第十三話 最終目的地
さて、話は少しだけ前に遡る。
体育館でアマゾネス斎藤のエキシビション・マッチが始まる寸前、招待客の席に座っていた洋のところへ四月朔日が駆け寄ってきた。
彼女の『慌てた様子』は単なる偽装である。四月朔日は素早く洋に身を寄せると、
「これから今回の目的地に行きますが、一緒にいらっしゃいませんか」
と、落ち着いた声で耳打ちした。
四月朔日からの招待状が届いた時点で、彼女が「信濃大学構内の何かを狙っている」ことは明らかだったが、具体的に「何が目的なのか」は洋にも分からなかった。
それに、洋をわざわざ現場に同行する意図が分からない。
怪訝に思ったものの、彼はついていくことを即決した。
洋を伴って会場を出た四月朔日は、人目(主に鞠子の警備の目)を避けるためにわざと迂回して、正面玄関ではなく裏の非常口から体育館を出た。
四月の信州は日によって寒暖の差が激しい。場合によってはまだ雪が降ることもある。しかし、その日は穏やかな晴天で、風もどことなく柔らかだった。
大学構内の桜並木は、まだまだ開花まで時間がかかりそうだったが、芽は確実に重さを増していた。
黙って先を急ぐ四月朔日を追いかけながら、洋は大学最後の冬を思い出していた。
(あの時はもっと寒い冬の枯れ木立の中を、話す余裕もなく、しかしなんとも言い難い連帯感を感じながら走った。そのまま随分と遠くまで走って来たような気がするが、あの時の連帯感は今もなおそのままだ)
どうも、そのくすぐったい感傷が顔に現われてしまったらしい。いつの間にか振り返って洋の顔を見ていた四月朔日が、
「なんだか、とても楽しそうな顔をされていますね」
と、羨ましそうな声で言った。
「ええ、大学生の頃を思い出していました」
「そうですか。先生の年代ですと、確か大学時代はバブル景気の最後ぐらいにあたりますね。そういえば、先生は仙台生まれなのに、どうして松本市にいらっしゃったのですか?」
覆面作家とはいえ、担当編集者には最低限の情報提供をしなければならない。
四月朔日も洋自身に関する基本的な知識は持っていたが、その家族構成や職業については何も聞いていなかった。
わずかに子供がいること、そして彼の書く物語が、その子を読者として書かれたものであることを知っていた程度だった。
それで先日は危うく逮捕されそうになった訳だが――
「まあ、それは追々」
洋がはぐらかした。
四月朔日にも分かっていた。普段の洋と四月朔日は作家と編集者の関係だが、今は裏の関係――ある意味、探偵と怪盗のようなものだ。
彼女の娘は、最近になって覆面怪盗ショコラ・デ・トレビアンのライバルとして、名探偵スノウ・マウンテンというキャラクターを創造していた。
(何か、彼女にそれを想像させるような出来事があっただろうか?)
と、四月朔日は思いを巡らしてみたものの、何も浮かばなかった。
大学の研究室は「資金を生み出すもの」や「今後の発展性のあるもの」から順に、新しい建屋の中に入っていることが多い。
従って、資金とも発展性とも縁遠い文学部の研究棟は、大抵が古ぼけたセキュリティの気配すら感じられない建物の中に押し込まれている。
四月朔日は、いかにもそれらしい歴史を重ねた建物の入口に立つと、そこだけ妙に近代的なカードリーダーに臨時の入館証をかざした。ロックが呆気なく解除される。
「これじゃあ、いつでも入れますよね」
洋のためにドアを押さえながら、四月朔日は苦笑した。彼女はいつの間にか手袋までしていた。
「しかもエリア指定が大雑把。開くんだから入っても構わないはずですね」
洋が中に入ると、四月朔日もドアを離して中に入る。ドアが閉じたところで鍵が自動的に閉まる音がした。
「中からはラッチを捻れば開きます。これでは、一応怪盗のたしなみとして『鍵の解き方』を勉強した意味がありません」
四月朔日は薄暗い文学部研究棟の中を、ためらいもせずに進んでいった。
「前にも入りましたね」
「はい、五か月前に」
研究棟の廊下にはさまざまな荷物が置いてあり、その隙間を縫うようにして二人は歩いた。
理系の研究室とは違い、卒業論文の追い込み時期でもなければ、文系学部に休日の昼からやってくる者はいない。心理学科の学生がネズミの世話をしに来るぐらいだろう。
「どうしてわざわざ、再度侵入することにしたのですか」
「その時には目的が達成できなかったからです。研究室までのセキュリティはご覧の通りでしたが、文書保管庫が古い型で、現在の技術では開け方がわかりませんでした」
研究棟三階のどんづまり、空気までが停滞している一角で四月朔日は立ち止った。目の前の扉には『文学部国文学 相澤研究室』というプラスティックの表示板がはめ込まれている。
引っ越しの際に便利なようにプレートは着脱式になっていたが、暫くその任にはあたっていないようだった。
「今回のイベントの話がなかったら、物理的な方法で開けるしかありませんでした。しかし、それでは私の美意識に反します」
四月朔日は躊躇いもなくそのドアを開けた。
