9

 どのくらい時間が経っただろう。

 壁掛け時計の秒針の動く音だけが響く部屋で、僕はずっと天井を眺めていた。

 改めて時計を見るともうニ、三時間ただ呆けていたままだったらしい。特に眠りこけたわけでもなく、本当にただ無心で天井を眺めていただけだ。なんとも無為な時間を過ごしたものだと思う。

 上体を起こして、周囲を確認した。テレビの電源は落ちている。さして利用していないデスクにはオーディオプレイヤーが埃被って置かれ、横のラックにはCDが縦に並べられている。 ベッド横のローテーブルには食事後そのままにした食器が乱雑に置かれ、下にはレポート課題の要項が下敷きになっている。そういえば、締め切りが今週一杯だった気がする。ただ確認するのも億劫で、僕はそれを食器で隠すと、軽く伸びをしてから立ち上がった。

 鷹居のライブに行くには少し早い。かといってすることもない。

 退屈さに欠伸が出たところで、ふと僕はオーディオプレイヤーの陰に立てかけられた一枚のCDを見つけて手に取った。今日見に行く鷹居達のバンドの音源だ。そういえば貰ってから聴かず終いになっていた。

 プレイヤーの埃を簡単に払って電源を入れる。スピーカーがブツッと音を立て、本体のディスプレイ画面に「HELLO」の文字が現れる。

 僕は上蓋を開けてディスクをはめ込み、再生のボタンを押す。ボリュームを少しだけ大きめにして、デスクに引っ込めたままの椅子を手で引くと腰掛け、背もたれに身体を預けたまま目を閉じた。

 久しぶりの感覚だった。

 スピーカーからエレキギターのリフが流れ出す。いつも僕が横で聴いていた変わらないギターサウンドと、頼りにしていたリズム隊の低音と打音が聴こえてくる。

 やがて紡木が歌い出した。力強く、後ろの音に負けないようなよく伸びる歌だった。ハスキーな茉奈の歌とも、透明感のある澄んだあゆむの声とも違う、ロックバンドとしてのパワフルさを持つ唄声だと思った。

 ストロヴェリィフィールズの頃には手を出したことのないリフ一発で責めるロックチューンに、僕は思わず笑ってしまう。

「確かにタイプが違いすぎる」

 僕にこんな力強く、ぐいぐいと突き進むような歌は歌えない。英詩を多用したその曲の在り方も、ストロヴェリィフィールズではあり得なかった。

 何が悔しいだ、僕のほうが悔しいよ。

「ノーリプライ・デイズ、ね……」

 ジャケットのバンド名を眺めながら、僕はスピーカーから流れる曲に耳を傾け、ふと思いついたように立ち上がると、エレキギターを手に取った。

 六曲目、最後の曲が終わって、静寂がやってきた頃に、僕は何も考えずぽろぽろとギターに触れ始める。一年も放っておいたのに、自分が作ったものはよく覚えているものだ。

 一年前、脱退するまで歌い続けた曲のメロディを鼻歌で歌いながら、僕はギターを爪弾く。

 よく使っていたナインス系のコードを鳴らしてみると、自然と心が躍った。

 そう、ずっと前から、この響きが僕は好きだったんだ。



 夕方五時半。

 会場には既に随分と人がいた。オープンまでまだ三十分あるが、こうして入場を今かと待ち構える観客の姿を見ると、彼らの名が売れ始めている事を否が応でも実感させられた。ノーリプライ・デイズの名がイラストと共にプリントされたシャツやリストバンドを、タオルを身に付けた観衆達の顔を僕は壁際でぼんやりと見ていた。

 本当に、僕は彼らと知り合いなのかと疑いたくなる。物販の品揃えも少ないが、この先活躍が見込めればきっともっと多くのグッズや、収容人数の大きな会場でライブをすることになるだろう。今日はまだスタートラインに立っただけに過ぎない。

 貰ったチケットはゲスト用だから、恐らくここの彼らとは入り方も違うのだろう。まだ出るものかな、と鷹居に電話してみると、意外とすんなり通話に彼は出てくれた。

「来たのか、虹一」

「観客がすごくてびっくりしたよ」

「だろうな、俺も実際現実味が無くてふわふわしてる。なあ、終わったら楽屋に来いよ。スタッフには話しておくから」

「サインでもくれるのか?」

「欲しかったらやるよ。文野や長江に……葵も会いたがってるからな」

 通話の奥から紡木の悲鳴に似た声で別に思ってませんと抗議する声が聞こえたが、それが幾分か明るい声だったので安堵する。

「じゃあ、頑張れよ、ノーリプライ・デイズさん」

「やっと覚えたな。忘れんなよ」

 鷹居の嬉しそうな声にああ、と返すと通話を切った。

 切ってから、改めてライブハウスの全景を眺め、ウォークマンを取り出すとイヤホンを耳に付けた。充電をして、今日入れてきたばかりの彼らの音源を再生すると、僕は少し離れた壁際に寄りかかった。

