8

 チケットはソールドアウト、デカい会場一杯に収まる観客からは盛大な喝采、見渡す限り人で埋め尽くされた最高の景色の中で、最初のコードを思いっきり鳴らしてやるのさ。

 いつか鷹居が語った夢だ。

 観客も数えるほど、来るとしても高校や大学の知り合いや、同じ日に出演した中で気の合ったバンド仲間がほとんどで、演奏を聴いて好きになった奴なんて一桁あれば良い方だった時期だ。僕と鷹居はライブが終わる度に近くの飲み屋に転がり込んでは酒を飲み、店が閉まって追い出されるように街に転がり出ると、コンビニで酒を買い込みどちらかの家で朝まで飲み明かす。道端で吐瀉物に塗れながら眠るなんて何度も経験した。その度にもう二度とあんなことはしないと浴びるように酒を飲みながら二人で言ったものだ。

 そんな彼が、とうとう夢を叶える。

 吐瀉物にまみれて死にかけたり、喧嘩で血塗れになったこともあったし、成績を見兼ねて実家に呼び出された事も、とにかくバンドを組んでから色んな事があった。そうして追い求め続けた夢は、僕の脱退で一度潰えかけた。多分それが、一番最悪な展開だったに違いない。互いに朝まで語り合った相棒が降りると口にしたのだから。

 だが、それでも彼は諦めなかった。いつかもぎ取ってやろうと果敢に挑み、ただひたすらに伝えたい音を鳴らし続けた。

 鷹居の努力は、ようやく報われる。

「虹一」

 鷹居の声に目を開ける。胸がすくような群青色をした空に、まるで油彩絵の具で塗りこむみたいに分厚い雲が点在していた。この時期になると本当に透き通るように鮮やかで、純粋な空になる。門出には、持ってこいだ。

 見上げたままだった視線を鷹居に向ける。ダッフルコートに身を包み、彼は寒そうに肩を竦め、両手をポケットに突っ込んでいる。二の腕の辺りから下がっている袋には花束が覗いていた。

 僕は隣に置いたビニール袋を探るとホットレモンのボトルを放り投げる。飛んできたペットボトルを慌ててキャッチすると、鷹居は不思議そうにそれを眺め、次に僕を見た。僕は袋からホットコーヒーの缶を取り出しプルタブを引くと、一気に流し込む。熱くて黒い苦味が口から喉、喉から体内へと流れ落ちていくのが分かる。熱っぽくなった体の奥から絞り出すように息を吐き出すと、煙草の煙みたいな白濁した吐息が現れ、そしてすぐに消えていった。

「ライブ前にコーヒーはなんか、良さそうじゃないしな」

 そう言って笑ってみせると、鷹居はボトルを手にしたまま無言で僕の隣に座る。ぎしり、とベンチの軋む音が悲鳴のようで改めて座り直すとまた呻くようにベンチが軋む。

 早朝の大通りは人も、車の通りも少なくてとても静かだ。まだ満足に上がりきっていない陽の光も穏やかで、群青がビルの陰からこっそりと顔を出すのが見えた。出勤中の会社員の眠たそうな顔、マンションのベランダから顔を出して大きく伸びをする主婦、親に頼まれたのか大きなゴミ袋を二つ、両手に持って面倒くさそうに歩く学ラン姿の青年、きゃっきゃと明るい声と共にじゃれながら駆けて行く赤と黒のランドセル。

 今日が始まるのだ。夜風にすっかり冷やされた空気が残る街が動き出そうとしている。

 僕達はそんな街の、歩道の隅に設置されたベンチに座っていた。

「楽器は?」僕が尋ねると、安心しろ、と彼は言った。

「あらかじめお前に連絡をもらってたからな。他の三人に頼んでおいた」

「文野も長江も、何か言っていたか?」

「気になるか?」

「そりゃね」

「お前と飲んだって言ったらなんで誘わなかったって怒っていたよ」

 そうか、と憮然とした表情のまま答えながら、胸の内で安堵する。紡木に怒鳴られてから、ずっと見ないようにしていた三人の腹の底に抱いた想いにもいい加減に目を向けなくてはならないと思うようになった。いつか、必ず精算しなくてはいけない感情が、僕達ストロヴェリィ・フィールズにはあると。

