25話「君の名を呼ぶ」

 座禅を組む。魔法の練習をするときいつの間にかそうなっていた。

 立っているときの足裏の感覚すら邪魔なのだ。一番楽な姿勢で、指先の感覚も消す。

 集中もしない、リラックスもしない。平常で、平穏で、いつもどおり。

 魔法には理屈も理論もいらない。

 無心になって、そこに観た。

 夜の虚空に火が灯った。指先を介さず――そこにある、と、脳内ではなく願いを現実に投影する。

 イメージはしない。在って当然のものを見る。

 夜の境内、その縁側のふちに座り込んで。次々と、水滴、光――

 全く見えない風が難しく、そしてその逆の土も、地面そこにあるというイメージが強すぎるため無の虚空に生み出すことが難しい。だからこの二つは、生むのではなくそこにある物を動かすことの方が一般的なのだとか。

 水と火、これは人の生活に密着してることもあり、イメージすることが容易く、何もない所に存在させやすい。

 光は、この世界の人には難しいらしい。電灯というものが無いせいか明かりと言うと火、そして太陽そのものを思い浮かべるそうだ。純粋な光というと月の光、よく磨かれた銀の鏡、宝石の複雑な屈折光をイメージするのだそうだ。

 今は魔法を使う者は少ないらしい。街中で使っている人なんて殆どいない。火も水も魔術道具、もしくは普通のマッチや火打石、井戸水の湯冷ましを使っている。

 俺も使う場面なんてここ以外ではないから使わないが。

 そんな息を吐くように自然に使えるのはごく限られた人のみだそうだ。俺もまだ意識しないと使えない。神様に言わせると昔はそれぐらい普通に使えたそうだ。

 しかもだ、便利な道具に慣れると使えなくなるらしい。

 だから、勇者製品が溢れて普及している今は、実は魔法を使わないのではなく、使えない人間の方が多いということだ。

 おかしな話だ、そんなに使える人が居ないのに何故俺は普通に使えるのか。それは【揺れない天秤】のお陰で、平均的に使える――つまり極端な話、ゼロと100の二人だけなら平均50になるということだろうが。こうして毎日努力しているからというのもあるが、どこかおかしい。才能に関わらず普通に――良くても悪くても。

俺が普通ということは、皆使おうと思って練習すれば使えるはずなのだが。

 やはり、使わないのか? 町の人たちは、いや、この世界の人たちは何か理由があって魔法を使おうとしないのだろうか。道具で十分だからか。不便でも慣れてる方を選ぶことはある。

 どのみち俺に使えるのは50までの力なわけだが。

 座禅を解く、いかにも魔法使いっぽい訓練は止める。

 境内にサンダル代わりの草履を履いて降りる。

 そこにあるデカい木の足元まで行くと、軽く足腰を解した。

 魔法で体の能力を上げる訓練――

 これが難しい、なにせ自分の体の能力イメージを払しょくしなければいけない。

 何せそれがあると常識に囚われて普通の体のまま――自分の限界そのままだ。

 ならどうするのか――

 まずは、願う。理屈やイメージ、そんなものを抜きにして、在ることを観るのが魔法の基本。しかし理屈やイメージが無ければ人は目の前にあるものなしにそれを見ることが出来ない。だから、それがどういう現象なのかを思い浮かべられない時は、まず願う事からだと言われた。

 常識にとらわれた筋肉ではダメ。超回復で強化がどうこうリミッターがどうこうも人の常識――

 超・マッスル――気合でムッキムキな漫画みたいなアレ。むしろ無理。

 だから結果だけ、その筋肉でどういう結果が起こるのか。

 どういう結果が欲しいのか。

 太い幹、そこから延びる枝を目指し、そこに一足飛びに、トウッ!

「……」

 ただのジャンプでした。ライダーにもウルトラにも成れませんでした。真似できません。でもイメージする。

 ジュワッ! トウッ!  デュワ! トーウッ! ピョイ~ン!

