第十二話 土竜と紐

 体育館の中は微妙な空気に包まれていた。

「なんだか格闘技のイベント会場にしては、雰囲気が大人しくない?」

 サトちゃんが声をひそめて言った。

 私も変だと思う。やたら元気のよい洋楽が切れ目なく流れているから確かにそれっぽいのだが、観客は大人しく席について開演時間を待っていた。

「きっと、お客さんの大半がプロレスを初めて見る人なんだろうね」

 と、私とサトちゃんの間に座ったパパが、周囲をゆっくりと眺めながら言った。

「昔はテレビで毎週実況中継をやっていたんだけどね。今では地上波だと、たまに年末の特番で流れるぐらいかな」

「ふうん。テレビでもやっていたんだ」

 私とサトちゃんは、もちろんプロレスなんて見たことはない。回りに座っているお客さんもなんだか落ち着かない様子で、しきりにもぞもぞと身体を動かしていた。

 ただ、私の左側に座った男性は、すっかり寛いだ様子で背もたれに身体を預けて、足を組んでいた。

 榊さんだ。

 会場の警備を始めてはみたものの、あまりの会場内の混み具合にママは困っていた。そこでパパが、

「一番前の招待席のチケットが残っているから、誰かそこに座ってはどうだろうか」

 という提案をして、榊さんがリングサイドから監視(というよりはすっかり観戦)することになったのだ。

 ママはさすがに仕事中に家族と一緒にいるわけにはいかない、と判断したのだろう。外回りの警備を担当していた。

 馬垣さんは会場中で、照明や音楽を担当するスタッフのかたわらに待機して、不測の事態に備えている。

 榊さんは、パイプ椅子が可哀想になるくらいリラックスしていた。

「榊さん、なんだか慣れているように見えますね」

「ああ、僕が学生の頃に格闘技のブームがあってね。何度か観戦したことがあるんだ」

 榊さんによると、東京のプロレス会場の雰囲気はこんな穏やかなものではないらしい。一触即発、試合の前に観客の間で喧嘩が始まりそうなテンションだという。

「会場が大学の構内だから、プロレス観戦の経験者にとっても普段のスタンスがとりづらい場所なんじゃないかな」

 そう言うと、榊さんは警備という役目を思い出したかのように周囲を見回した。

 人がきちきちに詰め込まれた密閉空間であるにもかかわらず、しかも格闘技のイベントであるにもかかわらず、妙に整然とした空気が場内に流れている。まるで観劇か何かのようだ。

 その落ち着かない雰囲気を引きずったまま開演時間となり、会場の照明が徐々に落とされる。

 その直前、リングサイドを私たちの席に向かって走ってくる人影があった。

 四月朔日さんだ。なんだかとても慌てているように見えた。

 パパの前までやって来ると、身体を寄せて何かを耳打ちした。パパは話を聞いて怪訝な顔をすると、私のほうを向いて、

「トラブルがあったようだ。手助けをしに行ってくる」

 とだけ言った。それから立ち上がって榊さんに耳打ちすると、続いてサトちゃんに微笑みかける。

 そして四月朔日さんの後ろに続いて、リングサイドを走っていった。

 事情はよく分からないが、今の私には『重大な使命』がある。なぜなら山田聡子が真っ赤な炎を盛大に噴き上げていたのだ。

(うわ、怒りに我を忘れている。静めなきゃ)

 私は席を一つずらして、サトちゃんの隣に座った。


 暗転した体育館の中に、大音量でギターの唸りとドラムのビートによる前奏が刻まれる。それに続き甲高い男性の声で英語の歌が始まると、一斉に照明がついて目が一瞬眩んだ。

 白い靄が徐々に晴れていく。いつの間にかリングの上には、大きな女性が腰に両手をあてて立っていた。

「ディープ・パープルの『ハイウェイ・スター』か!」

 榊さんが嬉しそうに大きな声で言った。

「何ですか、それ?」

 音楽に負けないように私も大きな声になる。

「入場曲のことだよ。プロレスラーは自分がリングに上がる時のテーマソングを持っているんだ」

「何の曲でもいいんですか?」

「いいんじゃないかな。まあ、格闘技に似合うハードロックが多いけどね」

 すると私の右側から、

「うふっ」

 という可愛い声がした。サトちゃんが早速食いついていた。

(ナイスだよ、榊さん!)

