第6話 ビビス
――連れてこられたのは、東棟の端の部屋。
囚人部屋のように殺風景な部屋ではなく、広々として豪奢な意匠の部屋だった。
来賓者をもてなすための場所なのだろう。
そしておそらくは――東棟(女子棟)の特産物を使って、“もてなす”ための場所。
気を遣って消臭しているのだろうが、私の鋭敏な嗅覚は、饐すえたニオイを嗅ぎ取ってしまう。
さて。
こんな所に呼び出したくせに。
呼び出した本人の姿は、見当たらなかった。
「ビビス公爵はまもなく到着します。失礼の無いよう座っていなさい」
“銀の甲冑”が、部屋の中央の椅子を指した。
そこに背筋を伸ばして座っていろ、ということか。
素直に言われたことを聞くのは、何故だか妙に癪に障るが、ここで暴れても得はない。
渋々と、豪華な椅子に腰掛ける。
扉を背にする形なので少々落ち着かないが、まあ話の流れ的に、扉から突然襲撃者が現れるということもないと思う。ので、そのままぼんやり待つことにした。
思い起こすのは、先程のやりとり。
血塗れ竜が、こちらに向けていた、あの目。
一つの意思が明確に込められた、ある意味純粋な瞳だった。
――ユウキに近づくな。
笑いたくなってしまう。
王者の滑稽さにではない。
その願いは、むしろ自分のものだということに。
控え室での、あの光景は、腑ハラワタが煮えくり返るのに充分だった。
ユウキさんの足の間に腰を下ろし、ごろごろごろごろ発情期の雌猫のように擦り寄るあの様。
10秒に一回は己の体を彼に擦り付け、あまつさえ幾度と無く頭を撫でられているではないか。
あんなに優しそうに、柔らかく。
髪を撫でられている間の血塗れ竜はまさに至福といった様子で、羨ましさに奥歯が砕けそうだった。
王者は特別待遇だとは聞いていたが、特別すぎて殺意すら覚えた。
しかし。
自分が王者になることができたら、アレをそのままそっくりいただけるのだ。
ユウキさんの胸の中に収まって、頭を撫でられる自分を空想する。
…………えへ。
おっといけない。涎を垂らしてしまった。
感触を想像するだけで、とてつもない多幸感である。
最初は、話の通じる暇つぶし相手――ってだけだったのに。
日を重ねる毎に、彼の人となりは、私の琴線に幾度となく触れてしまった。
現状に絶望しているのに、優しさを捨て切れていないところとか。
どんな相手でも、素直に応対してくれるところとか。
頭はいいのに、隠し事が下手なところとか。
どんなことでも、受け止めてくれるところとか。
気付いたときには、既に好きになっていた。
彼と一緒にいたい。
彼に甘えてみたい。
彼と触れ合いたい。
そして何より。
彼を、手に入れたい。
そのためにはどうすればいいか、考えた。
結論は――至ってシンプル。
私が、血塗れ竜になればいい。
今の王者が居座る場所こそが、私の求めているモノなのだから。
「――変な顔をするのを止めなさい。
ビビス公爵がもうじき来ますよ」
銀の甲冑の声で、我に返る。
思索に耽ふけりすぎて、だらしない顔を晒していたらしい。
慌てて表情を引き締めて、呼び出し主の到着を静かに待つ。
ビビス公爵。
私を、ここに連れてきた人。
目論見が外れて私が勝ってしまい、さぞかし腹を立てていることだろう。
呼び出した目的は何だろうか。
こんな場所に呼び出すということは、私のことを犯すつもりなのだろうか。
――否。あの中年親父は不能である。
私が最初にあいつの城に連れられたとき、それなりに整った容貌の私を前にしても、欠片も色めいた視線を寄越さなかった。
後で話に聞いたところ、ビビス公爵は性的に不能で、代わりに人間が殺し合うところを見るのが大好きらしい。
故に、帝都の闘技場にちょくちょく己の領地の囚人を送り込み、殺される様を見て興奮するとのこと。
……闘技場の囚人じゃ無理だから、兵士に殺させるつもりだろうか?
しかし、私としては、囚人も兵士も大差ない。
この国に来てから、私のことを殺せそうな奴といったら――せいぜい血塗れ竜くらいしか目にしてない。
今この部屋で待機している兵士連中も、束になったところで驚異にすらならない。
ただ――私のすぐ側にいる、銀の甲冑。
こいつだけは、わからない。
強いとは、思う。少なくとも弱くはないはずだ。
しかし、実力を計れない。
大抵の相手なら、噛み殺す様子を鮮明に想像できる。
それはあの血塗れ竜ですら変わらない。奴の喉笛を食い千切るプランは少ないが立てられる。
それが、この銀色だけは不可能だ。
私がこいつに勝てる状況が想像できない。殺される気はしないが、勝てるかどうかもわからない。
実力が、読めない。
この、銀の甲冑だけが、不安要素だった。
――と。
背後の扉が、開く気配。
「来ているな。まったく、よくも私の顔を潰してくれたものだ」
聞き覚えのある、ビビス公爵の声。
しかし、その声は――内容とは裏腹に、嬉しくて飛び跳ねているかのようだった。
趣味の悪い高級そうな服を纏った中年親父が、正面の豪奢なソファーに腰を下ろす。
ふん、と鼻息を吹いた後、私のことを見下ろすような表情で、
「まずは、私の顔を潰した罰だ。――セツノ」
「はい」
刹那。
がつん、と。
横っ面を強打された。
「――ッ!? あぎっ!」
あっさりと吹っ飛ばされて、10足以上離れた壁にぶち当たる。
何よ今のは!?
