2 爪弾いて、紡ぐ

4

 僕らがバンドを組んでいた頃からよく使っていた音楽スタジオにいると鷹居は言っていた。自動ドアを抜けてちらりと顔を覗かせると、正面のカウンターから暇そうな店員が視線をこちらに向けてきた。だが特に声をかけるつもりはないようで、伸ばした顔を戻すと再びカウンターの奥に引っ込んでいってしまった。僕は特に気にすることもなく前を横切って奥の練習スタジオへと向かう。

 ロビーに用意されたテーブルでは練習終わりのバンドマン達が談笑に耽っていたり、一人頬杖をついて時間を潰している青年達の姿が見えた。平日の昼間だ。おそらく大体が学生だろう。一年前までは僕も彼らのようにスタジオ脇のテーブルで同じように語り合っていたものだ。武道館がどうだとか言っていた頃、僕はどんな気持ちでもって鷹居らと共にそこに座っていたのだろう。今となってはよく思い出すことができない。

 廊下の奥、自販機の横に設置されたベンチに座って待っていると、一番手前の扉が開いて鷹居が出てきた。

「やあ」

「突然どうした」手を上げながらやってくる鷹居は、目を丸くして僕を見ていたが、どことなく嬉しそうな表情を浮かべていた。

「少しだけ話がしたくなっただけだよ」

 鷹居は訝しげに眉をひそめたが、「お前がここに来るなんてよっぽどだな」と言うと僕の前を横切り、奥の自販機へと向かう。

「文野や長江は?」僕の問いに彼は首を振る。どうやら一人らしい。

「何か飲むか?」

「適当に頼む」

「今日くらい奢ってやるよ」

 かしゃんと音がして出てきた缶コーラをそのまま僕へ放る。弧を描いて飛んできたコーラを受け取ってプルタブを引いた。小気味良い音が弾けて、炭酸の飛沫が飛ぶ。

「よく個人練で入ってるんだ」

 自販機から戻ってくると鷹居が隣に座った。ここは良い、と彼は背もたれに背中を預け、まだ蓋の開いていない缶コーラを両手で弄ぶ。

 ここはいいぞ、と彼は唸るように言った。

「バンドとか個人練習、週末のレッスン、ちょっとしたセッションの集まりだとか、十畳そこらの中でみんな音楽を目一杯鳴らしている。音を出している時って、いい顔するんだよ。その姿を見ていると、どれだけ辛い状況でも『楽しませる側になろうとしている俺が苦しい顔していてどうする』って思えてさ、やってやろうって気になる」

「元気をもらうために来てるってことか」鷹居は頷く。

「そんなところだ。実際かなり救われているよ」

 コーラを一息に飲み干して、鷹居はゴミ箱に投げ入れた。ゴミ箱の中でからん、と乾いた衝突音がする。中身を飲み干されたら役目を終えてしまう缶の最後の音だと思うと少しだけ寂しい気がした。

 救われている、という言葉に対して、何をと聞くことはしなかった。穏やかな目で周囲のスタジオを眺める彼の横で、僕は黙ってコーラを飲む。

 鷹居が、文野が、長江が、そして新しいボーカリストが、どんな風に日々を積み重ねているのか、僕は知らないし知ることはできない。かつての経験から想像することはできるが、僕の経験から思い描く積み重ねもまた、僕にしか想像のできないものであって、彼らのそれとは違う。

 ただ、それでも一つだけ分かることがあるとすれば、鷹居が一人の時間を望み、救われる事を望んでいるということだ。それだけ自分や周囲、積み重ねてきた日々に対し、重圧や責任を感じているということだろう。

「そうだ、お前に受け取って欲しいものがあってさ」

 鷹居は僕の前に一枚のディスクケースを差し出す。風景写真を加工したジャケットに、バンド名とタイトルが印字され、開けると凝ったデザインがプリントされたCDが入っていた。

