2
君にしかできないことだと、彼女は言った。
突如としてステージ上に現れた女性のその不可思議な言動に僕はただただ困惑していた。九重虹一は確かに僕だが、彼女と知り合った覚えがない。
「失礼だけど、誰かと間違えてないかな」
恐る恐る尋ねる僕に、彼女は首を横に振った。彼女の言う「コウイチ」は僕であるらしい。
「間違いなく?」
「ストロヴェリィフィールズ」
告げられた名前に僕は固まってしまう。
その反応を見て、彼女は続ける。
「シングル、アルバムはチャート上位をキープし、着実に動員数を増やしている、気鋭のロックバンドのボーカル九重虹一。知らないはずがない」
アルバム? チャート上位? 彼女の口から現れる言葉の数々に僕の混乱はさらに深まっていく。
ちょっと待ってくれ。僕は一体いつそこまで上り詰めた。壁に背を預け、額に手をかざして僕自身が辿ってきた道のりを思い出してみるが、どこをどう探しても、そんな大それた活躍は記憶になかった。
なにより、ストロヴェリィフィールズと名乗っていたバンドは、もう活動していない。フロントマンだった僕は音楽をやめたのだから。
「君の言っていることが、よく分からない」
顔を上げると、彼女は眉根を寄せて僕を見ていた。疑るように、何かを読み取ろうとするかのように。スポットライトの下で彼女の瞳がゆらりと揺れているのが見えた。何を読み取ろうとしているのだろう。僕は彼女の顔を見つめながら、改めて口を開く。
「僕はもう脱退して、音楽自体からも離れたんだ。それに、自主制作以上の音源を出したこともなければ、チャートに残ったこともない。どうして君がそんなことを言ったのかよく分からないけれど、ともかく君の言うココノエコウイチは僕じゃない」
だがもしかしたら、そんな未来もありえたのだろうか。大きなステージで歌って、それを見守る茉奈の姿があって、あの三人と今も足並みを揃えて進んでいるそんな未来が。
僕は妄想を振り払うように頭を横に振る。そんなものは夢物語に過ぎない。第一もう茉奈は死んでしまっているのだから、叶うことのない願いだ。
「音楽を、やっていない?」
僕は頷く。照明の光を受けた彼女の目瞳が、水気を帯びて青白く輝いている。
「音楽をやっていないなんて、そんな」
動揺する彼女を見て、僕はどうしたものかと腕を組む。彼女の言動の一つ一つが、まるでピントのずれたカメラみたいだ。僕についての話なのに、見ているのは僕ではない。
この奇妙な感覚は、一体なんなんだ。
「僕はともかく、鷹居達はバンドを続けているよ。最近、そのバンドが売れ始めているって聞いたから、きっとそのバンドに僕がいると思ったのかもしれない。だからストロヴェリィフィールズと混同したんじゃないかな」
「混同はしてない」とても強い否定だった。「私はずっとストロヴェリィフィールズを見てきたから。たくさんライブを見て、応援し続けてきた。そんなバンドのことを間違えるわけない」
「なのに僕が脱退したことも、名義が変わって他のメンバーが活動していることも知らないと?」
言ってしまって僕は後悔したが、点いてしまった火はそう簡単には消えてくれない。吐き捨てるように口にした言葉に彼女は俯き、黙ってしまう。
ストロヴェリィフィールズを愛していたと言うファンに対して、どうして僕はこんなにも否定的な言葉を口にしてしまうのだろう。道を誤ったように思えたからか、それともそんなありえたかもしれない夢を語られるのが許せなかったのか。
「なら、証拠を見せてもらえないかな。僕らが活躍していたと君が言うのなら、僕を信じさせることのできるなにかを」
彼女は顔を上げて僕を見つめ、それから頷くとギターを椅子に立て掛けて、ポーチを探り、ウォークマンを取り出す。
「ストロヴェリィフィールズのアルバムが、そこに入っているんだね」
我ながら嫌味な言い方だと思った。
彼女はディズプレイを覗き込み、何度かボタンを押したが、やがて困ったように眉根を寄せる。
「どうして」