 車道の奥のビル群に目を向ける。

 疲れ気味の橙が沈んでいくのが見えた。じき夜になる。もう随分日も暗くなってきた。秋は終わり、冬へと季節は移っていく。多分、来月辺りにはもうこの時間帯でもすっかり闇に呑み込まれてしまうだろう。

 冬に入って、僕は一つ歳を取る。結局、茉奈がどんな景色を見たのかは分からなかった。僕もとにかく日々を過ごすことに必死で、周りの景色なんて、それこそ最近になるまで全く見ることが出来なかった。

 聞いておくべきだっただろうか。あゆむに頼んで向こうの茉奈に。鷹居と恋に落ちて、今も生き続けている彼女は、どんな景色を見て、どんな感情をこの世界に抱いて、それを鷹居に伝えたのだろう。

 いや、鷹居と付き合った彼女はそんなことを気にしないかもしれない。むしろそんな会話をしているかすら不明瞭だ。

 それに、何より選択を違えた先の、向こうの七峰茉奈は、多分僕の知っている茉奈とは違う。全く同じ人間でも見てきたものが違えば感じるものだって変わる。僕が向こうの九重虹一の思考をうまく読み取れないように。向こうの茉奈もまた、こちらの茉奈とは違う思考を持って生き続けているのだろう。

 十代と二十代の狭間で彼女が見た景色を知っている人は、もうどこにもいない。

 不意に風が吹いた。冷たくて、芯まで凍えそうな冷たい風だった。入場を控えた薄着姿のファン達がざわめく。

 コートを着てきてよかったと、モッズコートを首元まで寄せて身体を竦ませると、茉奈の歌を小声で口ずさむ。

 いつ以来だろう。こんなにも待つ時間を楽しいと思ったのは……。



 ブザーが鳴って、照明が落ちていく。同時に一階から歓声が湧く。僕は二階の指定席から、一階の人で満ち満ちた光景を眺めていた。

 熱狂だった。

 興奮や期待、様々な感情を声で、身体で発揮しようと彼らは手を上げ、音楽に合わせて手拍子をする。

 四つ打ちの軽快な音楽と共にステージのライトが付いた。幾つもの照明によって彩られたステージ上は、僕とあゆむの通うあの場所の何倍も大きくて、それぞれのアンプと楽器が並んでいるだけでも、十分迫力を感じることが出来た。

 手拍子が揃っていく。綺麗に合わさったその音は一個の楽器として会場中に響いていく。

 先陣を切って舞台袖から現れた長江に、歓声が湧いた。べっ甲素材の黒縁眼鏡を掛けた茶髪のパーマに、七分袖の派手な柄シャツ、紫のクロップドパンツにブルーのデッキシューズ。相変わらずの奇抜な服装に僕はくすりと笑った。一年前とまるで変わっていない。よく維持できたものだと思う。鷹居も僕も散々弄ったのに、結局あの服装を続けているとは。

 次に出てきた文野は黒い無地のシャツにジーパンで、その体格の良さがシャツ越しにでも分かるくらい輪郭がはっきりと浮き出ていた。以前は後ろで縛るくらいあった長髪がバッサリと切られていて、五分刈りに憮然とした顔付きで観衆を見つめ、最後に丁寧にお辞儀をする。礼儀正しく、どっしりと落ち着いた立ち居住まいだけは変わらない。

 リズム隊は音楽に合わせて観客に手拍子を煽る。文野はバスドラム踏み始め、長江はニコニコと機嫌良さそうに両手を頭の上に掲げて手拍子と共に飛び跳ねている。

 二人の煽りに観客が盛り上がる中、ようやく鷹居が姿を現す。彼は無表情のままステージの最前にやってくると、一度深々とお辞儀をし、それからちらりと二階席に顔を向け、僕の姿を見つけると、憮然とした表情のままくるりと踵を返し、スタンドに立てかけられたレスポールギターを肩に掛け、六本の開放弦を思い切り鳴らした。力強く、腹の底に響くような分厚い音が会場に響き渡ると、最前の観客は高揚感を歓声に載せて腕を突き上げて、その熱は次第に後列にまで感染していく。

