3

 茉奈はなんでも出来た。ピアノを弾かせれば滑らかな指使いでミスなく曲をこなしてみせたし、ドラムを叩かせたらフィルを混ぜながら正確なビートを刻み、弦楽器や管楽器もそつなくこなす。

 幼い頃にピアノを習っていたのがきっかけで、音が出るものならなんでも興味を持ち、触れているうちに周囲にバンドに誘われるようになり、そこで地道に力をつけたそうだ。今でこそたった一人で弾き語りをしているが、今の状態に落ち着くまでは代役やサポートでひっきりなしだったという。

 引く手あまただった茉奈がどうして最終的に一人を選んだのか、それだけは僕らが恋人同士になってからも決して打ち明けてはくれなかった。彼女のルーツや姿勢に恋をした僕にとってそれは特に知りたいものだったけれど、結局打ち明けることなく彼女はいなくなってしまった。

「虹一君は、どうしてバンドを選んだの?」

 僕のライブを見に来てくれた彼女が、打ち上げの時にそう尋ねたことがあった。

「私より綺麗で、良い歌声を持っているし、その武器だけで戦うことだって出来たと私は思うの。でも鷹居君達と一緒にやることを選んだ。それはどうして?」

 どうしてだろう。僕はその時、どうにもうまい返答をすることができなかった。歌を褒めてくれたことは嬉しかったけれど、その後の疑問について考えていたせいで、上手く喜ぶことはできなかった。

「逆に茉奈はどうして一人を選んだの? 何でもできるのに、弾き語ることを選んだ理由のほうが、僕には不思議だよ」

 僕の言葉を聞いて、茉奈は口の端をすこし上げて微笑み、グラスを傾ける。果物の甘い匂いと、炭酸の弾ける音がした。炭酸飲料を飲み干していく茉奈の真っ白い喉がごくり、ごくりと動いている。

 飲み終えて吐息を一つ吐いてから、茉奈は僕のグラスを奪い取って一気にあおる。透明な青色のカクテルがグラスから半分ほど減ったところで、彼女はそれを再び僕に手渡すと、にっこりと屈託のない笑顔を浮かべてみせた。

「私は虹一君のことが好き。虹一君も同じように好意を抱いてくれていることも知ってる。だけど、二人とも惹かれた場所は全くの別で、きっとそれはこの先もずっと理解できないものだと思う」

 だから、言わない。

 茉奈は肩を竦め、首を傾ぐと、僕に別れを告げてそのままライブハウスを去って行ってしまった。僕は彼女の背中を目で追いかけ、それから彼女が飲んだグラスに目を落とす。どこに口を付けたのか、そんな下らないことだけは正確に憶えている自分がなんとも情けなくて、僕は目を閉じるとそれを一気に空にした。

 アルコールの味は、喉が焼けるようにひどく苦かった。



 事情を説明した時、彼女は「それは、とても残念でしたね」とだけ言った。僕はとても適当な返事だと思ったし、変に遠慮されたり同情されなくて安心した。

「それで、どうでしたか?」

 彼女はぽつりと、そう尋ねた。突然の問いかけに首を傾げると、改めて彼女がその言葉を口にする。

「それで、どうだったんです?」

「どう、って」

「その選択に、救いはありましたか?」

 戸惑いも、同情も、遠慮も彼女の目には映っていない。ただ、選択に対する結果が気になると、そう彼女の瞳は言っていた。僕はその澄んだ目に返せる言葉が見つからなくて、結局黙り込むことしかできなかった。

 彼女は、押し黙る僕を見て察したらしく、再びステージ上に戻っていく。青を孕んだ照明は依然として丸椅子を中心に半径五十センチ程を照らしている。

 ライトのカーテンを潜るようにして入り、彼女は丸椅子に座る。

 暗闇の中でも映えるその赤い服装が、光を浴びて更に目立つ。真っ白い肌と、それを隠すように着こまれた赤いマフラーとセーター。膝元には一抱えほどもあるアコースティック・ギター。彼女は指板をじっと見つめ、慎重に左手で弦を抑え、右の指先で六本の弦に触れた。