「いつでも誘ってくれ、何があってもちゃんと空けるからって言っておいてもらえるかな」

 僕の言葉に、鷹居は頷いた。頷いてから、ポケットに手を突っ込むと財布を取り出す。

「これを、受け取ってくれ」

 財布の中からチケットを一枚取り出すと、彼は僕に向けて差し出す。あの日、あゆむと出会うきっかけになったチケットをふと思い出したが、今回のそれは違った。今日の日付と、オープン時間、出演バンドの名前が記載されている。彼らのバンドの名前が記載されたそれを見て、僕は鷹居の顔に改めて目を向けた。

 見に来て欲しいんだ、と彼は言った。

「ここまでずっとバンドを続けてきて、やっと掴んだチャンスだ。この先、俺は、いや、俺達はきっと音楽の為に生きていくことになる。その中にもう虹一、お前の名前は入っていないし、ストロヴェリィフィールズだって過去になる。お前とバンドを始めてから続いてきた道は今日で終わって、俺達は次に向かうんだ」

 きっと、その言葉を告げる決心が付くまで、随分と悩んだのだろう。チケットを摘む指先には酷く力が入っているし、視線は逸らすまいと揺れていて、口元は真一文字に堅く閉じられていた。その姿を見て、僕は胸が熱くなるのを感じた。胸の内側で冷め切っていた何かに、再び煌煌とした赤が灯る。もうお前は必要無いと、真正面から言われているのに、湧き上がるのは幸福感だった。多分、僕が「これだけ」鷹居達の中にちゃんといられたということが、僕を想ってくれていたということが、嬉かったのだ。

 茉奈の死をきっかけに、ただ何もかもを切り捨てることを選んだこの僕を、それでも彼らは。

「旅立ちの日を今日にしようと思ったのは、俺だよ」

 その言葉に、僕は目を丸くした。

 その反応に鷹居は満足気に微笑んだ。

「紡木が告白してくれたよ。ミーティングの時、この事も含めて打ち明けたんだけどな、紡木が、不安になって思わず虹一に今回のライブ日程の件を言ってしまったって泣きながらに告白してきてな。まあ、実際のところ、いつかは気付いて何かお前から言ってくるんだろうと思っていたんだが、まさかここまで音楽に興味を持たないとは思わなかった」

 それだけ距離を置くことに真剣だったんだろうけど、と言った鷹居の顔は寂しげで、僕は爪先を見つめたまま、なんだか紡木をきっかけに僕がいらぬ心配をしてしまったようだということを察した。

「確かに俺は、七峰茉奈が好きだった。それは本当だ」

 吐き出した息は白かった。だろうな、と返事をすると彼はああ、と穏やかな口調で言って、「多分、お前より先に出会っていたら、俺は迷わず彼女に近づいていたと思う」と言った。

「あのラヴ・ミー・ドゥでのライブの日だよな」鷹居は頷く。

 始めて七峰と出会うきっかけとなり、そして今あゆむと共に曲を作ることになった、言わば全ての始まりの場所。全ての起点は、恐らくあの場所なのだろう。

 それは忘れられまいとしての行動だったのか。

 死にゆく者が見る走馬灯のワンシーンだったのか。

 僕は暗闇の中スポットライトに照らされたステージを脳裏に浮かべる。

 もしかしたら、誰よりも音楽を求めていたのは、『彼』だったのかもしれない。

 物思いに耽っていた僕を横目に、鷹居は両手を頭の裏に組んで、背もたれに背中を預ける。ぎしり、とベンチがまた呻いた。

「リハの時間に彼女のライブを見て惹かれたんだ。声をかけようと思った時、丁度お前が遅刻ぎりぎりにやってきて有耶無耶になった。で、ライブが終わって打ち上げが始まると、気がついたらお前の方が先に仲良くなってた。多分、俺とお前の勝敗を分けた一瞬があるとすれば、あそこだろうな」