 無理だった。若干普通より高く飛んでるけど精々高校生かオリンピック選手ぐらいだと思う。十分すごいけど現実的な範囲だ。それに、

「……んー」

 彼女は森で、ただの垂直跳びで二、三階の屋根の高さまで足で飛んだ。

 そのとき彼女は別に体の能力を上げていたわけではないという。ほとんど魔法で体を運んだということだ。跳んだのではなく、文字通り飛んだ――そのイメージを跳ぶと同時に体に重ねたらしい。

 それなら強い筋肉なんて必要ない、合理的だ。

 アプローチを変える。

 目標は、とりあえず一階の屋根ぐらい。折れなさそうな枝を選んで。

 足に力を籠め、物理的に跳ぶのではなく――そこまで既に行っているイメージで。

「――っ!」

 跳んだ――自分の重さに、下に引っ張られる。

 一瞬、ふわりとした無重力が身を包み、髪と服が不自然に浮き上がったがその瞬間、自分の重さを感じた。

「……」

 じゃあ、と思う。飛ぶだけでなく重さを感じないように感じたら?

 魔法に理屈はいらない。そうなっていることを感じて。

 飛んだ。嘘みたいに軽く。風も重力も感じずそこに着く。

「……よし」

 問題は……予想より高く、上り過ぎてしまったこと。

「……やべ、これ、どうやって下りればいいんだろ」

 飛ぶはともかく――二、三階の高さから地面に、無事に降りるイメージって。

 ここから飛び降りたら潰れたトマト――

 いやいやいや。そんなイメージしたら逆に死んじゃうから。忍者みたいに足裏が木に吸いつく垂直歩行をイメージしてみたいが、ぶっつけ本番で落ちたらシャレにならないので絶対やらない。

 俺は大人しくカブトムシになった。樹液は吸わない。ごそごそ、がさごそ、もそもそ、握力を頼りにウッド・クライミングする。結構樹齢が行ってる木で枝と枝の距離が離れているのだ、そこにぶら下がって猿みたいに移ることは出来ない。

 一本一本魔法で飛び移ることも考えたが、今は恐怖心が勝っているので無理だと思う。

 とりあえず、重さを消す感覚と、握力が虫になるイメージを敢行しているので、わりとしんどくなく降りることが出来た。地面に足裏が付いた時はほんとうにほっとしたが。

「まるでゴッキーじゃの」

「せめて【静かなる隣人】と呼んでください」

 むしろあんたがどこから沸いた。

「カサカサカサ! うるさいじゃろ」

「リアルに発音しないでください。で、なんですか?」

「なに、勤勉な若者にちょっとアドバイスじゃよ。現実の壁を突破するのに難儀しとるようじゃからの」

「え、いいんですか?」

「言われたからと言って出来るものでもないからの? よいか? この世界では魂がすべてを支配する。願いも、自由も、発想も、すべてが魂に支配される、肉体の枷など意味がない。」

「魂……」

「何だと思う? 魂とは」

 一般的に思い浮かべるのは――だが、

「……命とは別なんですよね?」

「何故そう思う?」

「命って……すべてを支配しますか?」

「……ふむ、前々から思っておったのじゃが、お主微妙に聡いの。国語得意か?」

「平均点ですね」

「外さんのう。して? では魂とは?」

「……さあ、命じゃないと言われると逆に分らないから聞いたんで」

「色々と惜しいの。まあよい、お主ならこう言うだけできっと分るじゃろ」

 一息。いや、ため息?

「魂とは【在るがまま、ありのまま】じゃよ」

「在るがまま、ありのまま――」

 ……ああ。

「コツは、それを当然に、自然に受け入れるってことですか?」

「そうじゃ! まったく、何故言われねばそこまで気づけぬかのう」

 神様の言う魂とは、そこにあるものそのまま、剥き身の姿、という比喩だったのだろう。なるほど、在ることを観るのが魔法の基本、それをもっと自然に扱うというのは確かに、魂がすべてを支配すると言える。

「それとじゃな……」

 ミナカ様はおもむろにこちらに近づき鼻を寄せ、

「スンスン。……匂うの。勤勉なのは感心じゃが、この後必ず風呂に入るのじゃな」

「ええ!? ……そうかな? 汗は掻いてないつもりなんですけど――」

「カブトムシの匂いじゃ」

「最悪じゃないすか!」

 昔飼ったことがあるが、虫かごの中が洗ってない靴並みに酷かった。自然の奴はそれほどなのに飼うと酷いのは、出すもん出すからで、敷き詰めた土を毎日は交換できないからだ。