 しゃあん、と開放音の交じった綺麗な音がステージ上から室内へ広がっていく。照明によってかどうかは分からないが、僕はその音が光を受けて煌めいたような気がした。そんなのただのイメージでしかないのだろうけど、僕はその音に、スポットライトの下でギターを奏でる彼女の姿に、光を感じた。

 何度も何度も、四つのコードをくりかえし弾いていく。まるでその音を忘れてしまわないようにしているみたいだ。自分と、聴いた人の中に爪痕として残るようにと、そんな強い想いが音としてかたちになって、とても美しく響いている。

 しばらくその音のくりかえしに浸っているうちに、この魅力的な音の「真実」を聴いてみたいと思った。弦は錆びて耳ざわりな音が入っているし、滑りが悪いのかコードチェンジもぎこちない。なによりもチューニングが合っているようで合っていない、とても微妙な音の狂いかたをしているのが気になった。

 ステージにのぼって、彼女の前に歩み寄ると右手を差し出す。彼女は演奏を止め、不思議そうにその手を見ていたが、やがて手を伸ばすと、僕の差し伸べた手をぎゅっと握った。

「違う、そうじゃない」

「え?」

「チューニングするから、そのギターを貸して」

 彼女は慌てて手を離すと、マフラーを引き上げて顔を隠してしまう。余程恥ずかしかったのだろう。せわしない彼女の一挙一動を見ている限り、思ったことをそのまま表に出してしまうだけで、けっして悪い子ではないのだろう。

 僕は改めて右手を差し出す。彼女はマフラーに顔を埋めたまま、隙間からちらりと僕の手を見ると、膝に載せていたギターを素直に差し出した。

 ギターを受け取って早速状態を確認する。ネックも曲がっているし、弦もやはりひどく錆びつき、伸びきってしまっている。試しに音を鳴らしてみたけれど、全ての弦のチューニングが微妙に狂っている。

 ただ、触れてみると、このギターはだいぶ使い込まれていることが分かった。手垢で黒ずんだ痕がネックの裏からホールの付近まであり、弦を鳴らすと音がとても伸びる。ボディの鳴りがいいと音も良くなると言われるが、弾くことでも音は変わっていく。長年大事に扱われ続けてきた良いギターだ。

「とても大切にしていたんだね。このギターの持ち主は」

「私のじゃないって、分かるんですね」

「君はギターを弾けないからね。それに、ギターの整備も怖くてできなかったんだろうね。壊れるかもしれないと思ったのかもしれないし、店でお願いするとリペアー代だってかかるから面倒くさかったのかもしれない。どちらにせよ、ギターがこの状態になるっていうのは触っていないか、もしくは扱いが雑かのどちらかだよ」

 別に責めるつもりは無かったのだが、結果としてそういった口調になってしまった。見上げるように僕を見ていた彼女は目を細め、哀しげに唇を噛み締めると、マフラーで口許を隠してしまった。

「でも、ずっと肌身離さず持っていたんだろう」

「え?」

「このギター、持ってみるととてもしっくり来るんだよ。長年使い込まれていたからこその状態だし、君もあのコードを何度も弾き続けていたんじゃないかな。ギターについて何も知らない君が唯一知るコードで、とても気に入っていたみたいだね」

 だから「触らせたくなかった」が恐らく正解なのだろう。口にはしなかったが、僕はそう判断した。

 褒めたのは、落ち込む彼女に慌ててたこともあったけれど、素直にそれが関心出来ることだったというのも理由だった。響きが良いとか、弾いていて気持ちがいいと思ったコードを感覚で見つけ出して弾いていたとしたら、とても彼女はセンスが良い。

「でも、このコードまで考えられたのに、どうしてそのまま自分で曲を作ろうとしないのかな。僕にはそれがよく分からない」

 ヘッドのペグを回しつつ、弦を一音一音鳴らしていく。何度も何度も聴いた音だ。正確に調整することくらいたやすい。状態がずいぶん悪いからか正確な音に辿り着くまでに若干かかるが、それでも「正しく弾ける」ように直すくらいなら出来る。今度新しい弦を持ってくれば錆びの件も解決するだろう。

