27話「二つの心臓」

 暗――

 真っ黒な暗闇――

 鉄錆の匂いがする。何も見えない夢。夜を纏った世界――

 それは彼女の夢の前兆だ。これは夢だと分る夢、夢の世界独特のあやふやさ、曖昧さを抽出したような景色が広がっている。

 見ようと思ってみたのは初めてだが。

 ――俺はいつ眠ったのだろうか……。

 いつもと違って、自分の体が見える。ここにいるというはっきりとした感覚がある。夢独特のふわふわとした浮遊感が無い。

 これは普通の夢ではない。現実の重みを纏っている。

 何も見えない――そこに声を掛ける。

「――美枝さん」

「――うん」

 いつからそこにいたのか、ふわりと、彼女は現れた。

 その姿は、あの頃のままだった。

 長い夜色の髪を纏っていない。中学生の頃の彼女。胸もまだ膨らんでいない。

 少年のような、子供のような、女の子なのにそれを感じない――

 まるで無機質の人形、でも、どこか酷く大人びている。

「……本当に久しぶりだね」

 ああ、うん、彼女は、彼女だ。

 天乃命ではない、美枝香凛。

「……うん」

 何を言えばいいのかよく分らない。いや、何を聞きたかったんだっけ。

 本当に自殺を図ったのか。

 本当に今も寝たままなのか。

 本当に、生きていないのか。

「どうしたの?」

 天乃命は本当に美枝香凛なのか――

「いや、なんがかよく分らない、何か聞きたいことがあったんだけど、うまく纏まらなくて……うーん」

 こんなときでなければ一緒に遊ぼうとか、デートしてほしいとか、付き合ってほしいとか、そういうことを言えていたはずなんだけど……。

「うーん……とりあえずなにする?」

 下手か。苦笑する。彼女も俺も。

 そして彼女から、

「……ごめんなさい」

「うん? ……なにが?」

「全部、無駄にしちゃって」

 ああ、やっぱり、彼女は……。

「……言ったでしょ。何も気にしてない。俺は何も言わないって。ああこれ言ったの違う人だ。いや、同じか? いやなんだ、何が言いたいんだ俺」

 これからいくらでも……。

 ――ああ違う、何かを一緒にしようっていうのも……すごい、理不尽なんだよな……。

 だって、もう何も出来ないんだから。

 そんな相手に自分の願いを押し付けるなんて、どんな無理難題なんだろうか。地獄より深い地獄で責め立てるようなもんじゃないのか。

 本当に何を聞けばいいんだろうな。どうすれば彼女は笑ってくれるんだろうな。

 苦しい顔は見たくない、笑ってほしい――

「……うーん」

「……ふふっ、何時も優しいよね? 人が一番辛くなることは、言わない。安全で、安心で、優しい所を探してくれる。あのときも、聞いててすごくほっとした」

「……そんなつもりは――あのときって、いつ?」

「……ボンドくんが、この世界に来て、すぐの頃かな」

 いや、なんで彼女は、天乃命に言ったことを知っている?

 聞いていたのか? 彼女の中で?

 天乃命は美枝香凛、それは間違いないのだが。

 じゃあ――

「……本当は、なにもかわらないのか? 天乃命じゃなくて、美枝さんのまま?」

「――ううん」

「……じゃあ」

「ううん。でも、私じゃない」

「――うん?」

「あのね、今ここにいる私も、本当の私じゃないんだよ?」

「……いや、」

 本人そのままだ。

 見た目も、声も、調子も、特にあのころと変わっていない――それ自体がおかしいのかもしれないが、それは夢の中だからだろう? 

 見た目が変わっても中身が、ということではなさそうだが。

「……どういうこと?」

「なんていうのかな、夢の一人歩き? 忘れて、切り捨てられた、思い出の残骸というか、無意識の一部っていうか、無意識化された記憶……うーん、今の彼女と私は別人というか……うーん」

 夢の一人歩きって、確か――

「……じゃあ、あのね? ――私って、こんなにお喋りだった?」

「え? ……んん?」

 言われて、思い出してみる。饒舌ではなかった。独り言でも心中で呟いて、それが顔に出てるっていうか。よく考えていて、理路整然ではあるけれど、どちらかというとそれで話下手の口下手になっているような。

