7

 出てはみたものの、結局講義は全く頭に入らなかった。

 終了のチャイムが鳴るとともに僕は白紙のノートを鞄に入れて席を立つと、目頭をぐっと押さえる。

 曲作りを始めてから三日経った。だが、進行具合は芳しくない。これといった期日があるわけではないが、あゆむとの繋がりがいつまで続くかも分からないだけに、ゆっくりしている余裕もない。

 スケジュール手帳を取り出して予定を確認する。バイトと右肩上がりの文字に目を落として溜息をついた、さっさと家に帰って続きをやりたいのに、ともどかしさを覚えてしまう。

 放ったままのギターは一年も放置されたままだったのにも関わらず、弾いてみると機嫌の良さそうな音で鳴いてくれた。ずっと僕のことを待っていたかのように聞こえて、少しだけ、嬉しかった。

 ただ、ギターの感触と作曲は別の話であり、あゆむの持ってきたコードを弾いてみても、彼女のアコースティック・ギターほど良い感触を得ることはできなかった。曲作りが難航しているのもそれだろう。あの曲は、あゆむのギターで作るべきなのだ。向こうの九重虹一と、あゆむが触れ続けてきたからこそ響く音がある。ちょっとした直感めいたものだが、僕はそう確信していた。あの曲を形にできるのは、あのギターだけだと。

 そんな考えを巡らせながら、僕は帰路の途中にあるコンビニに立ち寄る。時間はまだあるし、少し腹に何か入れておきたかった。

 自動ドアが開いた瞬間、中から出てきた女性と思わず鉢合わせになってしまい、半歩引いて会釈と共にすいません、と言いかけ、出てきた相手の顔を見て言葉を詰まらせた。

「紡木、さん?」

「ああ、はい。お久しぶりです」

 紡木葵は驚いた顔を浮かべて、それから目を細めると、やがて顔を伏せてしまう。てっきり嫌悪の目で見られると思っていたのだが、しおらしいその反応に僕は戸惑いを覚えた。

「あ、ただなんとなく立ち寄ろうと思っただけなんだ。悪いね」

「あの、九重さん」

 踵を返しかけて、彼女から声がかかった。振り向くと、彼女は鞄を両手で強く抱きしめ、下唇を噛み締めていた。

「少し、話しませんか?」

 思いもよらない言葉に僕はどう返答すべきか悩んだ。

 だが、俯いたままの彼女の姿を見てしまうと、少し、興味が湧いた。

 少し待っていて、と僕は言うと、頭を掻きながら携帯を取り出し、バイト先の電話番号を打ち込むと、耳にあてた。



 説教され、乱暴に切られたが、それを除けばスムーズに休みは取れた。普段特に問題を起こしていないから大目に見てくれたと考えて良いかもしれない。かといって何か優秀な仕事ぶりを見せているわけでもないのだが。

 紡木を連れて僕は帰路の途中にある喫茶店に入った。少し値は張るが、向かいに安価で有名なチェーン店が出来たことで五月蠅い学生グループとの住み分けがハッキリし、静かに一服したい人にとっての憩いの場となっている場所だった。

「一人でいたい時よく来るんだ。まあ、頻繁に利用するには少し高いけど」

「あまり、人がいないんですね」

 紡木はそう言って周囲を不思議そうに見回している。

マットタイプの床に等間隔に置かれたテーブル、窓際にはカウンター席が並んでいて、そこから向かいが眺められる。勿論大して景色が良い訳でもないので、大抵の人はテーブル席を選ぶ。僕自身もあまりカウンターを選んだことはない。

 入店の際に注文したケーキセットと紅茶がやってきた。紡木は目を輝かせてケーキを見ていた。生クリームをふんだんに使ったいちごのショートケーキと、レアチーズケーキ。それぞれが僕と彼女の前に置かれる。

 甘い物を口にしているうちに紡木から固さが取れていくのが分かった。他愛無い会話にも乗ってくれたし、こうして見ると、先日の彼女の方がむしろ異常だったのかもしれないと思えてくる。