 それは、僕達がいつかと夢見た、夢のかたちの一つだった。

「出すって言っていたミニアルバムだ」

「くれるのか?」

「どうせ、今のお前じゃ買ってくれそうもないしな」

 彼の言葉に僕は視線をケースに落とす。鷹居がやっと辿り着いた夢の、いや、今は目標へ走り出すための決意の形か。

 ケースを指先で撫でながら、嘆息する。生温くて、重たい吐息だった。

「俺は、この道を進むつもりだ。何があっても」

 そう言った彼の視線の先で、切れかけた蛍光灯が弱々しく光っているのが見えた。先程まで力強く光っていたのに、今はいつ事切れるか分からないほど衰弱してしまっている。だが、光を絶やさぬように光り続ける姿は、僕には眩しく感じられた。

「それで、お前はこの先、どうするんだ?」

「僕?」鷹居は頷く。「進んでいた道をやめるんだ。先くらい考えないと」

 彼の言葉に、僕は顎に手を当ててしばらく黙考する。やがて自分の爪先を見つめながら、重たい口をこじ開けるようにして、開いた。

「どうすればいいと思う?」

 返答は無かった。

 隣を見ると、鷹居は天井に顔を向け、吸い始めた煙草の煙を吐き出し、ベンチの縁に片足をかけてその膝を抱き抱えた。

「それは、自分で考えることだ」彼は続けて言う。「俺は、進む選択をした。戻る選択も、立ち止まる選択も出来た中で、進むしかないって、そう思ったから」

「それは、夢の為か?」

「夢もある。でもそれだけじゃない。他にも理由は沢山あったよ」

「沢山?」

「俺は全てをしっかりと精算して過去にしたいと思った。純粋に自分が望む道を進む為に」

「過去」彼は頷く。「お前も俺からすれば、過去みたいなもんだ」

 白い煙が宙に浮いて霧散していく。

 飲みきった缶をゴミ箱に投げ入れて、胸ポケットにやった手を留め、やがて握り拳を作るとその手を膝元に下ろした。

「吸わないのか?」

 胸ポケットの膨らみを見て気がついたのだろう。鷹居は不思議そうに首を傾げた。

「この間怒られたんだ。喉を大事にしろって」

「もしまだ一緒にバンドを組んでいたら、同じことを言っていただろうな」

 鷹居は目を細めて笑うと煙草を燻らす。

「折角始めた煙草ももう終わりか」

「二十歳になった途端吸いだしたよな。酒は前からしょっちゅう飲んでたけどさ」

「そうだったかな」

「脱退の話があったのも丁度その時だったし、茉奈をきっかけに変わろうとしていたんだろう?」

 あまり意識をしたつもりはなかったけれど、鷹居からすればあの時期の僕はきっとそんな風に見える行動をいくつも取っていたのだろう。

 あの頃から今に至るまで思い出そうとしてみても、真面目に講義と研究会に出ていたことだけで、他は全く浮かばない。楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、何も思い出せない。

 記憶に残るようなことが一つもなかった空虚な一年。僕はそんな日々を途方に暮れながら過ごして、今に至っている。

「茉奈は、いい奴だったよな」

 鷹居はぽつりと、そう言った。

「一緒にライブをしたのがきっかけだったけど、つきあいも良くて、話していて飽きない奴だった」

「人見知りな癖に、少しでも馬が合うと途端に好意的になるんだ」

 その通りだと鷹居は笑い、煙草を灰皿に潰し入れると新たに一本取り出した。横から漂ってくる煙草の匂いを嗅ぎながら、僕は瞼を閉じる。

 そう、茉奈はいい奴だった。僕なんかよりよっぽど魅力的で、心に響く音を奏でられる女性だった。もし僕か彼女かと天秤にかけられたとしたら、誰もが彼女を選択する。そうに決っている。生きるべきは、茉奈だったのだと、あの日、あゆむの手の感触が無くなった日から、時々そんなことを考えてしまう。

 どこで間違えたのか、どこが正解だったのか。

 九重虹一と、七峰茉奈という、『分岐点』のきっかけを、今でも必死に探している自分がいる。



 ベンチに座る僕の前を、彼女が横切る。大きなギグバッグを彼女は背負っていた。

練習に来た時茉奈は必ず奥の自販機でミネラルウォーターを買っていく。僕らの練習が終わる時間と、彼女のやってくる時間は大体一緒で、練習を終えて雑談に花を咲かせている僕らと顔を合わせる機会は意外と多かった。

