第2話 自己紹介

 翌週の月曜日。荷物がやけに重たい。

 俺は脱兎の勢いで用を足すと、手洗い場の空きスペースにスクールバックをおいた。ミニポケットからヘアワックスをつかみとる。

 ケースをきゅっと回して開き、ワックスを両手になじませていく。

 眼前に広がる大鏡には俺の姿がはっきりと映し出されている。髪の毛はぼさぼさ、顔はやつれ気味で今ひとつ高校生らしくない。通勤電車の人混みや自己紹介の消失といった度重なる不幸によって急激に老化したというのが妥当だろうか。疲れているだけだろうな、うん。

 時間にしておよそ一分。軽めにスタイリングした俺の黒髪がいい感じになじんできた。ヘアサロンから出た瞬間の俺みたいな、出来上がった俺が出来上がった。

 自信もついたところでワックスを片付けて、スクールバックをひっつかむ。

 トイレを出ると一日が始まる。やはり、朝の身だしなみチェックは欠かせない。

 堂に入った態度で廊下を歩いていく。

 連れ立って雑談している他クラスの生徒を横目にすり抜け、教室に到達。

 今思えば先週の一周間は陰にこもりすぎていた。自分のことしか考えられなくなっていたし、視野も狭くなっていた。

 だからだろうか。気持ちを入れ替えた今の俺には一年E組が違って見えた。

 冷静な目をもって教室の入り口から見る風景は活気に満ちている。授業に備えて予習を教えあう女子たちは生き生きと輝いているし、机を囲んで寄り合う男子たちは趣味の話に没頭している。一人でいるやつなんて見当たらない。誰もが群れをなして、歓談しているようにしか見えなかった。

 そんななか、俺は臆することなく黙って教室へ入った。

 重みのあるスクールバックを机に乗せて着席する。重さの正体は大量の予習ノートだ。教科書も合わせるとダンベル一つ分くらいの重さはあるんじゃないだろうか。

 バックから教材を取り出し、次々と机の中へとしまっていく。

 今週から本格的に授業が始まる。一発目はいかなるイレギュラーにも対応できるよう、万全の対策をするのが筋ってものだ。もし教師に指されて答えられなかった暁には赤っ恥をかくだけではすまない。クラスでの立ち位置や交友関係にまで波及するだろう。一度失敗した人間に対して社会は厳しすぎる。少しは復活のチャンスをあげてもいいものだろうに。

 そんなことを考えているうちにバックは空になっていき、最後にビラの束が出てきた。部員勧誘用のビラである。一枚だけを手に取り、残りを机にしまう。

 とりあえず今日から放課後にはビラ配りでもやろう。ヘアワックスで見た目も清潔感で溢れてるだろうし、女子からも好印象のはずだ。まあ、その前に授業をうまく切り抜けることだな。放課後の成功のためにも、今は授業を頑張ろう。

 俺は残りの一枚を机にしまい、一限目の予習にとりかかった。


 授業中、俺は上の空でいた。

 腹時計がぐぅっと音を立てると、昼食を待ち遠しく感じる。教科書の挿絵に採用された目玉焼きも「食べて……」と誘っているようだ。

 教壇ではおばあちゃん教師がチョーク片手に自らの名前を板書しつつ、抑揚のある声で授業を進行している。

 月曜の四限目、今は副教科の家庭科の時間だ。どこの学校でもそうだと思うが、副教科というのは軽視されがちである。音楽や保健体育や美術といった科目は受験にも影響しないし、息抜きのつもりで受ける人が多い。もちろん俺も気軽な気持ちで頬杖をついていた。

「えぇ~~~、私は~~~、秋山幸子と~~~いいます。今年で~~~教員生活も……」

 家庭科教師の秋山は初回授業にふさわしく、自身の生い立ちを語り始めた。

話し方がだるいので割愛して貰ってかまわないのに、些細なことまで、小言をいうババアのように漏らしている。

 秋山は自身が教員生活四〇年目のベテランだと前置きしたうえで、若い頃は趣味の裁縫で展覧会に出品していただとか、若い頃は幸せな家庭を築きあげることが夢だっただとか、若い頃は二人の男性から同時にアプローチされただとかを民謡の歌い手のように語り終えると、天井を仰ぎ、ぽっくり死んだような顔で思案しだした。

 物思いにふけっているのだろう。若かりし頃を思い返すとノスタルジックな気分になるよな。

 ――そして突然、想定外の一言を告げた。

「えぇ~~~、では~~~みなさんにも~~~自己紹介を~~~してもらいましょうかね」

「え」

 杖の右手から頬が転がり落ちた。頭が真っ白になり、口をついて感嘆詞が漏れる。

自己紹介の機会が訪れた。ないものだと思い込んでいたのに、ここへきて逆転満塁ホームランかよ。副教科の授業だと実習を行う場合もあるし、互いを知らずしてグループになると支障をきたすからか。とにかく、どうする。

