグはどこかで分かっているのだろうとグレイヴは思う。郷のみなの様子からか、あるいは自分たちからか。

 自分が成そうとしている事がどれほど重大なことかを。


「……そうか」


 ヴァルは暫く厳しい顔で少女を見ていたが、やがて息を吐いて肩を落とす。グレイヴは僅かに瞠目した。


「いいだろう。今日は、不問にする」

「ほんと!?」


 という彼女の言葉には、ユグだけでなくグレイヴも驚いた。

 そんな彼をよそに、ヴァルは諦めの混じった声色で続ける。


「今日だけ、特別だぞ。……途中まで私が乗せていこう。さぁ、準備してきなさい」

「やったー! ばるばるだいすき!」


 ぴょんと飛び跳ねヴァルの頬に抱きついて、すぐさまユグは二階へと駆け出した。

 階段を騒がしく登っていく少女をグレイヴは見送り、それから、彼の向かいの長机に腰掛けたヴァルを見た。


「珍しいな」

「……珈琲を頼む」


 グレイヴは既に淹れていた小さな珈琲碗を差し出した。この郷で珈琲を嗜む者は彼女だけだ。


「お前もよくよく好きだなぁ」

「お前ほど奇矯ではないつもりだよ、パパさん」

「お前ほど熱心ではないからなあ、ママさん」


 グレイヴも大概だが、ヴァルは輪をかけて変わり者だ。

 彼女ほど人と関わりの深い住人はそういないだろう。

 この竜郷ガルガンヴァリアにおいて、人の姿を取れる数少ないガルガンなのだから。


 小さな取っ手を掴むと、ヴァルは憂鬱に溜息を吐き、その長い首を机につくくらいに垂らした。

 彼女の特徴である暖かな光を帯びた白い鱗も、今はどこか陰っている。

 聖王竜ガーンヴァルは、彼女の国では滅多に見せない、落ち込んだ顔をしていた。


「あの子はどうも、私には懐かないな。ママとは呼んでくれなくなった」

「訓練じゃ馴れ馴れしくするなっつーのが俺らの教えだろ?」

「師匠というならお前もだろう。お前だけずるいぞ、グレイヴ」


 長机の、ユグのいた辺りをふきんで拭いながら、グレイヴは難しい顔をする。

 グレイヴは己の技を――ガルガンリーアとで差はあれど――ユグに伝えた。彼女の戦い方は確かに、一角竜ガルグレイブのそれによく似ている。

 だがグレイヴは、師を名乗れるとは思えない。


 彼女の操る技術はグレイヴ一人から伝えられたものではない。

 世界を回す傍ら、入れ替わり立ち代わりガルガンたちは郷へ戻っては、ユグにその技術の全てを伝えた。

 竜が一生をかけて研鑽する戦技の全てを、惜しみなく。


「俺があいつに教えられたもんなんて、旨い飯の味くらいのもんだよ」


 何より、ガルグレイブの戦いとユグの戦いが似通うのは生まれついての必然だ。

 互いのそれは、元を辿れば始原竜ガルガンチュアのものなのだから。


「……料理か。確かにしなかったな」

「おいおいまじめに受けとんなよ」


 冗談めかして笑い飛ばすも、彼女の表情は優れないままだ。

 竜の身には小さい人用の椀を舐めるように飲みながら彼女は呟く。


「私は彼女に然程多くのことを学ばせてはやれなかったように思う」

「……あのなあ、ヴァル」


 グレイヴは食器を片付けながら、俯く彼女を見つめた。

 ヴァルはそのしなやかに長い尾をひらりと振って、もう一度溜息を吐いた。


「……私は彼女の教育役に、相応しかっただろうか?」

「天下の聖王様も、子育ては難しかったか?」

「そういうお前はどうなんだ」


 夫の戯けた言葉に、ヴァルは語気を強めた。


「我らが英雄、ただ一人始祖の先に立った男、一角竜ガルグレイヴ殿は」


 一角竜ガルグレイヴは、その名の由来である鼻先から突き出した長大な角を、空へと立てた。

 そして、瞑目して暫く押し黙った。


「正しさはその時その一側面から導き出されるものじゃねえ……と、あの方は言っていた」


 彼は翼を静かに広げて、空の向こうに竜気を探した。

 遥か空の彼方に、この地へ向かってくる竜気を感じ、グレイスはにやりと笑った。予定よりも随分早い。


「俺たちがユグの両親として立派にあいつを育てられたかどうかは、未来になれば自ずと分かる」

 

 この竜郷ガルガンヴァリアに、全ての星樹の守り人が集う。

 ただ一人の少女のために。


「少なくとも、あいつは善く育っただろう?」


 その理由が少女の肩書だけではないことは、明白だ。


「伸びやかに育ってくれたのは俺のおかげ。清らかに育ってくれたのは、多分お前のおかげだ」


 彼は自慢の角をつるりと撫で上げて、それから、項垂れる美しき竜に笑いかけた。

 ヴァルはその不敵な笑みを見て、小さく鼻を鳴らした。


「……そうか」


 子竜が星樹の頂点へと駆け上ったならば、最早郷にはいられない。

 種の使命を果たすため、己の任を探しに行かねばならない。

 人にして竜であるユグも、それは同じだ。


「俺らは義理でも親なんだ。巣立ちの時にゃ、笑顔で送り出してやらなきゃならねえ」

「そうだな」


 望まれて生まれた子、星樹の子、時代の至宝――。

 今日はその門出の日だ。


「ありがとう、旦那様」

「よせやい」


 大いなる星の巡航の果てに今、新たな時代が幕を開けようとしている。

 それを郷の誰もが感じていた。


「準備できたぁー!」


 その中心たる少女もまた。



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