1 錆びた弦と赤いマフラー

1



 一年が過ぎて、気がつけば十月。茉奈が生まれた月が一巡りしてやってくる。

 十月を境に景色に絵筆が入っていく。みなどこか寂しさを孕んでいるように淡く滲んで見えた。枯れ落ちた樹木の立ち並んだ通りを、コートやマフラーで身を固めた生徒たちが群れをなして歩き、肌寒くなった空気に身を震わせ、暖房のきいたキャンバスや食堂、図書館へと急いでいく。

 校舎へ急ぐ群れの中で立ち止まると空を見上げ、僕は深い吐息を吐き出した。

 彼女が死んで、次の月に二十歳を迎えた僕は、メンバーに脱退を告げた。誰も止める者はいなかった。ただ寂しそうに僕を見つめ、一言「分かった」と口にすると、決まっているスケジュールだけ確認して、脱退の時期を提示してくれた。

 一年経った今、僕のいたバンドには新たなボーカルが入り、以前よりもめざましい活躍を遂げているそうだ。何より動員が段違いになっているようだった。

 ふと、煙草が吸いたくなった。

 胸ポケットからくたびれたケースを取り出して中を覗き込む。たった二本の煙草が窮屈そうに中で身を捩らせていた。

 さてどうしようか。僕は腕時計を見て考える。もう十分足らずで講義が始まる。出席数は十二分に蓄えがあるから心配はいらない。

 しばらく玄関を眺め、やがて踵を返すと、シガレットケースを片手に歩き出す。

 玄関で渋滞を起こしている生徒達を横目に、僕は別館側の喫煙所に足を運ぶ。壊れかけのベンチが三つと灰皿が二つだけの簡素な場所だが、僕はむしろこの簡素さをとても気に入っていた。

 どっかりとベンチに腰を降ろし煙草を咥え、ライターを探す。ケースの中にも、胸やズボンのポケットにも、羽織っているモッズコートのポケットにも見当たらない。肩提げ鞄にも手を突っ込んでみたが見つからない。

 困ったな、と煙草を口先で弄びながら、両手をポケットに突っ込んだまま背もたれにどっかりと体を預ける。

「火が欲しいならやるよ」

 聞こえてきた声に僕は顔を上げた。顔を上げるやいなや目の前で小気味良い音と共に火柱が上がった。最大火力にしたのだろう。それくらい威勢のいい炎と胸焼けのするガスの臭いに反射的に僕は声を上げ、咥えていた煙草を落としてしまう。

「なんだ、欲しかったんじゃないのか?」

 右隣に座る男は悪戯に目を細めて笑う。僕は咳払いを一つして、ひったくるようにライターを奪うと足元に転がる煙草を拾い上げて、火を点けた。煙を深く吸い込んで、一息つくと僕はライターを彼に放るように返す。

「久しぶりだな」

「こんな時間にいるなんて驚きだ」

 ライターを受け取った彼は肩を竦めてみせる。

 鷹居浩太とは知り合ってからもうだいぶ経つ。いや、付き合いとしては親友と呼んでもいいのかもしれない。

 『かもしれない』となってしまった理由は全面的に僕にあるわけだが。

 入学してまもなく僕は軽音楽サークルの戸を叩いた。

 音楽に対する取り組みが甘かった高校の部活に比べ、開放感に満ちた大学への期待はとても大きかった。幾つものバンドが実力を極め、音楽を作り、そして魅力的なライブをするものだと勝手に思っていた。

 だがそれは幻想で、確かに音楽に身を委ねている環境もあるかもしれないが、そんな土壌のできたサークルなんてそうあるわけはなく、大半は精々気の合う友人や気になる異性と興味を共有し、ノリの良い音楽をコピーして披露し、打ち上げで羽目を外すだけで、バンド活動、ましてや作曲だなんて夢のまた夢でしかなかった。