 六本それぞれの音を確認し、良くなったと感じたところで鳴らしてみた。

 澄んだ音がボディを通じて広がり、ステージ上からフロアへと広がっていく。

 ふわり、と部屋中を包み込むような心地の良い倍音があって、それらはやがて残響を残してそっと闇の中に溶け込んで消えていった。

 僕はなんだか気分が良くなってきて、先程まで彼女がずっと繰り返していた四つのコードを思い出しながら、順繰りにストロークしていく。

 そのコードは、どこか物憂げで、淋しげな音がした。

 早朝の、仄暗い群青色の景色の中で、自分一人だけが立ち尽くしているような、そんな寂しくて、悲しくて、切ない音のような気がした。

 僕はその音の組み合わせが、展開が、流れが、じわりと身体に染みていく感覚を覚えた。今の自分が求めている音のような気がして、それが心地よくて、でも、自分の想いを見透かされているような気にもなって、胸がぎゅっと締め付けられるような切なさを感じた。

 三度目のくりかえしでとうとうその痛みに耐え切れず、僕は弾くのをやめた。

「うん、良くなったんじゃないかな。工具があればもっと綺麗にしてあげられるんだけど」

 弾いて感じた痛みをごまかすように、僕は口早に説明して、俯く彼女にギターを差し出す。

 だが彼女は、ギターを受け取らなかった。そのまま頭を垂れ、マフラーで顔を隠し、目の前に差し出されたギターに首を振ると、肩を小さく震わせる。

「どうして泣くんだ?」

 泣いているということは、すぐに分かった。でも、その理由は?

 マフラーの奥の潤んだ目元に戸惑いつつ、僕は彼女の左手を取って、その手にギターを握らせる。僕が持っていてもしかたのないものだし、とにかく早く手放したかった。

 ギターを握らせてからも、彼女の涙は止まらず、嗚咽が彼女から聞こえる。

その時、彼女が掠れそうな声で、ぼそりとなにかを囁いたのを聞いた。「なんて?」と尋ねる僕の言葉に、彼女は握らされたギターを抱き抱え、口元のマフラーをぎゅっと強く握り締めて、もう一度小さな声で呟いた。

「また聴けた」

 僕は、彼女になにをしてしまったのだろう。

 正しく直すことで、彼女になにを思い出させてしまったのだろう。

 大粒の涙を目から流し、赤いマフラーが涙を吸って滲んで、暗く濃くなっていく。押し殺すように抑えられた口元から漏れ出る嗚咽とともに、聴こえた、と震える声で彼女は囁く。

「もう聴けないと思っていたのに」

 涙を流し続ける彼女の前で、僕はじっと、何も言わず立ち尽くしていることしか、嗚咽混じりの小さな呟きを聞き続けることしか、できなかった。



 ようやく落ち着いた彼女は、ポーチからハンカチを取り出して鼻をかみ、目元の涙と頬に残った涙の道筋を拭った。淡く塗られた化粧は涙で滲み、目元が少し赤く腫れてしまったのが恥ずかしいのか、彼女は余計にマフラーに顔を埋めてしまう。

 一旦外に出て買ってきたミネラルウォーターを渡すと、彼女は申し訳無さそうに受け取り、半分程飲むと心地よさそうに吐息を吐いて、落ち着いた顔を見せてくれた。

「ごめんなさい、突然泣き出して」

「いや、気にしないで。僕こそ、ごめん」彼女は首を横に振った。

「泣き止むまで一緒にいてくれて、ありがとう」

「大したことじゃないよ」

「こうして思いきり泣くのは、とても久しぶり」

 傍に寝かされたギターをちらりと見て、それから手元のペットボトルに目を向けるとキャップをいじり始める。堰を切って溢れだした感情が出尽くして、空っぽになった彼女は穏やかで、でも依然としてどこかが欠けているように見えた。

