第1話 高校入学

 レールと車両が擦れ合う金属音が俺の口元をふたたび歪ませた。目の前では恰幅のいい男性たちが自陣を確保しようと立ち位置を模索している。マナー違反の携帯着信音が車内に鳴り響くと乗客の何人かが眉をひそめた。天井から吹き出す冷房の風は人混みの熱気を機械的に下げ続けている。

 俺は、満員電車でうなだれていた。高校に進学するにあたり人生初の電車通学を余儀なくされた俺は、さっきからずっと、おっさんたちの荒々しい息遣いを耳元で感じている。女性の爽やかな吐息ならまだしもヤニ臭い男性の口臭は生理的に無理だ。自宅から高校まで電車で数駅なのがまだ救いであって、この混雑具合で数十分我慢しろと言われたらそのうちノイローゼになってしまうかもしれない。

 隣で新聞を読んでいるサラリーマン風の男が俺の肩に何度も手をぶつけてくる。故意ではないにしろフリースペースが頭一つ分あるかないかの状況でページを繰るなんていい度胸だ。次の駅で背中を押してあげようかな? きっと日本の情報を収集する前に自分の状況を推察しなきゃならない現状が訪れると思うぜ?

 と考えてみたものの公序良俗に反することはしたくないので、俺は体を少しずつ捻って車窓から外を眺めることにした。運良く扉横の隅に立っていたおかげで景色がよく見える。見慣れない高層ビルがちらほらと目立つようになってきた。線路の上を走る電車は都心へと近づいているらしい。電車よ、早くこの息苦しさから開放してくれ。

 ――ふと、視界全体が桃色で満たされた。中央を流れる川の沿道に満開の桜が花びらを散らせている。その可憐な舞いはまるでこれからの高校生活を予見しているように優雅だった。こんな景色を見られただけでも気持ちは安らぐ。なにせ今の俺は緊張しているのだから。

 四月、桜舞う季節は出会いの季節である。幼稚園児は小学生になり、小学生は中学生になり、そして中学生だった俺は高校生になった。しかも、悲願の都立新山高校への進学だ。今日は初登校であり入学式なわけで、俺は密かに燃えていた。中学時代に思い描いていた女子との交流作戦を実行できる日が来たのだ。これからどんな生活が待っているのかと思うと自然に笑みがこぼれてしまう。俺は人知れずスクールバックの持ち手を両の手のひらで握りしめた。

 春休みの間、俺はない頭を絞って自己紹介の文章を考えた。高校にあがって最初の日に行われるであろう自己紹介を突破するためだ。このスクールバックにはその紙が入っている。内容は自分をアピールできて、なおかつ女子たちにアイドルへの興味をもってもらえそうなものにした。突き詰めて考えた代物だ、これでうまくいくに決まっている。何事も最初が肝心だって言うだろう。初日であろうが入学式であろうがクラス中に俺の印象を決定づけてやる。

 気がつくと、超特急で決意を掛け巡らせた俺に反比例するように、電車の速度は緩やかになっていた。隣の新聞男の手が片付けを始めている。そろそろ目的地に到着するらしい。駅のホームが現れて、乗客が足踏みを始める。車内アナウンスが開かれる扉の位置を教えてくれた。どうやら俺側の扉らしい。俺は後ろから押し出されまいと、たたらを踏んで体勢を立て直す。記念すべき第一歩目をどう踏みだそうかと勘案しているうちに扉は開き、俺はどこかの誰かに背中を押されるようにして電車から吐き出された。


 雑踏に紛れながら階段の登り降りを繰り返し、俺はなんとか目的の出口へ到着、改札を出ることに成功した。人だかりを避けながら外へ出ると通りは行き交う人でごった返していた。

 上空からは朝陽が地表へと降り注ぎ、人々へ春の暖かさを与えてくれている。前方には幅の広い階段が地上へと続いており、左側には巨大な透明ビルがそびえ立っている。その壁では巨大モニターがCDの宣伝を垂れ流しており、喧騒をより一層豊かなものにしていた。

「ついに来たか……」

 想像通りの都会風景に思わず言葉が漏れてしまう。見渡すと、地上数十メートル級のビルが所狭しと立ち並び、見知った家電量販店やカラオケ店の看板も顔を出している。俺の望んだ高校生活の舞台が、そこにはあった。