 心臓が脈をうち血液が全身を駆け巡る。衝撃で目には涙が滲み、手も震えてきた。

廊下側の男子から順に立ち上がり、名前と好きなものを手短に打ち明けていく。

 一人三〇秒あるかないかのペースでクラスメイトの気立てが全員に知れ渡っていく。

 俺は忘れかけていた自己紹介のセリフを、崩れたパズルを再構築するように頭のなかで組み立てる。

 緊張と興奮でなにも聞こえない。他のやつの自己紹介など聞いているふりをしているだけだ。

 無感情の拍手を響かせているうちに、前の鈴木が立ち上がる。

 大丈夫だ。やれる。

 鈴木がことを終えると室内が拍手で満たされる。俺の番がやってきた。

 椅子を引き、傲然と立ち上がる。瞼をゆっくりと閉じ、鼻で思いっきり息を吸って肺を酸素で満たす。瞼を開いてみる。全員の視線が俺に集中している。

 つかの間の静寂。

 それを打ち破るように、俺は棒読みで放った。

「初めまして、僕の名前は船堂一帆といいます。船が堂々と一本の帆を掲げると覚えてもらえるとありがたいです。中学ではもっぱら人間観察をやっていました。友達のいいところを見抜いたり悪い所に気付いたりできたので今ではいいスキルになっています。そんな僕の趣味はアイドル鑑賞です。三次元のアイドルはもちろん二次元のアイドル作品にも手を出しています。アイドルはみんな輝いて見えます。つらい時も笑顔を絶やさず、ファンのみんなを元気にしようとがんばっています。そんな彼女たちを見ていると僕も元気になれるのでアイドルは素晴らしいと思います。この学校でアイドルのような人に出会えたらと思います。…………」

 再びの静寂。

 うまくいったはずだった。自己紹介の文章は読み切っている。でも、反応がない。ここは拍手喝采の場面だろ。なにか足りなかったのだろうか。

 空気を読んで、状況を推察する。クラスメイトは怪訝な顔をしている。

 そうか、このセリフは入学前に考えたものだから”現状”について紹介できていない。

 ならば、今の俺についてつつみ隠さず話してしまおう。

 俺は言葉を探し、勢いよく二の句を継ごうとした。

 すると、秋山がフォローするように、

「……は、はい、では~~~次のひ……」

 遅い。俺は止まらずにアドリブを紡いだ。

「……だから! この中で、もしアイドルをやりたいって人がいたら俺のところまできて欲しい! 全国でもスクールアイドルが有名になってきているし、高校進学を機にアイドルやってみないか!?」

 三度目の静寂。いや、せせら笑いのような声が聞こえなくもない。

反応が悪すぎる。どうしたらいいんだ。くそ、こうなったらあれを見せるしかない。

 俺は、机のなかから先週作成したビラを取り出そうとしながら、

「っも、もし興味がある人は……」

「ちょちょちょちょちょちょちょちょ、ちょっと、ちょ~~~っと! 授業中にナンパするなんて、お盛んねぇ~~~ホント。そこまでにして、次の人~~~」

 秋山が大声で制した。

 はっと我に返り、案山子の如く立ち尽くす。

 慌てて周囲を窺うと、クラスメイトの大半から変人を見るような目が投げかけられていた。

 ――変人を見るような、いや、不審者を警戒するような目だ。敵意が汲み取れる。

 いまさら取り繕って、主張の取り消しを申請しても、取り合ってもらえないことだろう。

 ようやく事態が飲み込めた俺は、反省の色を浮かべながら「すみません」と呟き、着席した。

 時間をおいて、教室のいたるところからクスクスと笑い声が上がった。

 それは悪魔の微笑みに似ていて、愚弄の念が込められているようだった。

 一部の心優しき民からは乾いた拍手も上がっていたが、それも勢力を失い、今や風前の灯だ。

 どうやら俺は最悪の自己紹介をしてしまったらしい。本当ならあらかじめ作っておいた文章を読み上げるだけでよかったのに、欲が出てしまった。ここぞとばかりにいらないことまでペラペラと喋ってしまったのが失敗だった。後半は完全に歩く性器だった。ひた隠しにしていたエロへの渇望が噴水のように湧きだしてしまった。もうダメかもしれない。

 気づけば、次の生徒の番が終わっていた。このまま俺の醜態はみんなの記憶の奥底に押しやられ、風化していくのだろうか。そうであってくれと、切に願う。

 残りの生徒が自己紹介を終えていく。

 俺は放心状態に陥り、入ってくる情報を右から左へと受け流すばかりだった。

 あれやこれやと後悔しているうちに、音速の速さで授業は終わりを迎えた。

 前に座っていた鈴木がこちらを振り向く。顔には憐憫の情が見てとれる。

「そんなに気を落とすなよ。失敗は成功の母ともいうだろ。でもまさか船堂がアイドル好きだったなんてな。そういうことは先に言え。なんならアイドルゲー貸してやろうか?」

 不覚にも慰められてしまった。鈴木の器のでかさを感じる。

 入学以来、最も関わりのあった鈴木から見ても、あの自己紹介はおかしなものだったらしい。他人からの客観的評価をもらえて喉元に引っかかっていた蟠りがとけた気がした。

 やはり、うまくいっていなかった。

 でも一応、伝えられる情報は伝えたつもりだ。やれることはやりきったと思いたい。

 これから白い目で見られようとも、疎外感を受けようとも、代償だと思って耐えよう。

 それに、今日からはビラ配りも始める予定だ。そっちで頑張ればいいさ。

 鈴木よ。その気持ち、ありがたく受け取っておこう。だが、

「いい。気持ちだけで」

「そうか。さてと、飯、飯」

 事も無げに弁当を開封する鈴木に合わせて、俺も弁当を開き、箸を持つ。

 鈴木が黙々とおかずを頬張っている。俺はその姿を畏敬の念を込めて見守る。

 得心するように頷いて、俺も白飯を口へ運んだ。

 その一口目はわずかに塩分の味がした。

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