「これから練習?」

 鷹居が尋ねると、茉奈は決まって得意気に笑みを浮かべ、「ワンマンライブ」と言ってみせるのだった。

――観客にも邪魔されることのない、本当に、たった一人だけのライブ。

 それをこのスタジオでやっているのだと彼女は言った。

 初めは馬鹿にされていると思ったが、やがて彼女が本当にたった一人でライブを行っているのを分厚い扉越しに知り、僕らは顔を見合わせて互いに苦い顔を浮かべてしまった。

 彼女は必ず上段の右から二つ目のミネラルウォーターを選ぶ。他のものは絶対に選ぶことがなくて、出会ってから彼女が死ぬまで、彼女が他で飲み物を選んでいる姿を見ることは一度もなかった。


 二人とも惹かれた理由は全く別で、それはきっと理解できないものだから。

 彼女と好き合うようになってから言われたことだった。

 互いに自分の内側を曝け出すことで心を通わせることだってできたのかもしれない。けど、僕らにとってあの距離感は特別で、あれ以上はきっとなかったに違いない。

 勿論、キスをしたことだってあるし、それ以上のことだって何度もした。自らをさらけ出して欲望のままに互いを貪りあったことだって勿論ある。

 けどそれは僕達の中で主体にはなりえない部分だった。


「個人ライブをしている時、君は何を思って歌っているの?」

 ある時僕は、彼女に向けてそんな問いかけをしたことがあった。布団から色素の薄い肌が覗いているのを僕は眺めていた。くっきりと浮き出た鎖骨が特に綺麗だった。彼女は布団の中から細い腕を出すと、常夜灯の薄暗い明かりに手を伸ばす。手入れのされた腋がベッドの縁に腰かけていた僕から見える。でも彼女は恥ずかしがる様子もなく、ただぼんやりと天井を眺めていた。

 しばらくして茉奈は手をひっこめると、もぞもぞと動いて首元まで身体を布団に沈めた。掛け布団を隔てても彼女の胸元は曖昧な輪郭を残していて、微かな丘陵が残っていた。

「私は好きなことをしているだけ。好きなことをするために好きな曲を作って、好きな歌詞を描いて、好きなメッセージを込めて、そして自分とギターを使って好きに歌う。それだけなの」

 僕はベッドの縁から腰を上げて、向かいの小さなソファに座った。テーブルに乱雑に置かれたままのコンビニ袋からビール缶を取り出して、プルタブを引いた。景気の良い音がして、微かな飛沫が跳ねた。

「でも、時々本当に好きなことか、怖くなる時があるの。最初から最後まで、自分だけを込めた筈なのに、ふとした瞬間それが自分の音じゃなくなっている不安を感じて、怖くなるの」

「じゃあ、君にとってあれは自己を肯定するためってことなの?」

 布団の中からふふ、と笑みが聞こえた。肯定、と取っていいのだろう。

 大抵のスタジオは、一面が大きな鏡面になっていることが多い。その鏡と向かい合うようにマイクを立てて、いつものアコースティック・ギターを肩に提げると、彼女は鏡に映る自分に向けてギターをかき鳴らし、歌っていた。


 何にも惑わされないように。


 自分の全てを肯定するために。


 茉奈は起き上がり、布団で身体を隠したままベッドの縁に腰掛けると、床に投げ出されていたバスローブを手繰り寄せ、今度は全身をすっぽりと布団の中に隠してもぞもぞと動き始める。その光景はなんだか繭や蛹のようで、次に彼女が出てきた時、蛾か蝶にでもなっていたら面白いなと思いながらその布団の塊をしばらく観察していた。

 殻を割って出てきた時、蝶になるのだろうか。それとも蛾になるのだろうか。

どちらにせよ、人を惹きつけるような美しさを持っているに違いない。

「もうすぐ、二十歳だね」

 布団の塊が蠢くのをやめ、やがて平たく沈む。辛うじて残された身体の輪郭に、僕はホッとする。もしこれで本当に彼女が蝶や蛾になってしまったら、きっと飛んでいって、手の届かないところに行ってしまうだろう。

「茉奈が先。僕が一ヶ月後だ」

 茉奈が布団から出てきた。バスローブをしっかりと着込んでベッドから立ち上がると、ソファまでやってくる。白いローブから伸びた細い足に目がいく。先程まで僕はその奥を見ていたはずなのに、なんだか全てを曝け出していた時よりも、今の方が官能的に見えた。