 いや、それほどに、鷹居と、鷹居の夢に対して真剣ということなのだろう。

「どうしました?」

 紡木が訝しげに僕を見つめて言った。僕は慌てて紅茶を手に取ると「ここの紅茶、美味しいでしょ」と取ってつけたような言葉を口にしてぎこちなく笑みを浮かべてみせた。

「私、あまり喫茶店とか入ったことないんですけど、良いですね、こういう雰囲気も」

 たっぷりと湯気を吐き出すカップを手に取りながら、紡木は穏やかな口調で言った。飴色の液体が乳白色の陶器の中で小さく波打っている。紡木はカップに目を落としたまま、しかしやはりどこか寂しそうな目をしていた。

「鷹居と、何かあった?」

 彼女の肩がぴく、と反射的に動くのが見えた。

「喧嘩か?」

「違います」紡木は首を振る。「喧嘩とか、そういうのは何も」

「鷹居の様子がおかしい、とか?」

「少しだけ」紡木はカップに目を落としたまま答えた。

「まあ、ライブも迫っているしね」

 紡木は頷く。

「いつだったかな」

「来週です」

「来週?」

 来週といえば、と僕が思考を巡らせるのを、どうやら紡木は察知したらしく、ぽつり、と紡木は呟くと頷いた。

 その言葉を聞いて、僕は目を細めた。

「今、なんて?」

 僕の言葉に彼女は暫く答えなかった。紡木は目を逸らしたままだ。僕は根気強く彼女をじっと見つめ、その口から再び言葉が出るのを待った。ちらり横目に僕の顔を盗み見た彼女は、複雑そうに顔を歪めると、改めて僕の問いへの返答を口にした。

「七峰茉奈さんの、誕生日の日です」

 顔を伏せたままの紡木を僕はじっと見つめる。

「この間始めて知りました」

「それで、ライブと茉奈の誕生日が同日であることに何か問題があるのか?」

 彼女は首を振った。「バンドとしては」と弱々しく呟き、続けて「でも鷹居さんは、そうじゃないかもしれない」と付け足した。

「知った理由は、鷹居さんのスケジュール帳です。ライブスケジュールの横に『七峰誕生日』とありました。同時に、その数日後の事故の日も……」

 誕生日と、命日。前者ならともかく、両方共記載されていること、そして今回のライブの日程。一つ二つならなんでもないそれらが重なった事に、紡木は多分、疑問を感じたのだろう。

「私は、七峰さんを知りません。聞いただけです。知っていることといえば九重さんの恋人で、亡くなった方であることくらいです。鷹居さんはそれ以上何も言わなかった。でも、もし言えない感情を抱いていたとしたら」

 それは、と僕は口を噤む。

 僕達三人は知り合ってから、とても良い付き合いをしていたし、僕が彼女と付き合い初めてからも鷹居は別段変わることなく接してくれていた。互いに影響されることはあったが、それ以外に何かを感じたことはない。

 気心の知れた友人。それだけの筈だ。それ以外なんてないはずだ。

「鷹居さんは、貴方がやめてから自分なりの道を進んでいるんだって思っていました。でも、その先に進む理由が何か別のものだったとしたら、私は……」

「鷹居は、しっかり考えているよ」

「ただ大きなチャンスの前に神経質になっているだけなのかもしれないってことはちゃんと分かっていて、私も鷹居さんを今更になって疑いたくない」

 テーブルに両肘を付き、組んだ手に額を乗せる。随分と疲れた顔をしているのが見て取れた。

「鷹居さんのこの日に対する気持ちはとても強くて……。ごめんなさい、本人にちゃんと確認すればいいのに、それが今、出来なくて」

 下唇を噛み締める紡木に、僕はどんな言葉をかければ良いのか分からなくて、手持ち無沙汰になった手でカップを持ち、一口飲んだ。大分冷めてしまっていた紅茶は、落ち着かせるどころか、僕の身体の中まで苦く、冷たくしていく。

「鷹居さんは、何の為に音楽をやっているんでしょう」

 分かっていても、それが真実なのか紡木には今判断が付かなくなっているのだろう。僕はそれに大丈夫だと、信じて着いて行くべきだと言ってやって、背中を叩いてやるべきだと思った。