 嬉しさを噛み締めつつ右側の大通りへと向かう。早く学校で女子を拝みたい。はやる気持ちで足も早く動いてしまう。足早に歩行者を追い抜いていると、いつの間にか俺は歩行集団の先頭に立っていた。邪魔するものがいないなか、横断歩道をゆうゆうと渡る。

 すると、反対側の歩道を歩く制服姿の二人組が目に入った。その姿形からおそらく女性だと思われる。上半身は紺のブレザーに赤のリボンが胸元にあしらわれていて、露出された太ももは膝上十センチあたりからグレー色のバーバリーチェック柄スカートで守られていた。十中八九、女子高生だろう。もしかしたら同じ高校の生徒かもしれない。俺はあとをつけていった。

 途中、彼女たちが大きな声を無警戒に発しているのにかこつけて、俺は後ろから彼女たちの太ももを凝視した。それはだってもうしかたないことだろう。一陣の風さえ吹いてくれれば男子の夢が叶うわけだから見ないわけにはいかない。普通のことだ。

 だが、努力のかい虚しく、彼女たちは突然進路を変更し右折した。俺は泣く泣くその後ろ姿を目で追いかけ、そして気がつく。すでに到着していたようだ。

 目の前に超然と聳え立つ我が入学校。七階建ての校舎は築十数年らしく比較的新しい。壁から見える教室は美しい正方形で程よく区分けされている。特徴的なのは校舎から突き出した半円形のゲート。来る者を拒まないと言っているような丸印は己を清々しい気分にしてくれる。そして、校門には確かに、『東京都立新山高等学校』とプレートが貼られていた。

 校舎の雰囲気を全身で感じているうちに、何人もの生徒がそのゲートをくぐっていく。一人の男子生徒は校舎へ入る前に身なりを整えているようで、紺のブレザーのボタンを開けて赤のネクタイを丁寧に結び、グレーのズボンをベルトで固定していた。

 負けじとネクタイを確認し、俺もゲートをくぐる。少し行くと玄関先で『新入生はこちら』と書かれた標識を見つけた。教室にあるような生徒用の机に垂れ下がっているその文字に近づくと、人が机に突っ伏しているのに気がついた。スーツ姿の大人の女性のようだ。

「あの、新入生なんですけど」

 俺はおずおずと声をかけ、反応を窺ってみる。ぴくりと動いたその女性はむくりと顔を上げて、まじまじと俺の目を見つめてきた。目があう。

 とても綺麗だった。ダークブラウンに染められたショートヘアには緩やかなパーマがかかっている。切れ長の目は顔全体をクールな印象に仕立てあげていた。二十代中半くらいだろうか。ただ顔色はものすごく悪そうで、血液が通っていないのかと思うほど色白の肌をしていた。

 女性は机に積み上げられていた小冊子を一部手に取ると、無言で俺に差し出してきた。俺もまた無言で受け取った。女性は役目を終えると、また机に伏してしまった。女性に不信感を抱いたものの、小冊子に視線を落とすとそんな気持ちは一気に晴れた。

 小冊子の中にはクラス分け名簿が織り込まれており、きちんとした学内関係者の配布物だと理解できた。五十音順に並んだ氏名を指先でたどり、俺は自分のクラスを確認してみた。

「一年E組か……」

 一年のクラスは校舎の五階にあるらしい。女性を尻目に、向きを変え、昇降口へと入った。

 外履きを下駄箱に入れて、内履きに履き替えて廊下へ出る。

 階段を探そうと廊下を右往左往していると学内掲示板らしきものと遭遇した。

『生徒会長候補 二年A組 結城環七 清き一票をお願いします』

 真っ先に飛び込んできたのは生徒会長候補のポスターだった。毛筆の楷書で書かれたそのポスターは他の掲示物よりひときわ目立っていた。新学期早々、もう選挙活動を始めようとしている生徒がいるのか。さすが意識の高い系の奴が集まる高校なだけはある。それにしても、生徒会選挙っていつなのだろう。まだ無知だから分からないが、ひょっとすると今月なのかもしれない。まあせっかくだし、結城環七さんのことは頭の片隅にでもおいておこう。