 サトちゃんは唇を震わせ、手振りまで加えている。今、サトちゃんの頭の中には『美少女戦士もののテーマソング』が流れているに違いなかった。

 私も考えてみる。

 が、何故か『松本ぼんぼん』が頭の中で再生された。


 音楽が静まると、場内放送で斎藤さんのプロフィールが紹介された。

 アマゾネス斎藤。

 鳥取県鳥取市生まれ。

 小学生の頃から体が大きく、中学生の頃は周囲の学校の不良を全て従えるほどに喧嘩が強かった。

 大学在学中にプロレスラーとなり、ただいま二十連勝中。


 私は、目の前ににっこりと笑って立っている女の人が、そんなに怖い人だとは思えなかった。

 身体はパパよりも大きくて厚みがある。けれど、毛先がくるんと跳ねた猫っ毛や、その下の綺麗な瞳や、なによりも笑顔の暖かさが、むしろ親しみやすさを感じさせた。

 サトちゃんも同じことを感じたらしい。

「なんだか、隣の家の頼りになるお姉さんって感じがするわね」

 と、私に耳打ちした。

「そうだよね」

 ところが、エキジビション・マッチが始まった途端に、その印象が変わった。

 会場内の観客から対戦相手を募集して戦うやり方だったけれど、そうやってリングに上がった人たち(殆どが信濃大学の運動部の人らしい)は始まるとすぐに、斎藤さんの素早い動きに翻弄されて、ある人は腕を取られ、ある人は首を絞められて、他愛もなく降参してしまった。

 リングを降りる彼らの顔に、例外なく嬉しそうな笑顔が浮かんでいたのが印象的だった。

 斎藤さんの動きはとても見応えがあったのだけれど、あまりに対戦相手があっけなく敗れてしまうものだから、会場内の雰囲気は次第に『子供の他愛もない喧嘩を見守っている親』のような、ほのぼのとしたものになっていった。そして、武道とはいえ弓道部の人まで出てきた時には、みんな大笑いしていた。

 はかま姿でリングに上がった彼は、顔を真っ赤にしながら、

「射法八節!」

 と大きな声をあげると、リング上で弓を引く動作を始めた。あっけにとられるアマゾネス斎藤や観客の視線の中、

「弓倒し!」

 という声とともに堂々と最後まで動作を行ない、そのまま苦笑いした斎藤さんに足払いされた。

 これが、その日リング上で対戦者が立っていられた時間の最長記録だった。

 全身筋肉質のボクシング部主将が会場の期待を一身に受けて対戦に臨み、すぐさまノックアウトされてしまった後は、会場内からの対戦希望者はいなくなった。

 そこで斎藤さんはリング上でマイクを握ると、

「私と対戦してくれた皆さん、有り難う。お陰でいい汗をかくことができました」

 と、まったく疲れの見られない顔で言いながらにこやかに笑い、大きく手を振った。身体がこんなに大きくなければアイドルとして通用しそうな愛想の良さに、つられて観客席からも手を振る人がいた。

 そこで照明が切り替わり、斎藤さんのところだけを照らす。

「ここで悲しいお知らせがあります」

 リングの中央、スポットタイトの中で、アマゾネス斎藤さんが片手を腰にあてて言った。

 会場内が急に静かになる。

「いままでこのイベントの様子は屋外でも見ることができましたが、ここから先の様子は外では放送されません」

 途端に、はるか遠くから地響きのような震動が伝わってきた。それが多少収まったところで、斎藤さんは笑って、

「その代わりに、場外では月刊格闘技通信の編集長である権藤さんが、特別にアマゾネス斎藤についての必殺ネタを披露することになっています」

 途端に、今度は会場内の観客から

「えーっ、聞きたぁい!」

 という声が沸き上がった。斎藤さんは、それを聞き、一層可愛らしい笑顔を浮かべると、

「じゃあ、場外のみんな! 次のバトルフィールドで語り合おうね!」と言った。

 同時に外の映像が切れたに違いない。また、遥か遠くから地鳴りのような震動が伝わってきて、それが波のように引いていった。

 それと呼応するかのように、リング上の照明は更に細いスポットライトに切り替わってゆく。斎藤さんは依然としてその真ん中にいた。


 *


 ここで、リングサイドを、腰を屈めながら小走りして、パパが戻ってきた。

 私はサトちゃんとの間の席を空ける。そこにパパが収まると、私の右側から幸せそうなオーラが漂ってきた。


 *


「さて」

 スポットライトの下、先程までの満面の笑顔を消した斎藤さんは、今度はとても真剣な表情で話し出した。

「これから場内の皆さんに、とても大切なお願いがあります」

 そのあまりの真剣さに、場内の観客さんが息を飲む。

「これから私は、ある人と大切なバトルをします。今日までプロレスを続けてきたのは、このバトルをするためだと言っても過言ではありません。ただし、私の相手をする方は一般人です」