 そして、紡木が現れる。ゆったりとした大きめのシャツと黒いデニムパンツに、裸足という出で立ちでぺたりぺたりと落ち着いた様子でまっすぐスタンドマイクまで歩くと、マイクを取り外し、深く息を吸い込むとマイクに口を近づけ、言った。

『今晩はノーリプライ・デイズです』

 紡木が手を上げると同時に、鷹居のギターが音を垂れ流す。

 拍手がぴたっと止んで、観客の悲鳴じみた歓声が上がる。

 アンプから放たれるフィードバックノイズの中で紡木は会場内を見渡し、それから深く息を吸い込み、文野のフォーカウントと共にマイクを両手で握り締め身体を屈める。


 その瞬間、四つの音が一つの塊になった。


 重厚な鷹居のギターリフと、堅く抜けるような文野のドラム、這いずりまわるように縦横無尽な長江のベースライン。

 そして、紡木葵の絶唱。

 誤魔化しのない四つの音から生み出されるサウンドに飛び跳ねる観客と、ステージ上で暴れまわるフロントの三人。紡木はモニターに足を掛け喉の奥から全力で唄を絞り出していく。鎬を削るような楽器隊とボーカルの張り詰めた空気が、手に汗握る熱さを生み出し、観客を一息に呑み込んでいく。

 それは、熱狂であり、感動であり、衝動であった。

 鷹居達の純粋な音楽が、そこにはあった。

 僕では出せない鷹居の全力を引き出せる完璧な布陣だ。

 音源より遥かに魅力的な演奏に、愉しげ且つぶつかり合うような四人の姿を見て、僕はとても満たされ、興奮し、そして安堵した。もう二度と自分を責める必要は無いと、鷹居達に言われた気がしたのだ。

 音源よりも魅力的なライブパフォーマンスを見ながら、僕は拳を振り上げた。

 それに応えるように、鷹居のチョーキングが鳴り響いた。



 畳み掛けるような曲の連打が終わると、鷹居が紡木のマイクを受け取った。

「……改めて今晩は、ノーリプライ・デイズです」

 歓声に浸る余裕もないくらい強張り震える声に紡木が心配そうな顔を浮かべるが、その視線に気付いた鷹居は笑みを浮かべると、一度深呼吸をして肩の力を抜いた。

「今日、やっと僕達は第一歩を踏み出すことが出来ました。この場に立てているのも、僕達の音楽を聴いてくれた皆さんのお陰であり、ここまで一緒に付いてきてくれたメンバーやスタッフのお陰です。本当にありがとう」

 鷹居は再びちらり、と僕の方を見た。観客の拍手に紛れるように僕は鷹居に拍手を向ける。ニッと彼は口の端を思い切り上げて笑ってみせた。

「このバンド、前進にあたるバンドが存在するのですが、それから数えると二年半ですかね。本当にあっという間で、なりふり構わずやってきた結果ここに立てていると思うと本当に感慨深いです。俺がバンドで音楽に関わっていきたいと思ったのも、以前一緒に組んでいた元メンバーのお陰で、彼はもう一線を退いてしまったんですが、いつかまた、同じ舞台で一緒にやれることがあったらと……時々そんな夢を見ています。

 ただ、今は自分達の事で精一杯です。この先僕達がどこへ行くかは分からないけれど、真っ直ぐに、前進していこうと思います。その為にこれからも精力的に活動していくのでよろしくお願いします!」

 深々と頭を下げる鷹居に、拍手が巻き起こる。きっと、あの真摯さがこのバンドをここまで押し上げたのだろう。

 四人の演奏を聴きながら、僕はストロヴェリィフィールズが過去へ消えていくのを実感していた。

 もう、あの日にはきっと戻れないのだと思うと、少しだけ、淋しさが胸の奥で揺れた。



 スタッフの案内を受けて楽屋に入ると、精も根も尽き果てた四人が汗に塗れた姿で転がっていた。上を脱ぎ捨ててタンクトップ姿の紡木もいたが、恥じらいを感じる余裕すらないのか、僕を見て汗だくの顔でこちらをちらりと見て、頷くような小さな挨拶をして再びソファに埋もれてしまう。