 俺は気の早い結城環七さんに祈りを捧げつつ階段を発見し、五階まで駆け上がった。


 五階へ到着し心臓はばくばくと高鳴っていた。階段のせいか、緊張のせいか原因はわからない。ただ、目前に迫るクラスメイトとの邂逅に胸踊っているのは間違いない。

 俺は目を眇めて廊下を見回した。調理室や被服室、その他一年クラスがずらりと並んでいる。クラス前の廊下には生徒の私物を保管するロッカーが備え付けられていた。

一年E組は廊下の真ん中あたりに位置していた。俺は緊張の面持ちで教室へと近づいていく。

 すると、教室から一人の女子生徒が現れ、おもむろにロッカーの鍵をいじり始めた。その子は一年E組の教室から出てきたクラスメイトだ。俺は彼女の顔が気になり目を細めながら横顔を注視した。ぼさぼさした黒髪から覗く横顔は思春期のホルモンバランスの影響を受けたのか赤らんでいる。動きもどこか野暮ったくて、まるで上京したての田舎者のような鈍さだった。正面から見たいと願ったその時、まさに、彼女はこちらを振り返った。

 ――そして俺は見てしまった。その全然可愛くない顔面を。はっきり言ってショックだった。美少女が集まる高校に入学したはずだったのに、これでは話が違う。教室に入る前に俺の心は暗澹たるものに支配された。

 固まっているうちに彼女は教室へと戻っていく。俺は生気を失った背後霊のような顔で彼女を追いかけ、我が学び舎へと足を踏み入れた。

 入学初日の教室はしんとしていた。いや、もしかしたら音はあるのかもしれない。だが、今の俺にはその辺の雑音など耳に入ってこなかった。黒板に座席表が書かれている。みんなそれに従って座っているようだった。

俺は廊下側二列目の前から二番目に腰を下ろし、神妙な面持ちで考える。やばい。このクラスには可愛い子はいないのか? 自己紹介で気を引こうにもあのレベルの女子じゃアイドルには向かないぞ。俺の方から願い下げだ。いやいや、まだ希望を捨てるな。クラスの半分は女子なわけだ。たった一人が条件に合わなかったからといって残り全員がダメなわけじゃない。自己紹介の文章でも反芻して、頭を切り替えよう。

うつろな目で自己紹介文を諳んじて数分が経過した。クラスメイトは揃ったのだろうか。けたたましいチャイムが校内に響き渡ると、どうにか俺も音を取り戻す。チャイムの音は教室に緊張感を運んできたようで、ぴりぴりとした空気が室内に流れていた。

 チャイムが鳴り終わると、同時に教室の前扉ががらりと開かれた。そしてあの人が現れた。

 今朝、玄関先で小冊子を配っていた女性だ。立ち姿は背筋がぴんと伸びていて、初見のだらしない彼女とは別人のようだ。俺が驚きを隠せないまま、口をあんぐりさせていると、

「このクラスの担任を務める濱出景子だ。担当教科は数学。あたしは新入生だろうが容赦はしない。びしばし教育していくつもりだから心しておくように。では、これから入学式があるので十分後に体育館に集合。以上」

 すでに十分すぎるくらい張りつめていた教室が、南極の吹雪のような一言でさらに凍りつく。濱出景子は生徒たちを睥睨すると何事もなかったかのように教室を出て行った。

 少なすぎる説明に戸惑いを隠せない生徒たちがざわめきだす。クラスの何人かは言われたとおりに廊下へ出ていくなか、俺は先行きに不安を感じていた。あんな突っ慳貪な女教師が担任とは困りものだ。人との交流を最小限に抑え、必要なことだけ発するタイプなのかもしれない。担任と交渉が必要な場面とかは厄介そうだな。注意しておかなければ。

 教室では、共通の敵を見つけた志願兵のような団結力でクラスメイトたちが小声で会話を交わしている。俺は呼吸を整えるように小さく息を吐いて、体育館前に向かった。

 体育館前には新入生と思しき生徒たちがひしめきあっていた。前方で濱出がE組の点呼をとっている。俺は男女別の一列に混ざり待機しながら、これから友人になるであろうやつらの特徴を吟味していた。

 しばらくすると管弦楽の音が体育館の中から漏れてきた。入場の音楽らしい。前のやつらが濱出についていく。俺もちんたらついていって無事、体育館内のパイプ椅子に着席した。