 彼女も多分、そんな僕の考えにきっと気がついていたと思う。お見通しとでも言うかのように意地悪そうな笑みを彼女は浮かべていた。

「ねえ、虹一君は、二十歳ってどんなだと思う?」

「どんなって、どういうこと?」

「十九から、二十歳になったら、何が変わるんだろうね」

 そう言って茉奈は僕の手からビールを引き抜いて、一口飲む。

「隠れてお酒を飲む必要はなくなるね」

 彼女は笑った。笑うと同時にビールが気管に入ってしまったのか思い切りむせてしまう。むせながらも、彼女はとても愉快そうに笑みを浮かべていた。

「煙草も吸えるようになるわね」

「吸うの?」

「吸わない」首を振る茉奈を見て僕は内心、ホッとしていた。

「じゃあ僕らにとって変わった理由にはなりそうにないね」

「あとは何があるのかな。虹一君はなにか思いつく?」

 乱れたベッドを眺めながら、彼女は僕の肩にことり、と頭を置いた。柔らかくて、石鹸の香りのする髪が一房頬に触れる。

「正直なところ、分からないな」

「だよね。私も、あんまりよく分からない」

「茉奈だったら何か思いついていると思った」

「どうして?」

「いつも僕が聞くことに、ちゃんと返答をくれるから」

「それは、貴方が私を理解するための質問ばかりするからよ」茉奈は肩越しに笑みを浮かべていた。「無意識だった?」

「そうだった? あまり、考えたことなかったよ」

「ほら、やっぱり無意識だ」茉奈はそう言うと、嬉そうに目を細める。「ねえ、虹一君」と、茉奈は続けて僕の名前を呼ぶと、ビールをもう一口飲んでから、全身を僕に委ねるように寄りかかってくる。華奢な身体でも、ちゃんと重さがあった。

その重さが、彼女がここにちゃんといる証拠のような気がして、彼女がその重さを僕に委ねてくれていることが、少し嬉しかった。

「私が先に二十歳になって、景色を見てきてあげる」

「景色?」

「そう、景色。どんな風に見え方が変わったとか、抱いた気持ちとか、好きなことに対する考えかたの変化とか。色んなものを見て、報告してあげる。まだ十九歳の君の為に、二十歳になった時戸惑わないように、ね」

 それはありがたい、と僕は微笑む。茉奈も僕を見て微笑むと、再びビールを口にした。

「人に対する好意も、変わるものなのかな」

「どうだろう」

「できれば、僕は今のまま君のことを好きでいたいな」

「どうだろう、ね」

 そう言って彼女は身を乗り出すようにして、僕の唇に自分の唇をそっと寄せた。ビールで濡れた唇は柔らかくて、瑞々しくて、心地良かった。

 彼女が離れると、いつもの不敵な笑みを浮かべながら首を傾いで、それから缶を僕に渡す。

「色んなものが変わっても、君のことはきっと好きよ。愛し方も欲しがる理由も変わってしまうかもしれないけれど、きっと私は十代を終えても君を求めると思うわ」

 そう言って微笑む彼女を見て、僕もまた同じだと頷いてみせた。

 この先も、きっと僕は君を好きでいる。

 好きなままでいると、自信を持って言える。



 もし、別にもう一つ世界があったとしたら、どう思うかと尋ねた時、鷹居はとても不可解そうな顔を浮かべた。それから僕の顔を覗きこんで、やがて不愉快そうに眉を潜めると煙草を取り出して再び吸い始める。

「どういう意味だ?」

「いわゆるパラレルワールドだよ。時間や環境も同じだけど、少しづつ僕らの世界とは道がズレている世界があったら、どう思う?」

「お前、そういう類の話好きだったか?」

「いや、まるで興味なかったんだけど、少しあってね」

 彼は僕を見てこれがただの冗談では無いことを理解したのだろう。実際僕にそんな冗談を言える余裕はなかったし、おどけた様子だった彼の表情が引き締まった時、鷹居に話して良かったと思った。