 ぽつぽつと降る雨のように、伝えたいことを一言ずつ、必死に必死に一所懸命で一粒ずつ落としていく様な、余裕のない話し方……。

 ……確かに。こんなふうに饒舌に、どこか楽しげに話す子ではなかった。

 はっきりしているようで、どちらかと言うと、虚ろで……。

「――分った?」

 小首を傾げて、困ったような上目遣い――

「……そんな女子力はなかったと思う」

「……あはは、ひどい。でも、そういうこと。わたしだけど、私じゃない、ワタシでもない」

 こんなふうに、冗談を受け止められる子ではなかった。

 本人だけど本人じゃない……そんな奇妙な感覚が目の前に付き纏っている。

 じゃあ今ここにいる彼女は――

 でも、大分、本人そのままである。そんな気がする。

 まるで本人の言いたかったことを別の誰かが語っているような。でも、そんな口下手な彼女の内面をそのままむき出しにしているような。

 そんな感触はある、が。そうだ――

 饒舌になっただけで本人の本質と相違ないのだ。本当じゃないだけ。嘘の彼女でもないような気がする。

 つなりなんだ――自分は本当の彼女を知らなかったというだけ。

 だから、

「――つまりね、だから……ごめんね?」

 彼女の言いたいことが、

「本当に、ごめんなさい」

 分からない。分かりたくない。

「……あなたが会いたがっていた、美枝香凛は、もういません」

  心臓が跳ね上がる。

「死んでしまいました」

 ――分ってしまう。

 

 ……分ってしまった。

 その瞬間、喉の奥が酷く苦しかった。

 そんな俺の様子を見て、彼女は弱々しい微笑みを浮かべる。

「……このことだけは、本当に、最後まで迷ったんだよ?」

 俺は、頭がくらくらしながら。目の奥が熱くなりながら、

「……そうなんだ」

 どうにか、それだけを返した。頭の中は何も考えられていなかった。

 何が? と後から思う。

「……ちょっとだけ、ごめんね?」

 彼女が近づいてくる。俺は硬直したまま動けなかった。

 ゆっくり背伸びをして、彼女は抱き下ろすように俺の頭を抱えた。

 こうべを垂れる。彼女の匂いがした。総毛立った。息が詰まる。

 首から思い切り抱き締められる。

「……」

「…………好きだったんだ」

「……誰が?」

「美枝さんのこと、いつのまにか」

「……うん」

「理由、分んないけど、でも、一緒に居られたって思う」

「うん……嬉しいなぁ……私もね、そう思ってたんだよ?」

「……嘘だろ?」

「あはは、両想いだったんだね」

「……どうして」

「……そんなの、私に本当に普通の、何でもない日常だったからだよ……」

 離れる。

「……少しは落ち着いた?」

 じわりと、熱の籠った微笑を浮かべている。すこし、いやかなり恥ずかしそうだ。

 そして彼女の細い腰を思い切り抱き締めていることに気づく。いい匂いがする。このまま前に倒したら――

 ほんの少し驚いて、それから彼女は目を閉じてくれた。

 その気持ちごと、霞んで消えてしまう気がした。自分の劣情が嫌だった。優しく包んでくれた彼女に失礼な気がした。

「……ごめん、おかしくなりそうだった」

「いいよ、私の所為でもあるし……うん、この事をひどく後悔してたんだよ。ちょっと予想外だったけど」

「……ん?」

「あ、……ええと、好きとかそういうの。正直、変に親切っていうか、単に見捨てておけないから優しくしてくれるとか、そういう人だから位にしか思ってなかったから。その……まさか、すきだなんて……」