 式が始まると、校歌披露や新入生代表の挨拶、校長先生の言葉などが続いた。茫然とこれからの生活をどうするかを考えている間に、たいした感慨もないままに入学式は終了した。

 退場する頃には周りのやつらも打ち解けてしまったようで、一人、棒立ちしていた俺は取り残されたような気がして気まずい思いを味わった。

 教室へ戻って席へ着くと、間髪をいれず濱出が入ってきた。

「入学式ご苦労。これからガイダンスを始める。高校生活の何たるかを逐一説明していくので、各自メモを取るなり自由にしてくれたまえ。ただし寝ることだけは許さん」

 そう言うと、濱出の持論が展開していった。宿題をやったからといって学力が上がるわけではないだとか、人間性は深く関わって初めて分かるだとか、私は強いだとか言いたい放題だ。

 ガイダンスは終始濱出のペースで進み、最後に「以上」と言い終えるとそれを合図に一日目が終わってしまった。俺は開いた口が塞がらなかった。初日には自己紹介があるものだとばかり思っていたのに、まさかの省略に虚を衝かれた。教師も教師なら指導方針もそれなりってか。数学の証明じゃないんだからちっとはコミュニケーションの時間があってもいいだろうに。

 濱出が教室から消えて、室内に賑わいが戻ってきた。すでに仲良くなった生徒たちはお互いの呼び方を決めている。一緒に下校しようと約束する声まで聞こえてきた。そんななか、俺は砂を嚙むような気持ちで歯を食いしばり、机の隅の方をぼんやりと見つめていた。

 首をもたげると前の男子がそわそわとしていた。すると、彼はくるりと身体をひねり、俺を振り返った。視線がぶつかり、彼の真面目な顔が双眸の網膜に投影される。銀色のチタンフレームのメガネに坊ちゃん刈りの頭。絵に描いたようなオタク系男子がこちらを見ている。

「なぁ、あの担任、可愛いくせにいやな感じだよな」

 彼がぼそっと話しかけてきた。低い声はどことなく安心感がある。俺はとっさに、

「初日なのに自己紹介もないとかおかしいよな」

 返答としては気の利いていないものだっただろう。今思っていることが口をついて出てきた。聞くなり、彼ははっとした表情になり、

「あっ、自分、鈴木祥太郎っていうから。席も近いことだしこれから何かあったら頼む」

 気さくに名乗って立ち上がった。リュックサックを背負い、掌をこちらへ向けて、

「じゃあ、また明日な」

 ぽつりと言い残してそそくさと前から消えた。

 自己紹介もなく、一言も会話をかわさずに終わるだろうと思っていた高校初日は、鈴木とのやりとりで始まり、そして終わった。俺も話しかけてもらえて実のところ安心していた。朝から張り詰めていた緊張が、帰る頃には微妙に和らいでいる気がした。


 翌日、自己紹介はなかった。

 入学二日目ということもあり、教科書の購入や学年合同の説明会的なものが一日のタイムテーブルを独占しており、個々の主張ができそうな場は設けられていなかった。

 放課後には部活動をどうしようかという声がいたるところから聞こえてきて、俺は若干の焦りを感じた。みんなこの時期に部活へ入るのが当たり前なのであって、俺のアクションが先延ばしになれば分が悪くなると思った。フリーの女子がいなくなってしまう。アイドル部(仮)がこの学校で設立されるのだということをなるべく早く知らしめないと。そのためには自己紹介が打ってつけなのに、このままじゃ男子部員一人のアイドル部(仮)になりかねん。入学早々夢打ち砕かれるのは悲しすぎる。絶望して人生諦めた不良みたいにはなりたくない。俺はぐれる気も無ければ諦める気もない。

 座して待つ。まずは一旦引いて相手の出方を窺おう。まだ二日目だから大丈夫だろうよ。


 と思っていたのに、その翌日も、自己紹介はなかった。

 入学三日目からは各教科の初回授業が始まりだした。どの教師も予習と復習の重要性を語ってはドヤ顔をする。その後、大量の予習が義務づけられたのは言うまでもない。

 クラスの交友関係も着々と広がりをみせていた。社交的な男子は休み時間に集まって大声で笑うようになったし、友好的な女子は教室の隅でお菓子パーティーを開くようになった。