八畳ほどの国文学研究室は、中央に長机が四本「ロの字」型に置かれていた。その周囲にパイプ椅子が無造作に置いてある。要するに、典型的な文系の研究室だった。
壁面は殆どが書棚になっており、古めかしい専門書が置かれていた。ただ、隅の一角は学生が持ち込んだらしい週刊漫画雑誌で占められていて、そこだけが妙に明るく浮き上がっていた。
漫画は、一粒でも持ち込まれれば繁殖力の強い外来種のように、いつの間にか勢力範囲を拡大してしまう。
「こちらです」
四月朔日は、研究室を横切って奥にある教授室に向かった。
そしてその扉の前にしゃがみこむと、上着の内側から細長い金属製の棒がいくつも束になったものを取り出した。そのいくつかを鍵穴に差し込んで、何度か回すと鍵が開く。
教授室の扉を開けると、今度は教授のスチール机にある鍵穴にも同じように金属棒を差し込んで、あっという間に開錠してしまった。
「どうしても見たい本がある。決して研究室から持ち出さないので、文書保管庫の鍵の場所だけでいいから教えてほしい、と学生さんに言って、教えてもらいました」
四月朔日は、机の中から大きくて装飾的な――いや、『古風』といったほうが相応しい鍵を取り出す。
「先生の前で非合法なことをするのは初めてですが、ところで何故、先生はここでお止めにならないのですか」
「今、私が止めたところで、後日物理的に開錠するつもりなのでしょう」
「その通りです。愚問でした」
教授室の中には、全体的に貧相な文系研究室の雰囲気に似つかわしくない、映画の一場面にでも出てきそうな『金庫室の扉』があった。回して開ける式の大層なハンドルまでついている。
こちらにも、馬鹿丁寧に「文書保管室」というプラスティックの表示板ははめ込まれていた。
あまりの異質さとちぐはぐさに、さすがの洋も唖然とする。
「まさか、力仕事のために私を呼んだわけではありませんよね」
「違います」
四月朔日は苦笑いしながら鍵を差し込む。さほど力を使うこともなく、金庫室の扉は開いた。
四月朔日は中に入る。二人同時に入るには狭すぎるため、洋は外で待つ。さほど待つこともなく、四月朔日が出てくる。
その手には、いかにも古そうな和綴じの書物があった。
「古いという点がもっとも強固なセキュリティになるとはね」
そう言って彼女は、和綴じの書物を研究室の長机の上に置く。
「ご覧になりますか」
「拝見します」
洋は手袋をしていないので、目を近づけてみたり、四月朔日に中を開いてもらったりしながら検分した。ひとしきり眺めてから、洋は上体を起こして上を向くと、
「これは、それほど古いものではありませんね」
と呟くように言った。
「どうしてそう思われるのですか?」
「私の親は、古い書物を多数所有しておりまして、毎年必ず虫干しをしていたのです。子供の頃からその手伝いをしていたため、古い本は見た目で分かるようになりました。この本は紙の発色が良すぎるんです。だから、もっと近い時代の本だと思います」
四月朔日は、ほっと溜息をつくと、手袋をした手で本の表紙を撫でた。
「その通りです。この本は戦時下の長野県で作られたものです」
「なぜそんなことを断言できるのですか? 初めて見るものなのでしょう?」
「はい。実物を見たのは初めてです。しかし、存在は前から知っていました」
「仰っている意味がよくわかりませんが」
洋は首を捻る。
「詳しいことは後程ご説明します。まずは、先に用件を済ませます」
四月朔日は、また上着の内側に手を入れると、今度は定規と鉛筆と紙を取り出した。そして、和綴じ本のページをめくりながら、時折、持ってきた紙に何かを書き込んでいた。
さらりさらりと時間が流れる。
最後のページまでめくり終えると、四月朔日はまた丁寧に和綴じ本を金庫に戻した。逆の手順で鍵をかけ、二人は研究室を出る。最初の約束通り、本は研究室から出ていない。
出たのは情報だけだ。
「なるほど。今回の貴方の目的はこれだったのですか」
「そうです。ただ、ここが最終目的地という訳ではありませんが」
「格闘技同好会のイベントに貴方が絡んでいて、しかもあんなに大騒ぎになっていることを考えると、信濃大学に侵入しやすくするために陽動を仕組んだということまでは推測できました。が、どうしてわざわざこんなに大げさなことを」
「それについては今からお話しますが、その前に約束して頂きたいことがあるのです。それが今日、先生をこの場にお呼びした本当の理由です。質問の答えがイエスならば、すべてをお話ししますし、答えがノーならば何もなかったことにして頂けませんでしょうか」
四月朔日は洋の目を見つめた。洋は苦笑しながら答える。
「その設定には無理がありますね。それでは、私は決してノーと言えません」
そのまま困った顔を続ける洋を見つめて、四月朔日は寂しそうに笑った。
「大変申し訳ございません」
「それで――私は何を約束すればよいのでしょうか」
「――私に何かあった時には、娘の面倒を宜しくお願い致したいのですが、引き受けて頂けませんでしょうか?」
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