 話の内容を浸透させるため、斎藤さんはそこで少し間を空けた。場内はとても静かで、その言葉が染み透る音さえ聞こえそうだった。

「ですから、その人の普通の生活を破壊することだけはしたくないのです。今日、今からここで起こることは夢です。ただの幻です。皆さんの頭の中にある夢や幻の物語が語られることを、私には止められません。そこまでをお願いすることもできません。しかし、この夢を画像や動画や記録して、世界に拡散したり、誰かと共有したりすることだけはしてほしくないのです。携帯電話やスマートフォンのカメラやムービー、デジタルカメラやデジタルビデオ、その他一切の記録は残さないで下さい。もしその約束が破られ、戦いの記録が漏れだしてその人の日常生活を破壊した時には――」

 斎藤さんの瞳が輝いた。

「私はプロレスを止めて、その原因を絶つためにすべてを捧げることになります。だから約束が守れない方は今のうちに会場から出て頂ければと思います」

 淡々とした口調で語られる内容が、かえって斎藤さんの覚悟を如実に表現していて、場内は声もなかった。

 そこでまた少しだけ間が空く。これは退出する方の有無を確認するためのものだ。誰も出ていく人はいなかった。

「――皆さん、有り難う」

 そう言うと、斎藤さんはリングの中央からコーナーの一つに向って歩き始めた。一緒にスポットライトも移動し、斎藤さんがコーナーに着いたところで、さらに細くなっていった。

 そして暗闇が訪れる。

 闇の中、ピアノの美しい旋律が流れてきた。

 それが少しずつ音量を上げてゆく。

 隣の榊さんが呟いた。

「クイーンの『ボヘミアン・ラプソディー』か……」

 歌が始まるところで、スポットライトが選手入場口に集中した。

 そこにいたのは、長身ではあるけれど普通にいそうな女の人だった。上半身はTシャツを着て、下半身はごく普通の短パンを履いている。

 そこから長くてしなやかな手足が、すらりと伸びていた。豊かな胸がTシャツを押し上げており、場内に溜息が漏れる。

 そして、スポットライトの下に現れた顔は――


 複雑な模様が這い回る黒地のマスクに覆われていた。


 途端に隣の席の榊さんが立ち上がった。見上げた彼の顔は驚きに歪んでいた。口から声が漏れる。

「な……ん……だと、ショコラ・デ・トレビアンだと……」

 榊さんが立ちすくむ中、その女性は光を浴びながらしずしずと歩んでいった。

 そして、曲が急に転調して激しいロックのリズムを刻み始めると同時に、リングサイドからひらりと飛び上がってロープを越え、柔らかくリングの上に降り立った。

 音楽が止まる。

 観客はその一部始終を一連の舞踏のように見守っていた。

 と、そこで――


 パシッ!!!


 という破裂音が場内に響き渡った。

 みんなが驚いて音のした方向を見ると、そこには『巨大な肉食獣』が立っていた。

 頬は力一杯叩いたために真っ赤になっていた。その上にある瞳は大きく見開かれて、奥底から鋭くて強い光が発せられている。

 口元は獲物を狩る喜びにほころび、生来の猫っ毛は根元から立ち上がっていた。全身のうぶ毛までが真っ直ぐに立ち上がっているかのようだ。

(これが斎藤さんの本気だ)

 私は変貌の物凄さに息を飲んだ。

 榊さんは、ここで割り込むこともできずに座り直していた。しかし、目は覆面の格闘家を見つめたまま動かない。

 その覆面の格闘家はというと――ただ静かに立っていた。マスクの向こうの両目が猛禽類のような鋭い光を放っていたけれど、それ以外は動きがない。まるで斎藤さんの準備を待っているかのようだった。

 斎藤さんのほうは、先程から屈伸を繰り返している。今までの対戦では、ウォーミングアップにもならなかったのだ。ひとしきり身体を伸ばし終えると、斎藤さんはコーナーまで戻った。

