12

 アンプを通して鳴り響くエレキギターは、まさに水を得た魚のようで、鳴らしたい理想の音をダイレクトに出してくれた。音楽を辞めようと思ったあの日まで、付き添ってくれていた愛機の懐かしい音に僕は笑みが零れそうになった。鏡越しに映った自分の顔が恥ずかしくて、背を向けてしまったほど上手く笑えていた。

 ギターの音色に追随するようにして、長江の腹の底で這いずるようなベースの低音が、心臓を叩くような文野のドラムが、そして透明感のある耳触りの良い単音を鷹居が鳴らす。

 思い出した。始めて四人で集まった時も、こんな風に始まったのだ。互いが互いの顔を見合わせ、狭いスタジオ一杯に響く四つの音に思わず心を揺さぶられた。

 ただの音量チェックだ。それなのに、一つ音を鳴らした瞬間から、それはまるでそうなることを予想していたかのように曲として形となりつつあった。各々の好みを混ぜ合わせた結果生まれる化学反応じみたこのセッションに、僕達は何度も助けられた。惜しむらくはその曲達が世に広まる前に活動を終えてしまった事だろう。

 きっと僕が今も彼らと一緒に続けていたら、この音の奔流に身を委ねていたら……。

 そう思うと、あゆむの世界の音源が、酷く羨ましくなった。

「時間も無いから、どんどんやろう。それぞれ考えてきたよな」

 勿論、と長江。無言で頷く文野、二人の反応を見てから鷹居も頷いた。

「勝手に辞めておきながらこんな我儘に付き合ってくれて、本当にありがとう」

「本当に勝手だ」長江はちらりと僕を見てそう言った。

「俺達が活躍する頃になって惜しいことしたとでも思ったんだろう? この先も一生後悔させてやるよ」

「長江」彼は腕組みをすると眉根を寄せて僕を見た。「いつか自慢しろよ。あの長江遼と一緒にバンド組んで、レコーディングしたことがあるんだってな」長江はそう言うと、その口を歪めて笑ってみせた。

「本番も、俺達が一緒でいいのか?」スネアの調整をしながら文野が尋ねる。僕はその問いに頷きで返した。文野は口許に笑みを認めると再びセッティングに戻っていった。

「一年ぶりで声、出るか?」

「練習してる」鷹居の心配に僕はラヴ・ミー・ドゥを脳裏に浮かべる。マイクも無い中、あゆむという観客に向けてもう何度歌ったか分からない。一年前までとは言わないが、それでも三十分弱歌うくらいなら問題無いだろう。

「じゃあ、さっさと合わせていこう。たった一日だがレコーディングの予約も抑えておいた。後は録れる状態にしていくだけだ」

 そう言って気合を入れる鷹居を見て、僕はギターを鳴らした。

 また、誰かと一緒に音楽に触れる日が来るなんて思いもしなかった。

 誰かに向けてまた歌おうと、そう思える日が来るなんて、本当に、本当に思わなかった。

 あゆむの持ってきたコードを押さえ、握りしめたピックを弦目掛けて垂直に振り下ろす。

 そういえばこの曲も、始まりはナインスコードなんだな。

 僕が好きになった理由も、少なからずそこにあるのだろう。



 あゆむはステージ上の椅子に座って舞台袖の方を見て暫く呆けていた。

 僕が入ってきたことにも気づかず、抱えたアコースティック・ギターを弾くわけでもなく、歌う様子も無く、ただただ彼方を見つめて阿呆みたいに口をぽっかりと開けてたまま座っている。

 ふと、僕が声をかけようとした時、ステージを照らすランプが一瞬点滅した。ハッキリとした明暗がニ、三度交互に訪れ、再び照明が落ち着いた時には、あゆむの視線は僕に向いていた。彼女に手を振ると、彼女は僕に手を振り返してくれた。