「……いやいやいやちげーし。あの時は本当にただ普通にとか普通とかで下心的に好きになって貰おうとか! ……気付いたのはつい最近で……」

 苦笑される。そして、

「……うん。分ってる――でも、だからこそ好きになっちゃったんだけどね?」

 儚げに笑っていた。

 ああ……聞きたかった言葉だ。 

 ようやく自覚した自分の気持ちを告白できた。彼女からもそれを聞けた。

 両想いになったのだ。

 でも――もうすぐ終わる。それを予感していた。

「本当の事を知ったら、こういう風にすごい苦しませちゃうから、あの時も、それだけは本当に迷ってたんだよ?」

「……ああ」

 そうか、彼女は、最後の時、迷っていたのか。

 それを、嬉しそうな顔で、語らないでほしかった。まるで幸せな死だったみたいな言い方で本当の誤魔化をしているみたいで。

「……聞いていい?」

「うん?」

「……苦しかった?」

「……ううん。苦しくなんかなかったよ? 最後はね? 楽になることしか考えてなかった。何も感じないのって案外つらいんだよ? でもね? 私の恋心なんて別によかったんだけどね? あなたの優しさは酷く傷つけることになるし、下手をすればその所為だってあのバカな親があなたに何かするなんてこともありそうだったから、念の為に忠告だけはしておいたんだけど、大丈夫だった?」

 ごめん、と、心の中で謝りながら泣きそうになるのを堪える。

ゆっくりと彼女との距離を詰める、彼女は何をしようとしているのか分っている様だった。

 もう一度だけ彼女を抱き締めさせて貰う。嫌がらないでくれた。そっと腕を巻き付けた。

 ゆっくり、頬ずりするように首に首を絡める。

「……なにやってんの?」

「え、遺書?」

「朗らかに言うな」

「本物の私じゃないしね」

「ややこしいわ」

「ふふふ?」

 鉄錆の匂いがした。

 甘い匂いじゃない。紅茶とハチミツのそれではない。この夢のそのものの匂いがする。

 パキッと、奥歯が砕けた後だった。

「――嘘吐き、全然納得してないじゃない」

「それとこれとは別だよ……っ!」

「……ねえ、血をちょうだい?」

「……は? なにを」

「ん――」

 背伸びをして、大口を開けて喰らいつく。無理やり舌で割って差し込み、砕けた歯を絡め取って呑みこんでいく。

 それに任せて舌を伸ばした。絡め合った。息をする合間に彼女は俺の歯をガリゴリ噛み砕いて飲み干していた。そのまま続けて血が噴き出るところを責めるようしつこく何度も舐め取り、ゴクッ、ゴクッ、と喉を鳴らして嚥下していく。

 そのまま夢中になった。血が止まるまで長い時間が掛った。

「……私の血も上げるね?」

 そして、血の滴る彼女を貰った。


 しばらくして、腕の中に彼女を抱えていた。

 最悪の感覚だ。口の中が血の味しかしない。でも遮二無二貪った。これがファーストキスかと思うと、悪夢になりそうだ。

「……人には心臓が二つあるの」

「うん?」

「体にある、体を動かす心臓と、もう一つは」

「心?」

「うん。心にある心臓は、魂を動かす心臓だと思うの、私は」

「うん」

「……私はそれを止めようとしちゃったの。一つは向こうで。もう一つは、この世界で」

「……この世界で?」

「心にある心臓。そうしないと、本当に、生まれ変われないから」

「……うん」

 ああ、要するに。

「だからね? 君が会いたいわたしは、この世界にもう本当に、いないの」

 彼女はこの世界で生まれ変わったのだろう。お別れだ。じゃあどうして今ここで会っているのかという疑問は残るが。

 ともかく、それだけの事――

「……そしてね、それでもね? あの子は、嘘を吐いてるの」

「え?」

「自分でも気づいていないの。ううん、気付かないふりをしてるの」

「……何を?」


 疑問を与えられた。

 それは透明に見えて、更なる不透明さを彼女に与えて来る。

「それは、探して、見つけて、気付いてあげて? じゃないとこれから先、きっと耐えられないから」

「……なにを」

「さあ? 終わらない夢を見ようとしているのかな?」

「いや、そんなの無いだろ」

「じゃあ……たった一つの夢、かな」

 いったい何の話なのか。

 彼女は何も、やりたいことを見つけられないんじゃなかったのか。

 それとも、この世界で見つけたのか?

「……私は私だから、分るんだよ? それでね?」

 なんだろうか。

 気付かないふりって。何に気づいてるんだろうか。

「私の本当の苦しみを見つけて? 私の本当の弱さを知って? 私の本当の姿を知って?」

 ――この夢を彼女は見ていないから。

「それから――あのとき、わたしに気づいてくれて、本当にありがとう」

 それは教室でのことか?