 俺はいまだにクラスに馴染めないでいた。とはいえ、級友と軽く話をするくらいには体裁を保っている。昼休みには鈴木が机をひっつけて一緒に弁当をつついてくれるようにもなった。鈴木はゲームや漫画が趣味らしく、おすすめの作品を買うように促してくる。俺はその返答に困りつつ、当たり障りないレスポンスを返す。まだ自分を出せないでいたのだ。

 くどい男は女子に嫌われるのはわかっている。でもまだ未練があった。突拍子もなく、どこかの授業で自己紹介がありさえすれば、周囲に自分の性格を周知できると高をくくっていた。

 情報を小出しにしてしまい、徐々に蔓延する新種のウイルスのように俺の計画が教室中に知れ渡っては困る。根も葉もない噂が立つのはごめんだ。それならいっそ口を閉ざしてしまえ。

 そうやって口を滑らせないよう注意し、俺は無口な男子生徒を演じていた。

 今日こそはと、全員にアイドルについて声を大にして言える瞬間を待っていた。

 しかし、その日の帰り道、もう無理だと思った。焦りは限界に達していた。


 高校に入学して初めての金曜日を迎えた。入学日から換算するとすでに四日が経過している。もちろん今日もセルフプロデュースイベントなどは発生しなかった。もう自棄になっている。

 今は放課後だ。初めての週末にみんな浮き足立っているのか、やけに話し声がでかい。遊びに行く予定を想像して、テンションも上がっているのだろう。便乗したいのもやまやまだが、浮かない顔で作戦を練り直している俺からすると、いささか邪魔な笑い声にしか聞こえない。

 一週間待った。自分の人となりを他者に説明する機会は訪れなかった。高校からはそんなものなどないのだろう。中学までは義務教育で強制的にやらされていただけだ。今となってはそう思える。ないというならこちらも考えようではないか。別の方法で美少女を呼び込もう。

 俺は頭の中で反芻し続けていた自己紹介の文面を脳内で破り捨てた。

 だいたい他力本願なんだ。他人が動いてくれるのを待つなんて都合が良すぎる。中学でも学内の美少女たちに積極的に声をかけることはしなかった。ただ待つだけの日々。つまらないと感じたのはそれが理由だったのかもしれない。

 初日から今日までを顧みても、俺は自分からは動けていない。一部のやつらは自ら働きかけて高校デビューしている。オタクっぽい鈴木でさえ話しかけてきた。俺に欠けているのは自分からやろうとする精神だ。道を切り開こうとする努力だ。一歩踏みだそうとする勇気だ。

俺は椅子を引いて跳ねるように立ち上がる。ノートの詰まったスクールバックを肩にかける。

 ――部員を、スカウトしよう。

 教室を満たすやかましい声が、黄色い声援のように俺の気持ちをはやし立てる。

 俺は決意を新たに、PC教室へ向かった。


 ノックもせず、沈黙を手に宿らせて扉を横にスライドさせる。隙間から慎重に室内を覗くと人の姿がまばらにみえた。どうやら、放課後は自由解放されているらしい。これなら誰の邪魔にもならないだろう。ほっと胸をなで下ろし、中へ入る。

すうっと、電子部品特有のにおいが鼻腔に広がった。部屋の前方には授業で使用するホワイトボードが張り付いている。一般教室の二倍ほどの部屋は長机で埋め尽くされており、その上にはデスクトップPCが等間隔で並べられていた。

「意外と広いな……」

 初めて入るPC教室に感嘆をもらしつつ、俺は座席を吟味した。最前列の廊下側にはゲームを目的として集まったような男三人組がひそひそと小声を交わしている。一方、最後列の窓側には一人の女子生徒がしげしげと画面に向き合っていた。中央の席には人影はなく、むしろ罠でもあるのかと勘づかせるくらいにぽっかりとした空席があるのみだった。前方のゲーム集団はまだしも、女子一人でPC教室とは物好きな女もいたものだ。もしかしたら変なサイトでも見ているのかもしれない。というか、見ていたのなら逆にそそられる。ぜひともお手合わせ願いたい。

 だが、馬鹿げたことを抜かしている場合ではない。今からやるべき事前準備があるのだ。

 俺は先客に接触しないよう、憮然とした足取りで中央の窓側席へと歩み寄る。スクールバックを隣の椅子に置いて、選んだ席に腰を下ろす。よし、やるか。

 ボタンを押してPCを起動させる。瞬く間にディスプレイに明かりがともり、無機質な背景画面が呈示された。デジタルネイティブ世代の俺にとってはPCの操作など朝メシ前だ。自宅では調べ物にネットを活用しているし、これから準備する紙も過去に授業で作成済みだ――

