第3話 アトリ

「あ、白、こぼしてますよ」

 ふきふき。

「んー」

「ああもう、拭いてる途中なんですから食べるのを再開しないでください。

 って、言ってるそばからもう!」

「ユウキ、くすぐったい」

「こら、大人しくしなさい」

「んーんー。はむっ」

「人の指をくわえない。食べ物ではありませ――うわわ、くすぐったいっ!?」

「むふー」


 ちゅぽ、と白の口から指を引き抜き、何度目かわからない溜息を吐く。

 白の食事の世話は、慌ただしいことこの上ない。

 勢いよくがっついていたかと思えば、唐突に猫のようにすり寄ってきたり。

 欠片も残さず平らげたかと思ったら、おもむろにこぼしてこちらをチラチラ伺ってきたり。

 落ち着いて食べることができないのかなあ、と毎日のように思わされる。

 まあ。

 ことごとく甘えてくる白の様子に、こちらの頬も幾度となく緩まされたりもしているのだが。


「……アトリみたいに上品に食べてくれれば、こちらも助かるんですけど……」

「? 誰みたいに?」

「ああ、いえ、何でもありませんよ。

 それより白、今日はこれでもう終わりですか?」

「んん。全部食べるー」


 再び勢いよく食事をかっ込み始める白。

 それをのんびり眺めながら、ふと、他の囚人のことを考える。


 ――アトリ。

 密入国者の、闘技場新規登録囚人は、そんな名前を持っていたらしい。

 とはいえ、この監獄では名前で呼ばれることなど稀なため、監視員で知っているのは僕だけである。

 初めて会った際、初めて言葉が通じた相手だからか、彼女は何かと僕を頼るようになってきた。


 