「考え事?」

「え、あ、うん。いつからいたの?」

「口開けてボーっとしてた辺りから」

 僕の言葉にあゆむは恥ずかしそうに縮こまると、マフラーで顔を隠した。

「随分外も寒くなったね」

「コウイチ君って寒いの得意よね。やっとコート着てくるようになったけど、それまでは見ているこっちが寒くなりそうな服装だった」

 そうかな、と首を傾げると、そうだよ、とあゆむはマフラー越しに言った。

「ライブも近いんでしょう? 喉の為にも暖かくしておかないと、当日声が出ないなんてことになったら困るよ」

「そうだね、気をつける」

「そう言ってコウイチ君は絶対にしないに決まってるよ」あゆむは砕けた笑みを浮かべて僕にそう言うと、自分のマフラーを外し、フェンスに寄りかかっていた僕の首に巻いた。分厚くて随分と長さのそのマフラーは重たくて、とても暖かかった。

「これ、こんな暖かかったのか」

「ずっと私が付けてたから」

「成程、どうりで良い匂いがするわけだ」

「馬鹿」

 マフラーを外した彼女を見るのは、始めてだった。いつもどんな時でも彼女は必ず赤いニットセーターとマフラーを巻いてやってきて、口元や顔を時々隠したりしていたし、こうして首元が、あの傷痕が顕になっている彼女はなんだか新鮮だった。

「くれるの?」

「私のお気に入りのマフラーだから、大事に使ってね」

 そう言って彼女は笑った。こうしてよく見ると、厚ぼったくて血色の良い唇をしていたんだなと思う。肌の色と比べると随分と映える紅色だ。

「というか、そのマフラーね、二つ持っているの」

 彼女の唇に見惚れていると、あゆむはその口でぽつりとそう漏らした。

「随分前に虹一君とデートした時に気になってね、持ち合わせが無いからってその日は諦めたんだけど、諦めきれなくて給料入った時に見に行った。そしたら丁度さっき一つ売れて、お客さん本当にギリギリでしたよって言われたの。慌てて買ったわ。うまく最後の一つに滑り込めたなんて運が良かったなって思った」

 ステージの上でしゃがみ込み、丁度同じくらいの目線になった僕の首に巻かれたマフラーを、両手で弄びながら、彼女は懐かしそうに目を細める。

「それで次の週末にね、このマフラーを巻いて会いに行ったの。見せびらかしたくて、褒めてもらいたくてね。でも虹一君ね、ずっとしかめっ面で、私がギリギリ間に合ったのを自慢してもああ、とかそう、とかしか言って大した反応をしてくれなかった。折角買えたのになあって私も段々機嫌が悪くなって、そんなこんなで折角のデート終了。何も言わないで帰ってやろうと思ったら突然腕を掴まれて、仏頂面のまま鞄から包を取り出して私に差し出してきたの」

 もうオチはわかったでしょう、と微笑むあゆむに、僕は頷いた。彼女は満足そうな顔をしていた。

「虹一君が買ってくれた方は、勿体無くて今も開けずにしまってあるの。だから、こっちが無くなっても全然困らない」

 得意げなあゆむに僕は微笑むと、マフラーに顔を寄せる。彼女の匂いで満ちたそれに包まれていると、なんだか自分が「彼」にでもなったみたいに思えてしまう。洗剤やシャンプーだけでは無く、彼女自身の甘い匂いも染み込んでいる。風に揺れる葉のように心がざわめく音がした。胸の奥が途端に窮屈になって、飛び出したい想いに駆られる。

「ありがとう、大事にするよ」

「あんまり赤いの、コウイチ君似合わないけど、使ってくれたら、嬉しいなあ」

 マフラーの先を弄りながらあゆむは言った。

 あゆむは、僕の首に巻かれたマフラーをそっと手繰り寄せた。フェンスに手をやって、身を少しだけ乗り出した彼女は、自分の行動に少し驚いたようで、でも距離の寄った僕の顔を見つめると、マフラーに触れていた両手を僕の頬に添えた。煙草一本程も無い距離だった。

「こういちくん」

 それは、どちらを想って言ったのだろうか。

 あゆむはそっと目を閉じると、首を傾いで、それからゆっくりと僕の口許へ近づいてくる。

 僕は目を閉じた。

 すぐ傍にある彼女の生暖かな吐息が顔にかかる。緊張で彼女の呼吸が乱れているのが分かった。前髪が、僕の額をそっと撫でた。僕はその間もずっと目を閉じていた。

不思議と、茉奈の顔は浮かばなかった。

 その代わり、僕の脳裏に浮かんだのは、早見あゆむの、泣き顔だった。

――また、聴けた。

 そう言って彼女が流した涙は、濡れた瞳は、青白いピンライトの光を浴びて残酷なまでに美しくて、でもその美しさが切望と悲哀からくるもので、失ったものがもう二度と戻ってこない事をハッキリと理解した表情で。