 そして、両手を腰にあてて仁王立ちした。顔が笑っている。つまり、準備完了ということだ。

 今度は、覆面の格闘家が前に出た。ゆっくりとリングの中央まで進む。

 そして、真ん中までくると立ち止まり――脚を伸ばして、身体の軸を中心とした円を描き始めた。

 私は戦慄した。

(やはりそうだったのか――)


 *


 小学校二年生の夏の日のことである。

 私は昼休みの時間に校舎の北側を、拾った木の棒を振り回しながら歩いていた。

 なぜそんなところに一人で行ったのか――理由は覚えていない。ただ普段とは違うことを急にやりたくなっただけだったと思う。

 校庭のある南側と違い、隣の付属幼稚園との間にある細長い空間に過ぎないこの場所には、よほどのことがないと人はこない。そのため、蜂の巣が出来始めていることに誰も気がついていなかった。

 しかも、私はそれを誤って木の棒で叩き落としてしまった。

 怒りに我を忘れた蜂たちの羽音は、今でも夢に出てくるほど恐ろしかった。私は直ぐに木の棒を手放して逃げたが、羽音は後ろから追ってきた。途中で何かにつまずいて、私は転んだ。

 蜂はそこに襲いかかってきた。

 その時のことである。

 誰かが私のそばに駆け込んできた。私の周りに素早く足で円を描くと、

「決してこの円から出ないで」

 という簡潔な指示だけをして、恐怖に身を縮ませた私の前に立った。そして、両手に一本ずつ扇子を持つと――


 群がる蜂を一匹ずつ、叩き落とし始めた。


 それも、足で描いた円をそのまま縦に伸ばしてできる『筒』に入ってきたものから順に、丁寧に、丹念に、正確に叩き落とした。

 私はその姿を、円の中心に座り込んで、震えながら見上げていた。差し迫った状況であるにも関わらず、その所作しょさは圧倒的に美しかった。

 鷹のような目が蜂を捕捉する姿は、涙が出るほど美しかった。 私はその人とよく会っていたが、こんなことが出来る人とは知らなかった。

(山根先生……)


 *


 私は円を描く足を見つめた。そして、その運動を美しいと思った。

 あの日と変わらない姿がそこにあった。

 その端と端が重なりあった瞬間に、ゴングが鳴るように指示してある。私は腰を落としてタックルの姿勢をとった。

 ゴング。

 溜めていた力を一気に開放し、雄叫びをあげながら突進した。

 覆面格闘家――山根淳子は腰を少しだけ落とすと、両手を前に出す。彼女の溜息のような声が漏れた。


「堅守一ノ形、筒」


 私はそのままの勢いを載せて右ストレートを繰り出す。

 淳子は筒の境界線上で、左掌底を使って私の拳の内側を打ち、右にそらす。


 私はその右に流される力を利用して、左回し蹴りに移行する。

 淳子はそれを右足裏で下に弾く。


 私は崩れた体勢を整えながら回転運動に移り、右足をしならせてハイキックする。

 淳子は踵落としの要領で、左足裏を上から叩きつける。


 右足が弾き飛ばされる勢いで、私は間合いを開いた。

 背筋がぞくぞくした。

 そう、これだ! この感覚だ!!


 *


 三好は主催者の指定席で茫然としていた。

 先程までのアマゾネス斎藤の動きも素晴らしかったが、今の動きはさらに速かった。

 格闘技同好会の活動の中で、さまざまな記録映像や長野県内で開催された大会を見る機会があったが、それらが子供の学芸会に思えるほど斎藤の動きは速かった。

 それでも覆面の女にはまったく効いていない。

「なんだよ、あれは――」

 隣にいる沢渡は顔面蒼白だった。

「格闘技の基本はパワーだ。物理的な大きさだ。人が車に正面から当たれば押し潰されるというのが物理法則だ。なのに、どうして斎藤のほうが弾き飛ばされるんだよ」

「わからん」

 三好は呟く。

「相手のパワーのほうが上、斎藤のパワーが下ということになる」

「――そんな」


 *


 斎藤は楽しくて仕方がない。

 ただ、この勝負は長引けば長引くほど彼女にとって不利になる。そのことは前回の対決で学習済みだったので、残念ながら短期決戦を仕掛けなければならない。

 斎藤はまた頬を叩いた。そして姿勢を低くする。

 前回の対決で悟ったことがある。淳子の技の本質は拠点防衛である。最初の位置から動くことなく、限定された空間の中でのみ運動を効率的に行うことで、最大の防御効果を発揮する。