「パラレルワールド、ねえ」

「ちょっとした選択をきっかけに枝分かれした時間軸がこの世界にいくつもあって、そこで同一人物の僕達がそれぞれ、まるで違う環境で生活している。境遇も何もかも一人一人微妙に差異がある」

 鷹居は言葉に困っていた。当たり前だと思いながらも、僕は彼の反応を待つ。

やがてつまみとビールがやってきたが、乾杯の言葉はなかった。そんな風にグラスを打ち付けられる関係でもないから、これで良い。

「その、つまり、別の時間軸とそこで生きる自分を知ってしまって、自分との環境の違いを見てしまった場合、どう呑み込めばいいのか、みたいな。そういう話か?」

「あくまでたらればの話だけど、大体そういう話」彼の言葉に頷く。「その結果、もしどこかの選択次第でその道筋に辿りつけていたとしたら、「あったかもしれない未来」を知ってしまったら、どうする?」

 鷹居は腕組みをして思考を巡らせている。突飛な話題に真剣に取り組んでくれる彼に対して申し訳無さと、感謝を覚えた。下らないと切り捨ててしまっても良い話題なのに。

「そうだな」彼はビールを一口飲むと口火を切る。「もしそちらの世界の方が成功していたとしていたら、悔しいとは思う。あの時こうしていればとも思うだろうし、今の自分と比較して遣る瀬ない気持ちになるかもしれない」

「そう、だよな」

 頷きながら、僕はあの日僕の目の前に現れた早見あゆむの姿を思い出す。

 扉を出て姿を消した彼女は、再び建物の中に戻ると姿を現した。それも僕の真横に。初めは疑心暗鬼だった僕も、こんな不可思議な現象がすぐ目の前で起こってしまうと、信じざるをえなくなった。

 ただ、互いに別世界であることを理解すると同時に、早見あゆむはもう僕に「曲を作って欲しい」とは言わなくなった。あちらのココノエコウイチが遺したコードを爪弾いてはいたが、それに関してまるで触れないのだ。

 恐らく、彼女なりの配慮なのかもしれない。

 僕は彼女との話から、互いの世界で同時期に起きたトラック事故の被害者の差異をはっきりさせた。

 七峰茉奈はあちらの世界でトラック事故には巻き込まれていない。

 僕の世界でココノエコウイチは事故に遭っていない。

 つまり、僕と茉奈のそれぞれの世界での死因は、何らかのきっかけで切り替わっている。ただ、生死を分かつきっかけの出来事までは結局分からなかった。

 この交流がいつまで機能するのか。この現象が一体何のために生じたものなのかは分からないが、出来る限り会わないかというのがあゆむからの提案だった。互いの世界の差異を少しづつ擦り合わせれば、この『二つの時間軸が交差した』理由が見えてくるかもしれないと、彼女はそう言った。生きた恋人の顔を少しでも見ておきたいというのもあるのだろう。

「それで、向こうの世界の人達は俺達の世界を見て、どう思ったんだろうな」

 鷹居の言葉に、やっぱり後悔はあるのかもしれない、と返答した。何より恋人を失っているのだし、その人物が生存する可能性があったなんて知れば、平気ではいられないだろう。

 僕だってどこが分岐点になのか探し続けているのだから、彼女だって同じだろう。茉奈が生きていて、バンドを続けている未来があったかもしれないのだから。

考えないようにしているのに、どうしてもその世界を思い描いてしまう。

「隣の芝は青く見えるものだ」

「え?」鷹居の言葉に僕は目を丸くした。彼は肩を竦めるとビールを飲む。

「結局それは他人の世界だろう? 俺達とはまるで別であって、関係がない、いや、言ってしまえば映画みたいなもんだと思ってもいいかもしれない」

「映画」僕は彼の言葉を反芻する。「そう、映画だ」

「その世界がどうであれ、この世界にいる俺達はその分岐した世界に行く選択をしなかったから存在している。人間誰でも選択に後悔はするだろうさ。でもきっとその選択が失敗だった事を知っても、今ここにいる俺達はきっと紆余曲折を経て最終的にはここに辿り着くように出来ていると思う」