 僕は、彼に何を背負わせ続けてきてしまったのだろう。音楽に対する夢以外にも、もしかしたら彼は、背負っていたものがあったのかもしれない。

 そう思うと、僕は紡木の問いに一言も、答えることができなかった。



 作曲作業は難航した。

 あゆむはギターを弾けない為に作業にはあまり参加できず、僕の曲案が上がるまで辛抱強く待ち、それに意見を述べるだけだった。彼女自身も少しそれをもどかしく思っているのが彼女の様子から見て取れた。

 少しでも時間を潰す手段になればと僕の世界の雑誌を持ってきたり、あゆむの方では生まれていない鷹居のバンドの音源も持ってきてみたー僕と同じようにノイズまみれでまるで役に立たなかったーのだが、興味を示す様子もなく、彼女はギター手に唸る僕を眺め続けていた。

 彼女のアコースティック・ギター以外にも楽器を持ち込み、作曲と平行していくつもの音色の中に使えるものがないか試みてみた。キーボード、エレキギターとミニアンプ、ノートパソコンと録音ソフトにオーディオインターフェース。

 だが苦労したわりに、結局アコースティック・ギターだけに留まってしまう。メロディを作ろうにもしっくりくるコードがないといけないし、コードを作ろうにもしっくりくるメロディがないといけない。他の音をアレンジに載せようにも乗せる為のベーシックがなくてはならない。

 まさに八方塞がりだ。

 ただ不思議なことに僕の出す音に対して、あゆむはあまり否定的な意見を口にしない。彼女が大切に暖め続けていた、いわば彼の遺品だ。もっと積極的に口を出してくるだろうと思っていたのだが、案外大人しい。

 僕が要望はないかと訊ねてみたが、「他人の感じていることを完璧に汲み取ることなんて不可能だから、貴方の感性にお任せします」と彼女は首を振った。

「それに、この音が認識出来たってことは、貴方にはきっと作れるってことだから。道は違っても、九重虹一という男性に作ってもらえるなら、これ以上の幸せはないよ」

「生憎こちらじゃ進路も決まっていない大学生なんだけどね」

「やっぱり、音楽はやめてしまうの?」

 冗談のつもりで口にした言葉だったが、思いの外真面目に受け止められてしまい困った。ギターをぽろぽろと爪弾きながら、小さく唸って「正直、分からない」と答えた。

「今だって早見さんの持ってきたこのネタに興味を持っているだけで、他の音楽に対してあまり惹かれないし」

「そう」

「何にせよ、まずはこの曲を作るよ。目の前にあることを一つ一つ片付けていってから、最後に自分がどんな答えを出すのか分かるかもしれない。そこに辿り着くまで、この答えは保留にしておこうと思うんだ」

「早く見つかると、良いね」

 そう言ってマフラーを指で下ろしたあゆむは目を細めて微笑んだ。僕はそれに頷きで返す。

「ねえ、歌ができたら、そこで披露してもらってもいいかな」

 あゆむの指さした先に僕は目をやる。フェンスを超えた先のステージ上、スポットライトに照らされた丸椅子が一つ、ぽつんと置かれている。

 早見あゆむが座っていた場所だ。

「分かった。君が満足できるようなものを作って、そこで歌おう」

「ストロヴェリィフィールズのボーカリストを独り占め、か。贅沢だなあ」

 そう言ってあゆむは愉快そうにステージの方を見つめていた。

 物事は、始まったら必ずどこかで終わるものだ。

 僕達の終わりは歌うところまでなのかもしれない。

 僕はギターに目を落としたまま暫く色んな音を爪弾きながら遊んでいた。あのコードとメロディに繋がる何かが必ずある筈なのに、どうしてもそれが見つからない。一体何が足りないというのだろう。

「そうだ、来週明けは、ここに多分来られないから」

 あゆむはぽつりとそう口にした。僕は少し考えて、それから頷いた。

「安心して。僕もだ」

「うん、そうだね。お祝いもあるし、お参りもあるから」

「本当に、一年、経ったんだね」

 去年の今頃、僕の隣に茉奈がいたという事実。今も彼女の顔は、忘れられない。

「信じられない?」

「信じられない」僕の返答にあゆむは笑った。

「私も、去年の今頃は手を握ったり、抱き締めてくれたり、頭を撫でてくれたりしてくれた人がいたんだなあって思うと、不思議に感じるの」

「やっぱり、寂しい?」あゆむは困ったように苦笑する。「正直、どうなんだろう」

「大切な人がいなくなっても、なんだかんだ一人で生きてこれたし、これから先も私はこのまま行くんだろうなって、最近は特にそう思う。きっと虹一君のことも過去にして、他に好きな人が出来て、付き合って、家族を作っちゃうのかな、なんて」

