5

 紡木葵の登場によって、先程の「パラレルワールド」の話題は初めからなかったかのようにたち消えた。

 紡木を含めて酒は進んだが、突如として紛れ込んできた、それも僕に対して刺々しい視線を向ける女性が相手となるとどうもやり辛く、緊張もあるせいか上手く酔うこともできずただただ重たく、這いずるような空気の中で僕達は酒盛りを続けざるをえなくなっていた。

 今日はお開きにしよう。そんな言葉を鷹居はそれとなく用意していたようだったが、どうにも言い出すタイミングが見つからないのか、結局今に至るまで僕達は変わらず世間話を続けている。単位がどうだとか、鷹居のバンドの活動状況はどうだとか、いくつも話題をひねり出すが、隣でその話を聞きつつだんまりと酒を飲む紡木の、その観察するような視線に辟易してどれも途中で途切れてしまう。

「紡木さんは、以前から音楽に堪能だったんですか?」

 埒が開かないと僕は、彼女に話を振ってみることにした。鷹居は渋い顔をしていたが、敢えて参加したいと言っただけあるのだから、何か話があるだろうということは分かっている。

「ボーカルのスクールに通っていました」

「音楽学校?」

「専門出なんです。今は卒業して、ライブハウスで働いています。ストロヴェリィフィールズさんも以前使ったことのある場所ですよ」

「僕がいた頃に君を見た覚えはないかもしれない」

「当時はまだいませんでしたから。それに、最後に使ってからニ、三ヶ月後には九重さんも脱退していて、結局決まっていたライブもキャンセルされちゃいましたし」

 鷹居が小さく咳き込むのが聞こえた。だが彼女は構わないと変わらず強い視線を僕に向けている。言葉の端々にある小さく、けれど鋭い棘に目を細めながらも、僕は平静を保って酒を飲む。彼女も同じように酒を飲むが、僕を視線から外すことだけはけっしてしない。

「ボーカルが脱退して、曲から何からスタートし直す必要があった、新しいボーカルを探しているという話を聞いた時に紹介してもらったのが、私なんです。丁度仕事が決まった時にその話を貰いました。面接で歌について学んでいたと話していたのを店長が覚えていたみたいで」

「それでスタジオで試しに合わせてみて、彼女を誘うことにしたんだ」ようやく入り込む余地を見つけたのか、しめたとばかりに鷹居が口を開く。紡木は彼の方をちらりと見て頷いた。鷹居を映す時の目は、とても穏やかに緩んで見えた。

「それから、鷹居さんが作曲からスケジュールから客寄せまで精力的に頑張ってくれて……。もちろん私や文野さん、長江さんも協力を惜しみませんでした。そうしてやっと今、ミニアルバムのリリースに漕ぎ着けることが出来たんです」

「本当に、すごいよ、すごいと思う」

「一年間試行錯誤して、とにかく練習とライブに地方回りに明け暮れて、体力的にも精神的にもやられながらの活動でした。一時期は音楽を嫌いになりそうな時だってあった。でも、何より必死になっている鷹居さんを見て頑張る気力を貰ったんです」

「葵は本当によくやってくれた。俺は本当に良いボーカルと出会えた。だからこそ、これからも精力的に活動していくつもりだ」

 僕は互いに讃え合う二人の姿を交互に見て、僕は無言で酒を口にする。

この二人にはこの二人で培ってきた時間があって、ありとあらゆるものを見聴きし、切磋琢磨し互いの距離をを測ってきたのだろう。その結果に対し僕が言うべきことはなにもない。

「これだけの人が一緒だったのに、どうして九重さんは、脱退を決めたんですか?」

 尋ねられた言葉に、鷹居の表情が固まるのが見えた。いや、多分鷹居からすれば僕の顔も同じようになっていたに違いない。来ると思っていた話題だけれど、いざ正面からその言葉を投げかけられると、返す言葉がすぐには浮かばなかった。

「鷹居さんから話を聞きました。恋人の死を境に音楽と向き合えなくなったと」

 僕は鷹居に目を向ける。鷹居はいたたまれない様子で大分萎縮していた。

「鷹居の話の通りだよ。恋人が死んで、音楽に対してちゃんと向き合えなくなったのを感じたんだ。そんな気持ちでメンバーと同じ歩幅で歩いていけないと、僕は脱退を決めたんだよ」