 彼は微笑む。僕はじっと彼の目を見ていた。純粋で、柔らかな目は、僕の姿を映していた。

「面倒なことに、一度好きになると、簡単に諦められないんだ。心の何処かで、お前と彼女が上手くいかないことに期待してた」

 ひどいもんだと呟いて肩を竦める鷹居に、僕は首を横に振る。それは違うと、ちゃんと言っておきたかった。

「ひどいのはお前より、僕の方だよ。あれだけ語ったお前との夢を、茉奈と天秤に掛けてしまったんだから」

「気にするな、俺も、多分そうなったさ」

「いや、お前ならきっと……きっと上手くやったよ。僕なんかよりも上手く茉奈とストロヴェリィフィールズを両立してみせたに違いない」

 言葉を口にする度に、胸の奥が酷く痛んだ。

「やけに、ハッキリ言い切るんだな」

 戸惑いを口にする鷹居に、そう、言い切ってしまえるんだよ、と心の中で呟く。

茉奈には二つの選択肢と可能性があった。

 そして、その結果が今の僕達であり、こちらの九重虹一の選択によって彼女は死ぬことになった。

 あゆむの調査は、思いの外早く終わった。というより始めに僕の身の上話を聞いた時点で彼女の名前には聞き覚えがあったらしい。次の日には写真と一緒に詳細を持って僕に教えてくれた。

 向こうの世界で、やはりというべきか、七峰茉奈は鷹居浩太と恋をしていた。知名度を上げているバンドのギタリストと、一方小さなライブハウスでひたすらに弾き語りでのみ活動を続ける無名のミュージシャンの交際は、ちょっとした話題になったらしい。

 その交際について鷹居本人に対してあゆむが尋ねたところ「昔偶然同じライブに出た時、彼女の演奏を聞いて興味を持った」と嬉しそうに答え、更に当時ココノエコウイチが「あれほど遅刻を後悔した日は無い」と悔しそうだったという話を彼が口を滑らす形で聞いてしまったらしく、そのことをあゆむは僕にふくれっ面で報告した。「だってあの日、私を誘ってくれて、付き合うきっかけになった日なのに、ひどくない?」と彼女は眉根を寄せていた。ちょっとした冗談だろうとあゆむに宥めるように言ったが、正直、本気でそうとは言えなかった。


「あれほど遅刻を後悔した日はない」

 鷹居に恋人ができたことに対して、少しおどけた様子で口にしている姿がなんとなく想像できた。だが、きっと心のどこかでは本心としてその想いはあったに違いない。僕と茉奈の関係が、何よりの証拠だ。

 あの日、僕はなんらかの選択で遅刻と間に合う二つの道に別れた。そして僕は間に合う方を選び、ココノエコウイチは遅刻を選んだ。

 結果僕は茉奈とバンドを失い途方に暮れ、彼はバンドの名声とあゆむを手に入れて、死んだ。

 どちらが幸福だったのかは、正直僕には測れない。

 ただ、どちらにせよ今更時間を巻き戻すことは出来ないし、もし巻き戻せて、茉奈が生きる道の選択をしたとしても、僕は結局彼女と離れる運命にある。だって向こうの選択では、彼女は鷹居といることを選択する。だから、こちらの九重虹一からすれば、向こうの世界も大して変わらないのかもしれない。

 幾通りの選択で違えていく世界線の中に、僕と彼女が幸福になる道は、果たしてあったのだろうか。針の穴を通すようにその世界に辿りつけた僕は、どんな風に生きているのだろう。

 同じ九重虹一でも、僕には彼の心中を思うことが出来ない。一つ選択を違えるだけで、きっと僕達は全くの他人になってしまうに違いない。

「虹一、七峰がお前を好きな理由、知ってるか?」

 かけられた言葉に、僕は思考を止めた。

 鷹居は、背景の群青の空に混ざって溶けてしまいそうな、儚げな微笑みを浮かべていた。思考の海から顔を出した僕を見ると、鷹居は息を真上に向けて吐き出した。熱を持った息は濃い白濁した煙となって立ち上り、やがて解れて群青に滲んで消えた。

