4 そして、昨日を歌う

10

 平日の河川敷は穏やかで、僕は緩やかな傾斜に腰掛けて川辺を走り回る子供を眺めていた。

 十月が過ぎ去り、気温も随分と下がってきた。そのせいか外を歩く人の姿もめっきり減ったように思える。散歩が日課になっている老夫婦や、寒さを気にも留めない半袖の腕白な子供たちは変わらず見るが、高校生や僕みたいな大学生はすっかり姿を見ない。

 寒さには割と強いほうなのだけれど、同じ場所に留まっていたり日陰にずっといると、流石に辛かった。

「すっかり寒くなりましたね」

 紡木は隣に腰を下ろすと、買ってきた缶コーヒーをコンビニの袋から取り出す。僕はそれを受け取り、両手で包み込んで暖を取る。火傷しそうなくらい熱いけれど、この肌寒い中で感じる熱はとても身に沁みて、心に余裕を作ってくれる。

「ああ、生き返る」

「なんだかおじいさんみたい」

 くすくすと笑う紡木を見てそうかな、と首を傾げながら僕も笑った。

 紡木と会うのはワンマンライブ以来で、ほとんど二週間ぶりになるのだが、久しぶりに出会った彼女は随分と物腰が柔らかくなっていた。本来はこちらが素なのかもしれない。

「君から連絡をくれるなんて、一体どうしたの?」

「あ、いえ、その、この間の件をちゃんと謝っておきたくて」

「この間?」

「ライブの日程が七峰さんの日になっていたっていう、あの相談についてです」

「ああ、あれね」丁寧に言葉を選ぶ彼女の横顔を見て僕は頬を人差し指で掻いた。「紡木さんが謝ることはないよ。あれは鷹居が全面的に悪いから」

「でも、虹一さんに迷惑をかけてしまったので」

「気にしないで。むしろそれがきっかけで君らのライブを見ることが出来たんだから」

 僕の返答に紡木の顔から緊張が抜けていく。俯きがちだった彼女の視線が僕に向いたのを見てから、僕は手元のコーヒーに目を向け、ぽつりと呟く。

「この間、墓参りをしてきたんだ」

「墓参り、ですか?」

「そう、一年かかったんだけど、やっと決心がついてね。茉奈の父親とも改めて会ってきた」

「お墓、行けていなかったんですね」

 頷くと、彼女は隣でホットココアをちびちびと飲み始め、少しして缶から口を離すと「私、嫉妬してたんです」と言った。芯があってハッキリとした声だった。

「皆が名前を出す虹一さんや七峰さんに対して、ずっと嫉妬していました。どれだけ頑張っても埋められないものが私と三人の間にあることが悔しくて。そんなの後から入った人間なら当たり前なのは分かっているけど、鷹居さんも、文野さんも、長江さんも、素敵で魅力的な人達だからこそ、私も三人の中に溶け込みたい、二人よりも大事にされたいって、思ったんです」

 目を伏せる紡木の頭に僕は手を載せると、彼女の髪をゆっくりと撫でてやる。彼女は抵抗することもなく顔を伏せたまま、僕に身体を委ねていた。

「あの日見て、今あの三人と固く結ばれているのは僕でも茉奈でもなく、君だよ。確かに僕はあいつらと一緒にやっていた元メンバーで、親友だ。でも、この先も同じ道を進み続けられるのは君で、それを彼らもちゃんと分かってる。だから、もう紡木さんは心配する必要は無いよ」

 紡木の頭が頷くように縦に揺れるのを掌で感じた。僕は暫くその柔らかな髪に触れたまま、河川敷に目を向けた。

 僕はやっと、七峰家に連絡を取ることが出来た。

 煙になって空へ消えていく茉奈を見てから丸一年。ずっと彼女がいなくなった現実から目を背けて生活をして、どうにか空いた隙間を誤魔化したくて必死だった。彼女の死を実感してしまう音楽から逃げ出して目も耳も塞ぎ続けた苦悩の一年が、今では遠く感じられた。

 少し時間が掛かってしまったけど、別れをちゃんと告げることは、できたと思うのだ。



 朝、目が覚めると窓の外に目を向け、完全に日が昇り切っている事を確認すると、少し遅い朝食にトースターとハムエッグを作って適当に腹に詰め込んだ。食後にドリップコーヒーを淹れながら何の気なしにテレビを付けてみると、交通事故に関するニュースが取り扱われている。ここ数年で事故件数は随分と増えたらしく、ニュースキャスターが困ったような顔で意見を口にしている。