「まあ嘘じゃ。精々木と土の匂いじゃが――せっかく乙女が肌の嗜みをしとるというのに、そんな匂いはさせておくな」

「いや、そんなの関係ないんじゃ」

「親しき中にも礼儀ありじゃよ。第一、何のために肌を整えると思っているのじゃ」

「いや、自分の為じゃないんですか? あのノリは」

 貪欲――と言うより使命――むしろそういう機械マシーンのような、定められた運命プログラムと言うか。女の子ってそういうところで獣染みた牙が唐突に生える気がする。

 女同士の醜い争いとか特に。

「……少なくとも、お主が来てからじゃぞ?」

「……女子高って女が腐るって知ってます?」

「もちろん差し障りのないそういう意味でじゃがな。頑張ってる女の子がいるのじゃぞ?」

「……そう言われると否定できないですね」

 礼節には礼節を。

「……分りました。これからは隣に並んでも恥ずかしくないようにします」

 ……ていうかそれぐらいの気はこれでも結構使ってたつもりですが。

 少なくとも自分を預かってくれる人達、関わる人間が恥ずかしくない自分で居る努力はしていた。働きに出る以上は――というか外に出る以上は見た目は必ず鏡で確認している。

 和織りの羽織を購入し、外行きには大正ロマンなファッションにしていた。ここに来た時に貰った洋服とこの和風の神社を折衷してのコーディネートだ。便利屋業で役場から貰っている給金は神社に生活費を入れるだけでなく、しっかりとそういう面にも使っている。

 顔とか見た目が平凡だから、最低でも普段からそこだけは気が抜けないのだ。

「うむ、では、気を付けて入れるのじゃぞ? 気を付けてな?」

「はあ」

 意味深な呟きを残し、ミナカ様は十二単を翻して去って行った。


 練習を終えると、俺はミナカ様が暮らす本殿の区画に入った。

 森に囲まれているせいなのか、それとも超空間的な場所なのかここは街や麓からは全く見えない。拝殿だけは外からでもその屋根が見えるのだが。

 湯殿――風呂場は、その中でも割と奥の方にある。

 露天温泉だから覗き対策でもしているのか。まあいい。

 普段暮らしている住居の方にも風呂はあり――女の子が入った風呂になんか気を遣うし恥ずかしくて入れないので普段はそこで行水程度に体を洗うだけなのだが、もしかしてそれがばれていたのだろうか? まあ、時間が早すぎるだろうし浸かっていないことは明らかだったか。

 脱衣所は、当然ながら、男女に分かれていない。使うのは彼女たちだけだからだ。

 気を付けてと言っていた――つまりそういうことだ。

 ラブコメにありがちなアレだ――ラッキースケベ。

 ドアを開けると着替え中、あるあるある。既に似た様な事が不意打ちで二回、禊の目撃とウサ耳毛皮の疑似全裸とあっただろう。

 もう二度と轍は踏まない。

「――お風呂の中! 誰かいますかーっ!」

 割とでかい声で、聴いた……よし、返事はない。

 水音もしない。つまり誰も居ない――!

 ややあってからもう一度、

「誰も居ませんねーっ?」

 返事はない、ただの風呂場のようだ。

 潜水中で聞こえなかったとか髪を拭いていてタオルで耳が塞がっていたとかそういうこともあるかもしれなかった。

 ないようだ。

 しかし、ミナカ様の意味深な発言が気になる。念のため耳を澄ませてその引き戸を開けた。

 中はたった二人で暮らしていたにしてはだだっ広い、下手な旅館や銭湯より立派で、新築そのものに綺麗だ。

 籠の置かれた棚に向かい、雑に脱いだ。

 浴場の戸を開け、中へと足を向かわせる。

 念のため、警戒しながら、洗い場――湯煙の向こうにある長大な岩の湯場をみる。

 ……誰も居ないな。

 まだ耳を澄ます。人の息遣いはしない。

 露骨に人が隠れられそうな岩があるが、そこに隠れているのではあるまいな?

