第2章 これって、恋の予感!?

ささいなことが気になって

第10話

 今日の5時限目の講義が休講になったので、私は早く練習場へ行って自主練習をすることにした。4時限目を受けた教室と練習場のあるサークル棟A館は大学の敷地内では反対側の端同士なので、ちょっと遠い。優しい空の下をゆっくり歩いていると、どこからか風に乗ってきた金木犀の香りを感じた。まだ9月下旬だというのに、今年は秋に染まるのが早い。

 薄暗い通路を奥に進むにつれ、野太くて柔らかい低音楽器の音が近づいてきた。ということは…。

まもるくん、こんにちは!」

「あ、実梨みのりちゃん、こんにちは。やっぱり俺だって分かるよね?」

「そりゃあ、今はこの吹奏楽部に低音楽器を担当してる人は葵くん一人しかいないもの」

しかし、私は葵くんを見て、あれれ、と思った。

「ねえ葵くん、しばらくチューバの代わりにコントラバスをするんじゃなかったの?」

そう、葵くんはいたって自然にチューバを吹いていたのだ。

「ああ、コントラバスってのは、何かしらの形でホールでの定期演奏会をするならって話だったんだ。実際、実梨ちゃんに提案されるまでそのつもりだったし。でも、学園祭って屋外で演奏するじゃん?コントラバスは屋外で演奏するには不向きだし、日光にも弱い。それなら、今まで通りにチューバを吹くほうがいいって思ったんだ」

へえ、本当に葵くんはよく考えてるなあ。

「だけど、低音楽器が一人って、結構きつくない?」

そう私が尋ねると、葵くんはまあね、と笑いながら続けた。

「そりゃ、今は全パート一人ずつだし、みんなも一人ひとりの音量アップを考える必要があるだろうけど、俺の役目はひときわ重要だろうよ。だから、みんなのハーモニーを俺一人でしっかりささえるために、こうして練習時間を増やしてるのさ」

頼もしいなあ、と思って葵くんをぽぅっと見てると、ふいに目が合った。3秒くらいでこちらから逸らそうとすると、ふいに葵くんが口角をにこっと上げたので、もう少し長く見つめあってしまった。

「それより、今は俺たちに指揮者を置く余裕はないだろ?ってなると、実梨ちゃんのドラムが刻むビートもめちゃめちゃ責任重大だよ。お互いに頑張ろうな」

「いや、私は紗絢さあやちゃんが来てくれたおかげで半分ずつ分担することになったから、別にっ」

 このあと、葵くんと私はそれぞれの練習に黙々と取り組んだ。だけど、あんなに長い時間…本当はわずかな時間なのかもしれないけど、男性と目を逸らさなかったのは私の人生において初めてだった。だからか、しばらくドキドキが止まらなかった。いや、練習中の自分が刻んでいるドラムセットに助長されているだけかな。

 そのうち、私は一度手を止めて、少し水分を補給してから再びドラムスティックを握った。すると、私の叩き始めた部分と葵くんが吹いていたところがどうやら同じ曲の同じ部分だったらしく、私たちはいつしか互いの目を見ながら合わせるように練習していた。そして最後のサビが終わるころに、ドアが開く気配がしたので葵くんは吹きながらもちらりとそっちを見て、軽くぺこりとして続けた。終わって振り返ってみると、そこには華英はなえちゃんがいた。

「先輩たち、合わせてるところに邪魔しちゃったみたいですみません」

笑いながらも申し訳なさそうな華英ちゃんに、私はなぜか弁明してしまった。

「いや、あの、最初はそのつもりなかったんだけど、偶然重なっちゃって、そのまま続けてたんだよね、ね、葵くん」

「そうそう。それより、俺たち、曲の途中からこうなったんだけど、よければ華英ちゃんも最初からどう?」

ありがとうございます、という華英ちゃんは、なんとなくだけど私にはどこか嬉しそうに見えた。そして、最初から最後まで一曲通し終えるまでに少しずつ音が加わっていき、気が付けば10人全員で合奏をしていた。これぞ、どこの吹奏楽部でも一度はあるであろう、打ち合わせなしのフラッシュ・モブとでもいうべき現象だ。どこからともなく自然に合奏が発生し、最後の一音を鳴らし終えた私たちは思わず笑ってしまった。

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