 その空気を悪いと思ったことは無かったし、僕もその中に上手く馴染んでやっていた。ただ、本来求めていた理想と現実との狭間で悶える生活は、正直苦しかった。

 そんなときに出会ったのが、鷹居だった。

 サークルに馴染み始めて二月ほど経った頃、定期ライブを終え、飲み会までのんびり待とうと楽屋にいた僕の前に彼は突然現れ、向かいにパイプ椅子を置くとどかりと座ったのだ。

 第一印象はスポーツマン。短髪でがっちりとした体格と、人当たりの良さそうな柔和な笑みを見て、どう反応したものかと僕は悩んだ。だが、反応に困っている僕にかまわず、彼は唐突に手にしていたギターを弾き始めた。アルペジオの落ち着いた始まりから、徐々に抑揚をつけ、サビで力強くコードを掻き鳴らしながら彼は囁くように鼻歌で歌い始めた。綺麗なメロディだと思ったし、歌好きな僕の興味を惹くには、十分な曲だった。

「いい曲だね、誰の?」

 僕の言葉を聞いて鷹居は、得意気な顔をすると、こう答えた。

「誰のでもない。俺の曲だよ」

「君の?」

 驚く僕の肩に手を置いた彼は、目を細めて笑ったのだ。

「なあ、自分で、自分達だけの想いを伝えたいって、思ったことないか?」

 多分、彼と一緒にいようと思った理由があるとすれば、その一言だ。

 僕は二つ返事でそれに応えた。エッジの効いたリフと、メロディに添うような美麗なフレーズを紡ぎ出す最高のギタリストだと、音楽をやめた今でも僕は思っている。

「講義、出るのか?」

「いいさ、卒業はもう虹一より半年か一年くらい遅れることが決まってるしな」

 ポケットから煙草を一本取り出し彼に差し出す。彼は何も言わずにケースごとそれを受け取って煙草に火をつける。呼吸に合わせて煙草の先が明滅する。

「活動はどう?」

「今度音源を出すことになった。小さいけど進歩だ」

「文野と長江は?」

「前より長江が動くようになったな。文野は相変わらずドラムの前でどっしり構えているよ」

「それは良かった」

「順調そのものさ」

 煙草を咥え、言葉の代わりに煙を宙に向けて吐き捨てる。僕の身勝手な行為があっても順調だと答える彼に、どう返そうか、少し悩んでしまった。

「なあ、もうギターは触ってないのか?」

 躊躇うような、遠慮気味の小さな声で鷹居はそう口にした。

 僕が顔を向けると、彼は煙草を口に含み、玄関口に群がる学生を細めた目で追っていた。遅刻が決まった学生は大抵何かから開放されたような表情で、気怠そうに校内へと姿を消していく。

 煙草の先の、明滅する赤をしばらく見て、僕は肩を竦めると白い息を吐き捨てた。

「もう、弾きかたも忘れてそうだよ」

「忘れないものさ、そういうのは」

 鷹居はベンチから腰を上げ、まだ半分ほど残っていた煙草を灰皿に押しつけて捻り潰す。白煙が立ち上って溶けるように空に消えていく。

「バンド、本当にもうやらないのか?」

きっと、彼は僕に次会ったら、そう切り出そうと思っていたのだろう。

 ベンチに腰を落としたまま、僕はモッズコートのジッパーを上げ、首元を隠すようにコートを寄せた。また少し、寒くなってきた。

「やらないよ」僕は見上げるようにベンチから鷹居に視線を向け、口角を上げてみせた。「鷹居は今、上り調子で、僕なんかにかまっている暇はないはずだ。僕には、夢を叶えるだけの覚悟が結局無かった。それだけだよ」