「でも、鷹居さんは貴方と組みたがっていたんです!」

「葵」鷹居の制止に紡木は止まらなかった。

「加入が決まって、曲を作り始めてからも、私は何度も飲みの席で鷹居さん、文野さん、長江さん達から貴方の話を聞きました。あいつの作る曲は良かったとか、あいつの分も俺達は頑張ろうとか、一緒に続けて、私を含めた四人として馴染めても、何処かに必ず貴方の、九重虹一の姿が見え隠れする。ストロヴェリィフィールズの頃の音源も、鷹居さんから貰って聴きました。曲もとても良かったし、貴方の唄声だって悔しいけどとても好みで、きっときっかけがあれば売れたんだろうなって思いました。同じパートの人間として悔しかった。貴方みたいな声を出したくても、私は女で、貴方は男で、根本的な部分からタイプが違いすぎて、唯一残った曲だって、九重さんと比べたら劣っている気がして歌う度に怖くて」

 とん、とん、とテーブルに雫が落ちた。

 俯いた紡木が零した涙だ。肩を強張らせ、歯を食い縛り、膝の上で両手をぎゅっと強く握り締めているのがテーブル越しにも分かった。

 この一年間鷹居達と行動を共にして蓄積された感情。怒りや、比較、劣等感、悔しさ、恐怖。その様々な想いが、言葉と一緒に溢れだしてしまったのだろう。

「私は貴方のことが、大嫌いです」

「大嫌い、か」

 僕は一言も反論しなかった。その通りだと思ったから。

「何も言い返さないんですか?」

「言い返して欲しいのか?」

「別に。何も反論が無くて毒気を抜かれただけです」

「君の言う通りだから、僕は何も言い返せない。たかが恋人が死んだくらいでと君は思っているかもしれない。その程度の覚悟で音楽に挑んだ事に苛立ちを覚えてるのかもしれない。何より、中途半端な気持ちで鷹居達と夢を見てしまった責任は確かに、ある」

 鷹居、と僕は彼に声をかける。鷹居は嘆息を一つ、大袈裟にしてみせると頷いた。

「僕のせいでこの一年間、本当に苦心したと思うし、今の結果に辿り着くまでの道のりはとても険しかったと思う。それを手前勝手な気持ちで辞めて、本当に悪かった」

「そんなことは思ってない」

「それでも、僕はお前と抱いた夢を身勝手に投げ出して、全部背負わせてしまった責任は確かにあるから、謝らせて欲しい」

 テーブルの前で僕は深く頭を下げる。

「本当に、すまなかった」

 返答は何も無い。しばらく返答を待ってみたが、鷹居はそれ以上何かを言うことなく、紡木も以降は黙ったまま、僕達三人の話し合いは終わった。

 それからはとてもスムーズにことが進んだ。僕と鷹居で勘定を割って支払いー紡木は自分も支払うと言い続けたが、無視したー、何も言わずに帰路について、駅の改札口前で僕達は別れた。

 鷹居は最後まで何かを言おうとしていたようだったが、結局その言葉が僕の耳に入ることはなかった。改札で別れてからも、鷹居は淋しげな表情を浮かべていた。

 別れの挨拶も、なんだか曖昧なもので終わってしまった。

 紡木葵に関しては途中まで帰り道が同じだったが、互いの間に引かれた線をどうすることも出来ず、結局僕が適当な理由を付けて途中で別れた。全てを吐き出した彼女の目には、若干の後悔の念も見て取れたが、今更退けなかったのだろう。いや、退く必要は無いと僕は思っていたから、これでいいのだと思う。

 帰路を外れて道なりに歩いていると、公園を見つけた。先程までいた飯場からそう遠くない場所だが、普段こんな裏道を使うことも無いので全く気が付かなかった。紡木と別れる口実に立ち寄ったコンビニで適当に買い込んだビールとつまみの入ったコンビニ袋を提げて、僕は公園に足を踏み入れた。