「このお礼だけは、今ここに居るわたしが言いたかったの。あのとき、わたしは、普通になれたから」

 そう言い、彼女はまるで別人のように笑った。

 今まで見たことのない――

「ハッピーエンドを願ってるよ。本当に本当の『私』を幸せにしたいなら――絶対に見つけてね?」

 それから、愛おしげに、

「じゃあね――」

 口をふさがれた。血の味のする、柔らかい感触が重なっている。

 最悪だ。また彼女に奪われた。

「……これはおやすみのキスかな、それともおはよう?」

 

 そして夢の中で眠りに落ちていく。 

 また――すべてが曖昧になっていく。

 




 目が覚めた。

 朝焼けが目に差し込み、鳥の鳴き声がした。

 頭が酷く痛い。目の奥がガンガンする。

 腫れぼったい。散々に泣いた後の様だ。そうか、多分泣いていたのだ、こっちでも。体と心は繋がっているから。

 寝ながら腕で擦る。痛みは取れない。

 彼女は死んで、確かに生まれ変わった――

 分ったのはそれだけ。

 けど、全てにおいて確証がない。どこからどこまでが本当なのかわからない。

 神様さえ知らない。

 本当の彼女の真相――

 そして、気付く。

「……重い」

 布団の中をめくれば、そこに黒ウサギが丸まっていた。

 ただし、それは非常識な形ではなく、れっきとした黒兎の形をしていた。

「……おい」

「……」

 黒兎は人の言葉をしゃべろうとしない。もふもふと口元を動かすだけだ。

 ――寂しさが消えたのだろうか。

 ――このお礼だけは、と、彼女は言っていた。

 必要なくなったのか。

 きっと、そういうことなのだろう。あの彼女の寂しさは、消えたのだ。

 黒ウサギ自体は残っているのは、俺の所為なのだろう。

 失恋なのだ。 告白はした、両想いになれた、でも、そこで終わりだった。

 胸のつかえのような何かが一つとれただけの。俺の寂しさは消えていない――

 彼女に頼まれたからか、生まれ変わった彼女の問題を。それでももう十分泣いたからなのか? 現金にも彼女の事を代わりにしているのか。

 どうしたものか。これまで通りに触れあうことが出来るのか? 

 彼女は美枝香凛ではない。天乃命だ。生まれ変わった、別人なのである。

 そう、それが彼女の名前だ。

 そしてその彼女は、

「……命さんは、何を願ってるのかな……」

 分らない。考えてみれば、居候としてしか彼女と触れ合っていない。

 そこまで深く、彼女の事を知ろうとは……。普通に、話してはいたけれど。

 考えていてもしょうがない。とりあえず分ったことを――何も分っていないようなものだけど、神様には折を見て話そう。

 起き上がる。いつもよりのそのそと服を着替えて、調理場へ行く。

 何を作ろうとしてたんだっけ……。

 トントンと木の床を足裏が叩いていく。その先に――

「あ」

「……」

 眼が合った。彼女だ。

 命――さん。

 彼女の幻影が重なりそうになった瞬間、不意に涙に襲われた。

「――どうしたんですか?!」

 白衣緋袴の巫女服が揺れる。

「あ、ごめん、ちょっとわけわかんなくなった」

「ええ? ……やっぱり、私、何をしてしまったんですか? 無理やり、その」

「……え?」

 何か盛大な誤解をしている気配がする。

「ミナカ様は一度懲らしめた方がいいのでしょうか」

「え? いや、なに?」

 とりあえず収まった涙は横において。

 調理場の戸を開け、二人で朝の支度を始める。

 食糧庫から材料を、まな板と包丁を、窯に薪を、

「……その、昨日、変な薬を盛られた、ということは、先ほど聞いたのですが。それで、夜の事、所々覚えているんですけど、なんだか、とてもふしだらなことを迫ったような気が」

「……ああうん大丈夫」

 夢の中の出来事ではなくて、布団の上で半脱げでしなだれ掛ったことを言っているのだろう。

 あれもある意味、彼女自身ではない。本音を言っているかもしれないが、本意ではない。感情や理屈とは別のところにある意思の問題で。

 だから、あれは本当の彼女の気持ちではないと思うのだ。

「――何もなかったよ」

「そ、そうですか?」

 記憶にあることは間違いない、と言いたいのだろうが。

「何もなかった」

「……そう、なのですか?」

「うん。多分夢でも見てたんだよ」

「……そうですか」

 ほっとしているような、それはそれで複雑な顔をしている。

「……どこまでが」

「うん?」

「いえ。あ、でも」

「うん」

「……あの、それで……」

「うん」

「――お祭り、なにしますか? そろそろ、料理、決めないと」

 ああ、うん、なんとなく分る。

 本当に言いたいことは分る。

 本当は今の彼女のお願いを聞いていたんだから。

 ――そういえば、彼女のお願いの一つは、もう分ってるんだった。

(一緒に、やりたいこと。見つけたんだっけ)