確認を――いや、居たらアウトだ。ここはあえて確認しない方がいいだろう。

 シャワーノズルはない。桶で源泉から湯舟と分けた湯が特大の檜木の升に溜められている。

 そこから桶で湯を組み、体の汗を流した。

 そして洗った。普通に洗った。だがその水音で俺の方が確認の声に気づかないということあるので全力で耳に神経を注いだ。

 何もなかった。体がさっぱりしたので早速湯に――

 念のために湯の中に目を凝らす。やはり潜水はしていないようだ。いや、万が一していたら不味いのでここからは常に目をつぶって行こう。それと億分の一に備えて大事なところを隠せるタオルを桶に二枚――一枚は乱入者用、を入れて浮かべて持って行った。

 大丈夫だ、生物の気配はしない。

 呼吸音も、潜水艦のような泡の排気音も、そこで何かが波が揺らめくこともない。大丈夫だここに人はいない――でももし居たらに備えて、入り口までの移動ラインは開けた位置に腰を下ろした。

 その上で、首を岩場のフチに置いて真上を見る。濯いだ手拭いをたたんで瞼の上に置いた。

 これで万が一、誰かいても自分はそれを見ることはない。そして自分が水没しないために足を大きく広げてストッパーにした。

 もう大丈夫だろう。

 目隠しを取りぬるっとする温泉に浸かりながら星空を見上げる。

 気持ちいい……源泉を湧かしている熱い場所から遠い、ぬるま湯の所だが適温である。

 惑星ではなくだだっ広く地平線が伸びて果てはないということだが月も太陽もある。彼らはどこに消えているのか。その瞬間を見たことはないが、確かそのまま太陽が月に、月が太陽に昼と夜で形を変えるとか。

 だから、昼と夜で別の姿をする女神としてこの世界の創作神話があるとか。

「……はぁああ」


 ……上手く魔法文化は育てられるのかな。

 使う人間がほとんどいない――上辺と底辺だけ。

 上手い事あの幻の芋を実演販売できれば――

 見世物パフォーマンスとしてはありだろう。ただの芋に魔法を掛けるだけで上手い料理になる、子供を釣るには十分の気はする。大人でも――魔法を掛けるだけで料理が出るのならインスタント食品として売れるはずだ。こちらの方が需要は大きいかも知れない。芋料理限定なのが痛いがポテトチップスやフライドポテトなんて常習性のあるものを見せられるなら――

 しかし、問題はやはり――

 一抹の不安がよぎる。これは失敗する要素だ。それもかなりの確率で。

 ちょっと念入りに調査しておく必要がある……。

 頭がぼうっとしてきた。浸かり過ぎたか。

 桶とタオルを回収し――いや、着替え中かもしれない。

 油断せず脱衣所の戸を開けた。何もなかった――


 風呂から上がった。

 何も起こらなかった。もう自室で文机に向かっている。俺が着替えているときに乱入して来るのかと思ったが何もなかった。

「……おかしい」

 あの神様が、何も仕掛けてこなかった――

 在り得ない。いや何かある。いや……まさかそれこそが仕掛けか? 

 何かあると思わせて何もしない――そういうドッキリ。

 人の猜疑心を利用したブラフだ。疑う方が悪いという理論。

 まあ何もなかったからいいか。

 もう二度とトラブルでも知ってる女の子の裸なんて見たくない、気まず過ぎる。エロい格好もだ。ああいうのはフィクションでも実は両想いでようやくギリギリ許せるか許せないかの微妙なところだ。もうヤっちゃった恋人とかとならありか? 全てを見せ合ったのにまだ恥ずかしがってるのかよ、みたいな。正直逆に燃えるようなそんなところを守りたくなるような。

 あ、バカだな、俺今バカなこと考えてる。それもかなり童貞臭とムッツリ臭がする内容のような気が――まあ事実その通りだしなあ……。

「ま、いいか。明日は何にしようかなあ……」

 二人で参加する屋台料理の試作だ。

二人で調理の手間が楽で、一人が席を外しても平気なことが望ましい。

 そうでなくとも屋台は、まな板場や倉庫が無い分、味付けのみか、火入れの前の状態にまで材料は仕込んでおく必要がある。か、いっそ煮込み物で寸胴鍋ですぐ出せるような。それだと追加調理が難しいし、いや、いっそ売り上げで黒を出すことより、二人でお祭りを楽しむ方向性で。元より赤字のつもりで――二人で何かするための『必要な出費』として考えてやるつもりの方がいいか。