「七峰茉奈」

 鷹居の口にした名前に、僕は口を噤む。

胸の奥を掴まれ、引き抜かれたような空虚と寂寥感の入り混じった感覚。ぽっかりと空いたその穴にじわりと生温くて気味の悪い苦汁が染み込んでいく。

 多分僕は今、ひどい顔をしているのだろう。鷹居の瞳に同情の念が薄く溶けこんでいるのを見て、なんとなくそう思った。

「なあ、もう一年だ」

 もう、とは一体何を意味するのだろうか。

 一定の時間を消費すれば喪失はすべて過去にできるのだろうか。

「確かに、お前と七峰はうまく繋がれていた」

 鷹居は目を逸らすと下唇を少し噛む。いつもの癖だ。言いにくいことを言おうとする時にやる、何度も見てきた彼の癖。

「バンドに打ち込むのと同じように、七峰に入れ込んでいたのも分かっている。だから均衡がうまく取れず、結果としてバンドをやめようと思ったんだろ?」

 その問いに口を閉ざしたまま、僕はじっと彼を見上げていた。指に挟んだままの煙草は、少しづつ灰になって、やがて地面にはらりと落ちていく。

「俺はさ、今のお前が無理しているようにしか見えない」

「無理?」

「こればかりは七峰とお前の話だから、俺が何か言うことじゃ無いのかもしれない」

 けど、と鷹居はきっと目を鋭く細めて僕を見下ろす。その目には、憐憫や同情に似た色が見て取れた。僕はその目にだんだん気分が悪くなるのを感じた。

「俺、お前の歌をまた聞きたいんだよ」

 開かれた口から出た言葉に、僕は俯いたままでいた。

 僕と彼の間を、寂寞とした冷たい空気が流れ込む。酷く冷たくて、息をするだけで凍えてしまいそうな空気だった。僕はその間、何も喋ることができなかった。

 やがて、生温い溜息が聞こえた。

「何かあったら、気軽に連絡してこい」

 鷹居はベンチに何かを置くと、それ以上何も言わずに去っていった。

 ちらりと見た彼の背中には、諦観と、未練があった。それが僕の決断が招いた結果だと思うと、申し訳なくて、でも自分が選んだ選択を変えるつもりもなくて、得体の知れない想いに胸が苦しくなった。

 僕は苦しみを吐き出すように深く息を吐き出すと、隣に鷹居が置いたものに目をつけた。淡い青色の短冊形のチケットで、既にも切られた跡がある。ずいぶん前の日付に、出演者の名前と、代金が印字されている。その中には僕のいたバンドの名前と、恋人の名前もあった。

 懐かしいものを置いていったな、と手にとって眺めながら、まだ知名度も何もなかった当時のライブを思い出す。

 観客は見知った顔しかいない。ほとんどが後ろで眺めているだけで、腕を振り上げるような観客は見当たらないし、どれだけ自分達が会心の出来と思う演奏をしても反応は薄く、演奏後に物販で自前の音源を宣伝しても一つも売れない。

 まるで自分達の全てが否定されているような気がして、苦しくて、けれど打開策も見つからなくて途方に暮れていた。

 七峰茉奈と出会ったのは、そんな時期だった。

 青いスカーフに白いブラウス、黒いスキニーパンツと朱色のシューズを身に付け、アコースティック・ギターを提げてマイクの前に立ち、ギターと唄声だけで自分を表現していた。

 たった二つの音だけで戦う彼女の姿は凛としていて、その声が、姿が、僕にはとても魅力的に見えた。

「私ね、早い音楽は苦手なの」

 開口一番彼女が口にしたのは、それだった。

 打ち上げで共演者が談笑する傍ら、バーカウンターの隅でちびちびとソフトドリンクを口にする彼女に声をかけたのが始まりだった。

「別に嫌いってわけではないのよ。パンクとかでも好きな曲は沢山あるし、そういうものを好んでいた時期もあったから。でも今は、テンポが早くなるに連れて生き急いでいる気がして、不安で仕方がなくなるの。他の人と一緒にやっても、私の考えは少し退屈に思えるみたい。だから結局、私一人できる範囲で作ってやるしかないって、今こうして弾き語りをしているの」

 なるほど、と僕は彼女の潔さに感心した。ただ彼女ばどうにもその告白に対し僕が良い印象を抱かなかったように見えたらしく、顔をしかめながらコップに口を付け、それから首を傾げてみせた。