 僕はコーヒーを啜りながらチャンネルを何度か変えて、やがて電源を落とすとテーブルの隅に転がる携帯電話を手に取って、暫く手の中で転がす。

 ディスプレイには、七峰家の電話番号が表示されていた。昨日からずっとその画面が表示されている。

 去年葬儀に出て以来、七峰家とはあれっきりになっていた。一度か二度紹介されたくらいで、大して付き合いが深いわけでもないのだが、流石に一度、改めて挨拶をしておきたかった。

 暫く携帯と睨み合っていたが、やがて覚悟を決め、僕は通話ボタンを押した。

 携帯を耳に当てると、何度目かのコールの後、「七峰です」と低い声がした。父親の真琴さんだ。

「お久しぶりです。九重、虹一です」

 どうしても躊躇いがちになってしまう言葉に辟易しながら、僕は自分の名前を告げた。スピーカーの奥の彼は少し黙りこみ、やがて久しぶりだねと答えた。その口ぶりからするに、恐らくそろそろ電話があると思っていたのかもしれない。

「茉奈の父親の真琴だけど、覚えているかな」

 はい、と答えると彼は良かったと低く穏やかな声で嬉しそうに言った。その反応に安堵しながら、僕は彼女の墓に伺いたい旨を告げた。

「もし、七峰さんの家の都合が良ければになってしまうのですが」僕の問いに彼は変わらず穏やかな口調で構わないと言ってくれた。「妻も大分落ち着いたよ。ただ時折茉奈を思い出すと駄目になるみたいでね、娘と親しかった君を会わせることは出来ない。すまないね」

「そんな、僕のことは気になさらなくて良いですから。茉奈の墓参りだけさせていただければそれで十分です」

 すまないね、と彼は再び言う。真琴さんに謝る理由は無いと思っているだけに、僕は彼のその言葉にいたたまれなくなった。

「駅まで来てくれれば俺が車を出そう。折角来てくれるんだからそれくらいはさせて欲しい」

「いえ、そんな」

「折角だから虹一君と話がしたいんだ。君の話を、聞かせてくれないかな」

「七峰さんが良ければ……。出来る限りの事は、お話します」

「ありがとう」携帯電話の奥、七峰家で受話器を手にしている彼の顔がほんの少し綻ぶのを、彼の声から感じた。

 都合のつく日を尋ねると、真琴さんは命日の前日を提示した。忙しいに決っているのに、構わない、駅で待っていると言われてしまい、別の日を提案する暇も無く彼との通話は切れてしまった。

 通話の切れた携帯を耳に当てたまま、一度深く深呼吸をし、それから嘆息を一つつくと、ベッドに身を投げ出し、仰向けに寝転がったまま天井を見つめる。

 僕と茉奈の話、か。

 この一年、ずっと彼女との思い出ばかり思い出して過ごしていたからか、大抵の事ならすぐに頭に浮かべることが出来た。始めて出会ったラヴ・ミー・ドゥでの出来事から、誕生日を迎えるまで、池に石を投げ込んだみたいに、底に溜まっていた記憶が次々と波打つ水面に向かって湧き上がる。

 思い出す度に、彼女との思い出がもうこの先新しく作られることが無いことを実感させられる。



 約束の当日、彼女の自宅のある駅の改札を抜けると、真琴さんが僕を迎えてくれた。

「本当に朝早くにすまないね」

「いえ、こちらこそ、こんな忙しい日に訪ねてしまってすみません。佐奈さんの方は?」

 アクセルを踏み込み、ステアリングに置いた手を動かしながら彼はちらりとこちらを見て、柔和な笑みを浮かべ、まだだね、と答えた。

「今日はとにかくナーバスになっているよ。何もする気が起きないのか、リビングでぼうっとしていてね。申し訳ないが、簡単な送り迎えくらいしかできそうにない」

「いえ、本当に、それだけで十分有難いです」

 運転する真琴さんの姿をちらりと横目に見てから、僕は目の前の車道と町並みに目を向ける。一、二度だけ来たことのある穏やかな住宅地。駐車場の大きなスーパーがあって、個人経営の書店や小さな電器店が立ち並び、更に奥には落ち着いた雰囲気の商店街が見える。