 つまりは『籠城戦』だ。しかも、効率的な運動は高い持久力も兼ね備える。

 それに気づけなかった私は、前回の戦いで疲弊して敗れた。

 だから――まずは砦から引き出すのが先決である。引き出した後、新しい砦を構築するまでの間に動きを封じてしまえばよい。低い位置へのタックルであれば、物理的に淳子は弾き返すことができない。

 仮に止めることができたとしても、その時は接近戦に持ち込めばよい。

 斎藤は両足に力を込めた。

 淳子はただ真っ直ぐに立っている。あれでは止めることすらできないはずだ。

 斎藤は勝利の予感に微笑む。そして、両足のバネを使って走り出した。

 その瞬間、淳子は微笑みながら呟く。


「堅守二ノ形、紙」


 斎藤はもう止まることができない。むしろ加速する。

 躊躇ためらいは格闘技では対決の前に済ましておくものであり、最中には縁がない。淳子の言葉の意味は分からないが、このまま圧倒するだけのことだ。もう既に間合いは切られている。

 斎藤は全身を投げ出して、淳子の脚をめがけてタックルした。


 淳子は――消えていた。


 *


「あ」

 右側からパパの声がした。何か新しいことに気がついたような声だった。


 *


 斎藤は振り向いた。淳子は円の外に立っていた。

 その結果だけを見ると、斎藤の作戦は成功したかのように見える。しかし、斎藤は途轍もない敗北感を噛みしめていた。

(駄目じゃん――)

 要するに本格的な『攻城戦』に持ち込んでみたら、相手は城から逃亡済みで『もぬけの殻』だったということだ。斎藤は足の力が抜けそうになるのを何とかこらえた。

(まだだ。まだ、淳子は円を描いていない)

 今ならばまだ付け入る隙が残されているはずだ。

 再び斎藤は前進した。低い位置へのタックル。

 淳子に手が届く前に、その姿が視界から消える。

 素早く起き上がって、後方に回り込んでいた淳子に細かいパンチとキックを繰り出す。しかし、ことごとく内側から外側へと弾かれる。

 先程までの籠城戦よりは反発力が弱くなっている。やはり、防御範囲が定まらない時には力の配分が変わるらしい。そこで全身のバネをフルに使っての重い回し蹴り。今度は受けもせず消える。

 まずい。これは物資や兵力に圧倒的な差がある場合の常套手段――『ゲリラ戦』だ。

 斎藤は少しずつ焦り始めていた。


 *


 浅月はその不思議な戦いを見つめていた。

 力の差は歴然であるように思われた。アマゾネス斎藤の攻撃は、一つ一つがプロレスの世界では最高レベルの技だった。しかし――それがまったく効いていない。

 覆面の格闘家は斎藤の攻撃を真正面から受けずに、反らし、弾き、流すことで、圧倒的な力の差に対抗している。いや、むしろ斎藤を踊らせているのだ。

 こんな戦い方があることを浅月は初めて知った。

 彼女は、自分がいつの間にか涙を流していることに気がつかなかった。


 *


 当たらない。

 掴めない。

 差が縮まらない。

 むしろ開く。

 斎藤は持てる最大の力を叩きつけて、手応えなく空を切らされていた。

 集中力が切れそうになる。まだまだ身体を動かし続けることはできたが、心がついていかない。

 前回の対決では『籠城戦』で力尽きた。今回は『ゲリラ戦』に持ち込んだ。

 自分の力は確実に上がっている。しかし力の差はまだまだ大きい。

 斎藤は迷い始めていた。


 *


「やれ」

「でも」

「いいから早くやれ」

 照明が切られる。


 *


 斎藤は「気を失ったのか」と思った。

 しかし、場内のあちらこちらから悲鳴が聞こえていた。それで、照明が切られたのだと気がついたところで――再び明かりが灯された。

 斎藤の目が眩む。

 思わず腕で目をカバーした途端、場内に素早いギターの音が響き渡り、甲高い男性の叫び声が続いた。


 *


 左側にいた榊さんが叫んだ。

「レッド・ツェッペリンの『移民の歌』だ! まさかあの馬鹿――」


 *


 コーナーポストの上に覆面の男がいた。

(確か、あのマスクは私が準備した備品の中にあったやつだ)