「激しくて格好いいロックを志している人にこんなこと言うの、失礼だった?」

「失礼って、どうして?」

「だって、私の考えって、他の人からしたらずいぶん身勝手でしょう? みんな誰かと何かを共有して、妥協や自分と相手との境界を見極めようとしているのに」

「悪いなんて思わないよ。一人じゃないと許せない人なんていくらでもいるし、君だってきっとその一人に過ぎない。僕みたいな誰かと一緒にやっている人間からしたら、君の考えはとても新鮮で、すごいことだと思う」

「そう、それなら良かった。私、言いたいことをそのまま口にしてしまうから、時々声をかけられてもあまり話が弾まなくて、そのせいで繋がりもあまりできないの」

 微笑む彼女の表情に寂しさは感じられなかった。おそらく、誰かから言われたことを皮肉げに繰り返しただけなのだろう。

 僕は首を横に振った。すると彼女は、意外とでも言うように目を普段より少しだけ大きく見開いてみせた。

「自分の好きなことくらい、妥協無く付き合えるようにすべきだ」

「そう?」彼女の言葉を少し借りたのに、多分彼女は気付いていた。僕は続ける。「確かに、誰かと干渉する時、距離を見極めることは必要かもしれない。でもあくまでそれは自分を見てもらう上でどう歩み寄るかって話で、自己を否定してまで作った表情は、疲れるだけで何も生まない」

 彼女はふうん、と頭を傾ぐと、小さく笑みを浮かべてみせた。

「若者らしい意見ね」

「実際に若者だからね」

 照れくさくて、冗談交じりに言ったつもりの言葉だったけれど、彼女はどうやら気に入ってくれたらしい。僕にプラスティック製のカップを向けると、目を細めながら名前を口にしてくれた。

「私は七峰茉奈。あなたの名前は?」

 彼女の口からちゃんとした自己紹介を聞けたことで、胸の奥がじわりと満たされていくのを感じた。

 茉奈からの自己紹介は、少し歩み寄れた証拠である気がして、嬉しかった。



『ラヴ・ミー・ドゥ』

 チケットに記載された店の前に僕はやってきた。

 テナント募集の張り紙が貼られたまま長い年月を過ごしてきたのだろう。かなり年季の入ったビルの脇にある小路の先の階段を降りていくと、そのライブハウスはあった。駅からバスで十数分、周囲に店もあまり無い不便な場所で、街灯の光もあまり当たらず、奥でひっそりと点いた看板の灯りがやけに気味悪くて、やはりというか、僕と茉奈が出演した日から間もなくして潰れてしまった。今ではすっかり土埃と風に野晒になり、建物には夥しいほどの蔦が這い回り、いかにこの場所が死につつあるのかを物語っていた。

 下り階段につながる小路を塞ぐ鉄柵の前にはチェーンが二つ厳重に通され、立入禁止のプレートが中央に掛かっている。端から錆が浮き、ペンキが剥げてざらついた赤銅色が滲んでいるのを見た限り、全く人は立ち入っていないようだ。

 どうして今更になってここに来ようと思ったのかは、正直自分でもよく分かっていない。鷹居が残していった当時のチケットを見て感傷に浸りたくなったからか、いや、それだけではない気がした。

 茉奈の名前が入ったチケットを眺め、指先で名前をなぞる。も切られたチケットはもう使えない。使用済チケットで再入場が出来ないように、過去になってしまった人間もも切られたチケットのようなものだ。あの時僕と茉奈の出会ったこの場所は、もう再入場のできない過去だ。

 僕はチケットを握り締め、チェーンの端に掛かっている錠前に触れた。どうにかして入れないだろうか。僕は脳裏で茉奈の姿を思い浮かべる。小さなステージに立って、ギター一本を手に凛とした佇まいで歌っていた彼女の姿を。