 団地のすぐ傍にあったその公園は、滑り台と鉄棒、ブランコと砂場、ベンチが申し訳程度に二つ置かれただけの非常に簡素な場所だった。

 僕はベンチに腰掛け、買い込んだコンビニ袋を隣に置くと、背もたれに身体をぐったりと預けた。緊張が緩んだ瞬間、どっと疲れが湧いてきた。

 正直、紡木葵の登場はずいぶん堪えた。会計時の注文数からかなり飲んでいたはずなのに、どこか変なところに酒が入ったらしく、まるで酔えなかった。

 缶ビールを取り出して、つまみを広げると、プルタブを開けて口にする。袋一杯に詰め込まれた酒を見て、気が気でなかったとはいえ買い込みすぎたかと、炭酸に堪らずげっぷを吐き出しながら頭を掻いた。

 僕が抜けてからの一年間、鷹居がどんな風に動き続けてきたのか、その詳細が知れたことは、良かったのかもしれない。身勝手に脱退を告げて消えた癖にそんな気持ちを抱くことは正直憚られるのだが、鷹居がどのようにして活動を続けていたのかは、心配だった。

 随分大学を休んでいたのもそうだ。留年はほぼ当確に近い。それ程に僕はここ一年鷹居の姿をまるで見ていなかった。見たとしても挨拶をするくらいで、つい先日の会話が本当に久しぶりの長い会話だった。

 なにより良かったのは、鷹居の想いに応えようとするメンバーがちゃんと集まったことだ。

――紡木葵。

 彼女のあの姿勢ならきっと、これから先も鷹居を支えていってくれるだろう。

 僕は缶に口をつけたまま、夜空に目をやる。半分に割れた月と、その周囲に燦然と散りばめられた星達が濃紺の暗い空で燦めいているのが見える。そういえば、星を見上げるなんて久しぶりかもしれない。最近はずっと足元ばかり見て過ごしていた気がする。

 とにかく、最近はどうも色々な出来事がありすぎた。早見あゆむに自分の死、鷹居浩太に、紡木葵。どうしてか早見あゆむの出会いから少しづつ、止まっていた歯車が動き出すみたいに様々なことが連鎖的に動き始めている気がする。

 茉奈の死から一年間、思い出そうとしてもなんだかパッとしない思い出ばかりで、感情を露わにしたことなんてなかった。確かに僕はその一年の間に何度か笑ったのだろう、泣いたのだろう、怒ったのだろう、喜んだのだろう。電話帳やソーシャルの一覧を確認すればそれなりの人付き合いもしているし、他者を隔絶する生活をしていたわけでもない。明日は研究会があるし、流れで教授に飲みに連れて行かれるかもしれない。課題は日々積み重なって、消化に必要な時間と講義と小遣い稼ぎのバイトでスケジュールだけ見れば充実はしている。

 そう、充実した生活を送ってきたはずなのだ。

 なのに、どうして瞼の裏に映る景色は全てセピア色なのだろう。

誰かと遊んだ記憶も、異性に好意を寄せられた記憶も、全て酸化したように薄く、まるで遥か昔の出来事のように色が無い。茉奈や鷹居達との記憶は今でもちゃんと色があるのに。

 星を眺めながら、今日のことを思い出す。出来たばかりの記憶だからだろうか。色彩まではっきりと思い出せた。

「茉奈、君は今どうしてるのかな」

 返答なんて無いことは分かっている。彼女は死んでいて、僕は生きている。たった一つのその違いが、隔たりが、人と人の世界を綺麗に分けてしまう。

「今日、怒られたよ。衝動に任せて選択した結果のツケが、一年経ってとうとう来たのかもしれない」

 茉奈が死んで、風船の空気が漏れていくみたいに、色々なものが自分の中から抜け落ちていくのを感じた。何に興味があって、何に熱くなって、どうやって生きていたのかを思い出せなくなって、気がついたら親友との関係も遠くなり、夢として掲げていた音楽にも何一つ気持ちが入らなくなってしまった。

「僕はやっぱり、選択を間違えたのかな」

 独り言と共に僕はビールを飲み干した。空になった缶を捻り潰すと袋に放り入れて、次の缶に手を出す。多分今日は酔えないのかもしれない。どれだけ飲んでも意識ははっきりしているし、気分も悪くならない。頭も痛くない。僕は魔法にでもかかっているのかもしれない。平行世界から迷いこんできた子と出会うくらいだ。魔法があっても今更驚く気にもならない。