 しかし、ルチャリブレの派手なマスクにスーツ姿はないだろう。斎藤は唖然とし、そして無性に腹が立った。

「いい度胸だよ。私の勝負の邪魔をするとはな。ただで済むとは――」

 覆面の男は斎藤に向かって跳躍した。無造作に飛んだ。

 そして空中で身体を一回転させると――


 踵落とし。


 斎藤は動けない。

 身体の右側すれすれを、それが流れていく。皮膚がビリビリとざわめいた。

(――っ、わざと外しやがった)

 当たっていたらひとたまりもなかった。

 斉藤の足が震えた。

 斎藤の隣に立ち上がった男は、斎藤にだけ聞こえるように小声で言った。

「もう手がなかったのでしょう? だったら黙って下がって下さい。私の動きを見れば、次の対戦に向けた何か新しいアイデアが浮かぶかもしれませんよ」

「お前……一体誰だ?」

「彼女と戦っているということは、詳しい話を聞いているはずですね」

 覆面の男は淳子のほうを向いて、呟いた。

「微塵流飛走、参る」


 *


「まあっ、新しい敵現わる! 急展開ですわ! 洋さんはどちらが勝つと思いますか?」

「そうだね――」

 洋は聡子のほうを向いて、ちょっとだけ寂しそうな顔をして言った。

「残念ながら、男のほうは勝てない」

 聡子は洋が即座に断言したことに疑問を感じる暇もなく、洋のその表情に反応した。

(お、お、男の哀愁だわ――)


 *


 淳子の様子は、明らかに先程までとは変わっていた。

 再びリングの中央で円を描き始めたが、その線が前よりも濃い。無論、そもそも線などないのだが、斎藤には覚悟の違いが線として見えるような気がした。

 コーナーにもたれて二人の様子をうかがう。

 円を描く淳子。上着を脱いでウォーミングアップする覆面の男。

 いずれも力みがない。気負いがない。

 しかし、視界が歪むほどの闘気がある。

(……格が違うということか)


 淳子の円が閉じるのと、男のウォーミングアップが完了するのは同時だった。

 男は腰を落とし、右足を後ろに体重を前の左足にかけた。

 そして静かに息を吐くと宣言した。

「飛走一ノ形、槍風――参る」

 淳子は腰を落として両手を前に出すと、それに答えた。

「堅守一ノ形、筒――どうぞ」

 そして、男は最後の息を吐ききると右足を前に踏み出した。

 姿勢を低く保って、両腕は身体に密着させて走る。

 斎藤は仰天した。

(速い! 速すぎる!!)