 うん、その方が面白そう。その方が楽しめそう。商売じゃなくそうしよう。

 発想の転換である――二人で祭りに参加するのは元より商売の為ではない、二人で一緒に何かをするためだ。これでいい、いざとなったらやけくその投げ売りでもしよう、それでも残ったら知り合いに【祭りを楽しんだ】というその気分のお裾分けだ。その方が賑やかになるだろう。

 二人で共同作業をしながら釣銭管理やなにやらまで……。

 やっぱり鍋物か煮物だな、それなら出来ている物を温めつつ売るだけになるから。

 できれば作ってて面白いやつがといい。楽過ぎてもやりがいが無いし。

「……鍋物って豪快だけど地味だからな。何か見た目で工夫を――」

 思いつく限りの芋系の煮物と鍋物――に出来そうな芋が入る料理を書く。

 各種芋の煮っ転がし、筑前煮、五目煮、肉じゃが、トマト煮、味噌コーンバターのじゃが盛り麺無し、シチュー各種、芋ポタージュ――里芋でやったら面白そうか? 風味的に牛蒡とゴマを入れたら美味そう、さつま芋で作ったらスイーツ系か? 普通にすり流しになりそうだな、それなら野菜出汁の方がすっきり風味豊かになりそう。やはり各種芋で試すか、冷製なら魚でも肉でも骨でもその臭みが難しいはず。ラーメン屋やらイタリアンやら回転寿司屋、和食ダイニングにピザ配達にスーパーの惣菜調理にコンビニ――この世界に来てから他にも色々とやったが、何気に知識が蓄積されてる。

 それでもやはり、その道で生きている人には及ばないにわか知識だが。

 でも、無駄じゃなかったんだな、やっぱり。

 何でもやるべきだ。将来はなんらかの職人を考えてたけど、そうでなくてもいいのかもしれない――その辺もう一度真面目に考えないと。

 帰えれたらだけどもう親の機嫌や都合を伺うのは止めだ。自分のやりたいようにやろう、時間が掛っても自分で金稼いで学校でもどこでも行けばいい。

 自由に、自分の可能性を試そう。出来ることなんて限られているんだから、だからこそ、数少ないそれを試さなければ損だ。

 ……それはそれ、これはこれ。

「……ええと、」

 思いつく順にレシピを書いていく。

 材料とアイディアだけだ。調理法は台所に立てば今まで学んだものが勝手に思い浮かんで大体わかる。分量や味の精度を上げるための注意書きは作ってみてから考えて付け加えればいい。どこの店長もそうやっていた。

 味は毎日変わるから正確な分量なんて逆に邪魔になるのだとか。

 

 静かな夜だ、闇色の帳に行燈が瞬いている。

 筆が捗る。だが、

「……」

 戸の向こうから、床が軋む音がした。

 それはドタドタドタと慌ただしく駆け巡り問答無用でそこの襖を開け放った。

「――すまん命が風呂でのぼせた儂では引き上げられぬ力を貸してくれ!」

「マジですか!?」

 神様に言われるまま、さっと立ち上がり先ほどまで自分が居た場所に直行しようとする。

 が、

「……いや待ってください、それ本当ですか?」

「何を疑っておるのじゃ!」

「なんかあからさまに意味深な事を言われた所為ですかね」

「儂が悪かったのじゃ! とりあえずマジなのじゃ! ……多分肌をキレイにしようどうこうと長湯になったんじゃろうて」

「……命さん、そんなに美に貪欲な人には見えないんですけど」

「それはそうじゃが――きっとお主に褒められたらどうしようとか悶々と妄想に耽って!」

「冗談でも本人の前で言わないでください」

 それに命さんはそんなピンクな妄想じゃなくどちらかというと、体を褒められたら全力で否定しつつ「……どうすればいいんですか?」とかじっとり聞きそうになるのを堪えるタイプだと思う。