 吐息が触れる。暖かくて湿った、綺麗に紅が指したあの唇が、今、僕の目の前にある。


 静寂の音がした。


 目を開けると、あゆむはもう離れていた。僕と、それから僕に巻いたマフラーを見て、やがて諦めたようなため息をついて、それから頬を緩めて笑った。

 スポットライトに照らされた彼女の顔は、その白い肌も相まって透き通るように輝いていて、潤んだ瞳は孕んだ光が乱反射してプリズムみたいに綺麗だった。脳裏に浮かべたままの彼女がそこにいた。

 あゆむの顔を見つめながら、僕は唇をぎゅっと噛み締める。謝ってはいけない、分かっていながら、それでも罪悪感で胸が一杯だった。

「多分、君ならそうすると思ったんだ」

 キスの間際、彼女の口を覆った僕の掌を指先でなぞりながら、彼女はそう言った。紅色の血色の良い唇の感触が、僕の掌に残っている。

 彼女は愛おしそうに僕を見つめ、それから口許を動かして、五文字の言葉を声にせず言った。僕はその言葉に、うん、と頷いた。

 僕は首元に目を向ける。あゆむは視線から逃れようとほんの少しだけ身を退いたが、僕は構わなかった。

 せめて、触れておこうと思った。

 そうしたら、目の前のあゆむと、少しだけ共有出来る気がした。

 やがてあゆむは諦めたように目を閉じると、顔を上げて首元を無防備に晒す。

「触っても、いいよ」

 その声は、暖かくて、くすぐったくて、柔らかかった。

 彼女の言葉に、僕は深く息を吐くと、指先を彼女の首元に這わせる。

 柔らかな肌に交じって残る線状の痕は、堅くて、冷たい。

「傷痕っていうのはね、冷たいんだ」

 あゆむはそう言うと、首元の僕の手の上に、自分の手をそっと添えるようにして置いた。痕とは違う、血の通った暖かで柔らかかった。

「だから、暖めてくれるものがあると、身を委ねたくなってしまう。癒やされたくて、救われたくて、ね」

 そう言って微笑む彼女の姿を、言葉を、僕は忘れない。



 レコーディングを終えて、ミックスまで終えた音源は出来たものの、プレスは間に合わず、配布用の音源は手焼きでどうにかすることになった。何よりライブが迫っている状況で、たった一日で全て録ってミックスまでこなそうというのがどだい無茶な話だったのだ。本当によくやってのけたものだと思う。

 マスター音源をあゆむに渡すと、彼女はまるで幻でも見るみたいに暫くそのケースを眺めていた。ジャケットも何もない裸のプラスチックケース。その中には、遺作を元に制作した楽曲の収録されたCDが、確かに入っている。

「聴いても、良い?」

「その為に作ったんだから、聞きなよ」

 あゆむはディスクプレーヤーにディスクをはめ込み、再生を押した。

 彼女はイヤホンを耳に差し込み、目を閉じた。

 あゆむが音楽に浸っている間に、僕はステージ上に昇って、立てかけられていたアコースティック・ギターを手に取ると、チューニングを確認し、開放弦を全て鳴らす。からりとした心地の良い音色がボディを通してフロア全体に広がっていくのが聴こえた。

 あゆむは、幸せそうに微笑み、リズムに合わせて身体を揺らしている。恋人の思い描いた音像とは多分程遠いに違いない。僕は彼ではないし、積み重ねてきた想いや過去も違う。ほとんど他人である彼、九重虹一が思い描いた理想を再現することは出来ない。