 かちゃん。

 金属の擦れるような、錠前が開くような音が響く。

 同時にチェーンが耳障りな音を立てて二つとも落ちて転がり、鉄柵は蝶番の耳触りな軋む音と共に開いた。立入禁止のプレートが力無く地べたに仰向けになったまま、僕を恨めしそうに見上げている。プレートから小路へと目を向けると、僕はチェーンとプレートを跨いで乗り越えた。

 突然鎖が落ちるなんて不可解だと普通なら気味悪がるべきだろう。早々にその場を後にするべきに決まっている。

 でも、ならどうして僕はその先に向かうのだろう。

もう使えるはずのないチケットが、なんだかもう一度息を吹き返したように思えたのだ。

 このチケットのように茉奈もまた思い出から回帰するような、そんな想いが心のどこかで芽吹いてしまったのかもしれない。もう茉奈はいないのに。

 小路を進み、突き当りを右に曲がると煉瓦造りの階段が現れる。手入れのされていないそれはビル壁のように蔦や土埃でまみれ、階段の奥にある看板も割れていた。

 更に目を凝らすと、扉が少しだけ開いているのが見えた。

 潰れて随分経つのに、鍵が開いたままなんておかしいと思いながら、僕は階段を一段、二段、と一つ一つ慎重に降りる。扉に辿り着くと、ノブに手をかけ、ゆっくりと引いた。蝶番が耳触りな音をざりりとたてた。

 扉の先に待っていたのは何もかもを飲み込んでしまいそうなほどの暗闇だった。しばらく目を凝らした後、何か使えるものはないかと鞄を探り、携帯電話を取り出すとフラッシュで辺りを照らす。

 弱々しいライトで暗闇を照らしていると、奥から音が聞こえた。

 アコースティック・ギターの乾いた音。錆びているのか時々ざらりと砂を噛むようなノイズが混じるが、響きはとても優しくて、暖かかった。特に、鳴らしている四つから五つのコードの連なりに僕は惹かれた。透明感のあるこれはナインスコードだろうか。アコースティック・ギターの空洞を使って響かせる優しげな音が心地よい。だが、弾き方が何処かためらうようで、どうしてか僕には奥から聴こえてくる綺麗な旋律が、どこか淋しげに感じられた。

 奥で、ギターを弾いている人がいる。だがこの暗闇の中で弾いているなんてありえるだろうか。携帯のフラッシュですら満足に照らせない、完全な暗闇だ。

 僕は携帯を手に喉を鳴らして生唾を飲み込み、漆黒に足を踏み入れていく。劣化し損傷が激しいこの中で、ガラス片や倒壊に特に気をつける必要がある。慎重に進まなくてはならない。僕は足元の感触を靴越しに探りながら、慎重に歩を進める。

 不意に、歩きながら指先を庇っている自分に気がついた。今でも指先を大事にするなんて、おかしいものだ。もう音楽はやめたっていうのに、楽器から手を引いたっていうのに。

 僕が戻りたいのは、茉奈と音楽がある場所であり、それはもうこの先叶うことはない。僕は茉奈と音楽の二つで成り立っていたから、片方の支えが無くなったことで崩れて、積み重ねてきたものも何もかも散らばってしまった。僕はその光景に立ち尽くし、呆然とする以外何もできなかった。

全くもって女々しいやつだと思う。

「誰か、いますか」

 嫌な想いから顔を背けるように僕は奥に声をかけてみた。が、返事はない。本来ならこんな暗闇の中でむしろ返事が返ってくるわけはないのだが。

 だが確かに音は聴こえた。考えられるとしたら浮浪者か、それとも他の、本来なら要るはずのない『何か』か。

 霊的な類をこれまで信じたことはないし、聞こえたギターの音はとてもリアルで、幻聴にしては妙にでき過ぎていた。あきらかに「人が弾いた音」としか考えられない。ピックの引っかかるような不器用で、不慣れな弾き方には、人間味があった。

「いたら、返事してください」

 もう一度声をかけてみるが、返事はない。

 細い廊下を抜けていくと突き当りに防音扉が見えた。重たい扉を開くと、かつてバーカウンターだったスペースが正面に広がり、カウンタースペースの横にライブステージが姿を現す。バーカウンターの奥、ステージのすぐ左に隣接された扉は、楽屋につながっている。扉の横には化粧室が見えた。