 ……そんな女の子であってほしい、という願望だが。

 思いつつ既にミナカ様と駆け出していると。

「あああ、せっかく人がお風呂でドキッ! 身も心も裸で本音トークの機会を設けたというのになに全力でスケベ回避しとるんじゃ!」

「え? ひょっとして……! 長湯ってあのとき風呂場で一緒に居たからってこと?!」

「そうじゃよ!」

「……全く気付かなかった!」

 いやまて、本当に本当か? こんな神様だ。

 今まさに嘘を吐いているということもあり得るんじゃないか? 少なくとも気配は存在しなかったぞ? さんざん注意し確認したし、居た場合に備えわざと警備を緩くすることもしたぞ? 逃げるなら逃げられただろう?

 この先風呂場を開けたらそこで普通に体を流してるんじゃないだろうか。

 これは油断させるためのトリックで。

「でも脱衣所に服はありませんでしたよ俺が巫女服に気づかないわけないのに!」

「風呂場で遭遇させようと儂が隠したのじゃ!」

「なるほど。でも中にも全くどこにも見当たりませんでしたよ?」

「おおかた姿を消す魔法でも使っとったんじゃろ! 風呂に浸かっとるだけにな!」

「それか!」

 それじゃあ常識的な注意で分るわけがない。くそファンタジーめ!

 その脱衣所に着いた。

「あ、先に入って何かで命さんの体を隠して――」

「ある! 心配せず入れ! 風呂からだけはどうにか引き上げてある!」

「分りました。じゃあ――」

「うむ。儂は命の部屋にふとんを敷いて来る!」

 その瞬間、神様はほくそ笑んだ。

 それに疑問を覚えたが、戸を開けると本当に彼女は横に寝かされていたのでそのまますぐ駆け寄った。彼女を包んでいるのは彼女が脱いだであろう巫女服だった。濡れてしまっている。

「あ――み、見ちゃ」

「とりあえずごめんね!」

 その確かにのぼせ上がり真っ赤な顔で死ぬほど動揺している彼女を横抱きに服ごと掻っさらう。パクパクと何か言いたげだったが気にしてられない。

 そのまま彼女を部屋へと運んだ。


「……大丈夫?」

 冷水で手拭いを濡らし、狐の半面の所為で額に置けないので、その頬に充てる。

 そのまま手で保持する。遠慮した彼女を我慢させた。

「……すみません、ご迷惑をお掛けして。そんなつまりじゃなかったのに……気付いたら目が回ってしまって……」

「いや、どう考えても全部ミナカ様が悪いから」

「儂の所為か!?」

「違うんですか?」

「――その通りだがなにか?」

「漫画没収」

「ひぃ!? ここを出られぬ唯一の楽しみが! ……で、命よ、見たか? こやつの裸体」

 下がった熱が瞬間沸騰した。

 血が上り耳まで赤くなる現象を初めて見た。俺は手拭いを再び冷水で冷やす。手も冷えているので、それで熱い耳たぶを摘まみ冷やして、

「……忘れて」

「……はい……」

「……じゃあ儂は飲み物を持ってくる、ボンド、その間頼むぞ?」

 そうか、見られたかそうか……こんなに死にたくなる気分なのか。女の子はこの数倍いや、数十倍は何か大切なものが失われた気分になるんだろうな。

 愛を失っていく感覚――削れて行くんだよ。裸ぐらい大したことないとか言うバカ居るけどさ。明日からどう顔を合わせればいいのか普通に迷うわ。

「……そちらは、見ましたか?」

「え?」

「……」

 彼女はミナカ様に着替えさせられた襦袢の袂、その下にある胸を片手で両方押さえている。足元の方は熱を冷ますため出来るだけ肌蹴はだけていた。きっと現代下着は身に着けていないのだろう心許ないのか手が届くふととも半ばギリギリの位置で裂け目を押さえている。