 だから、僕は自分の思うベストをあの中に全て詰め込んだ。

 鷹居のギターがあって、長江のベースがあって、文野のドラムと、僕の歌のある、「ストロヴェリィフィールズ」という、これ以上無いと僕が思う最善の形で。


 やがて最後のサビに入ったところで、あゆむは目を大きく見開いた。

 慌てて僕に向けた目に戸惑いの色が浮かんでいるのを見て、僕は察しが付いた。僕は何も言わず、口も開かず、ただ一度頷いてみせた。

 最後の歌詞は一度目の繰り返しで。結局上手くまとまらなかったからと彼女は没と言っていたが、その時点で僕の中で「あの歌詞を使おう」と決断していた。最後まで悩みに悩んだ選択だったが、こうしてトラックダウンした今、後悔は一つ足りとも無かった。この曲はこれで完成だと、例えあゆむがどう反応したとしても胸を張って言おうと、そう覚悟していた。

 再生が終わって、あゆむはイヤホンを外すと立ち上がり、僕を真っ直ぐに見た。不思議と、一瞬だけ浮かんだ戸惑いの色は消えて、その瞳には満足気な光が灯っている気がした。

「やっぱり、見ていたんだね」

「趣味が悪いとは思いつつ、ね」バツが悪そうに肩を竦めると、彼女は首を振る。「いいの、ずっと迷い続けていたところだったから、むしろ入れてくれて良かった。完成した曲を聴いたらね、入れてもらえてよかったって、きっと入れなかったら後悔したって思ったから」

「そっか」

 安堵しているあゆむに、僕は手招きをする。彼女は首を傾げ、フェンスに足を掛けてステージに登ってくる。僕は座っていた椅子を彼女に譲ると床に胡座を掻いて座り、ギターを改めて鳴らした。

「ライブには来れそうにないから、リハーサルも兼ねてここで、聴いてもらっていいかな」

 僕の言葉に、あゆむは目を細めて笑うと、頷いた。譲られた椅子を横にずらして、胡座を掻いて座る僕の背中により掛かるようにして腰を下ろした。彼女の柔らかな身体の感触に一瞬どきりとしたが、平静を保つように深呼吸を一度して、再びギターを鳴らす。

「背中越しに、音が響いてくる。なんか、面白いね」

 幾つかのコードを鳴らす度に彼女はふふ、と笑みを零す。

「そんなに嬉しいの?」

「もう、こんなこと二度と出来ないと思ってたから。良かった」

「ごめんね」

「何が?」あゆむの問いに、僕は人差し指を口許に充てた。ああ、と言葉を漏らした彼女は、背中に身体をぐったりと預けきると、気にしないで、と言った。

「虹一君はもう、過去なんだ」

 彼女の言葉に僕は目を閉じて、茉奈の姿を思い浮かべる。

 彼女に恋をした時のことを。

 二人で始めて身を寄せ合った時のことを。

 弾き語る彼女の姿に心を掴まれた時のことを。

 二十歳の世界を見に行くと言った時のことを。

 そして、棺に収まった彼女の真っ白い姿を。

 僕は目を開くと手元のギターを改めて握り直す。爪弾くのを止めて、ポケットからピックを取り出すと、一度コードをと鳴らした。調律はちゃんと出来ている。歌詞も頭の中に馴染んでいる。最後に何度か発声練習をすると、一度わざとらしく咳き込んだ。あゆむがくすりと笑ったのを背中越しに感じた。


 じゃあ、始めるよ。


 うん。



 それから僕は、精一杯歌った。

 ギターを出来る限り丁寧に、けれど詩に込められた感情を損なわないように力強く鳴らし、フロア中に響くように大きく口を開けて、あゆむの心に強く響いて、忘れられなくなるように大きな声で歌った。

 歌っている間、あゆむは一人何かを喋っていた。

 歌を阻害すること無く紡がれるその言葉は、どうしてか歌う僕の脳裏にするりと入り込んできた。


「私は、虹一君が嬉しそうに音楽を語るのがとても好きだった。ギターの音色がどうだとか、どんな歌詞を聴かせたいのだとか、色んな事を喋ってくれて、何より私に居場所をくれた。無理をせず、自分を否定しないで、ほんの少しでも良いから自分のことを認めて、前に進む事を歌で教えてくれた。