「何?」
「電源が、入らない」
僕がため息をつくと、彼女は目を細める。
「君がなんと言おうが僕はもう音楽から手を引いているし、僕が有名になったなんて事実はないよ。君がどうしてここにいるのか、どうして曲を作って欲しいのか、どうしてそんな嘘をつくのかはまるで分からないけれど、それだけは……」
言葉はそこで途切れてしまった。
彼女が、突然歌い始めたのだ。
人前であまり歌うような経験があまりないのだろう。唄声は上擦っているし、緊張で震えているのがすぐ分かった。
だが、僕を黙らせるには十分な歌だった。
彼女が歌っている曲は、僕の知っている曲、いや、僕しか知らないはずの曲だったからだ。
鞄から携帯電話を引っ張りだして、「作りかけ」と書かれたフォルダを開いて、中から「曲案二」と表記された音声データを選択、再生を押す。
携帯のスピーカーから直に録音したギターの前奏が流れ出す。微かなその音に気付いた彼女は歌うのをやめた。懐かしそうに彼女は目を閉じて身体を揺らしている。
前奏が終わって、僕の声がギターの伴奏に乗り始めた。歌詞こそ適当だが、メロディだけは丁寧に録ったことをよく覚えている。
いつかメンバーにも聴かせたいと思っていた渾身の一曲。
一年前、未発表のまま、誰にも聴かせることなくお蔵入りになった不遇の曲。
それを今、彼女は歌ってみせたのだ。
「一体、どうして」
呆気に取られる僕に対し、彼女は嬉そうに口角を上げ、再び僕だけしか知らないはずの歌を口ずさみ始める。
「ストロヴェリィフィールズのデビューを飾った曲が、これだったから」
「そんなわけがない。これは、誰にも聴かせた事がないんだ」
「本当に、誰にも?」
頷く。茉奈にすら聴かせたことがないのだから、本当に誰にもだ。
誰もが口ずさめるような曲を作りたくて確かに僕はこれを作った。
だが、口ずさんでもらえるようになる前に、バンドは終わってしまった。
僕は、疑いと怖れを抱きながら、彼女を見た。
「君は、一体何者なんだ?」
「私も、正直なところよく分からない」
「分からない?」
「だって、ストロヴェリィフィールズは解散、デビュー曲は発表すらされてなくて、音楽もやっていない。そんなことを、ココノエコウイチ本人が言っているんだもの……」
まるで僕のことを知っているような口ぶりだった。
彼女が見てきたココノエコウイチとは一体何者だ。
未発表の歌を口ずさめて、僕達が夢見た話をあたかも現実であるかのように語る彼女は、正直気味が悪かった。
「日付も、時間も同じ、顔も、全部同じなのに、どうしてこんなにも違うんだろう」
「僕が知りたいくらいだよ」
僕は呻くように言った。わけがわからない。突然現れてこんなちぐはぐな話をされ、更には未発表の歌を口ずさまれ、一体何をどう呑み込めというのだろう。
うめき続ける僕とは対照的に、彼女は顎に手をあてて俯き、黙考を続けていた。
信じられない、そんなことありえない、まさか会えるわけがない、とぶつぶつと言葉を呟く彼女を横目に、僕は壁に背を預けて宙を仰ぐ。
「その、コウイチ、さん?」
「今度はなんなんだ」気だるげに顔を上げると、彼女は両手を組んだまま上目遣いにこちらを見ていた。言うべきか、言うまいか、悩んでいるのだということはすぐ分かった。だが、一体今度は何を言うつもりなのか。
訝しげに様子を伺う僕をちらりと見て、彼女は両手を上げた。人差し指は天井を指し示している。首を傾げながら彼女の動向を眺めていると、彼女が口を開いた。
「あの、この状況に関しての考察です。私とコウイチさんの食い違いが、あまりにも綺麗に分かれているから、もしその二つの意見をどちらも『正しい』と判断するとしたら、こういう考えしか、できないと思うんです」
困惑したままの僕にかまわず、彼女は指先を頭上から、ゆっくりと平行に線を引くように下ろしていく。
平行に線。