 言いたいことは分った。着替えされられる前、今のように大事なところは上も下もなけなしの力で彼女が手で隠していた。それと同じ体勢だ。

「……あ、いや? 大丈夫だったから安心して」

 正直少し透けていたが、見えていない。

 だがそれを抱えてここまで運ぶとき彼女は裸に布が乗っただけだったわけで、汗ばんだしっとりした珠の肌を下から抱えたから。プニプニの肉感の方がばっちり記憶に――

「……あんなに軽いのに」

「?」

「女の子の体って謎で出来ているなあと」

「……ふとっていますか?」

 微妙にこちらの心を読み取ったようだ。

「いや、軽いって言ったでしょ?」

「……そうですか……」

 あ、これは本当にほっとしてる。わけは分らないが。

「……そうでなくても命さんなら――」

「? ……なんですか?」

「……可愛いか綺麗だと思うけど」

 彼女は襦袢を押さえていた手をだらりと投げ出した。熱で弱っているのか、許してくれたのか。いや、多分チャラい言動に脱力したのだろう。

 狐の半面をこちらに向けてくる。外せないかな、緊急時だし。仮面自体を冷やせないかとそこに冷たい手拭いを置いてみる。

「……気持ちいいです」

「そう」

 効果があるならとそのままにした。

 それから心配に任せて、冷やすという名目で彼女の耳裏から首筋に手拭いで冷めた手の平を当てる。そこに大きな動脈があるから冷えやすいだろう。

 するとその袖を、彼女が何も言わずに摘まんできた。

 何が言いたいのか――酷く弱々しげだ。

 何も言わずに、空いている手で彼女のそれを握り直す。するとまた、その手の平からほんのり熱が浮き出ている気がするが――だからこそ続けさせて貰った。伝えたいことが分らなくてごめんね? でも、これぐらいはさせて貰うから。

「……あー、いちゃついとるところ悪いがの」

 弾かれた様に手を放す。

「例の美容品、試しに芋そのままではなく飲み薬にしたんじゃが、飲み心地が良いのでの、冷やして持ってきた」

「お疲れ様です」

 なんだか後ろめたくも恨めしい気分で、憮然とミナカ様から冷たい湯飲みを受け取った。

「命さん、少し起きれる?」

「……はい。だいぶスッキリしてきましたので」

 よろよろを起き上がろうとするその背中を横から慌てて補助する。

 額に乗せた手拭いは氷水を張ったタライに戻した。

 崩れた袂を彼女はなけなしに直そうとするが目眩がするのか力がない。俺は背後から半身をよせ介添いした。

「念のため一緒に持とうか?」

「……はい」

 断ると思ったが断られなかった。ひどく恥ずかし気なのに。

 俺が握ったそれをそのまま、彼女の両手が包む。

 中には、白くとろっとした液体が揺らめいている。力を抜いて主導権を委ね、角度は彼女が調整した。コクコクと少しづつ飲み干していく。

「――ボンド、命」

神様がなんだか藪から棒に神妙な声色で。

「……すまぬの、余計なことをさせて貰った」

 真摯に。

 命さんは首を横に振り、困った笑みを嬉し気に浮かべた。

 スケベ誘導はまあ全くその通りなのでこちらは嘆息を返しながら、彼女が飲み干した湯飲みを布団の脇の盆に置く。

 それに目を伏せるように、

「……今日は無理せずこのまま休め。済まぬがボンドはそれまで――しっかり眠るまでそばで見ておってくれぬか?」

「分りました」

「……」

 おかしいな、彼女はこういうとき遠慮か恥ずかしがると思うのだが、何も言わない。

 でも俺は了承し、しっかりと彼女を支えながら頷きを返した。

 なんだが普段の彼女を見ていると、これから家事でも始めそうな気がしたのだ。

 