 今、もし茉奈がいたら、僕の隣でギターを片手に歌ってくれただろうか。にっこりと微笑んで、酒に浸かる僕をだらしないと言って軽く叱って、それから酔いたくて酒を飲み続ける僕に向けて歌を歌ってくれただろうか。

 彼女の一番好きな曲を。

 彼女の好きな詩を。

 彼女の好きなメロディに乗せて。

 それを聴きながら僕は夜空を眺めて、深く深呼吸をして、それから酒を飲むのをやめて、彼女の歌にそっと耳を傾けるのだ。知っている曲ならそっと口ずさんだり、ハモって悪戯を仕掛けてみるのも良いかもしれない。茉奈は歌うことに関しては融通が効かないほど頑固だから、きっと不機嫌そうな顔をして、僕の口を塞いだり、とにかく自分が歌って、僕が黙って聴くだけになるまでしかめっ面でこちらを睨んでくるに違いない。

 僕はそんな彼女が好きだったし、彼女のそんな歌へのこだわりをとても尊敬していた。

 歌の重要さを、メッセージの込め方を、言葉の伝え方を、僕は七峰茉奈から学んだ。自然と彼女の在り方に影響も受けた。

 ここにいる九重虹一は、恐らくほとんど七峰茉奈で出来ているようなものだ。

 だから、茉奈が消えたら、僕に何も残らないのは当然なんだ。

 ふと目元に手を遣ると、指先がしっとりと濡れるのを感じた。僕は潤んだ視界で濡れた指先を眺め、裾をたくし上げるとそれで目元を強く拭った。

「茉奈」

 上手く力の入らない声を絞り出してから、僕は再び背もたれに身体を預け、目元に手の甲を置く。

 止めどなく流れ出るそれを堰き止める方法が僕には分からない。熱くて、大粒の涙が頬を流れ落ちて顎の下で雫になって落ちていく。

 どうしてこの世界では、僕が生き残ってしまったんだろう。

 その疑問は、鷹居と話した今でも、紡木の訴えを聞いた今でも消えることはない。

 ここに至る自分を否定することは、立ち止まるのと同義だと鷹居は言った。

 それでも僕は、彼女に生きていて欲しかったのだ。例え死ぬのが僕になったとしても。

「茉奈」

 もう一度口にしても、返事はない。ギター一本で歌う姿も、綺麗な白い肌も、肩に触れた柔らかな髪の匂いも、もう僕に触れる術はない。

茉奈の歌を、もう一度聴けたらいいのに。



 テナント募集と立て札の掛かったビルの脇道を通って、煉瓦造りの薄暗い階段を降りていく。目の前の扉は閉ざされたままだった。この扉の開閉までは平行世界の交差に含まれない。だからこの扉だけでは早見あゆむが来ているかどうかは判断ができない。

 いるにせよいないにせよ、再会を約束したし、時間も伝えてある。入って待つとしよう。

 右手に提げた大きな工具箱を開けて、懐中電灯を取り出すと扉を開いて中を照らした。

「早見さん、いるか?」返事はない。

 仕方ないので足元を照らしながら奥へと進んでいく。前回から変わった様子は特に無い。何かが劣化したり、他の誰かが侵入した様子も見当たらない。こんな屯するのにうってつけの場所があると知れば、そういった類の連中はこぞってやってくるだろう。出来れば気付かずにいてほしいものだ。

 長細い廊下を進み、突き当りの分厚い防音扉の前までやってくると、がっちりと閉まっているそのレバーを押し込み、中に入ってから周囲を見回した。

「あ、こんにちは、コウイチさん」

 フロアに足を踏み入れると、前回と変わらない形で、ステージ上に早見あゆむが立っていた。中央のライトに照らされて、彼女の白い肌が更に白く際立っている。

「入り口の方で声を掛けたんだけど、聞こえた?」

 訪ねてみると、彼女は首を横に降って不思議そうに傾いでみせる。

「先に来ているものだと思ってここにいたけれど、何も」

「もしくは完全に踏み入れないと、「干渉している」と判断されないのかな」

 フロアの周囲を懐中電灯で照らしながら周囲を観察してみるが、特に変わった様子はない。

「それで、色々と証拠になりそうなものを改めて持ってきました」

 あゆむはそう言って後ろに背負っていたリュックサックをステージ上の椅子の上にどっかりと置いた。もちろん今回も変わらずアコースティック・ギターを持ってきているようだった。