 男は淳子の左側に駆け込み、その勢いをそのまま回転運動に変えて左足のハイキックを繰り出した。遠心力も加わって、まともに受ければ骨ごと粉砕される。

 淳子の顔面にあたると思った刹那、下からの衝撃で左足が上に跳ねた。彼女が右掌底で、男の左足踝くるぶしを弾いたのだ。


 男は身体をひねりながら、今度は淳子の後頭部へ右足での回し蹴りを出す。

 淳子は振り返りつつ、左掌底で男の右足のくるぶしを下から上に跳ね上げる。


 男はとんぼを切りながら退避し、腹ばいで着地すると同時に低い位置からの右ストレートを繰り出す。

 淳子は左足裏で、右手首を内側からはじく。


 男ははじかれる力を利用して、左足ローキック。

 淳子は左掌底で男の左足踝くるぶしを打ち、弾き返す。


 男はロープのところまで大きく後ろに飛んで、間を広く取った。

 淳子は最初の円から外に出ていない。最初の位置から足の場所すら変わっていないように見える。

 男はうれしそうに笑う。そして、

「飛走ニノ形、円月――参る」

 と言うと、ロープで勢いをつけてから淳子の周囲で側転を始めた。

 一回、二回、三回、四回。

 回転を重ねるごとに加速する。

 五回転目、遠心力を地面から斜め方向に向けて跳躍する。身体を丸めてさらに加速した。

 淳子の間合いに入ったところで、右足のかかとにすべての遠心力を集中する。

 膨らんだ円の力は、立ちふさがるものを容赦なく叩き潰すほどの狂暴な圧力の塊だ。回転の先にあるものすべてを押し潰す――


 はずだったが、その位置にはなにもない。

 既に淳子は男の後ろに回っていた。


 リングにしゃがみこんだ男はそのまま後転し、揃えられた足による飛び蹴りを見舞う。

 風に飛ばされる一枚の紙のように、風になびく柳の葉のように、彼女は重力すら感じさせない軽やかさで男の後ろに回る。


 男はまた間合いを開けると、側転から跳躍に移る。右足を斜めに叩きつけながら空中で身を捻り、左足を淳子がかわした方向に繰り出すという驚くべき動きをした。

 しかし、淳子も右に流れる動きから急に後ろに上体をそらすという動きで、あっけなくかわしてしまう。


 男がまた間合いをとると、淳子はリングの中央に戻っていた。


「堅守二ノ形、紙――お粗末様でした」


 彼女が呟く。


 *


 斎藤は目を輝かせていた。

 最初の中は、あまりの高度な技の繰り返しを目の当たりにして、自分がまだまだ未熟であることを悟って茫然としていたが、次第に馬鹿馬鹿しくなってきた。

 ここまで化け物じみていると一層痛快である。ついには笑いまで込み上げてきた。

 凄い。

 凄い!

 すっご――い!!

 最早、サーカスの曲芸を見詰める子供の目だ。


 *


 男は立ち上がると、背中を少し伸ばした。覆面ではっきりとは分からないはずなのに、その場にいた殆どの人が「彼が苦笑した」と感じていた。

 続いて、リングの上に腹這いになる。

 場内が、とても格闘技の試合中とは思えない姿にしばし言葉を失っていると、低い位置から頭を持ち上げた男はニヤリと笑って言った。

「飛走三ノ形、土竜――参る」

 そして、そのまま地を這うように淳子のほうに向かって動いた。


 *


 斎藤にもその意図が分かった。

 男は徹底的に下から攻撃しようとしている。籠城戦だろうが、ゲリラ戦だろうが、下からの攻撃を避けるためには上に逃げなければならない。

 上に逃げてしまったら、後は重力に従って落ちるだけだ。そこをまた狙えばよい。

 さすがにこれには、防御だけでは対抗し切れないはずだ。


 *


 男は淳子の足元近くまで這いよると、腹這いの姿勢から体を反らして仰向けになると同時に、脚を回して勢いをつけた。

 淳子は後ろに避けようとしたが、男の動きのほうが速い。下からの攻撃を避けることもままならなくなった淳子は、男の脚の動きにあわせて足の裏をあわせた。

 すかさず男は、足のバネを使って淳子を上に向けて押し上げた。淳子は軽々と舞い上がる。その下には旋風。

 最早、逃げ場はない。

 誰もがそう思った時――淳子の口から言葉が漏れた。


「紐」


 彼女の髪が、その日初めて扇形に空中を舞った。


 *


 瞳子は見た。山根先生が空中に浮かびながら髪飾りをほどくところを。

 あれは――あれはそういうものだったのか!


 *


 先端に魚の飾りがついた紐は、真っ直ぐに男の足元に向かって落ちた。

 そして、回転する体に巻き付き――男を拘束した。淳子が着地した時、細く強靭な紐に巻き付かれた男の身体は失敗した独楽のように制御を失って、回転する力を失おうとしていた。

 男の口から悔しそうな声が漏れる。

「――参った」

 戦いの終焉だった。


 *


 リングサイドの榊は、大急ぎでリングに上がった。

 そして、覆面の男に駆け寄ると耳打ちをした。

「馬鹿野郎、警備サボって何やってんだよ」

「すまん」

 雁字搦めになった男――馬垣は苦笑していた。

「やはり、じゃんけんでチョキはグーには勝てないな」

「お前、何言ってんだよ」

 榊は紐をほどき始めた。


 *


 斎藤は淳子に近づこうとして、彼女の様子がおかしいことに気づいた。

 まだ闘気が身体から漏れ出している。

(彼女は終わっていない――)