「七峰がお前を好きな理由はさ、俺とほとんど同じ理由なんだよ」

「鷹居と?」

 以前茉奈も似たような事を言っていた。

「分からないか? まあ、分かるわけはないか」

「僕のどういうところに、茉奈は、鷹居は、惹かれたんだろう」

「他人のことばかり考えて必死になれるところだよ」

 僕は言葉を呑む。

「俺や七峰は、自分の中から出てきたものを愛する人間だ。他者に求めるのは反応であって、共感では決して無いんだ。自分の想いを聴いて欲しい、けどそこに反応以外の何かが欲しいとは絶対に思わない。多分、俺に歌う自信があったら、七峰みたいな活動か、打ち込みを使って全部自分でやろうと考えたかもしれない。いや、お前に出会わなかったら、俺はきっとそうしていたよ。

でも俺は虹一に出会ってしまった。音に反応してくれたお前を使って、どうにか俺のやりたいことを全て表現するのに利用できないかって、最初は思ってたんだ。俺の曲を好きだと言って、出来る限りを再現しようと努力してくれるお前は俺にとって絶好のパーツだった。でも、気がついたら、俺の方がお前にすっかり惹かれていたんだ。

ストロヴェリィフィールズというバンドを結成して暫く経つと、お前はどんどん曲を持ってくるようになった。初めは自主的に動き始めたお前に苛立ちを覚えていたけれど、お前はこのバンドを、四人の魅力を、観客への興味を、全員が最も楽しめる形は何かをずっと模索し続けていた。俺や文野や長江の手癖や特徴も知って、そしてバンドとしてこれ以上ないスクエアを形成しようとしていた」

 気がついたら、バンドでやることに楽しさを覚えていたんだと、鷹居は言葉の最後にそう小さく付け加えた。

「俺達の事を、聴いてくれる誰かの事を想い続ける九重虹一がいたからこそ、俺は今ここにいるんだ。このバンドのメンバーとして音楽を続けようと思えた俺がいるんだ」

 彼の語る言葉に、僕は一言も返せなかった。そんな僕は他人を想ってなんかいないと、言いたかったのに、今の鷹居の言葉を覆せるほどの威力を見込むことが、出来なかった。

 自分が歌いたくて、カッコいいバンドを自分が見たくて、カッコイイギターを、カッコイイベースを、カッコイイドラムを自分が見たくて、それを誰かに見せつけたくて、他人にわかって欲しくて……。

 僕は、自分自身がしたいことをただ続けていただけだ。

 そんな、鷹居の言うような高尚な奴なんかじゃない。

 茉奈の事だって、これ以上僕が歌えないと思ったから辞めただけだ。一緒に夢に向かえないと、志を同じくした三人の足を引っ張る前に消えようと。

「僕は、そんな奴じゃない」

 責めて欲しかったのに、好きだった人を死なせてしまった自分を。茉奈のことを好いていた鷹居だって、彼女の死に少なからずショックを受けていたはずなのに、一人だけ全てを受け止めたような顔をして消えた僕のことを、殴って、罵倒して、悔しさの捌け口にして欲しかった。

 だが彼は、何も責めようとはしない。ただ僕の隣に座っているだけだった。寒さから逃れる為に距離を詰め、身を寄せて、互いに少しでも暖まる事が出来るように。

「俺はそう信じてるんだ」僕は首を振る。

「僕は自分勝手で、悲劇の主役を演じている最悪の男なんだよ。音楽をやめた理由だって自分がこれ以上やっていけないと思ったからだ」

「そうやって、俺達の足を引っ張らないようにお前は孤独を選んだんだろう」

 押し黙る僕に、鷹居は右拳を握り締め、額にこつん、とそれをぶつけた。小さな痛みに呆気にとられていると、鷹居は歯を見せて笑う。

「酒を飲み交わして、死ぬほど色んなものを俺達は吐き出した仲だ。そんな親友の苦悩に気付いておきながら、一人で背負わせるような薄情者にはなりたくなかったのに、今日までかかって、本当に悪かった」

