3 ハッピー・バースデイ

6


 これは夢だと、そう思った途端に身体が自由に動くようになった。

 それまでどんな夢を見ていたのかよく覚えていないし、「動けるようになった」ところからが夢の始まりなのかもしれない。が、そんなことはどうでもいい。僕は顔を上げる。

 見たことない造りをしたライブハウスに僕はいて、目の前のステージには、いくつもの照明に照らされた茉奈が立っていた。

 アコースティック・ギターを抱え、マイクの位置を調整している。周囲を見回すと知らない顔が沢山あって、と思えばそれらは全てマネキンになって、股の辺りから通された金具で固定され、そこから足元のプレートを使って立たされ、色々なポーズをとっている。

 ただ、そのどれもが茉奈とは逆の方を向いていた。

 彼女を見ているのは僕一人だった。

「七峰茉奈です。今日はよろしくお願いします」

 彼女の声があっても、マネキンは動かない。後ろのほうからざわめきが聴こえる。他愛無い会話の群れがノイズのように微かに耳に入ってきて僕は不愉快になった。茉奈が歌うっていうのに、どうしてそんな風でいられるんだ。

 程なくして茉奈は歌い出した。ギターと歌だけで表現される彼女の世界に浸りながら、でもこれは夢だということに少し悲しくなる。だってこれは僕が一度見たことのあるライブをリピートしているようなものなのだから。僕の聴いたことのない茉奈の歌は、曲はどう足掻いても聴くことができない。

 マネキンの雑音が強くなる。だが茉奈は構わずに歌い続ける。楽しそうに口を開けて、愉快そうにギターを弾いて、音に合わせて首を振る。

 次第に強くなっていく雑音と共に、視界もざらついていく。アンテナが壊れたみたいに、電波を受け取らなくなったアナログテレビみたいに、僕の視界は砂嵐と、マネキン達の雑音に蝕まれていく。

「こ……でさ…後……ょく……」

 引っ掻き回されて削り取られた茉奈の言葉の後に、軽快なアルペジオが始まる。あれは、確か茉奈が最後のライブでやった新曲だ。ノイズでぶつ切れだけど、それだけは分かった。

 あの曲を作った時、茉奈は「やっと辿り着いたの」と言っていた。

 二十歳になる寸前、十代の最後に、茉奈は一体どこに辿り着いたのだろう。そして、辿り着いたままどんな二十歳の景色を見たのだろう。

 もう聞くことのできないその唄声によく耳を済ませていたが、やがて番組が切り替わるようにして、僕の視界はブラックアウトした。



 ブツリ、と番組が変わるみたいに視界が開けた。夕闇に包まれた道を、僕と茉奈は二人歩いていた。

 二人共ギグバッグを背負って、途中のコンビニで買った肉まんを黙々と食べながら歩いている。よく知っている道だ。大学から駅に向かうまでによく使っている道。恐らく、彼女を始めて自分の大学へ連れて行った時の記憶が反映されているのだ。

「鷹居君って、あんなに喋る人なのね」

「そう? 普段からあんな感じだったと思うけど」

「ライブの時は寡黙であまり動かずギターを弾いているから、クールで仕事人、みたいな印象があったの」茉奈は肉まんの最後の一欠を食べ終えると、口元をハンカチで拭う。

「あと、なんとなくなんだけどね、彼は私に似てる気がする」

「どこが?」

 鷹居の姿や挙動を思い浮かべてみるが、共通の点なんて見つからない。第一あいつは早くて、歪んだ、勢いのあるフレーズが好きな男だ。確かに演奏は丁寧で直立不動だが。

「多分、自分で歌うことに否定的でなかったら、私と同じように活動していたんじゃないかな」

「バンドが好きじゃないってこと?」茉奈は首を傾げた。

「分からない。でも、鷹居君が貴方の傍にいるって決めたのなら、きっとそういうことなんだと思う」

「そういうことって……?」

「自分の本質から背いても構わないと、きっとそう思ったのよ」

 茉奈はそこまで言うと僕より数歩先に飛び跳ねるように歩いて行って、くるりと踵を返す。背には沈みゆく橙の陽光を背負って、ビルだらけの街を背景に、彼女は後ろ手に手を組むと、首を傾いで笑ってみせた。

「君がきっと、素敵な曲を作ってくれると信じているから」

「僕が?」

「私や鷹居君には無理なことが、貴方ならきっとできる。それが何なのかも、どういった形になるのかもうまく言えないけど」

 困った顔をする僕に、分からなくていいよ、と茉奈は言った。

「ねえ、虹一君」

「何?」

「これからも、歌い続けてね」

 茉奈の笑う姿が、遠くなっていく。背後に広がるビルに亀裂が生じて、崩れて、砂のように散って消えていく。夕陽は輪郭を失って、彼女もまた、その背景と同化するように歪んで、橙色に溶けて消えていく。

 手を伸ばしたが、その手を茉奈は取ろうとはしなかった。彼女は満足そうに目を細めると、踵を返して消えていく道の先へと歩いて行く。

 僕を置いて。

 僕を残して。

 茉奈を追いかけようとした時、ギターの音が聞こえた。

 振り返ると、そこにあゆむが立っていた。アコースティック・ギターを提げた姿で、僕に寂しげな笑みを浮かべ、右手に握りしめていたピックを弦に上げると、撫でるようにそっと鳴らした。