 彼女はもしかすると、僕と同じなのかもしれない。

「その、どうして泣いていたか、聞いてもいいかな」

 躊躇いがちにそう尋ねると、彼女は顔を上げて僕を見た。充血しているけれど、綺麗な目であることに変わりはなかった。

「言っても、信じてもらえないと思います」

「信じてもらう?」虹一が尋ねる。

彼女は困った顔を浮かべる。その顔を見て僕も困惑した。

 彼女は肩の力を抜くと、ふう、と息を腹の底から吐き出す。身体の奥底に沈殿していた何かを吐き出すかのように、その吐息は深くて、重かった。

「大切な人を失ったことがあるかって、さっきコウイチさんは聞きましたね」

「ああ、言ったよ」僕の脳裏に茉奈の姿が浮かぶ。

「私も、大切な人を、失っているんです」

「それは、恋人?」彼女は頷く。

「とても大切な人でした。私を支えて、救ってくれた。心から安らぐことの出来る居場所をくれた。もし彼に出会わなかったら、私は今も暗闇を彷徨っていたかもしれない」

 彼女はギターを拾い上げ、白くて細い指先で、輪郭をなぞるように愛おしそうに撫でる。細められた目には、懐かしむような色彩が浮いている。

「歌うことがとても好きで、好きな曲を弾いたり、自分で曲を作ってみたり、大勢の人に聴かせては嬉そうにしていました。自分の生き甲斐はこれなんだって……。私という恋人がいながら、ギターが生き甲斐って言うんです」

 そう言って笑う彼女の笑顔は、嬉しそうで、哀しそうだった。

「勿論ストロヴェリィフィールズの曲も大好きでしたし、何かにつけて口ずさむから、気がついたら私も一緒になって歌えるようになっていました。さっき歌ったあの曲、彼が一番好きだった曲です。デビューする前もした後も全て好きだけど、一番何が好きかと言われたら、この曲だって、嬉々として語っていました」

「それは、うん、とても嬉しいよ」例えそれが僕の知っている世界でなくとも、認めてもらえることは、嬉しかった。

「でも、そんな彼も昨年交通事故で、トラックに轢かれて……」

「トラック?」彼女から出た言葉を思わずくりかえしてしまった。彼女は頷いた。

「信号無視のトラックに突っ込まれたんです。即死だと言われました。外傷も目立たなくて、遺体を見た時、眠ってるのかと思うくらい綺麗で……」

「去年の、いつ?」

 唐突な僕の問いかけに、彼女はきょとんとしていたが、やがて「十月です」と答えた。

「何か?」

「ああ、いや、続けてもらえるかな」

「はあ」

 僕の反応に不思議そうにしながら、彼女は再び話し始める。

「それで、彼が死ぬ前に作ろうとしていたのが、この曲なんです」

 そう言って彼女はギターのフレットを指で抑えると、四つのコードを丁寧に弾いてみせる。チューニングの揃った和音はとても滑らかで心地よかった。

「きっと、この曲はとても良いものになる。そんな予感がするんだと、彼は言っていました。自分が今まで作った中で多分、最高のものになると。でもその曲を完成させる前に彼は死んでしまった。たった四つのコードだけ残して」

「だから君は、それだけ弾けるのか」

「他も練習したけど、駄目でした。私にはセンスも技術もなかった。彼が歌っているのを隣で聴いているのが好きなだけで弾いたことはありませんでしたから」

「本当は自分で、引き継いで完成させたかったんだね」彼女は頷く。

「いつもは河川敷とか小さなスタジオで弾いているけれど、どこも今日は都合が合わなくて、仕方ないから弾いていても大丈夫そうな場所を探して歩き回っていて、ふと彼と始めて出会ったこのライブハウスを思いついたんです。幸いチェーンや鍵も外れていて、簡単に入れるようになっていました」

「そこで一人静かに楽器を弾いていたら、僕が現れたと」

「真っ暗だけど、居心地がいいなって思って、小さなライトで椅子を探して持ってきて、一人で弾いていたんです。そうしたら、突然照明が点いて、フロアには貴方がいました」

 そんな不可思議な状況でも、チャンスだと思えた。

 恋人の残した曲を引き継いで作ってあげたい。でも自分には力がない。そこに普段から恋人や自分の口ずさむ人気アーティストが現れた。奇怪な状況よりも、彼女の想いは「これで曲が作れる」という方向に傾いた。だから開口一番があの言葉だった。