だから、彼が死んで途方に暮れた末に、私も虹一君と同じように誰かの背中を一歩分、押せるようになろうと思った。でも、こんな不思議な出来事が起きて、君に会えた時、その一歩を踏み出していいものか、正直悩んで、やっぱり彼みたいにはなれないんだなって思った。気がついたら君は一歩踏み出していた。それだけじゃない、悩む私の背中をやっぱり君は一歩分、押してくれた。でも、それでいいの。私は虹一君にはなれないって分かったから、それだけで十分。あ、あとこうしてまた九重虹一君に身体を預けたまま弾き語ってもらえるなんて思わなかったから、今、とても幸せ」


 照明が点滅する。ギターの様子がおかしい。確かに弾いているのに、弾いている感触が時々薄れてしまう。

「もし、この世界にまだ私がいたら、その時は、一歩分、背中を押してもらってもいいかな。貴方に会えていない私がどうなっているか分からないけど、茉奈さんを選んだ貴方が私に好意を抱いてくれるか分からないけど、きっと、いい友達には、なれると思うから。私は、君が作ってくれたこの曲と、ここでの不思議な出来事があれば、幸せ。それだけあれば、また歩き出せるよ」

 それから、あゆむは続けて背中越しに、五文字の言葉を口にして、僕の背中に体重を預けた。

 僕は構わず歌い続けた。返事を求めていない、多分、この歌が形になった事に対する感情を、はっきりと口にしたくて、ココノエコウイチの返答は、特に欲しがってはいないと思ったから。

 それは、歌い終えるのと、ほぼ同時の出来事だった。

 最後のワンコードを鳴らした瞬間、ヒューズが飛んだみたいにライトが落ちた。

周囲が一瞬にして漆黒に呑み込まれ、同時に背中の感覚と、手にしていたギターの感覚が、消え去った。

 耳元に柔らかく、生暖かい感触がして、ふふ、と笑みの漏れる声が聞こえて、それから、彼女はもう一つ、五文字の言葉を告げると、やがて気配が消えた。

 漆黒と静寂が濁流となって部屋に流れ込み、僕の全てを遮断し、孤独の中に閉じ込めた。何も聞こえない、何も見えない。背中にも、手にも何一つ感触が無い。不思議とそこに何かが「あった」という生々しい感触と、早見あゆむという女性の記憶だけは、損なわれること無く残っている。

 僕はポケットから携帯電話を取り出し、簡易ライトで周囲を照らす。照明に比べたら微々たる照明だ。目が慣れるまで周囲の様子を確認するのに苦労した。

 目を凝らしながら確認して分かった事は、あゆむの荷物がほぼ全て消え去っていることだった。

 アコースティックギターも持って行かれてしまったみたいだ。まだ感触の残った手を握ったり開いたりしてみせて、それから首元の感触をその手で確かめ、ライトで照らした。真っ赤な厚手のマフラーだけ変わらず僕の首元に巻かれていた。これだけは持っていかれなかったようだ。僕はマフラーを手繰り寄せて匂いを嗅いでみた。あゆむの柔らかな香りがする。

 彼女は確かにいた。

 このマフラーのお陰で、僕はそう信じることができた。

「もし会えたら、その時は」

 歌っている間の彼女の言葉を脳裏で反芻しながら、僕は頷く。もう届いていない言葉だが、それでもハッキリと口に出す必要があると、思ったのだ。


 扉を開けて階段を登って行くと、太陽の光に思わず目が眩む。今日は晴天だ。日差しが暖かく、しかし風は随分と冷たかった。僕はコートの前を締め、マフラーを巻き直すと、階段を登り、小路を通って、廃ビル脇から通りに出た。

 かちゃん。

 金属の嵌る音がした。振り返ってみると、今出てきたばかりの小路に、ところどころ錆びて赤銅色をした鎖が二つ、上下に掛かり、中央に「立入禁止」のプレートが掛けてあった。

 それは、始めてここに来た時と全く同じ光景だった。

 僕はマフラーに触れてから、一度深々とお辞儀をすると、踵を返してその場を後にする。

 彼女が最後に口にした五文字を、僕も同じように口にする。

 多分もう、早見あゆむと僕が交わる必要が無くなったのだろう。

 僕達の作った曲を聴きながら、きっと彼女は進んでいくに違いない。

 僕がそうするように、彼女もまた、喪失のその先を求めて、真っ直ぐに。

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