 扉の手前にスイッチが確認できたが、入れてみても明かりがつく様子はなかった。電気系統自体がもう活きていないのだろう。

 廊下からバーカウンターまでをくまなく観察し、それからふと防音扉に目をやる。ライブハウスと言えば周辺の騒音問題を考えて防音には特に気を遣っている。こんな分厚いものが設置されていたのに、この場所から音が聞こえるなんて、ありえるだろうか。

「気のせい、だったのかな」

 独り言を呟いて、改めて周囲を見て回る。ステージは腰ほどのフェンスでフロアと差別化がされており、そのステージと向かい合うように壁際にPA卓が設置されている。ステージを正面に見て左の壁には物販に使うテーブルと丸椅子が重ねて置かれていた。流石に機器は片付けられていたが、そういった小物は放置したままのようだ。丸椅子を一つ引っ張り出して上の埃を払い、フロアの中央に置くと腰を下ろして一息ついた。埃っぽくて喉がいがいがする。僕は大きく一度咳をした。

 結局、あの音は幻だったのかもしれない。少なくとも防音機能のあるここから音が聞こえてくるはずがない。

 ステージを照らしてみたが、僕の座っている丸椅子と同じものが一つ置かれているだけで、他には何もなかった。アンプもスピーカーも、ドラムセットも、照明も、壁面によく描かれたライブハウスのロゴも、なにもない。

 かつて繊細な音から脈打つような力強いビートを毎日のように鳴らしていたのに、今はもう何も聞こえない。熱狂も、感動も、この場所では全て過去になってしまっていた。

 そう思うと、なんとなく廃墟と化したこのライブハウスに好意と、同情を抱いた。君となら、酒を飲み交わせるかもしれないと思って、フラッシュを消すと、目を閉じてみる。

 完璧な闇だった。何者をも寄せ付けない静寂と孤独と、やかましいほどの無音が僕の身体をすっぽりと包み込む。

 瞼の裏にあの日の光景が広がる。演奏が終わり、バーカウンターから酒を片手に他の出演者を僕は眺めていた。大学生にもなると妙に偉くなった気がして、まだ成人もしていないのにこっそりと酒を注文して飲んでいたものだ。多分どちらかと言えば酒よりも、禁止されていることに対する反発が格好いいものだと思い込んでいたのだろう。

 甘ったるいカクテルをちびちびと口にする僕の前に現れた彼女は、着飾る様子もなくたった一本のギターを爪弾き、目の前のマイクに己の感情を預けて歌っていた。

格好をつけた歌い方や仕草を気にしていた僕から見たら、それはまさしく本当の『歌』だった。

「君の言葉を呑み込んで、底まで溺れてしまいたい」

 少年のような声で歌う彼女はどこか切なげで、儚げで、触れるだけで壊れてしまいそうなほど繊細に見えた。薄幸めいた印象を抱かせる彼女が、一度アコースティック・ギターの音色と共に歌い始めると、詩が歌となり、その歌が熱を帯びてフロア中に広がっていくのだ。聴き終わることには、僕はすっかり彼女にやられてしまっていた。

 曲のカバーを挟みながら行われたたった六曲の小さなライブは、しかし今まで見たライブの中でも特に素晴らしいものとして記憶に残っている。どんな有名なアーティストのものより、彼女の小さな六曲は僕の身に深く沁みた。

「呼吸が止まるほど僕は君を知り尽くしたい」

 僕の囁きは、やがて暗闇と静寂に見つかって、貪り食われてすぐに消えてしまう。

 彼女と触れ合うようになる前から、この世を去るまでの間、僕は何度も彼女の歌う姿を見続けてきた。ステージの中央に立ち、ピンライトの青白い光に照らされ、精一杯小さな身体を使って彼女は歌っていた。