「結果的には、知っても知らなくても世界は変わらない、と?」鷹居は頷く。

「もしかしたら変えることは可能なのかもしれない。けど、もし今の選択が失敗であることを知っても、その選択をした俺を否定することは、しちゃいけないと思う。だってそれは、自分自身を否定することだし、一歩一歩進んできた自分を否定した先に待っているのは、停滞だけだろうから」

「進めなくなる、と」

「あくまで俺の意見だ。でも、過去の俺の選択を、俺自身が否定するなんてこと、たとえ今より成功している光景を見たとしても、したくはないな」

「そうか」

「まあ、誘惑はされるだろうけど」

 鷹居は歯を見せて笑うと再びビールグラスを傾ける。ぐびり、と喉仏の出た凛々しい首が小気味良い音と共に動き、それと共にグラスを満たしていたビールが消えていった。僕も負けじとグラスを手に取ると、一気に飲んでいく。苦味と炭酸が辛いけれど、ごくり、と嚥下する時の感触はとても心地が良い。

 空になったグラスを見て、鷹居は目を細めて微笑む。

「潰れても連れて帰らないからな」

「先に潰れてたのはお前の方だ」

「あの頃より俺は強くなったぞ。随分と飲まされたからな」

 ライブの打ち上げだろうか。確かに無茶な飲み方をしていそうだ。

そういえば最近は家で時々一缶開けるくらいしか飲んでいなかったから、今自分がどれだけ飲めるのか分からない。グラス一杯で少し身体が火照ってきているのを感じて、恐らく先に潰れるのは僕だろうと思った。

「そうだ、酒盛りの前に聞いてもいいか?」

「何だ?」鷹居は手にした二杯目のグラスを手にとったまま僕を訝しげに眺める。

「この間置いていったあのチケット、どうして僕に?」

 僕の言葉に鷹居は暫く宙を眺め、それからああ、と言葉を漏らすと「出てきたんだ」と言った。

「この間楽器とかCDを整理していたら出てきて、懐かしくて残しておいたんだけど、折角ならお前に渡したほうがいいと思ってな」

「僕に?」

「茉奈と初めて会った場所だからな、ラヴ・ミー・ドゥは。潰れちまったけど」

「それだけ?」

「当時を思い出して、少しでも励ましになるかと思ったんだが、逆効果だったみたいだな。お前に茉奈を思い出させて、一年前のことをまた後悔させてしまっただけみたいだ」

 残念そうに呟く鷹居に首を振るが、いいんだ、と彼は申し訳無さそうに目を伏せてしまった。恐らくパラレルワールドの件も含めて、彼はラヴ・ミー・ドゥをきっかけに深くショックを受けてしまったと思ったのだろう。

 確かに茉奈を思い出したのは確かだが、僕が気になっていたのは「鷹居はもしかしてラヴ・ミー・ドゥを訪れたのではないか」ということだった。例えばそこで生きている茉奈と偶然出会ったとしたら、どうだろう。僕にそっとチケットを渡したのは平行世界の七峰茉奈ではあるが、僕に対する何かしらのきっかけになると考えたのだとしたら……。

 だが、それはどうも僕の考えすぎだったようだ。彼の言動や挙動からしても何かを隠している様子もないし、パラレルワールドや、並行した時間軸に関する言葉を口にした時点で彼が惚ける必要性も感じられない。

「本当に、嫌な気分にさせたなら謝る」

「あ、いや気にしないでほしいんだ。ただ、まさか今更あんなものが出てくるなんて思わなかったから」

 俯く鷹居の誤解を首を振って否定すると、僕は重くなった互いの空気をどうにかしたくて再びビールを飲み始める。彼もしばらく僕を眺めていたが、やがて元気そうに振る舞う僕を見て気を戻したのか、再び飲み始めた。

 そんな時、不意に、テーブルの隅に置かれていた携帯に着信が入った。振動がテーブルを介して騒々しい音を立てる。鷹居は携帯を手に取るとディスプレイを確認し、それから店の外へと出て行った。

 知り合いからの電話か、ライブハウスからの連絡か、何にせよ、鷹居にとって大事な相手からの着信だったのだろう。

 思えばあの頃から鷹居はそういう役目だった。元々他人と打ち解けやすい性格なのもあったし、適当で面倒くさそうに見える外見とは裏腹にキッチリとしていたから、僕や他のメンバーからも渉外関連の仕事に関しては強い信頼があった。