 ここで茉奈はずっと生活をしてきたのだ。二十年間、ずっと……。

「何も無い場所だろう?」

「いえ、そんなことないです」

「いや、いいんだよ。俺もつまらない所だなと思っているからね」

 愉快そうに真琴さんは言う。僕は反応に困って彼を見ていたが、真琴さんは前方を見ながら口元には笑みを変わらず浮かべていた。

「家から駅までバスが必要だし、車が無いと不便な場所でね。全く昔はもう少し栄えていたんだが、すっかり若者が減って寂れてしまったよ」

「高校まではずっとバスと電車で通学を?」

「俺が一人暮らしを勧めるまではずっとね。茉奈は苦にしていなかったみたいだけど」

「よく、茉奈は家に帰りたいと漏らしてましたよ」

「何故か知らないがあいつはここが好きらしくてね。とは言え通学時間を考えたら大変だから無理に家を追い出した。本当、入学して間もない頃は何かと理由をつけてすぐにうちに帰ってきたよ。往復で半日使うのに、変な子だったなあ」

「よっぽど自宅が好きだったんですね」

「まあ、それもしばらくしてぱったりと無くなったんだけどね」

 僕が首を傾げると、彼はちらりとこちらを見てから「君と会ってからだよ」と言った。

「最近帰ってこないじゃないかって聞いた時があってね。別に俺としてはやっと向こうに落ち着けたのかと安心して電話をしたんだが、茉奈は嬉しそうに今はこっちが好きだって、そう言ったんだよ。どうしてか聞いたら、恥ずかしかったんだろうなぁ、少し間を置いてからね、傍にいたい人が出来たと言ったんだ」

 そんな事を口にする茉奈を、あまり想像することが出来なかった。

「茉奈は、君のことが本当に好きだったみたいだよ」

「僕も、同じ気持ちでした。きっとこの先こんな人に出会うことは無いだろうなって」言葉に詰まった僕の肩を、彼は二度、軽く叩く。

「茉奈の事を、この先も忘れないでやって欲しい」

「忘れることは、多分出来ません」

「ありがとう。でも、同時にもう一つ、頼みたい」

 彼は遠くを見て、大切なことなんだと言う。

「茉奈を、ちゃんと過去にしてやってくれ」

「過去、ですか」

「茉奈と違って君は生きていて、これから先も歩き続けなくちゃいけない。そんな時、もう前に進むことの出来ない彼女と足並みを揃えていたら、動き出すことが出来なくなってしまうから。茉奈はあくまで思い出に、君に自分の道を進んで欲しいと思ってる」

 親としてこんな頼み事は良くないかな、と苦笑しながら彼は言ったが、僕は首を振った。

「この間、茉奈の誕生日に、同じことを僕も考えました。この一年間ずっと彼女の事を考えてきて、気がついたら一歩も進めなくなっていて。でも、大切な人を失っても進み続けてようとする人達の姿を見て、僕も変わりたいと、そう思いました。だから、今日はその為に、改めてちゃんと茉奈さんのお墓に行こうと思ったんです」

 すみません、と僕は付け足すように言って頭を下げる。真琴さんは穏やかな眼差しで僕を見て、それでいいんだよ、と言った。

 道の路肩で車が停まる。民家が続く路地の少し先の開けた場所に墓地が並んでいるのが見えた。

「場所は書いておいたから」

 真琴さんから四つ折りの紙を受け取って、僕は車を降りた。連絡をくれたらまたここに来るからと、そう言って真琴さんの乗る車は車道に戻ると、来た道を戻り、やがて消えていった。

 僕は霊園に足を踏み入れ、用意してきた花や線香の袋と桶を手に七峰家の墓石へと向かう。

 墓石の並ぶ小路を進みながらメモ用紙と場所を照らし合わせ、少し歩いた奥に七峰家と書かれた墓石を見つけた。僕は傍に荷持を下ろすと、彼女の眠る墓の前にしゃがみ込む。

 恐らく佐奈さんか真琴さんが頻繁に手入れに来ているのだろう。花は瑞々しいものが刺さっているし、土埃に塗れた様子も無く、光を孕んで墓石は艶やかな鈍色を放っている。

 僕は持ってきた花を追加し、水を流して、線香に火を点けてくべると、手を合わせた。目を閉じると、僕が手を合わせる先に彼女がいるような気がした。

「ここに来るまで一年掛かったよ。どうしても受け入れられなくてさ、いつも冷静を気取っていた癖に、意外と僕は情けない男だったみたいだ。君の死も何もする気が起きない理由にして、前に進もうとすらせずただ無為な日々を過ごしてた。茉奈が死んでから、バンドは辞めてしまったんだ。でも鷹居は頑張ってデビューに漕ぎ着けた。まだインディーだけど、それでも前に進もうと頑張ってる」