「お疲れ、皆」

 テーブルを見るとドリンクの用意はされていた。まあそうだよなと思いつつも差し入れで買ってきたスポーツドリンクを手渡すと、四人とも快く受け取ってくれた。

 給水して一息つけたのか、長江はパーマの髪を両手で掻き上げ、タオルで顔を吹くと、僕を見て懐かしそうに目を細めた。

「ちゃんと生きてたか」

 彼は残念そうな表情を浮かべみせると、ソファから立ち上がって僕に抱き着いた。汗の匂いがつんと鼻を刺激したが、そんなこと気にならなくなるくらい、彼のハグに救われている自分がいた。

「相変わらず一人だけ奇抜な衣装で出てんだな」

「ほっとけ。大人しい服でなんてやってられっかよ」

「お前らしいよ」僕の言葉に長江は背中を思いっきり叩くと、力いっぱい僕の頭をかき回してから、声を上げて笑っていた。

「虹一」絡む男二人を傍観していた文野が僕を呼ぶ。長江から離れて顔を上げると、彼は深妙な面持ちで暫く僕の顔を眺めた後、「元気だったか?」と一言だけ僕に尋ねた。普段から口数は少ないが、彼が口にする言葉は純粋で真っ直ぐでハッキリしている。それは今も変わっていないようで、きりとした目を向ける彼に、僕は深く頷いた。

「元気だよ」

「元気ならそれでいいさ、あまり思いつめるなよ」

「ありがとう、文野」

 淡々とした口調だが、文野の言葉に僕は深く感謝する。あんな身勝手な別れを切り出したのに……。

 二人の言葉に、僕はただただ感謝するしかなくて、それ以上の言葉は何も言えなかった。。

「虹一、ちょっと外の風に当たりたいんだ。付いてきてくれ」

 長江から引き剥がすようにして鷹居は僕の手を強引に引く。一瞬、紡木と目が合ったが、彼女はそっと目を逸らすと、それきり何も喋ろうとはしなかった。

 彼女は、三人の中にいるボーカリスト『九重虹一』とこの先もずっと戦わなくてはいけない。観客が知らなくとも、メンバーが忘れたとしても、自分が後から入ってきたメンバーだという想いは拭いきれない過去であり、僕もまたそれを理解して、彼女に恨まれ続けることになるのだろう。

 それが僕と彼女の関係だ。

 でも、僕達のつながりかたは、きっとそれでいいのだと思う。



 裏口から外に出ると、肌を刺すような冷たい夜風が吹き込んで、思わず僕は身を震わせて抱えていたコートを羽織る。対して鷹居は構わず半袖シャツの姿のままポケットに手を突っ込み、真っ白い息を吐き出すと、遠くを見つめていた。

 橙色の街灯が等間隔に並ぶ車道は車も人も見当たらない。川を挟んだ奥に立ち並ぶ工業地帯は幾つもの照明に照らされて、夜も深い時間帯だというのに眠る様子が無い。目の前の橙の光と、ライトアップされた工場の組み合わせはどこか幻想的で、ミステリアスに見えた。

 不意に、あゆむの姿が浮かぶ。彼女は今、何をしているだろう。僕と同じように事故現場に花を添えて、それからどうしているか少し気になった。僕と同じように、ノー・リプライデイズがライブをやっていたり、するのだろうか。

 僕が死んだ後、鷹居達が一体どんな活動を続けるのか考えてみたが、やはり僕の世界と同じように紡木と共にバンド活動をしている気がした。実際向こうの世界の彼らも、ほとんど同じ時期にストロヴェリィフィールズが活動できなくなっていると思うと、紡木との出会いもその頃にちゃんとあったのかもしれない。

 多分、彼の根本にあるのは僕と誓った夢であり、そこにズレが生じない限り、僕が死んでもその想いを継ぐのだろう。ちゃんと、僕を過去にして前へ、真っ直ぐに。

 隣からライターの着火する音が聞こえた。裏口から見える景色から視線を彼に戻すと、鷹居は煙草を咥えていた。

「吸うか?」

「朝で懲りたよ」

「だな、やっぱりお前に煙草は似合わないよ」

 僕は無言の肯定を返すと、再び夜の工場の景色に目を向けた。手前の川の水面に街灯や建物の照明が反射して、ゆらりゆらりと揺れている。どこまでも吸い込まれそうな川の混沌とした黒の中でその光はとても映えて見える。