「親友」

 その言葉は、僕が諦めたはずの言葉だ。

 僕達の間には決して当て嵌まらない言葉の筈だ。

 だって僕は逃げたのだから。鷹居達の決意に背を背けて、茉奈の思い出に浸ることを選択した人間なのだから、今更そんなこと……。

 そんなことない、と言いたくて、でもその言葉はどうしても喉でつっかかって出てこない。

 代わりに、どうしてだろう、目元が霞む。呼吸が苦しくなる。

「親友なんて呼ばれること、してないんだ」

 震える事をどうにか振り絞って口にする。涙が止まらない。目元から頬にかけて熱い感触が伝っていく。膝元にぽつりぽつり、と落ちた雫が丸い痕を残してくのが見える。

「何かするから親友じゃない。互いにそう思えたなら、それだけで親友なんだよ」彼は照れ臭そうに頭を掻いた。「だから、道は変わっても、俺達の関係が変わることはないのさ」

 背に回された手に、彼の穏やかな言葉に、僕はするりと解きほぐされていく。言えなかったこと、思っていたこと、逃げ続けた事、後悔。絡まり合ってうまくいかなかった全てが、ゆっくり、ゆっくりとそれぞれが一本の糸に戻っていく。

「ずっと、恨まれていると思っていたんだ」

 誰も言い出せなかった僕への苛立ちを言い出す切っ掛けを作って、僕を責めてくれる最初の一人になると、改めて会った時、僕は心の何処かで思っていた。その為の再会なのだと。

 だが、鷹居は何も言おうとはしなかった。

 それが、更に僕の心を苦しめた。

 僕を許さないでくれよ。

 僕はひどい人間なんだ。

 七峰を死なせて、本当ならもっと早く辿りついていたはずの夢を一度潰してしまった、最低の男なのだから。

「本当に、本当に今まで悪かった」

 口許から出た言葉と共に、涙が熱を持つ。ずっと堰き止められていた感情が、溢れてしまえと波打っている。

 背中に置かれていた手が、とても暖かかった。

 輪郭まではっきりと分かるくらい暖かな感触に、そういえば人にこうして触れてもらったのは何時ぶりだろうかと思った。多分、それくらい僕は人と触れ合っていなかったのだろう。

 言いたい言葉が沢山あるのに、何から言うべきなのか分からなくてうまく言葉に出来なくて苦しかった。どうにか口にしても、それは言葉を成しておらず、自分でも何を言っているのかうまく分からない。

 それを鷹居は、辛抱強く隣で聞いてくれていた。

 ベンチから少し離れた先の横断歩道傍に、他と較べて比較的新しいガードレールが設置されている。

 ガードレールの下には今も消えない血痕が生々しく残っていて、それはどうしてかどんな処理をしても消えることはなく、結局引き千切れたガードレールの対処だけされ、以降は放置されてしまった。

 よそ見をしていた運転手は目の端に人の姿を確認し、慌ててハンドルを切ったという。だが時既に遅く、歩行者の少女を撥ね、更に傍のガードレールを轢き潰し壁に激突、軽傷を負って少女と共に病院に搬送された。

 僕と鷹居は持ってきた花束をガードレールの真下に置くと、手を合わせる。墓参りもするつもりだが、一応こちらにも来ておきたかった。どうしてか、茉奈は墓よりこちらの方にいそうだと、そんな根拠の無い理由を僕は抱いていた。