私は少なからず警戒していた。
なのに、当たる直前まで、攻撃を全く察知できなかった。
銀の甲冑がすぐに近くにいたから、気を付けていたはずなのに。
とにかく――まずは立ち上がって、体勢を整えなければ。
「……あ、れ……?」
ぐわんぐわん、と視界が揺れていた。
脳がぐちゃぐちゃにかき回されている。やばい。このままじゃ戦えない。
揺れる視界で、必死に対象を探し出す。
――いた。
私が座っていた椅子の真横に、黒装束の女が立っていた。
あいつに、殴られたのか。
私の五感は常人のそれを上回る――が、それでも感知できなかった。
「安心しろ。罰はこれで終わりだ。――戻れ、セツノ」
「はい」
中年親父の声が響くと同時、黒装束の女の姿は、かき消えた。
衝撃でくらくらしていることを差し引いても、女の動きは私には捉えられないものだった。
「さて。異国の娘よ。まずは名前を聞こうか。
私の領地にいた頃では、結局聞けず終いだったからな」
言葉が通じなかったのだから当たり前だ――と、言おうとしたが。
ぐるぐる回る視界が気持ち悪く、うまく言葉を紡げなかった。
「彼女の名前はアトリです、公爵」
銀の甲冑が口を開く。……何故知ってる? 私の名前は、先程までユウキさんしか知らなかったはずなのに。
「そうか。では、アトリよ。
お前にはこれから、闘技場で活躍してもらう」
「……は?」
「私のお気に入りを喰い殺してくれたのだ。
――お前が、代わりを務めるのが筋だろう?」
にやにやと脂ぎった笑みを晒しながら、中年親父はそう言った。
全然筋ではない気もするが、闘技場で戦うことに異論はない。
「しかし……今の様子を見ると、それほど期待はできなさそうだがな」
いきなり殴らせておいて、なんて言い草だろう。
とはいえ、逆らってもいいことはなさそうなので、代わりに口の中のものを吐き出した。
からん、と。
手甲の一部が床に転がる。
「何だそれは? ……!? セツノ! 右手を見せてみろ!」
「……はい」
再び、黒装束が表れた。その表情には、悔しげなものが滲んでいる。
黒装束――セツノとやらの手をしげしげと眺めた後、中年親父は満足そうな笑みを浮かべた。
「それではアトリよ。これからお前の生活は、私が保証しよう。
勝ち続ける限り、お前の望みのもそれなりに配慮しよう。
好きなものをくれてやる。だから代わりに――相手を喰い殺せ。いいな?」
中年親父の目には、ギラギラとした興奮の炎が燃えていた。
……なるほど。先程の私の戦いが、こいつの琴線に触れてしまったらしい。
「……別にいいけど」
まあ、食事の量を増やしてもらえれば充分だ。
「ただ、な」
「?」
「私は、お前がどの程度強いのかよくわからん。
中堅どころを倒したといっても、まぐれだったのなら期待はずれだ。どうせなら、今の王者に近づいて欲しい」
……王者、ねえ。
可笑しくて、つい笑いそうになった。
わたしは――それになるつもりなのに。
「だから、お前の強さを見せてみろ。
ちょうどいいところに、化物姉妹が手に入ったところだ。
――お前にはこの、セツノと戦ってもらう」
姉妹?
ということは、もう一人……?
「姉のユメカは、現王者の血塗れ竜と戦うことが決まっている。
今宵、血塗れ竜が負ければ話は流れるが――そうはなるまい」
へえ。
それじゃあ、つまり。
「私と血塗れ竜の、戦いぶりを、比べたい、と?」
「そういうことだ。まあ、セツノもユメカも、私が見る限りでは、良い勝負をすると思うがな。
――そういうことだ、セツノ。
お前かユメカ、どちらかが勝った場合は、お前の村の要望を聞き入れよう」
「はい」
頷いたセツノの視線は……まっすぐ、私を射抜いていた。
うわあ。今から殺す気満々だねえ。さっきの血塗れ竜を思い出しちゃうよ。
事情はよくわからないけど――この状況、利用しない手はないだろう。
向こうから条件を出してきているので、こちらも交換条件を出せば受け入れられる可能性は高い。
「その代わり、こっちも条件を一つだけ。
私がそこの黒いのを食べたら――ひとり、ある監視員を私の所に通わせて欲しい」
「なんだ、そんなことか。
構わんぞ。お前が勝ったら、その監視員とやらをお前専属にしてやろう」
今度こそ。
笑いを堪えきれなかった。
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