「他に好きな人、か。考えたこともなかったな」

「私が薄情なだけよ、きっと」

「薄情な人が恋人の曲の断片を大切に持ち続けるなんて、しないよ」

「そうかな?」頷くと、彼女は良かった、と安堵したように表情を緩めた。

 フロアの隅の椅子の上で彼女は膝を抱えながら、虚空をぼんやりと見つめている。時々彼女はそうやって思案に耽ることがあった。いや、思い出に浸っているのかもしれない。なにせ死んだ筈の恋人が目の前で曲を作っているのだ。もしかしたら彼女は僕よりも非現実的な空間を体験していると言っても過言ではない。

 一生会えない筈の死んだ恋人に再び出会えてしまった時、人はどんな気持ちを抱くのだろう。

 もし僕の目の前に茉奈が現れていたとしたら、僕は何を考え、何をしただろう。

『先に行って景色を見てくるね』

『鷹居さんは何の為に音楽をやっているのでしょう』

 僕達は、あまりにも別個でありすぎるのかもしれない。

想いはおろか、見えている景色でさえ判然としない。不自由で、でもだからこそ理解することに必死になって、分かり合うことに恋焦がれるのだろう。なんとも不器用な生き物だ。

 少し疲れた。僕はアコースティックギターを一度傍らに置くと立ち上がり、一度大きく伸びをする。何時間も座っていたせいか全身が緊張しきっていて具合が悪いし、気分転換が欲しかった。

「ねえ、一つ、私の身の上話をしても良いかな」

 伸びをしていると、唐突にあゆむはそう切り出した。

「君が話したいと思うなら、僕は聞くよ」

 ありがとう、と彼女は言うと、抱えていた足を下ろし、目を閉じると、深い呼吸をしてから開いて僕に向ける。真っ赤なマフラーを解いて、髪を掻き上げると、首を僕に見せた。

 そこに残された生々しい痕を見て、僕は思わず息を飲んでしまう。

 だから、マフラーを巻いているのか。と気圧された反面、小さな納得があった。

「私が君の死を口にした時、フェアじゃないと思って、本当は別の道を歩む私について聞くべきだって、少し思っていたの」

 そう口にする彼女の目は、しかしどこか穏だった。

「でもね、何度考えても無理だった。もし虹一君に会えなかったら、どうなってしまったのか、そんな道を歩かざるをえなくなった自分がいることが、とても怖かったの」



 首元に痕が出来たのは、早見あゆむが高校生になった頃だった。

 髪とマフラー、タートルネック等で隠さないと見えてしまう位置に付いたそれは、思春期の彼女にとって思い出したくない傷跡であり、求めてもいない同情が集まる苦痛の種でしかなかった。

 家庭に無関心な父と、家族に興味を失った母。二人は家で顔を合わせれば口論ばかりで、あゆむはドラマで見るような家族団欒とした光景を見たことがなかった。

 刻々と悪化する二人の仲を見ているうちに、あゆむはどうにか二人の仲を取り持ちたいと思うようになった。

 いつか、テレビで見るような笑みで溢れる食卓で食事をし、休日には三人で遠出する。

 彼女の願いは、ただそれだけ。

 そんなあゆむの望みを叶える為にどうすべきか。幼いながら思考を巡らせた結果浮かんだのは、「優秀であること」だった。

 成績優秀、品行方正、容姿も磨き、社交的で他人との関係も広く、頼り甲斐のある、二人が胸を張って自慢の娘と呼べるような地位を手に入れる事が出来たなら、きっとこの環境も変わるに違いない。

 単純であったが、当時のあゆむにとってそれは、希望に他ならなかった。

 あゆむの生活は変わった。

 ファッション誌や雑学書を読み漁り、流行を把握しつつ、学生としての身だしなみを整え、予習から復習、学内活動からボランティアまで多岐にわたる活動を積極的に熟し、自らを徹底的に高めていった。