 それに反応して、斎藤の体が緊張した。背筋から熱い震えが上ってくる。右拳を持ち上げようとして――柔らかな掌で制止された。

「すいません。少し下がって頂けますか?」

 洋が斎藤の右拳を抑えていた。


 *


 洋はゆっくりと淳子のほうに歩み寄った。

 淳子の体からはまだ陽炎かげろうが上っていた。

 洋は春風のような長閑のどかさで近づいた。

 淳子は――動かない。

 間合いが切られた。

 淳子は――動かない。

 淳子の左側に回り込んだ洋は、

「ご苦労様」

 と言うと、淳子の首筋を後ろからピシリと叩いた。淳子は意識を失うと、ゆっくりとその場に倒れた。

 洋がその体を柔らかく受け止めていた。


「榊さん」

 洋は淳子を支えながら、榊を呼んだ。馬垣の拘束を解き終えた榊は、洋のところに近づいた。

「すみませんが、彼女をお願いできませんか」

「えっ、僕がですか」

「妻の前で他の女性をきかかえるのは気が引けるので」

 洋がなんとも情けなさそうな顔をしたので、榊は即答した。

「――替わります」


 *


 山根は空に浮かんでいる夢を見ていた。

 柔らかい雲の上に横たわって、時折ふわりと浮かび上がっていくような感触を味わっていた。

(とても気持ちがいい……)

 ふうわり。

 ふわり。

 身体は空を漂ってゆく。視界が次第に明るくなってきた。

 太陽はあちらにあるようだが、見えない。山根は目を凝らしてみた。

 少しずつ、霧が晴れるように視界が明るくなっていく。まぶたが上がっていくことを意識した時には――


 男の腕の中で、お姫様になっていた。


「やあ、気がつきましたか」

「あ――あ、はい」

 山根は急激に顔全体が赤くなるのを感じた。観客の間を抜けてアリーナの外に出る寸前には、彼女も状況が十分理解出来ていた。

(また、やってしまった)

 山根は観客や目の前の男に、自分が化け物のように見えているのではないかと思い、悲しくなった。

 アリーナを出ると、体育館内の廊下を選手控室に向かって運ばれていった。

 男には見覚えがあった。小学校で斎藤の挑戦状を見た時にやってきた二人の刑事のうちの一人だ。同じ顔をしていたが――実は山根はそれが榊であることを承知していた。

 馬垣は、あの時点で身体の動きの滑らかさから、武道の嗜みがあることに気がついていたからだ。そして、先程まで戦っていたのがその馬垣だろう。

 榊という名前のこの同僚は、さぞかし呆れているに違いない。しっかりと腕に抱かれながら、山根が落ち込んでいると、

「ごめんね」

 と、榊が言った。

「あの、謝られるようなことは何も――」

 確か、初対面の時にも同じようなことを言ったような気がする。榊はあの時と変わりのない明るい笑い顔で答える。

「馬垣の馬鹿が貴方にずいぶんと無理をさせてしまった」

「そんなことはありません。私もはしたないことをしてしまいました」

「いいんですよ。あいつにはいい薬です。素晴らしい戦いでしたし」

 山根は理解した。

 彼はまったく初対面の時と変わっていない。あんな『化け物同士の戦い』を見せられても、この男はまったく動じていない。そのことに山根は驚いた。

「もっとも――」

 榊がいたずらを思いついた子供のように目を細めて笑う。

「いつもの姿のほうが素晴らしいですよ、山根先生」

 山根は、また急激に顔全体が赤くなるのを止められなかった。


 *


「すまなかった」

 洋の肩を借りて立ち上がりながら、馬垣は斎藤に向かって言った。

「あなたの大切な勝負の場を利用してしまった」

 斎藤はいつもの晴れやかな笑顔を見せた。

「いえ――謝ることはないです。私はまだ弱すぎました。あのまま続けていたら、残ったのは敗北感だけだったはずです」

「何か掴めたか?」

「正直、分かりません。レベルが違いすぎて消化するのに一苦労です」

 斎藤は馬垣の上着を丁寧に畳むと、それを手渡し、

「いい勉強になりました。どうも有り難うございました」

 と言って、深々と頭を下げた。

 斎藤に見送られながら、馬垣と洋はリングを降りる。その途中で馬垣が洋に囁いた。

「最後の、彼女を止めたあれ――羅刹ですね」

 洋は答えなかった。

「――まあ、いいです。今日の戦いでまたいろいろと分かりました。貴方が『帝釈天』ではないということも」

 洋はその言葉には直接答えず、

「あの時はすみませんでした」

 とだけ言った。それを聞いた馬垣は、満足そうに笑う。

 男たちが退場すると、場内からやっと割れんばかりの拍手と喚声が響いてきた。

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