 異国の言葉を解せる監視員など数えるほどしかおらず、それで会話できる者は更に少ないため、自然と僕が彼女の世話をするようになっていた。

 もっとも、僕の第一の仕事は白の世話と決まっているため、手が空いたときに見に行って、軽く話をする程度だが。

 それでも、話し相手がいることは、彼女にとって少なからず救いになっているようで。

 行くたびに、とても嬉しそうな表情で出迎えられてしまう。

 異国の顔立ちとはいえ、十二分に整った造形の美少女が、喜びを全身で表すその様は、気を抜けば魅了されてしまいそうな程だ。

 もっとも。

 貴族の出し物になる予定の少女に、一時の気の迷いで手を出したりなんかしたら。

 それこそ比喩表現抜きで首が飛んでしまうのは目に見えている。


 僕がアトリの、おそらくは無意識であろう魅力の発露に負けずにいられたのは。

 きっと……いや、間違いなく。

 僕に対して、あまりにも無防備な姿を晒している、囚人闘技場王者のおかげである。


 余計な情報――囚人であることや、稀代の殺戮者であることを考慮に入れなければ。

 白は、きっと帝国で一番の、可憐な少女だろう。

 名前を表すかのような銀髪は、背中まで流れてなお、その輝きを失わない。

 肌は白磁のような滑らかさで、見る者全てを吸い寄せそうな色艶である。

 背はやや小柄だが、姿勢の美しさと相俟って、完成された黄金像すら連想させる。

 性格は素直の一言。一度気を許してしまえば、長年愛しんだ猫のように、甘え擦り寄ってくる。

 最近表れてきた唇の艶めかしさも、時折見せる艶のある仕草も、街中であればあらゆる男を魅了するに違いない。


 そんな白と、ずっと一緒に過ごしてきたからこそ。

 僕は、アトリの魅力には参らなかった。

 彼女と接する際に表れる気持ちはただ一つ。


 ――せめて最期は、楽しい記憶を。


 その思いがあるからこそ、僕は暇を見つけては、アトリのもとへ通っていた。


 ただ。

 今までは白だけだったから、特定の感情さえ抑え込んでしまえば、問題なく付き合うことができていたが。

 今のように、白と同格の美少女とも時折会話するような状況だと。

 ――どうしても、二人の差異を見つけてしまい、余計な感情が湧き起こる。

 それが例えば、食べ方の違いであったり、話すときの目の合わせ方であったり。

 ついつい、二人を比べてしまう。

 別に、どちらが上か、などといったランク付けなどする気もないが。

 今まで気付きもしなかったような、少女の「女らしさ」といったことも目についてしまうのだから困ったものだ。。


 例えば、いつものように白が擦り寄ってきている今。

 服の首もとから胸の先が見えないように、絶妙にガードしている所などに気付いてしまう。

 っていうか、見られるのが恥ずかしいならくっつくな、と。


 


 


「あっ! ユウキさん! こんばんわー!」

 白が猫ならこっちは犬かな、と。

 僕の姿を確認するなり、檻の手前まで駆け寄って、ぶんぶん手を振るアトリの姿は、

 なんというか、元気よく尻尾を振る犬の姿を連想させた。

「こんばんわ、アトリ。調子は如何ですか?」

「元気だよー。ただ、ごはんが少ないから、ちょっぴりお腹ペコペコだけど」

「そうですか。それじゃあ、後で夜食を持ってきてあげますよ」

「やったー! ユウキさん大好き!」

 鉄格子を抱きしめて、全身で喜びを表現している。

 微笑ましいことこの上ない。囚人であることすら忘れさせてしまう快活さだ。


 


「そういえば、アトリ」

「はい?」

「もう、こっちの言葉は理解できるようになりましたか?」


 アトリがこの監獄に移されてから一週間が経つ。

 普通の人間なら、一週間程度では、異国の言葉を理解するのは難しいだろう。

 捕まる前の期間も、ここに来た時点で言葉が不自由だったことから、習得には役立っていない様子である。

 故に、アトリが帝国の言葉を解せなくても無理はない――が、


「もう、聞き取る程度はできるのでしょう?

 監視員や囚人の声に対する反応が、出会った当初と変わってきていますしね」

「…………」

「違いますか?」

「……ユウキさんは凄いなあ」

 ほう、と感嘆の溜息らしきものを、アトリは吐いた。

「うん。言ってることは大体わかるようになったよ。喋るのはまだ難しいけど」

 今度はこちらが感嘆の溜息を吐く番だった。

 てっきり、発音や簡単な挨拶程度までしか聞き取れてないと思っていたが――ここまでとは。


 理解する能力が優れているのは間違いないだろう。

 だが――それ以上に、アトリは“他人の言動を観察する”のが抜群に上手いのだと思う。

 簡単な仕草や言葉遣いから、相手の状態を察知し、気持ちや雰囲気を読みとるのだろう。

 きっと祖国では、空気の読める娘として、皆から好かれていたに違いない。

 しかし、ここまで理解するのが早いとなれば。


「じゃあ――僕が本格的に帝国の言葉を教えましょうか?

 アトリなら、すぐに覚えることができますよ」


 そう、提案した。


 ――と。

 アトリは一瞬、嬉しそうな表情を見せるものの、やや考え込むそぶりを見せた後、

 何故か、にへら、と緩んだ表情を僕に向けた。

「いや、それは嬉しいんだけど、でもさ、それより今の状況も好きなんだ」

「今の状況?」

 わけがわからなくておうむ返し。

 すると、アトリは少しばかり頬を上気させながら。


「うん。

 ユウキさんと、私だけの、秘密の会話。

 私に話しかけてくれるのは、私の国の言葉を話せるユウキさんだけ。

 これって、なんだか、凄く胸がポカポカするんだ」


 なんだそりゃ、と思った。

 要は、他の人間に聞こえない会話をしている背徳に、緊張と興奮を覚えているということだろうか。

 まあ、深く考えても仕方ない。僕の言語能力だって完璧ではないのだ。

 ひょっとしたら、少しの意味の取り違えもあるかもしれないし。

 とりあえず、アトリが構わないのなら、別にいいか。


 ああ、でも。

 ひとつだけ、断っておかなければならないことが。


「でも、僕はいつもここに来られるというわけではありませんから。

 他の人とも話せた方が、何かと楽になると思いますが――」


 

「嫌だよ、そんなの」


 

 きっぱりと。

 アトリは僕の目を見てそう言った。

 そして、続けられた言葉に、僕の思考は停止させられた。


 

「だって――あと、半月もないんだよね?」


 

 え。


 なんで、知ってるんだ?