 点数稼ぎと言われたのはほんの始めだけで、早見あゆむが“そういう”人間であることが定着するとやがて批判は減り、交友関係も思い通りに広がっていった。先輩から頼られ、後輩から慕われる。模範的な生徒としての地位を手に入れた。

 優秀な娘として顔の売れていく自分は、見ていて悪くはなかった。自己を評価されることは心地よかったし、何より自分の求めた「団欒」がすぐ目の前に、手の届く範囲に迫りつつあることを感じ、やがて膨張し始めた期待に時折反吐を吐きながらも、彼女はそれらを背負い続けることが出来た。


 全ては家族の為。

 思い描いた家庭の為。

 だが、彼女の目論見とは裏腹に夫婦の仲は着実に悪化していった。

少しづつ乖離していく二人の距離を知りつつも、あゆむは膨らみすぎた優秀な自分を制御することに精一杯になってしまい、間を取り持つ余裕が無くなってしまっていた。

 あまりにも予想外の結果に戸惑いながら、しかし彼女は背負いすぎた荷持を降ろすこともままならず、遠くなっていく自身の望みをただ傍観する事しか出来なかった。


 二つに別れていた早見家は、更に三つへと分断してしまったのだ。

 だが、それでも彼女は暖かい家庭を諦めなかった。それでもいつか、自分の行動が二人の錆びて千切れかけた間を補修し、堅固なものに生まれ変わってくれると、そう信じ続けていた。


 中学校を卒業し、高校に入学して暫く経ったある日、あゆむが帰宅すると、リビングで母が項垂れているのを見つけた。部屋は荒れに荒れ、母は大きな鞄を二つソファの上に用意して、真っ暗なリビングの中明かりも付けずにそこに座っていた。

 部屋の様子に青ざめ立ち尽くすあゆむに、母は生気のない顔を向けると、虚ろだった目を一瞬彼女に向け、再び伏せてしまう。

 汚泥に晒され、熱も光も抜け切った暗く冷たい瞳だった。

 荷物をまとめなさい、必要なものだけでいいわ。後はアイツに送らせるから。

 その言葉を聞いて、あゆむはショックを受け、そして何度も何度も、認めたくないと言わんばかりに、認めようとしないように首を振った。

 自分が願った夢は叶わなかった。優秀である事なんて一つも役には立たなかったのだ。

 これまでの積み重ねが何一つとして実を結ばなかったことに彼女は愕然とし、やがて選択自体が間違っていたのだという後悔が生まれ、彼女は鞄を乱暴に母に投げつけると、キッチンに駆け込んで包丁を引き抜き、自分の首元に充てたのだった。

 そこから先を、あゆむはよく覚えていない。



 目が覚めた時、早見あゆむの願いは、もう願いですら無くなっていた。

 叶えようにも、切り落としてしまった糸の繋げ方をあゆむは思いつけなかったし、何より自分が特に矮小で脆弱で、望みすら叶えることの出来ない人間であることを自覚してしまった今、これ以上行動に踏み出す勇気も湧かなかった。

 首の痕は、医師から目立たないようにできると言われた。母からも強く勧められたが、あゆむは二人の勧めを断り、痕を残すことに決めた。

 もう二度と、自分のような脆弱な人間が間違いを起こさないように。

 叶えようの無い希望に、二度と縋ることがないように。


 学校での生活も変化が生じた。自分が出来る範囲での活動にのみ行動を絞り、他者への介入も、自分の余裕や状況を考慮した上で判断し、手を取るかどうかも決めるようになった。そのお陰で気持ちにゆとりが出来たし、家で過ごす時間は優秀を追い求めていた頃より幾分多くなった。

 あゆむがことを起こしてから、母は変わった。なるべく娘の傍にいる時間を増やし、食事も必ず二人で取るようになり、休日には女二人で旅行に行くようにもなった。

 月に一度だけ父と顔を合わせる時には、彼とデートを楽しむようになった。

 初めからこうしていれば良かったのかもしれないと、あゆむはマフラーで隠した痕に触れながら時々思う。もっと早く、二人がまだ同じ場所にいる時点でこれを選んでいたなら。

 高校を卒業し、大学進学が決まり、上京する頃になると、母は新しい恋人を作って、同居を始めた。父もとっくに再婚し、生まれたばかりの子供を抱かせてくれた。

今まで、自分自身が枷になっていたのだということをあゆむは理解していたし、何より今度こそ母と父には幸せになって欲しいと思っていた。再婚が決まって、やがて母にも子供が出来たと連絡があったが、あゆむが帰省することはなかった。

