第4話 食人姫
あのあと、冷静になって考えてみた。
アトリとの約束は、こちらの動揺に付け込んで為された稚拙な誘導によるものだ。
後からいくらでも反故にできるし、こちらから説き伏せることも可能だろう。
でも。
なんだかんだで、アトリに言葉を教える約束を取り付けることができたのだから、そんなに悪い取引ではない。
それに――彼女が試合に勝てるとは、思えない。
残酷な考えかもしれないが、アトリが死んだ場合は、当然約束はなかったことになる。
故に、どんなに大きな約束をしても、実質的に果たす必要性はゼロになる。
要は、悩むだけ無駄、ということだ。
だから、僕は気軽にアトリの所に毎日通った。
言葉を教えるという名目で。
異国の見目麗しき美少女と、時折冗談を交わし合いながら、授業のような雑談を繰り返していた。
はっきりいって、楽しかった。
白ほどではないものの、アトリも充分素直な娘で、こちらの言うことをしっかりと吸収してくれるのが心地よかった。
それに、二度と会えないであろう異国の美少女と、幾度となく笑顔を交わし、同じ時間を共有するのは、悪くない。
きっと、相手が囚人というのを気にしない男であれば、垂涎モノの状況だったに違いない。
そんなこんなで、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
結局、アトリが完璧に言葉を身に付けることはなかった。
こちらの言葉は全て理解できるようになっていたが、発音がどうも苦手らしく、喋ることは、終ぞままならなかった。
最終的に、彼女の話し相手となったのは僕一人。
アトリがそれで満足できていたかどうかはわからない。
でも――少なからず、楽しんでくれていたとは思う。
何故なら。
彼女が時折向けた笑顔は。
白のように、混じりっ気のない純粋なものだったから。
そして、試合当日がやってきた。
奇遇とでも言うべきだろうか。
この日は、白が最終試合を務める日でもあった。
試合を止めようだなんて思わない。
でも、ありえないはずの明日を夢見て、僕との会話に喜びを見せていたアトリ。
来るはずのない“試合の後”を約束して、彼女を自分のエゴに付き合わせたのだから。
せめて、最期くらいは見取らなければ。
白の試合が控えているので、勝手に観客席に出るのは無理だが。
控え室から闘技場へと続く通路からなら、試合の様子を見ることはできる。
よく知る少女が殺される様は、できることなら直視したくはないのだが。
それでも、彼女のことをよく知る人間は僕一人なのだから。
目を、逸らすつもりはなかった。
――アトリの相手は、彼女をここに移させたビビス公爵のお気に入りである。
サド公爵のお気に入りだけあって、かなり加虐趣味に特化しているとのことだ。
前回は、少年囚人を闘技場中央で犯しながら殺したそうだ。
色物扱いされてはいるが、実力は折り紙付きで、中堅といっても差し支えない。
最悪、アトリの公開死姦ショーを見せつけられるかもしれない。
想像すると、胸の当たりがキリキリと痛んだ。
さて。
これ以上は考えるだけ無駄だろう。
後はいつも通り、白の支度を整えるだけ。それが、僕の仕事である。
白への挑戦者は、南棟の有望株らしい。今度こそは、と思う観客も少なからずいるとのこと。
まあ、相手がどんなに強かろうとも、闘技場に赴く白は、きっといつも通りなのだろうが。
相手に対して感情を欠片も抱かずに、作業のようにあっさり殺す。
それが、囚人闘技場の王者、血塗れ竜である。
今宵は一人の少女が死に、一人の竜が血にまみれる。それだけだ。
まずは、白を起こしに行かなくては。
今日も今日とて、囚人闘技場は盛況だった。
白が出場する日は必ずといっていいほど満員御礼なのが常ではあるが、
今日はそれに加え、ビビス公爵が大々的に宣伝した、異国の少女の初試合である。
可憐な少女が、逃げ場のない闘技場で、戦いを強いられる。
相手は残虐性に定評のある、変態囚人。
何が起こるのかは、興奮しきった観衆には容易に想像できているのだろう。
まだ試合の消化具合は半ばといったところだが。
会場の熱気は、既に頂点近くまで、達していた。
そして。
司会の声が、響く。
『お待たせしました!
それでは、本日の折り返しとして、ひとつ、奇矯な試合を御覧せしめます!』
観衆全員の瞳が、期待に染まる。
『陵辱演出家 対 異色少女
皆様ご存じの大変態と、異国の美少女の、無制限勝負です!』
司会が言い終わられないうちに。
観衆が、興奮の怒号を上げた。
う お お お お お お お お お ! ! !