「とうとう、始まったよ」

 ぽつりと、彼はそう言った。だな、と僕が返すと、煙草の煙が深い吐息と共に吐き出される。

「俺は今日、大勢の前でライブをやったんだ」

 頷く。

「夢が、目標になったんだ」

「そうだね」

 もう一度頷いて、僕は遠くを見つめる鷹居の前に立つと、肩を竦めて笑ってみせた。

「迷わず先へ行こうと決めたお前だから出来たことだ」

 だから迷わず、この先もまっすぐ、鷹居には歩き続けていって欲しかった。振り返ることもせず、今彼を理解してくれる三人と一緒に、ただひたすらに自分の目標へ向かって。

 彼はもう、僕らを見る必要は無いのだ。

「その背中が、この先どこまで行くのか、見続けているから、行ける所まで行って来い」

 一度立ち止まってしまった僕から彼に向けて出来る事は、見送ることだけだ。だから、精一杯彼を見送ってやろう。そう思った。だって僕達はもう選ぶ道を違えてしまったのだから。

「おめでとう、浩太」


 煙草の赤い光が、彼の指先から縦に線を描いて地面へと落下していく。

 彼は向かい合う僕との距離を詰め、その大きな両腕で僕を強く抱き寄せると、首元に顔を埋める。身体が震えている。興奮が解けて、それまで身を潜めていた緊張がここにきて一気に来たのだろう。僕は彼に抱き締められながら、空を見上げる。

「茉奈がさ、二十歳になった時に言った言葉があるんだ」

 嗚咽と共に震え続ける彼に抱かれながら、僕は構わずしゃべり続ける。今日が晴天で良かった。月も、星の光も、ここからだと随分ハッキリ見える。

「やっと、十代には見えない物が見えるようになったって。僕より先にその景色を見てきてあげるって、そう言ったんだ。相変わらず不思議なことばかり話す奴だなって思いながら、でも茉奈がどんな景色を見て、何を思ったのか今でも時々気になるよ」

 この先、それを知ることは出来ない。平行世界の、鷹居と幸せに暮らす彼女に聞いたとしてもその答えはきっとほんの少し違っているに違いない。

 僕の恋人として死んだ彼女が最後に見た景色だけは、この世界で唯一のものであってほしい。

「そんな茉奈も、もう二十一歳だ」

 僕の言葉に、そうだな、と鷹居は言った。

「あいつは、本当に、もういないんだな」

 首元で啜り泣く鷹居は、嗚咽混じりの震えた声で、そう口にした。ふと、裏口に目を向けると、扉の陰からちらりと紡木が覗いているのが見えた。彼女は目に涙を溜めながら、僕の元で涙を流す彼のことをじっと見ていた。

 紡木にそっと微笑みを向けると、彼女は僕を見て、顔を一度伏せてから、再び顔を上げて口角を上げて、涙を流しながら笑みを浮かべてくれた。

「そうだよ、七峰茉奈は、もうこの世にはいないんだ」

「俺、アイツの事、やっぱりどうしても好きだった。お前にこんなこと言うのは、おかしいけど、本当に、好きだったんだ」

「分かるよ」

 身体に回された両腕の力が強くなる。苦しかったけど、不思議と悪くはないと思えた。

「俺、あいつが幸せなら、それで良かったのに」

「やっぱりお前とは気が合うなあ」

 向こうの世界で鷹居と茉奈が一緒になっていると聞いた時、不思議と飲み込めたのは、そして鷹居が僕にもぎられたチケットを渡そうと思えたのは、多分それが理由なのだろう。

 僕は、茉奈が幸せであればそれで良くて、もしも鷹居と一緒にいることで幸福であるのなら、それで構わない。

 じわり、と目元が熱くなるのを感じた。鷹居にあてられたか、と下唇を噛み締めながら、僕は再び空を見上げる。さっきまで見えた星が、うまく目に映らない。月もどこか輪郭が曖昧で、ゆらゆらと水面に映っているみたいに揺れていた。

 今、向こうで鷹居は茉奈に抱き留められているのだろうか。そんな想像をしてみる。互いに平行線の、決して交差することのない二人が、今同じ立場で同じ人物を抱き留めていると思うと、なんだか不思議な気持ちがした。


 ハッピーバースデイ、と呟いてみた。まだ言えないでいた言葉を、やっと口にすることが出来た。

 僕は揺れる月に向かって茉奈の名前を呼ぶ。


 生まれてきてくれてありがとう。


 僕は、君が、君の事がとても大好きでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る