 

 目が。

 異国の瞳が、僕の心の裡を覗く。

 僕は言っていない――でも、考えればすぐにわかるはずだ。

 新入りの囚人にあるまじき個室待遇。

 そして、兵士たちの会話からこぼれる幾つかの単語。

 アトリほどの理解力を持つ娘なら――自分の“出番”が近いことなど、簡単に察するに違いない。

 その上で、アトリは、僕に、まっすぐ瞳を向けてきている。


「なら……このままでいいじゃない。

 私はこのままでも……“辛くない”よ?」


 発言の中に含まれた言葉に、どきりとする。


 駄目だ。それは、

 あと少ししかない時間なんだから、できる限り“楽しんで”欲しい。

 僕だけじゃ、それを提供できるかどうかわからない。

 だから、他の人とも話せるようになって、楽しみの種を増やした方が――


「でも、“試合”までに言葉をちゃんと話せなかったら、ただ習うだけで全てが終わっちゃうよね。

 私は、ユウキさんと話しているとき“だけ”が楽しいんだ」


「それは、そうだけど、いや、でも……」


 いいのだろうか。

 この暗い監獄の中、僕一人だけを相手にして、そのまま一生を終わらせていいのだろうか。

 彼女の望むまま、僕だけが相手をしていればいいのだろうか。


 アトリの視線が、縋るように絡みついてくる。

 少女はまるでこちらの琴線を理解しているかの如く。

 会話の端々で、弾かせてきた。


 思考が上手く働かない。

 なんだか、無理矢理泥の中で泳がされているような感覚だ。

 このままではよくない。早くいつもの思考に戻らなければ。

 冷静になれ。

 そうすれば、彼女を安心させる言葉も、簡単に紡ぎ出せるはず――


「でも、さ」


 その前に。

 アトリが、顔を近づけた。

 檻に顔を押しつけるように、僕の瞳を直視する。


 

「私が勝てば、大丈夫だよね。

 言葉を習い続けることも、できるよね」


 

 …………。

 ……ああ、そうだ。

 万が一、何か奇跡が起こって、アトリが試合に勝利した場合。

 そのまま闘技場登録者として、この監獄に住まい続けることになる。

 そうすれば、言葉を教え続けることもできる。他の人とも繋がりを持つことができる。

 なんだ、それで解決じゃないか。


 

「だから、さ。ユウキさん」


 アトリは、唇だけで笑って、


「試合に勝つことができたら、私の付き人になるって約束して?

 そう約束してくれれば、試合まで、頑張って言葉を勉強して、他の人とも話せるようになるよ」


 付き人?

 でも僕は、白の――


「私が勝てる可能性なんてほとんど“無い”んだからさ。

 万が一勝ったとき、私に色々教えてよ。そのための、付き人。

 私だって、知りたいこと、いっぱいあるんだよ?」


 そうだ。

 アトリのような女の子が、試合で勝てる可能性なんて皆無だろう。

 ならば。

 この少女が最期まで希望を捨てないよう、形だけでも約束すればいいじゃないか。


 アトリの理解力なら、きっと言葉はすぐに覚えられるはず。

 最期の、本当に短い時間だが、周囲の人間と関わりを持って生きることができるはず。

 会話できるのが僕だけだなんて歪すぎる。

 それを正すためにも、ここは、彼女と約束しておくべきだろう――


 


 頷いた後。

 ぼんやりとした頭で。

 もしアトリが勝った場合。

 白はどうなるのかな、と疑問の欠片が微かに浮かんだ。

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