「僕も色々持ってきたよ」

 そう言って工具箱を掲げると、あゆむは自分のギターと工具箱を見て、口をぽかんを大きく開けて、それから目を輝かせた。



 全ての弦を切って、細部を確認したが、錆や手垢がひどかった。埃がついていないのは恐らく彼女が毎日のように触っているからだろう。錆のひどい部分も、そしてネックの裏についた濃い痕も全て彼女が恋人から教わったコードを弾く時に触れた場所だ。他に大して痕がついていないことを考えると、何度かギターの練習をしてみたが、上手くいかず諦めて彼のコードを弾くだけに落ち着いたことがすぐに分かった。

 六角レンチをヘッド中央の窪みに突っ込むと少しづつ巻いていく。ずっと弦の強い力に引っ張られ続けているネックだ。反らないわけがない。

 ヘッドとネックの間に設置されているナットと、ブリッジのサドルに関しては、もう諦めることにした。一日かそこらで修繕出来るほど器用ではないし、それこそプロの所で金を払ったほうが良い。僕にできることは、ある程度まともに鳴るよう整備することだけだ。

 ギターを整備している間、あゆむはフロア奥のPA台に懐中電灯を持って向かい、椅子を引っ張りだすとテーブル上に頬杖をつきながら僕を見ていた。僕だけしか知らないはずの「曲案二」を口ずさみながら。

 あゆむが持ってきた証拠は、確かに僕にとっては驚くべきものばかりだった。

 しっかりとプレスされたシングルやアルバム、インタビュー雑誌。ライブで買ったらしいシャツやリストバンド、ステッカーなどのグッズ。中には僕や鷹居達とレコードショップで一緒に撮った早見あゆむとの写真もあった。陽気そうな顔をしてあゆむの頭に手を置く僕と、微笑みながらピースサインをする彼女。手にはデビューシングルだったらしい「曲案二」の収録されたケースがあった。

 らしい、というのは、僕にはそのジャケットにデザインされた曲目がうまく理解出来ないからだ。

 日本語や英語で印字されているというのにそれを僕が認識出来ず、あゆむに音読してもらっても靄の掛かったような、まるで異国語で話しかけられているように聞こえて気分が悪くなるだけだった。付けられたタイトルはおろか、中に入っている歌詞に至るまで全て試したが、やはりその内容を理解できなかった。

 更に、オーディオプレイヤーの曲に関しても、彼女は楽しげに身体を揺らして聴いているのだが、僕には不協和音にしか聴こえない。向こうではこれがポピュラーな音楽なのだろうかと疑いもしたが、恐らく別次元の僕には「聴けない」というのが概ね正しい答えのだろうと結論付けることにした。

「早見さんの持ってきた曲と、その音源だけは聴けるのに」

 ギターを布で拭いながら、僕は呟く。

 彼女が口ずさんでいる曲だけは何故かちゃんと聴けるのだ。

 あゆむは、口ずさむのを止め、暫く腕組みをして考えていたが、やがて思い当たるフシがあったのか、人差し指を立てた。

「多分、盗作になるからっていう認識は、駄目でしょうか?」

「盗作?」

 取り出した新品の弦をよく伸ばしながら、僕は彼女の言葉を反芻する。

「貴方の『曲案二』は原案の時点でほとんど形になっている。ほら、貴方の録音を聴かせてもらいましたけど、歌詞やメロディに違いはありませんでしたし。だからコウイチさんでも聴ける」

 それから、もう一曲彼女は口ずさみ始める。メロディもぐちゃぐちゃに歪んでいて、それが日本語なのか、英語なのかも判別が付かない。頭がくらくらする不協和音に顔をしかめていると、彼女はその反応を見てなるほど、と頷いた。