 スカウトを決意した俺が最初にやろうと思ったのは他でもない、ビラ作りだった。部活には部員が必要で、その部員を集めるには部の存在を知ってもらうのが手っ取り早い。口頭で知らしめる術がないのなら、地道にビラ配りに勤しんで少しずつ目標に近づくしかない。

 至極自然な発想だろう。あらかじめ公式ホームページに部活一覧として掲載されているならいいが、俺の場合、新しい部活を設立しようと考えているわけだ。構想は俺の頭の中にしかなく、この学校の誰一人としてそのことを知らない。まずは目に見える形にしないと、だろ。

 軽やかにマウスを動かし、プレゼンテーション用のソフトウェアを立ち上げる。真っ白なキャンパスを縦書きで用意、キーボードを叩いて文字を入力していく。

まずは部活名。わかりやすく『アイドル部(仮)』でいいか。後でなんとかなる。

次に活動内容。『歌ったり踊ったり楽しい時間をすごせる部活です。注目されること間違いなし! 輝ける今を一緒に楽しもう!』だな。ちょっと漠然としてるが、楽しい感じは出てるからよしとしよう。

 そして活動日。そりゃもちろん『毎日放課後』に決まってる。可愛い女子と毎日会えるからこの部活の意味があるのであって、不定期にするなんて本末転倒だからな。

そんな調子で部員勧誘用の広告は形を整えていった。美少女キャラのイラストを切り貼りしたり、かわいらしい動物なんかをあしらえたりして彩りも鮮やかになっていく。下の方に自分の名字と連絡先を恭しい文体で載せるとほぼ完成形に近づいた。最後に考えあぐねた末、

「募集人員、無限、ただし女子生徒に限る、っと」

 絞り出した条件を強調して、ビラは完成した。悪くない出来ではないだろうか。特にキャッチフレーズにした『一緒にアイドルやろうよ! 新メンバー大募集!』の一文は大手芸能プロダクションっぽくて小気味いい。いやあ、けっこう疲れた。

 夕暮れの日の光がブラインドを突き抜けて空間を赤に染め上げている。このまま電気を消せば完成披露試写会を執り行えるくらいに日は傾きつつあった。これからは下校時刻との戦いになる。さっと百部ほど印刷して退散するか。

 俺は教室の一角にある印刷機に駆け寄り、平たく潰れた尻を揉みほぐす。

 息抜きに部屋全体を見渡すも静寂が漂っているばかりだった。最前列にいた男たちは跡形もなく消え去っており、投げ出された椅子の脚だけが哀惜を訴えている。最後列の女子生徒も姿が見えない。

 印刷機が唸りをあげている。生み出されて束になる紙を見ていると、まるでお産に立ち会う新婚男性のような気持ちになってくる。我が子のように慈しみを投げかけていると、教室の扉ががらがらと開き、俺の注意を奪った。

「おい、お前らまだ残っていたのか。もう下校時刻はとっくに過ぎているぞ。早く帰れ」

 戸締まり担当の教師だろうか。威圧的な声音で急き立てる男性教師は遠目では若そうである。

「すみません。今出ます」

 厄介ごとになるのは嫌なので、急いでビラを回収し席へ舞い戻る。慣れた手つきでPCをシャットダウンし脇目も振らず教師の下へ。念のため帰る挨拶でもしておこう。

「ちょっと印刷に時間がかかってたもので」

 言うと、その男性教師は不服そうな目で、室内を睨んでいた。

「おい、あとはお前だけだぞ。早くしろ」

「ちょっと待ってください、せんせー! 今プリントアウトするのでもうちょっとだけ……」

 なぜか清康な女声が響いてきた。さっきは誰もいなかったのにおかしい。そう思い振り返ると、件の女子生徒が低姿勢で画面とにらめっこしていた。見えなかったのは姿勢のせいか。熱心なやつもいたものだ。

感心しつつ、俺は教室を出る。背後からはどたばたと床を走り回る音が聞こえる。

 俺は、握りしめたビラの紙束に視線を落とし、ふっとほくそ笑んだ。

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