ナインスコードのイエスタデイ

有海ゆう

プロローグ

 七峰茉奈は即死だった。

 信号を無視した大型車が、横断歩道を渡ろうとしていた彼女に真横から突っ込んだのだ。

 僕が彼女の死を知ったのは、事故から数時間経った後で、連絡が来た時にはもう、僕に出来ることは何一つとして残ってはいなかった。

 葬儀は身内でひっそりと済ませることになり、友人や知人達の参列も断られた。かろうじて僕だけ参加を許してもらえたが、数十名で行われた葬儀はひどく静かで、まるで水底に沈んでじっと横たわる泥のように重く、息苦しかった。

 棺に眠る彼女に花を添えた僕は、最後に触れた日のことを思い出していた。

 幸いというべきか、奇跡的にというべきか、外傷はかすり傷程度で、一見すると穏やかに眠っているようにしか見えなかった。綺麗なまま逝けたことを幸福といえるのか、今の僕には判断が出来ない。生気がどこにも感じられない彼女を呆然と眺めながら思ったことが、それだった。

 棺の周囲に飾られた菊と同じくらい白い肌は、そのまま綿雪のように溶けてなくなってしまいそうだった。

 葬儀後、火葬場の煙突から立ち上る煙を僕は見上げていた。

 少し寒くなってきて、手にしていたコートを羽織ったが、それでもとても寒く感じた。身体の芯からゆっくりと凍りついていくようで、堪らず吐き出した息は残酷なまでに白かった。

「誕生日を迎えたばかりだったのに」

 囁くような声で呟いたのは母親の佐奈さんだった。真っ白いハンカチを胸元でぎゅっと握り締めたまま膝から崩れ落ち、嗚咽混じりに茉奈の名前を呼び続けていた。僕はその小さく震える背中をちらりと一瞥してから、再び煙突を見上げた。煙は変わらず濁濁と吐き出されている。

 佐奈さんの涙も、親類の涙も、死を知った友人達の涙も、今日までたくさん見てきた。

 なのに、僕だけどうしてか涙が出なかった。心はまるで凪の海のように静かで、乾いた瞳は直上する煙を鏡のように映すだけだ。

「大丈夫かい?」

 煙を眺めていた僕の肩を、茉奈の父親である真琴さんが優しく抱いてくれた。眉間に皺を寄せて、悲哀の色の浮かんだ目をしている。涙は出ていないけれど、悲しんでいることはすぐに理解できた。彼の目の乾きは、多分僕とはまるで違うものだ。

 僕は頷いて目を伏せると、足元に目をやった。卸したての真っ黒い革靴が、陽の光をうけて艶やかな光沢を表面に映していた。

 不意に脳裏を茉奈の顔がよぎった。彼女が歌っているときの顔だった。

「誕生日の時に、茉奈は言っていました」ぽつり、と呟いた言葉に、真琴さんが反応するのが分かった。彼は穏やかな口調で、僕に尋ねる。

「どんなことだい?」

 その先を答えようとしたが、それ以上言葉が出なかった。

 暫く僕に耳を傾けていた彼は微笑むと、肩にそっと触れ、やがて離れていってしまった。

 いつも立派で、広く見えていた背中は、今日だけはとても小さく、儚く見えた。去っていく後ろ姿から目を逸らすと、僕は目を閉じた。

 あの日、二十歳になった彼女の姿を、瞼の裏に映しだす。

「私ね、ずっとこの日を待っていたの」

 どうして、と聞くと、彼女はそっと微笑んだ。

「十代には見えないものが、見えるようになるから」

 そう言って彼女は、僕の前髪をかきあげると額にキスをした。

 彼女はとても恥ずかしそうに、嬉しそうに目を細めて笑う。

「先に見ておいてあげる」

 僕よりひと月早く二十歳になった彼女の目に、この世界はどう映ったのだろう。

 もうすぐ十一月が始まる。十一月になれば僕もまた、彼女と同じ歳になる。彼女が最後に生きた年齢になったら、僕の目にはどんな世界が映るのだろう。

 立ち上る白煙はやがて青い空に呑み込まれて、溶けるように消えていった。

 歌うことは、もうやめよう。

 そう思った。

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