「これは二枚目のシングルの曲です。確か、メンバーとのセッションからフレーズを膨らませて曲を作った、とインタビューで言っていました」

「よく覚えているな」

「大ファンですもの」あゆむは微笑む。

「本来私の世界で生まれていた曲も、貴方の世界では生まれない。脱退して、音楽から離れてしまった貴方ではきっと生み出せない曲なのかもしれない」

「今の僕には作れない曲、か」

「だから盗作になってしまう。ここで聴いたことをきっかけにコウイチさんの世界でこの曲が生まれてしまうと、生み出された理由に矛盾が生じてしまうから」

 今の僕には作ることの出来ない曲や歌詞。

 そう言われるとなんとなくだが腑に落ちた。だが、ならば僕が惹かれた彼女のコード進行は一体どうして聴けるのだろう。

「そのコードは、なぜ例外だと思う?」

 僕の問いに、あゆむはしばらく宙を見つめ、それからああ、と閃いたのか手を叩くと頷いてみせる。

「きっと、この出会いが生まれる理由なのかもしれない」

「どういうこと?」

「このコードを完成形にまで持っていくのはきっと、私の世界の虹一くんではなく、こちらの世界のコウイチさんなのかもしれないってことです」

「その為に、たったそれだけの為に二つの世界が繋がった、と?」

 流石に馬鹿げていると言おうとして、僕はその言葉を喉元で押し留めた。

 馬鹿げていると思いつつ、なるほど、とも思ってしまったのだ。

「でも、別に無理強いするつもりはありません。気が乗らないのに作ってもらっても、仕方がありませんし」

「そういえば初めだけだったね。曲を作ってくれって言ったのは」

「ええ、駄々こねたり、我儘言ったり、それこそインタビューで話していたやんちゃ話をネタに脅してみようかなとも思ったけど」

「さらっと怖い話をするね」肩を竦める僕に彼女は口角を上げる。

「でも、彼が、私の恋人が言っていたんです。本当に本心から作ろうと思えなかったら、何かを作るなんて無理だって」

「本心から作ろうと、か」

「勿論それが全てじゃないですよ。でも私は、私の好きだった人の考え方が好きでしたし、彼が残してくれた曲を引き継いで作り上げるなら、その想いに準じて作りたい」

 弦を張り終えた。一本一本鳴らしながらチューニングをしていく。六弦から「E」「A」「D」「G」「B」「E」の順に音を調整していく。なんてことはないレギュラーチューニング。何度も聴いてきたその音を確かめてから、僕は向こうで頬杖を付いている彼女に向かって手を振る。

「簡単にだけど、整備したよ。試しに弾いてみてよ。君の恋人が残したその作りかけの曲を、ちゃんとした形で」

 ステージにはピンスポットのライトが一つ。椅子に座った早見あゆむがぽつんと一人照らし出されている。僕はそれをフロアで腕組みをして見ている。

 乱雑に仕舞ったからか、足元の工具箱の蓋が上手く閉まっていない。でも、さっさと片付けてフロアに戻りたかった。始めて僕達の出会った状態に。

「じゃあ、弾きます」

「そんな緊張しないで。いつもみたいに普通でいいから」

 緊張に顔を強張らせたままあゆむは頷く。何度か深呼吸しているがどうも緊張が解けないらしい。普段はあれだけ楽しげに、まるで僕が景色の一つで気にならないみたいに弾いて口ずさんでいるのに、不思議なものだと思う。

 あゆむは一度ギターを底からヘッドまで隈なく触れた。素人に毛が生えた程度だが、それでも照明が当たるとその光沢が一段と艶やかになったのがよく分かる。弦もペグも光を孕んで燦然と輝いている。

 恐る恐るといった調子で触れた六弦が、揺れて音を生み出した。整備した甲斐のある綺麗な音だと思った。それはあゆむも感じたらしく、驚いた顔をして、それから僕の方を目を細めて見ると、嬉そうに笑った。


 音が響く。


 コードの組み合わせなんて出尽くしているものだ。メロディも、フレーズだって、いつかどこかで出ていたかもしれない音の最も好きな部分を汲み取ってそれを作り上げているに過ぎない。