 目を開ける。彼女はいない。

 僕は目の前の物言わぬ墓石に向けて微笑みかけた。

「これだけ頑張っている友達がいるのに、僕だけいつまでも立ち止まっているわけにいかない。音楽で何かしようとは思えないけど、一つ一つ、前に進むために出来る事を探していこうと思うんだ。多分、まだまだ時間が掛かりそうだけどね」

 拝み終えて立ち上がると、荷物を片付け、最後にもう一度墓石を見た。この中に彼女が眠っているとはやはり思えない。でもそれが現実なのだ。彼女は死んで、身を焼かれ、残った骨は確かにここに収められた。

 七峰茉奈の時間は、ここで止まったのだ。

「さよなら、茉奈」

 僕は深くお辞儀をすると、最後に小さくごめん、と呟いた。そして踵を返し、来た道を戻る。

 墓石の並ぶ小路を歩きながら、僕は目から溢れ出る涙を服の袖で何度も拭った。


 さよなら。


 その声に僕は思わず振り返る。

 だが、そこには誰もいない。

 僕は頭を振り、改めて前を向くと、再び歩き出した。幻聴でも、なんでも良い。別れの間際にもう一度だけ、茉奈の声を聞けたのだから。

 僕はそれだけで、前に進める。



「虹一さんは」

「何?」

 はっと我に返って僕は慌てて紡木を見た。全然聞いてなかったんですね、と彼女は不愉快そうに顔をしかめると、改めて口を開く。

「やっぱり、もう音楽はやらないんですか?」

「多分、前みたいにはやらないだろうな」

「すごく、勿体無いと思うんです。それで、物は相談なんですが」

 紡木はぱっと明るい顔をしてみせると、僕に顔を近づける。慣れると妙に距離感が近い子だなと思っていると、彼女は傍の鞄からチラシを一枚取り出して、僕の前に掲げる。青色の背景に黄色い題字、そして幾つかの出演者の写真が載ったフライヤーだった。

「ツムギ・ナイト?」

「バイト先で時々やっている企画が、月末にあるんです。あ、といってもこの企画名は店長が付けたもので、私が付けたわけではないですから」

 否定しながら彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめる。

「今、出演者を探していて、良かったら虹一さん、一年ぶりにライブに出てみませんか? 弾き語りでもバンド形式でも全然構いません」

 フライヤーを眺めながら、僕は目を細めて頭を掻く。

「ツテも無いし、全然客を呼べないけど、いいの?」

「構いませんよ、ノー・リプライの話題もあってそれなりに動員は増えていますし、私が頑張って集めます」

 ハキハキとした声で言う彼女に思わず笑ってしまう。本当に元気な子だ。

「分かった、予定を空けておくよ」

 そう言った時の彼女の顔は、今まで見たどんな時よりも嬉しそうで、魅力的な表情をしていた。


 出演を承諾した理由としては、二つあった。

 あゆむの曲が佳境を迎えていること、そして出来るなら僕はその曲を人に聴かせたい気持ちあったからだ。

 紡木のくれたこの機会はまさに絶好のものだった。

 大まかな流れが完成して、コードを鳴らしながら歌うくらいならもう可能な状態になった。鷹居達のライブパフォーマンスは僕の創作意欲にも少なからず影響があったらしく、改めてあゆむと制作作業を再開したその日のうちに曲の骨組みは完成した。

 同時に、僕はあゆむに作詞という仕事を与えた。彼女の恋人が遺した曲だからこそ、出来る範囲内であゆむにもこの曲に関わって欲しいと思っていたから、実のところ曲作りに取り掛かった当初から作詞は彼女にやらせようと思っていた。

 彼女は恐らく今、随分と頭を痛めているだろう。ペンとルーズリーフ、後は辞書を片手に、簡易的に録音した仮歌を聴きながら、ああでもないこうでもないこれはクサいこれは恥ずかしいと唸っているに違いない。

 この曲に詩をつけられるのは早見あゆむ以外あり得ない。誰よりもココノエコウイチの傍にいたからこそ出てくる言葉があると、僕はそう思っている。

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