「ほら、墓地って堅苦しいじゃない、とか言いそうなんだ」

 隣で手を合わせていた鷹居の言葉に僕は思わず笑みを零してしまう。

「いつでも路上でライブが出来るとか、ね」

「通報される心配も無いしな、観客がいないのがネックか?」

「元々客足気にしない奴だ」

「そうだったな、それにしては観客がいたほうだけどな」

 俺とお前を含めて、と言おうとして、鷹居はやめたようだった。僕もそれ以上は口にしなかった。

 ここで、茉奈が死んだ。九重虹一が死んだ。

 どんな選択をしてもこの場所で必ず人が死に、花束が置かれるとしたら、なんとも無情だ。

「もし、茉奈と付き合っていなかったら、僕はどうなっていたんだろう」

「さあな、大きなステージで大勢の観客を相手に歌うミュージシャン、なんて夢でも見ておこうぜ」

「本当に夢みたいな話だ」

「俺達が一度抱いた夢だよ。叶わなかったけどな」

 車道を走る車を眺めながら、僕は鷹居のその言葉を聞いた。少しの沈黙の後、鼻を啜る音が隣から聞こえた。今だけは彼を見るべきではないと、僕はそう思って置かれた花束をじっと見ていた。

 鷹居には鷹居なりの想いがあって、それはきっと、容易に触れていいものじゃない気がしたから。ただ隣にいてやる事が最善の時もあるのだと、僕はポケットの中に手を入れた。鷹居から受け取った今日のチケットがかさり、と音を立てた。

「ラヴ・ミー・ドゥでのチケットを渡した日だけどさ」手向けられた花束に視線を合わせたまま、鷹居はそう切り出した。花に目を向けたまま僕は頷いた。

「見つけたなんて嘘なんだ」

「そうだろうと思ってた」そうなんだろうと、彼の胸中の想いに気付いてから感じていたことだった。「だから、僕に渡したんだろう?」

 だから、の意味は言わなかったが、互いに意思の疎通は出来たようだった。鷹居はとても複雑そうに目を細め口をぎゅっと堅く閉じると、一度だけ深く頷いた。

 全てをしっかりと精算して過去にしたいと、純粋に自分が望む道を進む為にと彼は確かに言った。それは茉奈も例外では無く、この先進むことだけを考えていられるように彼は僕にあのチケットを渡した。

「お前にとって何か刺激になるかもしれないと思ったのも本当なんだ」鷹居は煙草を取り出すと咥え、ライターで火を点した。隣から白濁とした煙が立ち上るのが見えた。

「何度も捨てようとして、捨てられなかったのに、あの時だけは本当に自然と渡せてさ、お前ならちゃんとした形で使ってくれると思った」

「再入場の出来ないもぎられたチケットをか?」

 僕の言葉に鷹居は軽く肩を揺らして笑ってみせた。

「でもその証拠に、今俺達は初めて二人並んでここに来れた」鷹居の声色は、とても優しく穏やかで、僕はその優しい言葉に対して頷いてみせた。

「茉奈も、虹一、お前のことも、これで本当に俺は過去にできたと思う」

「前に、進めそうか?」鷹居は頷く。「なら良かったよ」

 僕は鷹居のポケットに手を突っ込むとシガレットケースを強引に奪い取り、その中から一本取り出すと口に咥えた。じっと見つめてくる鷹居にライターをせがむ。彼は何か言おうとして、それから何も言わずにライターを取り出すと、僕の口許の煙草に火を付ける。鼻先を刺激するオイルの匂いの後、先から緩い煙が真上に立ち上っていく。僕は煙を目一杯に吸い込み、思い切り咽た。

「お前が吸ってたのより重たいからそうなるさ」

 身体を屈めて咽ながら僕は吸い込んだ煙を必死に吐き出し、やがて落ち着くと深呼吸をしてから指先に挟む煙草を見つめながら、溜息を一つ吐いた。

「ああ、煙草なんて吸うもんじゃないな」

「喉に悪いからな」鷹居の言葉に僕は頷いた。「喉に悪いからなあ」

 それからもう一度煙を吸うと、今度は肺に入れずにふう、と頭上の空目掛けて吐き出した。普段より白濁の強い煙が湧き上がって空の色を薄くすることも淡くすることも無く、ただ溶けていったのだった。

 煙一つ吐いたって何一つ変わることの無い空を見上げながら、僕は鷹居の名を呼んだ。

「ライブ、頑張れよ。今日はちゃんと、見に行くからさ」

 鷹居が頷くのを、衣擦れの音で確認する。

 僕は目を閉じて、両手を合わせる。

 瞼の裏に、茉奈の姿は浮かばなかった。

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