 だが、そこに込める感情や言葉は別だ。

 たった一つの既にあるコードにしたって、四つか五つのコードの組み合わせにしたって、弾く人間の想いによってそれは唯一無二の音となる。心を動かせる音になる。

 僕は組んでいた腕を解いて、ただ彼女の繰り返し続ける演奏に、耳を傾け、目を凝らす。

 澄んだ開放弦の音と一緒になって奏でられる透明感のある音から、コードチェンジの際に弦を滑る指から生まれるノイズですら、心地良かった。

 早見あゆむの頬を、一筋の涙が伝うのが見えた。俯いて、両目から溢れる涙が頬から顎へ、顎から小さな雫となって落ちて、彼女の膝元に落ちていく。

 光を受けた雫の連なりは、まるで糸の解れたスパンコールみたいに輝いて次々と落下していく。その光景の中で彼女は更にコードを奏でていた。

ピックを握り締め、堅いアコースティック・ギターの弦をしっかりと捉えて、ただ真下に向かってストロークしていく。

 気が付くと、僕は口を開いていた。

 何故口を開けているのだろうと思った次の瞬間には、何か言葉にならない声を出していた。

 アコースティック・ギターが鳴らす和音の邪魔をしないような、それでいて魅力を損なわないような、いや、その音の魅力の一つになるような、そんな声音の連なり。

 それらは彼女が音を繰り返す間により丁寧に精査されていく。より滑らかで気持ちの良い音はどこかと僕は自然と探して口にする。

 一年だ。一年も声なんてまともに出していなかったのに、意外と出るものだ。あの頃のような力強い声は出ないけれど、それでもこれは、音楽を好きだった頃の僕の歌声だった。

 あゆむはこちらを見て笑みを浮かべている。言葉は何も口にせず、手にしたギターで飽きもせず自分が知っている音を、音の連なりを繰り返し弾くだけ。

 僕はそれにメロディを付けている。ここはもう少し高い方がいいかな、とかもっと第一声をハッキリとするべきかな、なんて考えながら、メロディを模索し続けている。

 この曲が完成したら、きっと気持ちの良い曲が出来るだろうなと、そんな想いを抱いている僕がいた。

 こんなメロディで歌ったら、ステージでマイクを通して、ドラムがあって、ベースの低音があって、リードギターのフレーズがあって。

 そんな形で音を鳴らせたら、どんなに良いだろう。



 音が止んだ時、僕は息切れを起こしていたし、あゆむも右腕を振り、左手の指をもどかしそうに握ったり広げたりして動かしていた。大した時間やっていたわけでもないのに互いに疲労してしまったらしい。僕はいがいがする喉に手を添えて何度か声を出して、調子を整えるとその場に座り込んだ。

「この音です」

「恋人の?」彼女は頷いた。

「いつも、彼の部屋に行くと聴かせてくれた音なんです」

「それは良かった」

「あと、とても良い歌でした。私、気に入りました」

 あゆむはそう言うと終盤に歌っていた僕のメロディを口ずさむ。作るのは苦手だが、覚えるのは得意らしい。それは僕が特に良いと思った音で、コードによる伴奏と共に弾いている早見あゆむの姿は、まさに理想そのものだった。

「一年ぶり、かな。歌なんて」

「そんなに?」

「してないよ。気が付くと一日が終わっていて、ああそういえば今日は一度も音楽に触れてないやと思って、まあいいやって寝る。そうして気がついたら一年経ってた」

「でも、相変わらず綺麗な唄声でした。やっぱり虹一くんに比べて力強さは足りないなって思うけど」

 あゆむは悪戯っぽくはにかむ。彼女は向こうで何度も、大きなステージで揉まれた「歌を仕事にした僕」を見ているのだから当たり前だ。

 僕は立ち上がると、胸ポケットから煙草を取り出した。あゆむはそれを見て眉を顰めたが、彼女を横目に踵を返して後方のPA席に向かい、テーブルの上にライターと一緒に置く。

「僕はもう、前みたいな音楽との向き合いかたはできない。早見さんの恋人だった九重虹一みたいに取り組むことも、きっと無理だ」

 でも、と呟いて目を閉じる。

 瞼の裏側に、茉奈の姿が浮かぶ。

「まだ歌えて、まだメロディが作れるなら、僕はそれを形にしてみたい」

 振り返ると、ステージの上であゆむは目を細めて僕を見ていた。肯定なのか、それとも話の理解を意味するものなのか。そこまでは汲み取れないけれど、まあいいやと僕は肩を竦める。

 目元から頬にかけて付いた涙の痕も含めて、良い笑顔の彼女を見ていたら、どちらでも構わないと、そう思えたのだ。


「君の恋人のコードを、僕の曲に使わせて欲しい」


 スポットライトに照らされた彼女は、涙に濡れながらも変わらず澄んだその声で、喜んで、と言って、笑った。

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