 暗闇の中で僕はステージに立つ彼女の姿を想像する。青いスカーフに白のブラウス、黒のスキニーに朱色のスニーカー。薄明かりの中立ち臨む彼女は僕を見てにっこりと微笑むと、抱えていた一回りも大きなアコースティック・ギターをそっと鳴らす。

 また、あの音がした。

 錆びた弦と、チューニングの微妙にズレたアコースティック・ギターの音。

 僕は暗闇の中で再び携帯を手に取るとライトをつけて前方を照らし出す。一筋の光がステージを薄く照らした。確かに音がした。だが、そこには誰もいない。聴こえた音は再び静寂に滲んで、消えていった。

 ただ、二度目ともなると流石に幻聴と思うことはできなかった。アコースティック・ギターの乾いた音色は確かにどこかで鳴っている。ステージでないとするなら、楽屋だろうか。電気もつかず埃まみれのこの場所で、再奥に隠れてアコースティック・ギターを弾いているのだろうか。僕はその音の主を突き止めてみたい気持ちがふつふつと胸の奥から湧いてくるのを自覚していた。

 こんな和音の流れで曲が作れたら、いいものが作れるかもしれない。

 人の興味を惹くような、人の心に響くような、そんな素敵なコードを。

 茉奈を思い出すと一緒に音楽への興味も湧いてきてしまう。僕は小さく溜息をついた。逆に音楽を思い出せば、自然と茉奈の姿が浮かんでしまう。だから僕は音楽をやめようと、そう思ったのだ。

 携帯の淡いライトが指し示す誰もいないステージ。もう誰もこの場所で歌うことも、音を鳴らすことも無い。かつての思い出の場所だったとしても、いずれは他の何かで塗りつぶされて消えてしまう。

 僕もいつかそうなるのだろうか。

 今抱いている僕の想いも、他の何かに塗りつぶされ、消えてしまって、笑えるようになってしまうのだろうか。

「ねえ茉奈、僕は二十歳になったよ。君から少し遅れて」

 誰もいないステージに向けて言った。返事はない。

「君は、一体どんな景色を見ていたのかな」

 これ以上どう足掻けば、君の見ていた景色を見ることができるようになるのだろう。

 もうすぐ僕はまた一つ歳を重ねてしまう。変わった筈の世界を理解出来ていないのに、この先僕は何を見れば良いのだろう。

「僕より先に見たその景色を、教えてくれるって言っていたじゃないか」

 この先のは、ずっと言いたくないと思っていた言葉だった。

 でも、もう限界だった。

 ライトで照らした空虚のステージに視線を向けると、一呼吸置いて、やがて口を開いた。


『君が今も、生きていたらいいのに』


 その言葉は何故か、重なって聞こえた気がした。

 同時に、パンと弾けるような音がして、突然目の前に強い光が現れる。ずっと暗闇にいた僕は耐え切れず瞼を閉じ、逃れるように両手で光を遮った。

 遮ってから、ふと違和感を覚える。電気が通っていないことを僕はさっき確認したはずだ。

 僕は恐る恐る目を開いていく。眼の奥がぐっと押されるような圧迫感を覚えながら、少しづつ、少しづつ。普段ならたいしたことのない光なのに、暗闇に慣れきっていた目には辛い。

 ステージ上では、放射状に伸びる青白いピンライトがステージの中央を照らし、円形に闇を切り取っていた。

 僕は、しばらくステージ上に目を奪われていた。突如として点灯したライトに対する疑問もあったが、何よりそこに「人」が現れたことが、信じられなかった。

 差し込んだ光の中央に、その女性は腰掛けていた。

真っ赤なニット・セーターとニット帽、白いスキニーを身に付け、上から顔が隠れるくらいの厚手の赤いマフラーを巻いている。随分と寒がりな服装をしている人だった。まだ冬には早いその身なりに、僕は顔をしかめる。