 ミナカ様が席を立ち襖を閉めると、命さんはすぐに額をこちらにしなだれかかってきた。

 彼女と二人きりになった途端にだが、おそらく家族であるミナカ様に心配させまいと。

「……無理してたんだ……」

「――はい?」

 やけにとろんとした気配を漂わせながら、彼女はこちらの胸元をきゅっと握りしめてきた。

 そこから更に、吸い寄せられるように身を乗り出し、肩にまでがっしりホールドしてくる。

「――命さん?」

 無言で額を上下に擦り付け、猫のように甘えてくる。

「ん」

「ちょ!」

 耐えた。とりあえず耐えたが異常事態だ。

 二つのスライムっぽい感覚が襦袢の薄布でブラなしの圧力が! それに湯上りのいい匂いが彼女自身の匂いも絡み付いた首とうなじから脳髄にまで侵入してくる。

 回避不能、そして体重にまかせて押し倒された。

 振り払えない。下腹部に乗られている為腹筋も使えない。何より縋り付くように甘えられている気がして、自分でも肩を抱いた手を放すことが出来なかった。

「……鈴木君」

「はイ?」

 俺は苦し紛れに頭を振りかぶる。

「どうして、あの人たちを、手放さなかったの? 心配したよ?」

「……命さん?」

「ううん、……そうじゃないの。そうだけど……」

「何言ってるの? 冷静に!」

 胡乱に窄めた口元で、彼女は囁く。

「わたし、あやまらなくちゃ……ちゃんと、言わないと……」

「命さん」

「きらいに……うう、かえ、らない……ううっ」

「命さん? 調子悪いの?」

 言いながら咄嗟に横回転、体の上下を入れ替え問答無用で体を剥がし、寝かしつけ、氷水に浸けた手拭いを絞り即座に頭に乗せた。

 腰を上げ、ミナカ様を呼ぼうとする俺を、彼女は手で掴む。

「違う――私は、わた、う、ぐ……」

 強く、仮面を抑え込む。意識がもうろうとして声が届いていないのかもしれない。顔で至近まで近づき、ガンガン響かないよう静かに囁いた。 

「命さん、命さん、ミナカ様を呼ぶよ? 手を放して」

 そう言った瞬間だった。

「――いや! 帰らないで!」

 彼女は明確に拒絶した。それも、

「あっちの世界に、帰らないで……」

「……それは……」

 必死に、よじ登る様に、握った手の平から再び肩まで抱き、引き寄せようとして来る。

 いったい何があったのだろうか、こんな我儘を言う人ではなかったはず。

 そんなことは出来ない、それくらいわかっている筈なのに。

 どうして――何が一体彼女をここまで壊しているのか。普通じゃない、思い当たるのは先ほどのミナカ様の言動と――彼女が飲んだものだが。

 一服盛られたのか、ここまでが神様の計略だったのか。そのあまりにも悪趣味なやりかたに顔を顰め嫌悪しそうになる。

 だがその感情は彼女の次の言葉に吹き消された。

「……やりたいこと……約束した……一緒に、ようやく……」

 フラッシュバックする。

 それは俺が彼女に向けた言葉だ。

 ――我儘を言ってやれ。

 彼女はもう何もないのだと言っていた。

 夢も目標も、希望も、生き甲斐も。全て親の為に、全て他人の為に――自分を全て使い尽くしてなにも残っていなかったのだという。

 だから、やりたいことも、正しいことも――

 何故だか、そのことを思い出した。

「もっと……一緒に……もっと……普通に……」

 喘ぎ、もがく彼女の姿に、彼女の顔が重なる。

 そこにある仮面を外したくなった。そうすれば本当のことを話してくれる気がした。

 仮面を外した彼女の顔と、人形めいた彼女の顔が。

 手を伸ばしかける。

 美枝香凛。

 違うんじゃないのか?

 その名前を今呼んではいけない気がした。

 必死に、何かに抗っている――少なくとも今の彼女は、本当の彼女じゃない。

 天乃命、本来の彼女ではない。

 切なげに、何かを言いたげに口を半分開き、彼女はそっと俺の後ろ頭に両手を添えた。

 そこに引き寄せられる。願うように唇を閉じていた。

 でも、俺は逃げるように深く彼女を抱き締め体を重ねた。

 願いを込め呟く。

「……夢の中で、また話そう?」 

 彼女は悪夢から醒めたように目を見開き、

「……うん。待ってるからね?」

 そのまま落ちるよう、彼女は虚脱した。

 すぅ、すぅ、と、穏やかな寝息を立て始めるのを確認して。

 薄い掛け布を彼女の体に被せた。

「……美枝さん」


 そして彼女の、多分、本当の名前を呼んだ。

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