 酷く悲しくなりそうになる。どうして今なんだろう。

 でもそんなこと考えていられない。このお願いは彼女ではなく彼女のものだ。

 やせ我慢する。心の片隅に追いやる。

 そして、目の前の彼女を見る。

「……どうかしましたか?」

「……うん」

 今の彼女との思い出が蘇る。ほんのわずかな、数舜の思い出だ。

 ……そうだ。

「……肉じゃがで」

 体を動かす。時間は待っていない。それを見て彼女も調理に入る。

「はい」

 頷き、それからふと疑問に思ったようで。

「……え?」

「肉じゃがにしない?」

「……それで、いいのですか?」

「まあ、なんていうか、記念みたいなもので」

「記念、ですか?」

「うん。この世界に来て、初めて一緒に作った料理だよね? だからお祭りを、二人で? 一緒に――にするんだったらそれがいいかなって」

「あ」

 命さんは、ほんのわずかに、口角を上げた。

 それを見て、大事なことが一つ決まった。

 この気持ちは、彼女へのものだろうか、それとも――

 でも、言わなければならない。

「それから――」

「はい……あ、火、出し過ぎです」

「おっヤベ!」

釜戸にくべた魔法の火がデカすぎた。薪が全開で燃えている。

 咄嗟に手をかざし、消した。

 体に染みついた仕事的に体が勝手に動いている。ここでの日常が染みついて来ているようだ。

 常識離れして来ている自分に少し戸惑う。

 だけど、それもいいかなと思う。

「それから、なんですか?」

 彼女を見る。

「……慣れたら、街興しが終わるまで、ここでも普通に働けていけるようになったら、独り暮らしとか考えてたけど、それ、止めたから」

「え」

 一緒に居られると思う。居ようと思う。今度こそ――

 それは誰とだ? ダメだと思う。

 彼女と顔を合わせる。今の彼女を見なければ――

 彼女は驚き――ただそれだけのようだが。

「……水、出し過ぎじゃない?」

「はい? あ」

 流し台で野菜が溺れ悲鳴を上げていた。タライに戻し、軽く洗い直す。動揺し過ぎじゃないか? 

 今の彼女は、決して本当に俺を必要としているようには思えないけど。

 でも、

「……どうしてですか?」

 彼女が聞いてくる、その理由を。

 俺は考える。あらためて、この世界に来た訳を。

 それは――

「……うーん、それは」

 ――助けて。

 夢が瞬く。

 ……ああ、何のためにこの世界に来たと思ってるんだ。

 俺は。

 事故でも、勇者でもなんでもなく。

 助けてって叫んでる彼女を掴みに来たんだ。

「……」

「……」

「……答えは、夢の中、ということで」

 俺は、嘘でもなく、本当でもないように言う。今の彼女にその理由は言えない。

 俺は彼女の顔を見る。

 狐の彼女は普通に見返してくる。

「……分りました」

「……なにが?」

「……」

 すると彼女は無言で、水仕事で汚れた手を見つめ、庇い、肩で体当たりをしてきた。

 彼女は、そんな自分の行動に自分で目をシロクロさせながら、少し恥じらい、

「――一緒に、これからも、何かできるのですよね?」

 小首をかしげてそう言う。

「……うん、そう。――その通り」

 俺は同じく、肩でほんの少し肩を押した。

 そしてそのまま、ほんの少し、近くに寄って。

 彼女も、顔を伏せながら、一歩近くに寄った。

「……どんな肉じゃがにしますか?」

「……うーん、とりあえず見栄えが必要かな?」

「やはり、このままではいけませんか」

「ミナカ様と三人で食べるならともかくね」

「……そうですか?」

 ほんの少し、今の彼女と、仲良くなった。 

 そんな気がした。


 それは、ようやく失恋した朝だった。

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