「あの、君は?」

 ニット帽の縁から零れる黒髪の奥から、小さくて丸い目が僕を捉えた。マフラーで顔はよく見えないが、小動物のような目をしている人だと思った。

 ニット帽の奥の目は僕をとらえると、大きく目を開けて硬直してしまう。じっと僕のことを見つめ、少しして足元と僕とを交互に見て、困惑するように目を細めた。

 足元には、アコースティック・ギターが一本、丸裸のまま転がっていた。それ、と僕が声を出すと、彼女は慌ててギターを拾い上げ、大事そうにぎゅっと抱きしめる。

「あの、君はいつからそこに?」恐る恐る尋ねる。

 一体何がどうなっているのか理解が追いつかない。ただ尋ねないとどうにも話が進みそうにないから。唯一自分の中に残っていたまともな思考に従うことにする。だが彼女は問いに答えない。フロアに座る僕を見てとても驚いている様子だったから、彼女も現状の把握に思考の大半を持っていかれているのかもしれない。

 彼女はギターを抱きしめたまま、暫くステージの上から周囲をぐるりぐるりと何度も見回していた。周囲を見回す彼女を眺めながら、ふと腕の中のギターが気になった。

「もしかして、さっき弾いていたのは君?」

 僕はステージへ歩み寄り、改めて彼女に向けて問いかける。返答はない。いや、警戒されているのかもしれない。僕が彼女のことを分からないように、彼女も僕のことが分からないとしたら、当然強い警戒心を持つにきまっている。

「ごめん、色々混乱していると思うけど、僕は何もする気はないよ。ただなんとなくこのライブハウスに足を踏み入れたら、突然照明が付いて、気がついたら君がいたって、それだけなんだ。いや、その全てがどうにも不可解で、僕自身も理解が追い付いていないんだけれど」

「今は、何日?」

「え?」

「今日は、何年で何月何日?」

 澄んだ高い声がマフラーの奥から聞こえた。

 僕は慌てて携帯電話で時刻を確認する。二〇一四年十月三日。僕はそのままの数字を彼女に告げた。

 彼女は肩に掛けていた斜めがけのポーチから、自分の携帯を取り出すと時刻を確認し、それから余計に混乱したようで何度もディスプレイと僕とを繰り返し見て、くらりと目を回したようだった。倒れかかったところでどうにか持ちこたえた彼女は、額に手を当てて俯いた。

「あの、どうかしたんですか?」

「名前は」

「名前?」彼女の言葉を僕は反芻する。彼女は頷いた。

「君の名前は、九に重たいに虹と一と書いて、ココノエコウイチ?」

 僕はとても驚いた。

 ココノエコウイチ。確かに僕の名前だ。

 だが、突然現れた彼女がどうしてそれを知っているのだろうか。

 うまく言葉が出てこなくて、僕はとにかく肯定の意を込めて頷いてみせた。

 彼女は僕と、携帯のディスプレイを見てから目を閉じる。黙り込んでしばらく何かを考えていたようだったが、少しすると携帯をポーチにしまい、アコースティック・ギターのストラップに身体を通した。

 開いた目には、ハッキリと光が灯っていた。

 彼女は覚束ない指先で指板上の弦に触れ、右手で六本の弦を丁寧に鳴らす。チューニングがズレているし、自信の感じられない弱々しいコードストロークが始まった。僕は、その音を聴いて、やっぱり、と両手を強く握りしめる。さっきの音だ。

 彼女が弾いてみせた四つのコードは、紛れも無く僕をここに呼び寄せたそれで、枯れた音からあまり上手くない指使いまですべて聴いていた通りのものだった。

 ギターの音に対する僕の反応を見て、彼女は手応えを感じたようで、マフラーをぐいと下げて小さな赤い唇を露出させると、真剣な眼差しを僕に向けた。綺麗な瞳に気圧されていると、彼女の小さな口が開いた。

「このコードを使って、曲を作って欲しいの」

 呆気に取られたままの僕に対し、彼女は変わらず強い眼差しで僕を見つめる。

「君にしか出来ないことなの、お願い」

 懇願する彼女を前に、僕はただ戸惑うことしかできなかった。

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