「初めは他人の空似かと、幽霊でも見たのかとも思った。でも、もしそれが本当に実際の虹一くんだったなら、こんなチャンス二度とない。でも返ってきた返事は」

「音楽をやめている、と?」

 頷いた彼女は深く落胆していた。

「本当に、やめてしまったんですよね」

 僕はその問いに沈黙で返した。念を押す意味合いもあったのだろう。そう、と彼女は弱々しく呟いて、アコースティック・ギターに身体を預け俯いてしまう。厚手のセーターで曖昧だった胸がギターに乗る形で輪郭を作り、その上をマフラーが流れるようにして垂れていく。

「ごめん」

「コウイチさんが謝る必要はないです。元々私が勝手にチャンスだと思っただけで」

「例えば、僕のほうで生きているかもしれない恋人を連れてくるのは無理なのかな」

「それこそ、無理です」

「どうして?」

 彼女は顔を上げると、悲哀に満ちた眼差しで僕を見つめ、そして言った。

「だって、私の恋人は、九重虹一だったんですから」

 頭が真っ白になる時というのは、こういう時のことなのかもしれない。彼女の言葉に僕は言葉を失った。立ち尽くす僕に対して彼女は「この状況は、本当になんなんでしょう」と弱々しい声で言った。

「デビューもしていなくて、音楽もやめてしまって、しかも他に恋人がいる。けど確かに顔も声も名前も同じだなんて」

「ちょっと待って、よく分からない。君と僕が恋人、だった? 事故で死んだ? そんな、だって僕は確かに、ここに」

「私だって理解できません。けど、無理にでも理解するには、別の世界に迷い込んだと考えるしか」

「そんな非現実的なことがありえあるわけがない」

「だって、もうそれくらいしか考えられないじゃないですか」

 今にも泣きそうな顔をして答える彼女に僕は怯んだ。

「全部、妄想で済ませられたら良いのに」

 ぽつりと呟いた彼女の言葉に、僕は額に手を置くと溜息を一つ吐いた。

「取り乱してごめん」

 彼女に謝って、僕はステージとフロアを隔てるフェンスに腰掛ける。一体、なにがどうなっているんだ。

「さっきの会話で、改めて確認したいことがあるんだけど」

「なんですか」

「恋人の死因は、確かに交通事故だったんだね?」

 彼女は素直に頷いてくれた。恋人を強調したのは、そこに自分の名前を当てはめたくなかったからだった。そんな、自分が死んでいるなんて考えたくもない。

「僕の方も恋人が死んだのは、さっき言ったよね」

「聞きました」

「僕の恋人が死んだ理由も交通事故だ。一年前、信号を無視したトラックに轢かれた」

 流石に彼女も動揺を隠せなかったらしい。ギターを思わず取り落としてしまうくらいだから、よっぽどだ。床に落ちたギターから鈍い音が響き、弦が震える。音は反響し、余韻を残して周囲に広がる。僕はその音の中でただ、真っ直ぐに彼女を見つめていた。

「一つ、試してみたいんだ」

僕は入ってきた扉を指差す。

「仮に君と僕が違う世界に生きていて、なんらかの拍子で二つの世界がつながってしまったとしよう。僕らはどうなっているんだろう」

「どうなっている、ですか?」

「この場所を一緒に出ることで、少なくとも今置かれている状況は分かると思うんだ」

 認めたくない僕の、精一杯の抵抗だった。



 出入口の扉は開け放たれ、微かな薄明が差し込み、朽ち果てた看板を弱く照らしている。呑み込まれる事を恐れるように光は玄関の前で立ち尽くし、大口を開けて食事を待つ闇を前に怖気づいているようだった。

 扉の様子は彼女に聞いても同じだった。というよりも入ってきた時のことをあまり鮮明に覚えていないため、互いに開け放しにしたということだけは覚えている状況だ。例え二人の視点から見える扉の角度が違うとしても、その微々たる変化を摺り寄せるのは不可能に近い。これでどちらかが閉めていたなら良かったのだけれども。