僕の中で引っかかった言葉だった。眉をひそめ僕は彼女の指先を追っていく。平行に引かれ続けていた指先が、途中で内側へと斜めに曲がり、移動方向を変えていく。このままだと違い合う平行線が、衝突してしまう。
僕は彼女が何を言うまいとしているのか分かった。
その衝突が、僕らだと彼女は言っているのだ。
いや、そんな事ありえない。あまりに非現実的過ぎる。
実演されていく彼女の答えに対して、僕は否定の気持ちを込めて首を横に振る。
だが、彼女は構わず指先を下ろしていく。
華奢で線の細い二つの指先は、徐々に互いの距離を縮め、やがて彼女の腹部の辺りで接触した。
「もしも」接触した指先を見つめながら、彼女は言った。
「もしも私とコウイチ君の生きる世界が違っていたとしたら」
彼女の言葉に、僕は思わずステージを見た。
彼女が隠れたり後から入ってきたのではなく、もし突如としてここに現れたのならどうだろうか。気配を感じなかった理由も、僕が聴いた彼女のギターを弾く音も、「つながりかけていたから」としたならば。
いや、違うと僕は頭を振る。
「僕だけしか知らない曲を歌える理由も、何か裏があるのかもしれない」
食い下がる僕に対し彼女は困ったように眉根を寄せた。
「二つの世界が交じったとか、そんな超常じみたことを呑み込めっていう方が無理なことなのは分かっています。ただ、『音楽から離れた』とか『デビューしていない』という話よりは、少なくとも私はこちらのほうが信じられます。だって私の知っている虹一くんは、音楽を続けている人だったから」
「そう言われても、本当に僕はデビューなんてしていないんだ」
「私の『方』ではデビューしているんです」
折れる様子のない彼女に僕はだんだん疲れてきた。
僕は壁に寄りかかると煙草を口に咥え、ライターを探す。
「煙草、吸っているんですか?」
「君のとこの僕は吸ってないの?」
茶化すようにそう返答すると、彼女はむっと顔をしかめ、ブーツの踵を強く鳴らして目の前にやってくると、咥えていた煙草をむしり取って捨てた。
「何をするんだ」
「喉に良くありません」
「知るか」
「仮にも歌とメロディを愛されているバンドのボーカルが、その肝心の喉を大切にしなくてどうするんですか」
「だから辞めたって言ったじゃないか」
「それでもです」
「勝手にさせろよ」
「あの歌が聴けなくなるのは、もう嫌なんですっ」
小柄な彼女の何処にそんな力があるのか、フロア全体にうわんと響くような声に僕は思わず身を縮こまらせてしまう。流水のように澄んだ綺麗な声は、声量が上がり、広域が強くなると途端に凝固した氷のように冷たく、針のように鋭く鼓膜を突いてくる。
彼女の一方的な言葉に苛立ちを覚えていた僕も、流石にこれだけ熱心なファンをやられると起こる気も失せてきて、僕は溜息をつくと、ケースとライターを胸にしまい、呆れ顔で彼女を見た。彼女はそんな僕を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「お互いに、少し落ち着こう」
彼女は顔を伏せ、僕の言葉に小さく頷いた。
「それで、色々と聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
「何を?」
「何故、音楽をやめてしまったんです?」
それは、と僕は喉元まで出かかった言葉を口にしていいものか考える。得体の知れない彼女に、それも熱心なファンだという彼女が、やめた理由を理解してくれるだろうか。僕にとって大切なことでも、他人、それもファンからしたら、ありえないことと思うかもしれない。
「言いにくい、ことですか?」
躊躇いがちに尋ねる彼女の顔、それからアコースティック・ギターを順に見てから、一度瞼を閉じる。茉奈の姿を、弾き語る彼女の姿が浮かぶ。
僕は目を開けると、ステージに目を向けた。
「大切な人が死んだんだ」
ぽつり、と口から出た言葉に、僕は従うことにした。
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