 自分がいると、また家庭に亀裂が走ってしまう気がした。夫がいて、子供もいる母はきっと今幸福の絶頂にあって、それを壊したくはなかった。

 何度か連絡が来たが、やがてこちらに帰る意志がないことを悟ると、月に一度仕送りと共に写真と手紙を送るだけで、それ以上の介入はなくなった。

 これで良かったのだと、あゆむは思った。

 自分の望んだ結果とは少し違うが、二人は今、暖かい家庭を持つことが出来た。そこに私はいないけれど、二人が幸せなら、それだけで私は満足だと思い、他は全て嚥下して腹の中に収めて消化した。

 ただ、問題はその後だった。

 満足したと割りきったと同時に、その先が分からなくなってしまったのだ。

 いつの間にか父と母の幸福にばかり目が行って、自分の事なんて二の次で、この先どうしようかなんて考えてもいなかった。痕が出来て以来自分を中心にした上で動いていたつもりなのに、根本的な願いはいつの間にか歪曲して、気がつけば自分を除いた二人の幸福へとシフトしていた。

 社会人になってからも、自分の心が次第に弾力を失っていくのが分かって、生活は安定しているのに、それが正しいのかも分からなくて、行く先にどうしても光が見えなくて、首元の痕に触れながら、あゆむはそろそろ潮時だと思うようになっていた。


「あの、これ、落としましたよ」

 そう言って掛けられた声に振り返ると、彼がいた。

 ギグバッグを背負った九重虹一は、メタルプレートのペンダントをあゆむに向かって恐る恐る差し出していた。

 そんなペンダント見たことなかったし、持っていたこともない。きっと誰かの落とし物を私の物と勘違いしたのだろう。そういえばさっき彼と肩がぶつかった気がする。その時に外れたと勘違いしたのだとすれば、間違えても無理はない。

 断って、それでおしまい。

「ありがとう」

 だが、あゆむはそのペンダントを受け取ってしまった。

 どうしてだろう。

 目の前の青年の目がとても輝いていたからか。

 若々しいその姿に惹かれたのか。

 単純に誰かに自分を委ねてしまいたくて、そのきっかけに丁度良いと思ったからなのか。

 いずれにせよ、あゆむはその出会いを受け入れることにした。

 行く先の見えない自分に暖かな居場所を作り、そして幸福の最中命を落とすことになるとも知らず、あゆむは虹一の手に触れて、微笑んだのだった。



 粗方吐き出し終えて満足したのか、あゆむは吐息を一つ吐き出すと、つまらなかったでしょう、と悪戯っぽく舌を出して笑ってみせた。僕は首を横に振って、ありがとう、と一言だけ言った。

「こんな胃もたれしそうな話を聞いて、感謝の言葉を貰えるとは思わなかった」

「なんでだろう、言っておくべきだと、思ったから」

「これからも、変わらずに接してもらっても、良いかな」

 あゆむは目を細めて笑みを浮かべ、立ち上がると大きく伸びをした。関節の鳴る音が薄明かりの空間に微かに響くのが聞こえた。やがて彼女は僕の傍にやってくると隣に膝を抱えて座り、僕に寄り掛かるかたちで身を寄せた。

「自分の進む先を迷わず突き進んでいた彼を見ているうちに、自分も何か見つけたいなと思ったの。空っぽだからこそ、これからスタート出来るかもしれない。今度こそ自分の為に早見あゆむを使おうと、思えた」

 若干彼からの受け売りでもあるんだけど、と恥ずかしそうにあゆむは言う。

「でもお陰で今は、すごく自分が好きになった。昔みたいに誰かの為にって行動は今も時々無意識にやってしまうけど、でも今はちゃんとその人を救いたいと自覚して、自分で足を踏み出せているし、今になってやっと、この痕に込めた想いを果たせている気がするの」