 ただ、ここでもしも互いの視点から見えている扉が明確に【閉じている】と【閉まっている】だったとしたら、僕は彼女の幻想じみた意見を呑み込まざるを得なくなっていた。だから、僕からすればある意味良かったのかもしれない。

「もし本当に君と僕とが違う世界の住人だとしたなら、扉を出た時、四つの道が考えられると思うんだ」

「四つ?」僕は頷く。

「君が僕の世界に迷い込んだのか、僕が君の世界に迷い込んだのか、もしくは限定した範囲でだけ世界が交わっているのか、二つの世界が一つに融合してしまったのか」

「それが、この場所を出るだけで分かると」

「迷い込んだ場合、二人で周辺の状況を見て回ればすぐにどちらが『迷い込んだ』か分かるんじゃないかな。君の世界に僕が来たなら、ココノエコウイチの写真や、出回っている音源。後は、墓でも確認すればいい。逆だとしたら僕が脱退した後別名義になった鷹居のバンドを確認してもらえば、完全にではないけど判別はつく」

 何より九重虹一が死んでいないという周囲の認識を見せるだけで十分だろう。彼女が言うに僕は死んでしまっているのだから。

「融合と、範囲が限定されている場合は」

「後者なら、その範囲外に出れば僕達はきっと干渉出来なくなるんじゃないかな。ただ前者だと、それこそ僕達が考えている以上に混乱が生じている筈だ」

「この食い違いが起きているのは私達だけではないと」

「そう、おまけに同一して存在する人物が混ざり合っている様子はない。僕はともかく、もしそうであれば君の方に覚えの無い記憶が存在してしまうし、互いの精神がどう纏まるのかも分からない。相当な混乱状態になるに違いない。だが君を見る限りそんなことは起きていないように見える。だから、もしもあるとするなら、一つの世界に同一人物が二人存在する方だろうね。きっと阿鼻叫喚さ」

 けどもし、と言いかけた言葉を僕は飲み込む。口にしたらもっと期待してしまう気がした。

 もし彼女の世界に迷い込めたなら。

 期待、するなと言う方が無茶な話だ。本当にあの事故で死んだのが九重虹一だとするなら、もう一生会えない筈の人物が彼女の世界ではちゃんと息をしていて、手を握れば体温だってあって、確かにそこにいることになるのだから。

 会えるのなら、会いたいと思うに決っている。それが、僕の恋人ではない彼女だったとしても。

「手を」

「手?」差し出した手に彼女が自らの手を乗せた。僕は頷くとその手をしっかりと握る。少し冷たいけれど、人の手だ。柔らかくて、絹のような心地よい感触。

「手をつないだままの方が、扉を出た際の変化が分かりやすいと思って」

「どちらかの手だけが相手の世界に残ったりは、しませんよね?」

「ステージ上の君とフロアの僕が認識できない状態から認識できる状態に変化したことを考えると、そうやって残るって事はないと思う。多分、互いに存在を見失うように消えると考えていいんじゃないかな」

 勿論確実にそうとは言えないが、出来るだけ僕は彼女を認識しておきたかった。

「もし隣を見て、互いにいなくなって、手の感触も消えていたら、その時点でライブハウスに戻ろう。もしこの繋がりが続いているなら、僕達はまた会えるはずだから」

 彼女は頷くと、真っ直ぐに扉の開いた入り口に視線を向けた。

 僕達は合図と共に歩き出す。一歩、二歩、三歩、と着実に入り口へ。

「一つ、ここを出る前に聞いてもいいかな」歩きながら僕は尋ねた。

「答えられることなら」互いの歩幅に気をつけながら、彼女は言う。

「君の名前は?」

 今更過ぎると彼女は思っただろう。だが、彼女だけが名前を知っているのもフェアではないし、一応聞いておきたかった。

 彼女は不思議そうな目で僕を見てから、柔和で、距離感の無い屈託のない笑みを浮かべてみせた。心を開いた人にだけ見せるようなとびっきりの、儚げな笑顔だった。

「あゆむです」

 扉が近づく中で、彼女はそう言った。

「早見あゆむです」

 彼女、早見あゆむの言葉と、握った掌の感触が消失するのは、ほとんど同時だった。

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