びりびりと、控え室の方にまで振動が伝わってきた。
「……大人気だなあ」
思わず、ぽつりと呟いた。
「何が?」
後頭部をこちらの胸に押しつけるように、白が顔を上げて訊ねてきた。
「いえ。別に」
「? そんなことより、ユウキ。……ん」
首の角度を変え、こめかみを僕の肩に押しつけながら、目を閉じて心なし俯く白。
“撫でて欲しい”のポーズである。
やれやれ、と溜息を吐いてから、王者の望むままに優しく撫でる。
試合前に血塗れ竜の機嫌を損ねるわけにはいかないので、それはもう、心を込めて。
「んー」
幸せそうに喉を鳴らし、両腕を僕の背中に回してくる。
これは、東側の控え室ではよくあること。
扉を固める監視員ですら、あまりに見慣れた光景なので、特に関心すら払わない。
もともと白は、人目を気にすることなどないが、僕はといえばそうでもない。
可憐な少女が、周りに人がいる状況なのに、僕の胸の中で無防備な姿を晒しているのだ。
少々胸が高鳴ったところで、いったい誰が責められようか。
――と。
「出番だ、E4-934」
係員に呼ばれ、一人の少女が腰を上げる。
先程まで、隅の椅子に、ちょこんと腰を下ろしていた少女。
今日の出場者で、白以外の唯一の東棟囚人だ。
アトリ。
この後、加虐趣味の変態に殺される少女。
僕が、最期を見届けたいと思った少女。
何故か――控え室にいる間、こちらに対して無反応を貫いた少女。
彼女が、立ち上がりながら、口を開いた。
「――勝ったら、好きなものを貰えるの?」
驚いた。
アトリの口から紡ぎ出されたのは。
紛う方なき、帝国の言葉だった。
異国の少女の言葉に、係官は戸惑いを隠し切れぬまま、答えを返す。
「何でも、ということはない。限度は当然、あるぞ」
「わかってる。……でも、大丈夫」
アトリが、こちらを見る。
「――約束、したから」
そう言って、異国の少女は、控え室の外へ出た。
「……なに、あいつ?」
自分が睨まれたと思ったのか、白がむーっと唸っている。
そんな白の頭を優しく撫でて、
「すみませんが、白。少々席を外してもよろしいですか?」
「? ……あ、ユウキ――」
「すぐ戻ります」
白に手を振って、僕も控え室を出た。
歓声がびりびりと空気を震わせている。
既に試合は始まったようだ。
すぐに終わる可能性もある。急がなければ。
やや駆け足で通路を進む。
そして、闘技場の様子が見えるところまで辿り着いた。
監視員に会釈して、試合の様子を確認しようと顔を向けて――
――そして、見た。
陵辱演出家こと、ネオ・ホーンピースは、自らの身に何が起こったのか、しばらく理解できなかった。
簡単で美味しい試合のはずだった。
いつものように相手を殴り倒し、衆人環視の中で犯し尽くし、殺す。
観衆や、自分を推薦した公爵の希望に添うように、様々な強姦プランを頭の中で練っていた。
そして、それを実行に移すため、まずは一撃、少女を無力化させるために殴ろうとしたところで――
「――なんで、手が半分無くなってるんだ?」
ぽつり、と。
誰かに訊ねるかのように、疑問が口からこぼれていた。
拳が半分、消失していた。
赤い肉と、白い骨が露出している。
断面は歪で、まるで、獣か何かに“囓りとられた”かのようだった。
恐る恐る、前方の少女へ視線を移す。
少女は、開始の位置から一歩下がった状態で。
まっすぐ立って、こちらを見ていた。
その口が。
くちゃくちゃと。
“何か”を咀嚼しているように、見えた。
「う、う、うああああああああああああああああっ!!!」
拳からギンギンに響く激痛を掻き消すかの如く。
ネオは絶叫を上げながら、異国の少女に襲いかかった。
自分の利点は長いリーチだ。安全地帯から素早い攻撃を繰り返すという戦闘スタイルである。
絶叫しながら、幾度となく拳や足を振り回す。
ネオの手は長いため、少女の攻撃が届くことはない。
無我夢中に攻撃を繰り出し続け――ふと、ネオは疑問に思った。
あれ?
なんで、すぐ近くに、こいつがいるんだ?
そう思った次の瞬間。
まるで口づけをせがむように。
少女の顔が近づいてきたかと思ったら。
がり。
前頭部を“喰われた”ネオ・ホーンピースが、そのまま地面に崩れ落ちた。
ネオの手は半ばほどまで消失し、削れた肘関節が晒されている。
闘技場すら揺るがしていた歓声は、いつの間にか全て消え去り、痛いくらいの静寂に包まれていた。
誰が、この結果を予想しただろう。
少女の惨殺劇となるはずだったこの試合、終わってみれば、結果は真逆。
得も言われぬ悪寒に、観衆全員が苛まれているに違いない。
白の戦いを見慣れている僕ですら。
この決着は、想像の域を遙かに超えるものだった。
『……し、勝者、い、異色、少女……』
司会の、半ば呆然とした声が響く。
それを聞いたアトリは、踵を返して東側の入り口へ歩いてくる。
たすたすたす、と砂地を踏むその足取りは。
どこか、軽さを含んでいた。
そして、アトリが入り口を通り、そのまま控え室への通路を歩いてきて。
――僕の目の前に、立った。
「勝ちました。
これで、ユウキさんは、私の付き人になってくれるんですよね?」
にっこりと。
心の底から嬉しそうに、アトリは言った。
僕は何も答えられない。
そして。
「……なに、それ?」
僕を追いかけてきていたのか。
血塗れ竜が、そこにいた。
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