「それはとても、いいことだと思う」僕は頷く。彼女も頷いた。マフラーから見えた痕を、細くて白い指先で触れながら。

「これで彼が死ななかったら、完璧な人生だったんだけど、やっぱりそううまくはいかないみたいね」彼女は笑みを浮かべた。寂しさや悲しみを捨てきれていないけれど、それでも彼女の顔から後悔は感じられなかった。

「だから、私はこの曲を完成させたい。虹一君の為に、私がこれからも前に進んでいくために」

 決意を込めた彼女に、僕は深い首肯で返す。

 不意に、頭にメロディが浮かんだ。

 表情が変わったことに、きっと彼女は気付いただろう。不思議そうに首を傾げるあゆむを横目に、僕は脳裏に浮かんだそれを試す為アコースティック・ギターを手に取り、アルペジオを爪弾き始めた。

 何度も何度も、織り込むような音の連鎖を繰り返しながら、その中でしっくりくるものを絞り込み、やがてアルペジオの展開が生まれると、僕はそれを爪弾きながら、囁くように鼻歌を歌っていく。

 彼女の話を聞いたことが刺激になったのか、それとも自分の中で音がまとまるまでに休む時間が必要だっただけなのか。ともかく、僕の中で音が鳴っている。彼女を変えた彼が遺したコードに繋がりそうなフレーズとメロディが、確かに脳裏で再生されていた。

 僕は脳裏で鳴る音を、ギターを使って丁寧に汲み取っていく。アルペジオに音を乗せ、ゆるやかな放物線を描くようなメロディラインが、パズルのピースみたいにぴたりと当て嵌まる。確信が持てるくらい、驚くほどしっくりくる音の繋がりだった。

「また一つ、曲に近づいたんだね」

 あゆむはそっと瞼を閉じ、再び首元にマフラーを巻き直すと「とてもぴったりだと思う」と感嘆の息を吐いた。声にじわりと喜びが染み込んでいるように聞こえて、途端に僕も嬉しくなる。

 僕もまた、前に進むべきなのだろう。

 編み上がっていく曲の充実感を身に感じながら、僕は深く息を吐いた。茉奈の後ろ姿が脳裏を過るが、振り向くことなく僕から遠ざかっていって、やがて溶けて徐々に消えていく。

「早見さんにお願いしたいことがあるんだ」

 彼女はレコーダーで録音した音を聴いて心地よさそうに目を細めていた。縦長のレコーダーから流れる音は、僕が聴いても確かに気持ちの良いものだった。

 彼女は何度も繰り返し曲を流しながら、僕を横目にただ一言「あゆむ」とだけ口にする。

「あゆむ?」僕がそう繰り返すと、彼女は嬉しそうにう頷いた。「そう呼んで欲しいの。そうしたら、私は何でも聞くよ」

 照れくさそうに笑うあゆむを見て、僕も思わず口元が緩んだ。ぎこちなく「あゆむ」と一言小さな声で呟くと、彼女ははい、と満足そうに頷いた。

「それで、何をしてほしいの?」

「調べて欲しい事があるんだ」

「それは、私でも調べられる事?」

「多分。もし分からなかったら、分からなかったでいいよ。ただ、出来れば知っておきたいことなんだ。自分のこの先の為にも」

 彼女は僕をじっと見つめている。言葉を待っているのだ。

僕は心を決め、大きく息を吸い込むと、彼女の真っ直ぐ澄んだ眼差しを見据え、それから一泊置いて言った。

「あゆむの世界で、七峰茉奈の恋人が誰なのか、教えて欲しい」

 僕の言葉に、あゆむは目を大きく見開いていた。僕は変わらず真っ直ぐに彼女の目を見つめる。澄んだ瞳に僕の姿が映っているのが見える。

 僕と恋をしなかった結果、生き延びた茉奈のその先を知ること。

 君の隣にいる人物が、もしも僕の知っている男だったとしたら、僕は……。


 耳鳴りがする。

 音の聞こえない空間でそいつは唐突に現れて僕とあゆむの間にどっかりと居座ると、不敵に微笑んでいた。僕はソイツ目掛けて六弦を鳴らしてみせる。ホールを通して聞こえた六弦、Eの音が広がっていく。

 うわんうわんと室内に広がっていくその音の中で、あゆむは、一度深く頷いたのだった。

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