 しゃあん、と音が広がる。あゆむが持ってきたあの音が広がって、彼女の背景が水彩絵の具を垂らしたみたいに広がって、街を形作っていく。夜更けの、陽が昇る直前の群青色をした空に、静かに眠る町並みが生まれた。

 ギターの作り出す音にあゆむは幸福そうに耳を傾け、やがて頬を一筋の涙が伝う。

「悲しいの?」

 僕がそう尋ねると、あゆむはそっと首を振る。決して彼女は喋ろうとはしなかった。

 茉奈の方に目を向けると、遥か遠く、蜃気楼のように揺れる景色の中で彼女は僕のことを見ていた。あゆむのギターの音から広がった景色に上塗りされて次第に彼女は居場所を無くしていく。

 茉奈の口が動く。だが声は無かった。

 それでも僕は、不思議とその言葉を理解できた。

 僕は茉奈に背を向けると、あゆむの方へ歩き出す。

「どうして、泣いているの?」

 あゆむの傍に立って、僕は改めて尋ねた。彼女は真っ赤なマフラーに顔を埋め、目元を拭うと、涙で濡れた声で答えた。

「また聴けたから」

 マフラーを指で押し下げて彼女は顔を上げる。涙が溢れて、元々水っぽい瞳が更に潤んで見えた。彼女の頬を涙は幾つも滑り落ち、顎を伝ってマフラーに落ちていく。

 あゆむは、泣きながら笑みを浮かべていた。

「曲、お願いしますね」

 あゆむはストラップを自分の肩から外して、ギターを僕に差し出す。

「……うん」

 ギターを受け取ると、ストラップを自分の肩に通し、感触を確かめて、深く一度呼吸をする。早朝の冷たい空気が肺に染み込んでいく。群青の町並みの奥からやがて鮮やかな陽光の気配がやって来る。もうすぐ日が昇る。

 消え行く茉奈の言った言葉を反芻しながら、深く吸った息を吐き出す。真っ白い息が口から、空へと立ち上り、溶けて消えていく。

 もう何度も見て、聴いたコードを押さえると、僕はあゆむからピックを受け取り、そして。



 目が覚めた。

 どうやら途中で眠ってしまったようだ。部屋の明かりやパソコン、何から何まで電気がついたままだ。ベッドの縁に腰掛けたまま眠りに落ちてしまったせいか、肌寒くて、腰と首がひどく痛む。

 窓の外を見るともうずいぶんと陽が高く昇っている。時計は十一時を指し示していて、そういえば今日はニ時限目から講義があったことを思い出し、慌てて立ち上がろうとしたが、すぐに諦めて大きく伸びをして、ベッドに寝転がった。

 よくわからない夢だった。ハッキリと意識があって、動くこともできて、しっかり覚えているというのが不思議だ。まるで現実にあったことのように今も感じている。

現実ではありえない光景ばかりだったのに、だ。

「思い届かず涙」

 茉奈の曲をなんとなく、口ずさむ。


 思い届かず涙、目眩がした。

 宵の月を眺め思う。随分近くなったなあ。

 トロイメライに触れる。瞼が下りる。

 戻ることを望む後悔を、連れ去って。

 ねえ、連れ去ってよ。


 起き上がると、無造作に床に転がるストラトキャスターを拾い上げ、傍らのテーブルに散らばるルーズリーフをかき集める。

 昨日はどこまでやったっけ。あゆむの持ってきたコードをイントロとサビに置いて、音を足して展開を作ろうと決めたことは覚えているが、その後がうまく思い出せない。思い出せないってことは、しっくりこなかったのだろう。

 いくつものコードが書き殴られたルーズリーフを眺め、シャープペンシルと手に取るとくるりと一回転させる。アンプに繋いでいないエレキギターの音はとても味気ない。でも僕は構わず何度もコードの展開を考え、弾いて、ノートに書き写しては消してを繰り返す。

 あちらの僕は、この先どう展開させるつもりだったのだろう。

 どんなメロディをつけて、どんな音を足して、どんな歌詞にするつもりだったのだろう。顔も声も全て同じ。でも積み重ねられた記憶がまるで違うのなら、それは他人と言っても間違いではないだろう。

 僕が九重虹一になれないように、彼も九重虹一にはなれない。

 エレキギターの寂しい生音を聴きながら、僕は茉奈が最後に口にした声にならなかった言葉を思い出す。歌い続けてね、と彼女は言ってくれた。そして、僕に笑いかけて、確かにこう言っていた。


「歌い続ける限り、私は貴方を好きでいられるの」

 夢の中の出来事だ。

 下手をすると僕の単なる願望だ。

 それでも、歌っていいのかもしれないと思った。あゆむのコード以外に興味は持てないけれど、いつか、また歌ってみよう。

 カレンダーに目を向ける。来週明けの日付に赤い丸が付けられている。

もうすぐ、茉奈は二十一歳になる。

 十代と二十代の狭間の歳を、終えることになる。

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