 僕が音楽をやめることを告げた日も、僕の作った曲は今後やらない、バンド名は変える、活動方針や作曲方法から何まできっちりと今後について僕に承諾を取っていた。僕自身彼の提案を正直どうでもいいと考えていたのだが、彼も譲れない部分があったようで、結局それ以降本当にストロヴェリィフィールズとして活動していた頃、僕の作った曲は全て封印してしまったようだった。

 頬杖を付きながら、僕は彼の出て行った店の扉を眺める。

 もし過去に戻れたとしても、結局僕は音楽をやめてしまう道を選ぶのだろうか。結局茉奈は死んでしまうのだろうか。

 これまでの選択の上に成り立っている僕は、この世界では最善と認識されるのだろうか。僕本人が間違っていると感じたとしても。

 ただ、鷹居に言われて思ったことだが、今の僕がもしやり直すことができて、茉奈をどうにか生き永らえさせる道を選べたとしても、その先に僕が音楽を続けている光景だけはとても想像できなかった。それは今音楽に対してまるで熱意を抱けないことが原因なのか、この世界に至るまでの選択を最善としてきた九重虹一がそう思うようできてしまっているからなのか、正直判断がつけられない。

 向こうの僕は、今や音楽界で名を馳せている彼は、どんな気持ちで、どんな感情で、どんな熱意でステージに立っていたのだろう。そう思うと、僕は羨望というよりは、好奇心に近い感情で彼を見ることができた。茉奈も生きていて、あゆむという恋人もいて、音楽も続けて、幸福に満ちた生活を突き進む九重虹一を紡ぎ、絶頂の中死に至った彼の経路は、一体どんなものだったのだろう。

 思考を巡らせているうちに、再び扉が開いて鷹居が入ってきた。その表情はどこか堅さがあった。

 何か問題でもあったのかと彼を見ていると、入ってきた扉から更にもう一人、後に続くように誰かが入ってくる。ショートヘアーに、モカのドロストブラウスを着て、下にぴっちりした紺のジーパンを履いた、大人びた服装をした小柄な女性だった。

彼女は鷹居の指差す席に座る僕を見ると、軽くお辞儀をした。丁寧なお辞儀だったが、目元には強さがあって、僕はその目にすっかり気圧されながら軽く頭を下げた。

「突然悪い。お前がいるって聞いたら会わせて欲しいと言われてさ」

 足早に鷹居はやってくると、小声で僕に向かってそう囁いた。恋人か、それとも今のバンドのマネージャーか、事務所の関係者か、何にせよ僕に会いたいというのはどういった理由だろうか。

「別に構わないよ」

「まあ、とりあえず改めて飲もう」

 彼は苦虫でも噛み潰したみたいな顔を浮かべ溜息を一つ、それから彼女を自分の隣に座らせた。遠くから見た時より、更に小柄に見えるが、依然として目元だけは凛とした強い輝きを秘めている。

「はじめまして、九重さん」

「こちらこそ、はじめまして」

 隣で紹介しようとした鷹居を彼女は目で制す。自分で言う、ということだろう。その目にすっかり気圧された鷹居はまた溜息を吐いて、頬杖を付くとビールを不味そうに飲み始めた。

「その、鷹居とはどういったご関係で?」

「音楽を介して知り合いました」

「鷹居のバンドのファン、とか?」

 彼女ははっきりと首を横に振る。一挙一動が力強い。

「今、鷹居さんのやっているバンド、ご存知ではないんですよね」

「悪いけど、すっかり音楽とは疎遠でね」

「鷹居さんは、ストロヴェリィフィールズの貴方を抜いたメンバーとバンド活動を続けています。しかし再開するには、抜けた穴を埋める必要がありました」

 彼女の刺の見え隠れする説明で、おおかた把握が出来た。

出来たが、その鷹居の選択に正直なところ驚きを隠すことができなかった。いや、彼女が現れた時点でその可能性も考えてはいたが、その予想は一番始めに除外してしまっていた。

「貴方が脱退した後、鷹居さんのバンドにボーカルとして入った、紡木葵―つむぎ あおい―です」

 彼女、紡木は、ハッキリと、敵意に満ちた声でそう僕に名を告げた。

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